鏡面を覗く。 シャワーを浴び終えた後、濡れた髪もろくに拭かないままにそこに立ち、青い双眸をうっそりと開き一度も瞬くこともなく、眼前に立つ男――自分の顔へと注いだ。 湯気の熱を得てわずかに曇るその向こう、自分と同じ表情を浮かべた男がこちらをねめつけている。昏い感情に沈み、光など一抹も宿さぬ眼光に、ただただうろんな闇ばかりを浮かべているその顔に、知らず口許が小さく歪み持ち上がる。 「おまえは誰だ?」 問いながら鏡面に片手を触れる。まるで同じ顔をした男が鏡面の向こうで同じ言葉を口にした。 「俺か? 俺は」 応えかけた口を閉ざす。歪んだ笑みが再び色を失くした。 俺は、 ――誰だ? 己の内に生じた異変に気がついたのは比較的に最近のこと。 例えば、それまでに抱えていた記憶を何者かによって弄られたような痕跡を感じる。 自分が抱いていた記憶、それに纏わる感情。そういった類のものが、まるで自分のものではない、他の誰かのものであるかのような、客観的な色を帯びたものに感じられるのだ。 親しくしている者たち――有馬春臣や氏家ミチル。彼らの笑顔や声が、薄いガラス板を隔てた向こうのもののように感じられる。そこにあったはずの熱も穏やかさも感じられない。そんな感覚に囚われる自分に腹がたつ。それでもロナルドは笑みを浮かべる。”いつものように”軽口を並べながら彼らとの時間を共有する。そんな自分にさらに心地悪さを覚えながら。 自分が自分でないような感覚。一度それを自覚してしまえば、あとは、いかにかぶりを振ろうともどこまででも付きまとい離れることのない疑念。懸命に自分であろうと繕えば繕うほど、己の中に生じた歪みはさらに溝を深くする。 聖属性のものへの拒絶感。穏やかであろうとする心への強い反発。色濃くなっていく憎悪の心。そういったあらゆるものがない交ぜとなり、ロナルドの心は日に日に暗色の海の底へと沈んでいくのだ。 ――おまえは誰だ? 鏡に映る自分に向けて幾度となく繰り返す。無意味な問答だ。応えなどあろうはずもない。そう思っていた、――初めのうちは。 「俺はおまえだ」 鏡面に映る男がゆるやかに笑う。深い海底の水の色にも似た眼差しで、真っ直ぐにロナルドを見据えた。動いている口許がどちらのものなのかが分からない。男が引き攣れたように笑った。 ロナルドの声とまるで遜色のない声音が耳に触れる。鏡面の中、触れた指先がわずかに温もりを感じたような気がした。 「なぁ、おまえは気がついているんだろう?」 「――何を」 「氏家ミチルだよ。あの女の中に居る”もの”が何であるのか、をだ」 男が低い笑みをもらしながら告げる。ロナルドは弾かれたように鏡面を睨みつけた。けれど、ロナルドと同じ顔をした男はわずかほどにも怯むことなく、わざとらしく肩を竦めてみせるだけ。 「あの女の中に居る”もの”が――あの女が、有馬春臣を操っているんだよ」 男の声音は途端に低く、しぼり出すようなものへと変じる。悲しげに眉をしかめ、今しも泣き出しそうな表情を浮かべた。 「でも、おまえはあの女をどうする事もできずにいる。機を逃し、自分を偽って、いずれ機が向けばなんてことを考えながら、呑気に構えているんだよ。でもそれが自分の奥深くにある意思に反していることにも気がついている。相反したものが少しずつ心神を蝕んでいることも知っている。どちらが本当の自分の意思なのか、分からなくなってきている。……今じゃあ薬に頼る毎日だ。情けないよねえ」 言いながら、男は鏡面に触れていない方の手で錠剤を飲む仕草を真似た。うろんな目で宙を仰ぎ、錠剤をいくつもいくつも口に運び、機械のように飲み下す。ロナルドは眉ひとつ動かすことなく、男の仕草をねめつけていた。 「……おまえは誰だ」 鏡面に向かいロナルドは問う。もう、幾度となく繰り返し紡ぎ続けてきた問いかけだ。男は虚ろな視線をこちらに注ぎ、深いため息をもらした後に、ささやくように口を開ける。 「この間、一体の悪魔と遭遇しただろう」 男の声が言を紡ぐ。それは問いかけではなく、確認だった。 ロナルドはつかの間口を閉ざしていたが、やはり表情ひとつ変えることなく、鏡面に映る自分と同じ姿態の男の顔を見据えたままに深々とした首肯を返す。 「……ああ」 ロナルドが応えると、男は神妙な顔を浮かべてうなずきを見せた。 「俺はあの時おまえたちが遭遇した”悪魔”の”本体”だ。……怒らないでほしい。……今じゃあ、おまえという宿を借りないと、体を保つこともままならないような存在なんだ。からかったりして悪かった」 男が言う。ロナルドは応えない。ただ黙したまま、男の眼光を見据え続ける。 「聞いてくれ。その上で信じるのも疑うのもおまえ自身の意思で選べばいい。……氏家ミチルの中には、おまえたちが遭遇した”悪魔”――他人事のような言い方でなんだが、俺の欠片が潜んでいるんだ。俺はあの時分裂したんだ。おまえたちは俺のすべてを回収したつもりでいただろうが、そうじゃなかった。おまえは気付かなかったようだが、俺はあの時、自分の一部を切り外し、逃がしたんだ」 トカゲが尻尾を切り離すようにな。そう言って、男は表情を曇らせる。 「そこからが俺の誤算だった。――切り離した尻尾は俺の中にあった欲望のすべてを持ち去ってしまったんだ。おかげで、今の俺はもうこのザマだ」 「……自業自得というやつじゃないのか」 「返事のしようもない」 感情の揺らぎのまるでないロナルドの声に、男は申し訳なさげにうなだれる。 「――氏家ミチルの中に潜んだ欠片は、新たに従者をひとり喚び寄せた」 言って、男はゆっくりと視線を上げる。鏡面を挟み、深海の青と青とが交差した。 「あれは、俺の中の邪悪性をすべて内包した、純然たる邪悪の欠片だ」 声を潜め、男は告げる。 「おまえがここしばらく感じている心神の異常も、氏家の内にあるものの影響をうけてのものだ。あれは日を負うごとに確実に強靭なものへ変化している。――今でこそこうも情けない身となってしまった俺だが、これでも一応、あの欠片を元々有していた本体なんだ。いずれあれは俺を取り込み、喰らいに来るだろう。今の俺には抗う力なんかこれっぽっちも残されてはいない」 「……なぜ俺の中にいる」 間を置かずに訊ねたロナルドに、男はわずかに口を閉ざす。逡巡したように目を移ろわせ、それから意を決めたような表情を浮かべて言を続けた。 「おまえとの相性が一番良かったからだよ。……それと、おまえの中にいれば、しばらくは逃げのびることもできそうだなとも思ったからだ」 しぼり出すような、消え入りそうなほどに小さな声。 ロナルドは鏡面に片手を触れたまま、まばたきひとつすることもなく、黙したままに男を見やる。 「……おまえにも思うところはあるだろうが」 しばしの間を置いた後、男は不意にそう告げた。 「このまま力をつけていけば、いずれ必ず、……そうだな、近いうちにきっと、おまえの同僚たちにも禍をもたらすだろう」 「……それを俺に教えることで、おまえは何を狙っている」 「何を狙っているか、だって? 笑えない冗談だ、ロナルド・バロウズ。俺は”悪魔”だ。切り離した尻尾がこの俺を捕って喰おうとしているんだ、そのまま大人しく喰われてやる筋合いはないだろう?」 そう言うと、鏡面の向こう、ロナルドと同じ顔をした男が口許を歪め持ち上げた。顔を近付け、ささやくように言葉を継げる。 「思うところはあるだろうが、ロナルド・バロウズ。――しばらくの間、協力をしてもらえないか?」 「協力?」 ロナルドの表情は初めて曇りを帯びた。男は怯まずに「ああ」とうなずく。 「俺は当面、自分の身を守るため、おまえの中に居させてもらう。代わりに、俺はおまえに情報をくれてやる。むろん、俺が知る情報だけに限られてはくるが、それでも、おまえにも悪い話にはならないはずだ」 言って笑みを浮かべる男に、ロナルドはわずかに口をつぐむ。 男の語るものがすべてそのまま真実だとは限らない。しかし、仮にもしも真実がいくらかでも包まれているのならば、――なにより、それに賭けることで、思い浮かぶ者たちの安寧を保つことができるのならば。 ――否とつっぱねる必要もないのでは。 ロナルドはもうひとつの手をゆっくりと持ち上げる。思考がうまく形を成さない。薄くぼうやりとしたうろんなものを抱えながら、しかし、ロナルドはそのまま両手で鏡面を叩き、そこに映る自分の顔をまっすぐにねめつけ、口を開けた。 「おまえの話を鵜呑みにするわけではないが」 濡れたままの髪が顔に張り付いている。その下で、深い海原の濃青がゆっくりと眇められた。 「今はその提案、飲んでやろう。……ただし、妙な真似をひとつでもしてみろ。その時には、俺にも考えがある」 「――考え?」 男がロナルドの声を反芻する。遮るように、ロナルドは再び両手で鏡面を叩いた。わずかにヒビが入る。指先にかすかな赤がじわりと滲む。 「忘れるな」 ヒビ割れた鏡面の向こう、ロナルドの顔がわずかにひしゃげた笑みを浮かべていた。視線を重ね、ふたりの眼光が虚ろな光彩を放つ。 「決して忘れるな」 繰り返すその声に、男の顔から笑みが消えた。深く首肯を返すその顔を見つめた後に、ロナルドはようやく一度だけ、深々とした息を吐く。 そうして問いた。 「おまえは誰だ?」 そうして、俺は?
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