オープニング

 ターミナルの空は、春の陽射しのような暖かさを常に湛えている。
「なんでいきなり」
 ロナルド・バロウズの訝しげな視線とぼやきとを背に受けながら、有馬春臣はそれに頓着する素振りも見せず、画廊街の煉瓦通りを歩いていた。
「君が知りたい事を知る良い機会だぞ」
 彼らが目指すのは、画廊街の隅に位置する小さな映画館。【シネマ・ヴェリテ】と呼ばれるその映画館では、訪れた観客のためだけに、特別なフィルムを上映してくれるのだという。それらを簡単に説明しながら、春臣は不気味な薄笑いを浮かべて、軽く振り返った。
「それとも、私と二人きりになるのが怖いかね?」
「……その台詞、使い所を間違えてるよ」
 呆れと共に湧き上がってきた寒気を、二の腕を撫で摩って追い払いながら、ロナルドは呻くような声を上げる。幽鬼のような笑い声を上げ、春臣は立ち竦む彼を放って再び歩き出した。慌てて追いかけてくる革靴の音を背中に聴き流す。

 ――言葉では、説明の仕様がない事だ。少なくとも、今は。
 だから、実際に己の目で見た方がいいだろうと思い、勝手に予約を取り付けた。

 ◆

 彼らが訪れた時、映画館の扉には【Closed】の札が掛けられていた。
「閉まってるみたいだけど」
「問題はない」
 呆れたような声を聞き流し、春臣は扉に備え付けられたノッカーをやや強く叩いて、来客を報せる。すぐに扉の硝子の向こう側で、ひょろりと長い影が動いた。
「いらっしゃい」
 待っていたよ、と普段と変わらぬ穏和な微笑を湛え、この映画館を預かる映写技師は二人を快く迎え入れる。
「休日に申し訳ない。――常々思っていたのだが、この映画館に完全休業と言うものはあるのかね?」
「いや。私自身この仕事を楽しんでやっているからね、休みと言うものは気にした事がない。勿論助手君には適度に休んでもらっているけれど」
 【悪魔の為の楽団】に属する彼らが音を奏でるように、映写技師はフィルムに触れる事を生と同義として捉えている。だからこそ、何一つ苦には思っていないのだろう。
 映写技師は二人をシアターに案内し、隅に置いてあったテーブルを引っ張り出した。白いクロスの引かれたその上には、五色の、無銘のフィルムが並べられていた。
「これが、そうか」
「ああ。説明は必要かな?」
 そう問いながら、簡単に各色の説明を加えていく。

「青のフィルムは《追憶》。君が経験してきた記憶を映し出す。美しい景色、やさしい家族、愛しい誰か、ひとえに記憶と言っても様々な容があるだろう。ひとときの郷愁に浸ると良い」

「赤のフィルムは《断罪》。君が自覚する罪を映し出す。……《断罪》である以上、その映像は君の知るものよりも幾分か苛烈になっているのかもしれないが。――己の罪と向き合う勇気はあるかい?」

「黒のフィルムは《変革》。君が“変わった”――つまり、覚醒した前後の映像を映し出す。ツーリストならディアスポラ現象、コンダクターなら真理数の消失だ。そこに何があったのかを、もう一度再現してくれるだろう」

「金のフィルムは《希求》。君が望むものを映し出す。求める何か、逢いたい人物、待ち侘びる未来――実現するしないに関わらず、君が思う通りのものを見せてくれるだろう」

「白のフィルムは――……何でもない、何かだ。“観客”によって映すものを変える。君に深く関わる何かかもしれないし、或いは全く関係のない何かかもしれない。自分の事など興味がない、と言うのであればこのフィルムを視てみるかい?」

 皮手袋を嵌めた手がひとつひとつ持ち上げる度、缶の中のフィルムが光に透けて淡い色を零す。

「さて――おふたりは、どの色を選ぶ?」

 手品師のそうするように、フィルムの上で映写技師は掌を開いて見せた。空の指先がテーブルの上の五色を指し示して、軽く首を傾げる。
 その言葉にいざなわれるように、二人の観客は互いに顔を見合わせた。

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!注意!
企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。

この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。


<参加予定者>
有馬 春臣(cync9819)
ロナルド・バロウズ(cnby9678)

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品目企画シナリオ 管理番号2909
クリエイター玉響(weph3172)
クリエイターコメントリクエストありがとうございました、玉響です。
シネマ・ヴェリテのご指名をありがとうございます。

今回、敢えてOPでは有馬様の真意については省かせていただきました。
ノベルはおふたりがフィルムを選び終え、上映を開始する所から始まります。
プレイングの書き方は、基本的にはソロシナリオ『シネマ・ヴェリテ』を御参考いただければと思いますが、今回の御客様はお二人居らっしゃいます。「お相手の目に入る」事を前提として、御活用くださいませ。

また、描写の際に参考にするべき過去ノベルがある場合、プレイング、または非公開設定欄にてご指定をお願いいたします。
こちらでもある程度は調べさせていただきますが、全てをカバーしきれる自信は御座いませんので。

それでは、終日貸切の映画館より、映写技師と共におふたりのお越しをお待ちしております。

参加者
有馬 春臣(cync9819)ツーリスト 男 44歳 楽団員
ロナルド・バロウズ(cnby9678)ツーリスト 男 41歳 楽団員

ノベル

 ――ざ、ザ、ぁあ。

 低い男の呻き声めいた音を響かせて、銀幕にノイズが軋む。

 映画が始まる予感を遮り、唐突に鳴り響く不協和音。
 鋭い耳を持つ二人の観客には、どうしようもなく不穏に、いびつに聴こえたであろうソレは、かつて耳にした覚えのあるものだった。絶望の忍び寄る跫にも似た、背筋の凍るような感覚。

 あの瞬間飛び散った欠片の意味を、始まった遊びの趣旨を、彼らはようやく、理解し始めていた。

 スクリーンの闇を切り取って、青い影が中央に浮かび上がる。
 スピーカーから響く静かな聲が、名も無きノイズの集合体にその《正体》を与えた。

「賭けをしよう、ロナルド・バロウズ」

 《 La stravanganza 》

 《悪魔の美術館》との夜を徹した戦いの帰り、音楽を愛する悪魔は側近にも等しいロナルドだけを傍に置き、撤退する楽団員たちを見守っていた。その瞳にある色は、労いか、それとも新たな楽への期待か。少なくとも上機嫌であろうと判る調子で、悪魔はロナルドへ語る。
「お前の勝ちなら、願を三つ叶えてやろう」
 青のノイズを言葉の端々に飾りながら、囁きに似た語調で以って。
「あ、そう。随分と太っ腹ねぇ」
 疑わしげに視線を寄越すロナルドへ、くつくつと抑えたような笑みが返った。優れた音楽家をミディアンへと引き込む時にさえ、彼が叶える願いは一つきりだ。話半分で聞き流し、ロナルドは肩を竦める。
「で? 俺が負けたらどうするって?」
「そうだな――」
 悪魔は蛇のように瞳を細め、ちろりと舌を出した。享楽的なその様子に、背筋が凍りつくような感覚を抱くのも、何度となく経験してきた事だ。
「では、その身体と才能を貰おうか」
「なんで」
「決まっている。お前の腕でバイオリンを奏でる為だ」
 何気ない事のように言い放った一瞬、悪魔は羨むように、視線を虚空へと投げた。
 それは、長い付き合いのロナルドだからこそ見抜けた表情なのかもしれない。ぽつりと零した希いが紛れもない本心であると、その視線が何よりも雄弁に語っている。音楽を愛しながら、己では奏でる事の出来ない悪魔。同じく音楽を愛し、併し彼とは違い才能を持つ男は悪魔を憐れんだ。
 主の瞳の内側に、青い灯が燈り、揺らいでいる。
 ズームする映像に合わせ、少年のような笑みは、吸い込まれるような瞳は大写しになっていく。――そして、それが燈火ではなく単なるノイズに過ぎぬと、漸く観客は悟った。
 期待にも似た、郷愁の青を燈す瞳。
 しかし、その対象が何であるか、観客である二人には判断が付かなかった。悪魔の笑みが、親しげな中に確かな翳りと、酷薄な冷たさを残していたから。
 どちらが真意か、それともどちらも偽りか。判断を付けかねるロナルドを促すように、悪魔は静かに言葉を紡いだ。
「いつかお前が、俺に勝ったと思える日が来るか否か」
 それが賭けの内容だ、と。
 ぞわり、肌が粟立つような感覚。女の金切り声のようなバイオリンの音が、スピーカーの奥から響いている。

「チャンスは二十七回」

 フラッシュバック。
 唐突にスクリーンが、全く違う時間軸の映像を映し出した。青い膜が掛かったように、銀幕の色調が変化する。
 其処に映っているのもまた、ロナルドだ。
 血を吐きながら舞台の上に崩れ落ち、それでも尚、と愛するバイオリンを探す為もがく姿。
 昏い館の中で、何者かの操る鎖に締め上げられ、空中で意識を喪って行く姿。
 ――苦渋の表情をした友人に、球状の水へと閉じ込められる滑稽な最期までもが記されていた。

「勝てなければお前は何度でも死を繰り返す」

 映り込む映像が今のロナルドにとって過去か、未来か、それさえも判らない。現実か、銀幕の虚構なのか、それを知る術さえもない。
 幾度失敗しようが、記憶は全て巻き戻される。悪魔が消えた、あの日まで。
 ――賭けが終わるまであと何度機会が残されているか、ロナルドには判らないのだ。

「……まあ、お前がこの賭けに乗らないと言うなら、手っ取り早く全ての魂を取り込むまでだが」

 そして、映像は唐突に、丘の上に立つ二人へと戻る。
 主らしからぬ提案に呆気に取られるミディアンと、くつり、と嘲るような笑みを浮かべたまま答えを待つ悪魔。
「……何、それ。曖昧だし、フェアじゃないんじゃない?」
 かろうじて虚勢を保ち、ロナルドは主に張り合った。
 何故こんな話を持ちかけたのか、とロナルドの頭を疑念ばかりが埋め尽くす。奏でる手が欲しければこんな面倒はかけず、彼の言うようにとっとと全てを終わらせてしまえばいいだけの話だ。この提案が、悪魔による温情なのか、それともただの道楽であるのか、彼には判断できない。
 だが、乗らなければ仲間たちが殺される事だけは、はっきりと理解できた。

「……やればいいんでしょ」

 仲間を護るために、ロナルドは条件を呑む。
 同情と警戒、相反する複雑な感情を抱えたままのロナルドを横目に、悪魔はしたり顔で嗤い、また、あの青い灯を瞳の奥に燈した。

 ――その密約を、遠くから見詰めている眼がある。

 二人の後姿から、遠くの人影へと焦点が移り変わる。映像が絞られた先に、明るむ空の下で蒼白な顔をした、背の高い男の姿が現れた。

「……君、視てたんだ」
 客席に座るロナルドが、隣の男へと囁いたが、男からは頷きもいらえもなかった。

 暁に浮かび上がる幽鬼のような男の貌を、端から漆黒のノイズが蝕んで行く。
 静かに、緩やかに、まるでその心中に芽生えた不信を顕すかのように。

 そして、銀幕が漆黒に染め上げられて。
 凝った血によく似た暗紅色が、スクリーンに文字を描いた。

 《 Grosso Mogul 》

 視点が切り替わる。
 先程とは対照的に、二人の男の姿を見詰める、有馬春臣の背中が画面に描き出された。
「姫?」
 彼を慕う少女の、空気も読まず崩れ落ちてしまいそうな呼び声が聴こえるが、当時の春臣にそれに応えられるほどの余裕はなかったようだ。
 彼の立つの場所からでは二人の声はほぼ聴こえない。だが、離れる直前に聴こえた「賭け」という言葉に、不安にも良く似た言いようのない感情が沸き起こり、春臣はつい足を止めてしまったのだ。
 二人の動作だけを注視する。ロナルドは仕種が大仰な方だから、どうやら渋った末にそれを承諾したようだ、と判り易かったのが救いだった。眉間に皺を寄せ、いったい何を、とまた疑念が心中に芽吹く。
 忍び寄るような音楽の隙間から、低く掠れた、酷く聴き取りにくい男の歌声が響いてくる。それをBGMに移り変わる映像は、楽団の日々を描いていた。
 銀幕の中央には、常に悪魔がいる。
 楽団員の前で滔々と語る姿。
 ロナルドをからかい、共に何処かへと去って行く姿。
 新たな団員を連れて来たと、期待に目を輝かせる姿。
 黒いノイズに苛まれながら、主も、彼らも、今までと変わりない日常を送っている。
 しかし、そのどれにも、違和感が付いて離れない。
 何かが足りない、決定的に欠けている。漆黒のノイズが春臣の違和感を可視化させ、悪魔の右頬から右目に掛けてを常に覆っていた。蠢くように、主を蝕む翳りは次第に大きくなって行く。
 彼以外の誰も、悪魔に対する不信を抱かなかった為か、それに気づいた様子は見えなかった。
 スクリーンの向こうで、悪魔がおもむろに振り返る。銀幕の反対側に春臣が居るのか、真っ直ぐに観客の側を見て、唇を吊り上げた。
 不気味な詞と不穏な旋律を遮るように、あの、甲高い不協和音が響いた。
 それは、ロナルドと主が賭けを交わしたあの日、悪魔が砕けた時に鳴り響いた音だ。
 しかし直に再生し、再び以前どおりの姿を取り戻したと思っていたが――あの時、集められなかった欠片が在ったのではないか。それが今も、どこかに潜んでいるのではないか――と、春臣の疑念は確信に変わりつつあった。

 漆黒のノイズに蝕まれた悪魔の笑みがそれを肯定しているかのように、春臣には見えた。

 ざわめく闇が銀幕を覆う。
 深夜。郷愁に似た青い月光だけが、音楽家たちの棲む館を照らしていた。歌声に絡みつくように、厳かなバイオリンの音色がスピーカーから響いている。館の何処かで誰かが奏でているのか。――それとも、月光に呼応する心の内を顕しているのか。
 春臣は人目を気にしながら、己の部屋を抜け出した。窓から忍び寄る青が、長い影を切り取る。深い紅の絨毯が、まるで血を含んだように重たく革靴を包み込んだ。
 愛用の三味線だけを手に、月光に照らされながら、春臣は見知った館内を走り抜ける。
(ミチル君は)
 ざらり、と忍び込んだノイズが、春臣の心を言葉に変えた。
 ――彼女を連れて逃げなければならない、と、何故か強く感じた。
 いつもならば直に辿り着けるはずの距離だ。
 だが、幾ら走っても、廊下は真っ直ぐ伸びるのみで景色に変わりが見えない。届く事のない突き当たりの壁に懸かる鏡が、春臣の蒼い顔だけを映し取っていた。ざわめく暗闇が彼の周囲をいびつに飾る。まるで春臣の輪郭を蝕んでいるかのように。
 脚を止めた。
 穏やかだった月光が色を変える。宵闇にぽかりと浮かぶ三日月が、何者かの哄笑のように見えた。

 ◆

 ――Pleased to meet you. Hope you guessed my name.

 ◆

 噫。
 此処は何処だ。
 見知った筈の館ではなかったのか。
 ――何故、己は迷い、惑っている?

 誰かの悪意が噛んでいる、と春臣は即座に悟った。その悪意の主が誰であるかも、勿論。
 しかしもう戻る事は出来ない。
 気付いてしまった以上、そして気付かれてしまった以上、今までと同じ日常に戻る事など、許されないのだ。
 ざわめく闇がまた、春臣を覆い尽くすようにその行く手を阻んだ。
 夜の帳が齎す、自然の暗闇ではない。
 それは銀幕を蝕む、漆黒のノイズ。悪魔の忍び寄る跫にも似た、軋むような響き。――映画としての演出を、映画の中の彼もまた聴いている。懼れている。作為が映画の中の現実に作用する。
 硝子の鐘を鳴らすような、甲高く耳障りな音が響く。
「気付かなければよかったものを」
 それは聲だ。聞き慣れていた筈の悪魔の聲が、今は全く違う、聞き知らぬ音楽のように聴こえる。
 悪魔の哄笑が轟く。
 空の月によく似た、酷薄な笑みが鏡の中の暗闇に浮かんでいる。

「――なぁ、有馬春臣?」

 冴えた刃の如き響きが肌を撫でる。
 張り詰めていた糸が切れる。春臣は弾かれたように駆け出した。逃げなければ、と思うのに、肢が縺れて上手く動かない。
「無駄だ」
 それを嘲笑いながら、悪魔の気配は忍び寄る。
 欷歔のようであった歌声は、いつしか鳴り響く音楽の中央へと躍り出ていた。合間に聴こえる、金属音。
 身を強張らせる春臣の前に、それは姿を見せた。
 虚空に現れた波紋から、ずるずると蛇のように這い出る鈍色の鎖。長く、威圧するように、彼の視界に現れて――そして、春臣が逃げるよりも早く、撓った。
 足首に絡んだ鎖に躓いて、身体が前のめる。咄嗟に支えにした掌は、しかし絨毯の感覚を捉える事も無かった。再び撓った鎖が、春臣の首を容易く捕え、そのまま空中へと引き摺り上げられる。
 もがく彼の手元から三味線が離れ、深紅の上へと落下して不協和音を弾かせる。それもすぐに、漆黒のノイズに埋め尽くされて見えなくなった。
「……ぐ、」
「哀れだな」
 冷たい金属に締め上げられ、ろくに聲も発せずただ顔を赤くするだけの男を眺め、悪魔は鼻で笑う。
「死に際でさえこの俺を嗤った医者は何処へ行った」
 あからさまな揶揄に応える言葉もない。或いは、最早それすらも聞こえていないのか。
 赤らみ、次第に蒼くなってゆく顔。血走った眼。
 膨張して唇の合間から飛び出す舌。引き上げられた深海魚のような、滑稽でグロテスクな形相。
 醜い貌を曝したまま、有馬は息絶えた。
 二度目の死は、初めよりも尚哀れに見えた事だろう。
 鎖が虚空に融けて消え、骸は乱雑に絨毯に投げ出された。三味線の隣に転がる身体。青醒めた指先は最早音を奏でる事もない。

 くつり、虚空に笑みが浮かぶ。
 一度去った筈の悪魔の気配が、再び現れた。
 それはほどけるように白い光の糸へと変わり、打ち棄てられた骸の唇からその内側へ忍び込んだ。途端、大きく跳ねる身体。喪った呼吸を取り戻す。血を吐くように咳き込む。貌の青さはそのままに、淀んだ瞳に左右非対称の光が燈る。
 漆黒のノイズが、その瞳の奥でちらついた。
 膨れた舌を引き戻して、男の骸は痙攣する喉をまるで生前と同じように動かしていく。

「――勘付かれては困る」
 今は未だ、生きていて貰わねば。

 月光に響き渡るその聲は、有馬春臣のものではなかった。

 ◆

 ――What's confusing you is the nature of my game.


 ◆

 ひと気のない廊下で、一度死んだ男が蘇生する。
 蘇る死体さながらの土気色の肌のまま、三味線を拾い上げて己が部屋へと引き返す。
 そうしてスクリーンには誰も居なくなった。
 銀幕から青白い月光だけが射し込む薄暗闇の中、観客席の二人の男は、ただ余韻だけを残す映像を見詰めたまま黙し続けていた。
 エンドロールは終わらない。
「……さて、君の知りたい事を、知る事は出来たかね」
「……噫」
 徐に春臣が差し向けた問いに、ロナルドは僅か茫然とした態度を隠そうともしないまま、頷いた。そして、横目で見慣れた男の様子を窺う。――常日頃から死神か幽鬼のようだとは思っていたが、本当に一度死んでいたとは。死を繰り返し続ける男は皮肉な事だと心中だけで笑った。俺たちはどちらも死んでるんじゃないか。
「――有馬」
 呼び掛ければ、うっそりとした黒い眼が薄明かりの中彼を捉えた。その瞳孔の奥に、強張った己の貌が映り込む。噫、あの日の邂逅のようだ、とぼうやりと思う。
 鏡の中の男の言葉が蘇る。
 二人と縁の深い少女の中に、己の欠片が潜んでいると。
 だが、それだけではなかったのか。
 春臣は深淵のような底のない色を向けたまま、先を促すように首を捻った。その仕種さえも、頭骨が首からごろりと転げ落ちるような不気味さを備えている。洒落にならない、と深刻な状況の中で思う。
「君たちを助けたい」
「たち……噫、ミチル君の事かね」
 何処となく空虚な目線が、ゆらりと揺れて銀幕を一瞥する。夜の館内を映し続けていたソレは、いつしか彼らの知る少女の姿を描き出していた。溌剌とした、愛らしい少女の貌が漆黒に塗り潰されている。月光に照らされて、足元に靄のように広がる影――ノイズが、いびつな容を創り出した。
「悪魔を宿し続ければ心身を疲弊し、正常な判断ができなくなっていつか壊れる」
 こうやって語る己もまた、少しずつ蝕まれ始めている。
 彼らも、今は未だ正常に見えるが――いつしか取り込まれてしまうだろう。
「俺は君たちを諦めない」
 その宣言を聞き届けた春臣の、右頬から眼にかけて――あの、漆黒のノイズが奔ったように、ロナルドの眼には見えた。
 錯覚と見紛う程に一瞬で、しかし確かな実感を伴う変化。銀幕からの光が翳りを造ったのかと横目で窺うも、其処に映っているのは変わらぬ少女と月光だけ。
「だから、どうか手伝って、」
「……君はつくづくお人好しだな」
 嘲るような――呆れるような、親愛にも似た溜息と共に、春臣が言葉を漏らす。
「私は己の意志であれと共存している」
 低い聲が、環境音だけを響かせる館内に沁み込んで行く。
 眼を瞠るロナルドを嘲笑うように一瞥すると、有馬は徐に座席から立ち上がった。それを止める者も居ない。今この劇場に在るのは、二人の悪魔との共存者のみ。
「どうして」
「君は勘違いをしている。ミチル君の中に居るモノは、決して敵ではない」
 細められた黒い瞳が、青い月光を映してぎらりと煌めいた。
 見知った男との間に、言いようのない齟齬を感じ取り、ロナルドは押し黙る。
 もう、手遅れ――なのか。
「私の言葉を受け容れたまえ。私は君たちの為に動いている」
 協力を乞う声も、ロナルドの耳には、悪魔の甘言のようにしか聴こえない。
 救えないのなら、いっそ、この場で――膨れ上がる殺意、湧き上がる衝動を抑えつけ、しなやかな指で座席の肘掛けを握り締める。彼自身への友情と、その人格への信頼とで何とか均衡を図る。春臣はその僅かな動きも見逃さず、口許に酷薄な笑みを刻んだ。
「……ドクは、それが正しいと思うんだね?」
「噫」
 何よりも裏切りを嫌う清廉な男の意志がこうして残っているのが幸いか、それとも悲劇の一端かは判らない。
 柔らかな座席に身を深く沈め、ロナルドは息を吐く。
「決着の時は必ず来る。……それまでは、極力普段通りで居よう」
 昏い色を湛えた瞳を巡らせれば、底のない黒とぶつかった。
 提案を受けて、男は微かに笑う。いつもと同じ、親愛の、呆れの滲む貌で。
「――君は本当に馬鹿だな」
 だが、悪くない。
 それでこそ我が友だ――と、漆黒のノイズに蝕まれたあの聲で、春臣は云った。それは最早、ロナルドにとっても馴染み深い彼の悪魔のものにしか聴こえなかった。
 総毛立つ程の嫌悪感を振り払い、ロナルドもまた、かつてと同じ笑みを返す。

 いずれ来る訣別の為に。
 二人のミディアンは、その友情を確かめ合った。

 <了>

クリエイターコメント有馬 春臣様
ロナルド・バロウズ様

【シネマ・ヴェリテ】への御来訪、ありがとうございました。
《変革》と《追憶》のフィルムをお届けいたします。

今回のフィルムのタイトルはどちらもアントニオ・ヴィヴァルディの曲名から頂いてまいりました。
過去のノベルを参照しながら、みなさまの現状や主さまの意図を手繰り紐解いて行くのが、まるで謎解きのような感覚でした。このような解釈でよろしかったでしょうか?
描写や展開など、PLさまの御期待に添えられていましたら、幸いです。

みなさまが迎える旅路の終わりがどのようなものになるか、記録者も固唾を呑んで見守らせていただきたいと思います。

今回は御指名、まことにありがとうございました。
それでは、御縁がありましたらまた、階層世界のどこかでお会いしましょう。
公開日時2013-10-12(土) 14:40

 

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