__ドーン・コーラスとは __太陽から放出された電磁波が地球の磁場にとらえられた放射線帯……ヴァン・アレン帯を通過する際、無線機等を通し可聴域となる電波が発生することにより聴くことの出来る不可思議な音を指す。明け方、鳥たちが朝を感じ一斉にさえずりを始める様子になぞらえ、この名称がつけられたとされている。 __通常は無線機等の機器を通してのみヒトの耳に届く音とされているが、ごく稀に機器の助けを得ずともこの音を聴くことが出来る特異な聴覚を有する者もいる。その類稀なる力はしばしば日常生活の支障となる。音声言語によるコミュニケーション障害や、日常の生活音によって聴覚に異常をきたすことも多い。これは彼ら彼女らの可聴域が広すぎることに起因する為、通常の人間と同じ可聴域でのみ音が聴こえるようにつくられた補聴器を装着することが望ましいとされている。 __彼ら彼女らの中には音楽の方面に才能を発揮する者も多い。調律や楽器製作のように、繊細な音合わせを必要とする仕事の中でこそその聴力は輝く。敬意を込めて、彼ら彼女らは『ハミング・ソアレ』と呼ばれる。 「聴こえたんだろう? それが朝の気配だ」 ◆ 「君、ドーン・コーラスって聴こえる?」 「明け方のみ聴こえる囀りに類似した音のことですね。はい、聞き取れますが」 「ふーん。じゃあ君にも聴こえるかもね」 ロナルドからの問いかけに事も無げに答えたルサンチマンは、質問の意図するところが理解出来かねたのか『聞き取れるがそれがロナルドにとってどうかするようなことなのか』という意味合いを込めて『が』という語尾で返答を締めた。 「ロナルドがソアレとの賭けに勝つかどうかの判定、という意味ですか?」 「そういう身も蓋もない……まぁ、判定役は必要だけどさ」 ◆ 賭け、とは。 ロナルドとルサンチマンは、世界図書館からの依頼でインヤンガイのとある貧民街区を訪れていた。特殊な聴力を持つツーリストを保護せよとの内容で、厄介なことに対象は現地の犯罪組織に捕らえられている。導きの書によれば説得にやや時間がかかるかもしれないとのことで二人はそれなりの心構えをしてきたつもりだったが、対象……ソアレと名乗った十五の少女は、組織に囚われ続けることを是としインヤンガイを出る気はさらさらないと、二人を突っぱねたのだった。 「お話は理解しました。でもいいんです。ココに居ればごはんは出てくるし」 「十五の身空でそんなこと言わなくったっていいじゃない、俺たちと行こうよ」 「いいです」 「そのように言われても。私たちも仕事で来ています」 「……放っておいてください。図書館? には何とでも言えるんじゃありませんか」 ふいと逸らしたソアレの目。ロナルドの言葉通り、若い身空に似合わない曇った目と投げやりな態度。確かに、覚醒したロストナンバーの意志は尊重されてしかるべきだが、ソアレが置かれているこの状況と世界図書館・ターミナルの待遇を比較すればやはり説得にかかりたくもなるものだ。 どうしても腰を上げないソアレに業を煮やしたルサンチマンが気絶させてでも連れて行く姿勢をとろうとしたところで、武器を構える姿を組織の見張り番に見つかってしまい……。結果、二人はソアレが寝起きしている独房の隣に打ち込まれて先ほどの会話をしているわけだ。 「無意味な依頼です。ギアのある我々だけが脱出するならともかく、彼女まで連れて行くのは難しい。放棄が妥当かと」 「そんなつれないこと言うもんじゃないよ」 この状況を鑑みてのルサンチマンの提案は合理的ではあった。ソアレ一人を連れ帰らなかったことでターミナルが損をするわけではないし、報酬の額もたかが知れている。無理にソアレを連れ出して命を危険にさらすことのほうがリスクが高いと判断しての提言だったが、ロナルドはそれを怒ってたしなめる……というよりは、微笑ましげに目を細めてさらりといなしてみせる。 ロナルドは目を閉じ、さっきまで相対していたソアレの顔を思い浮かべる。最初、ロナルドとルサンチマンのふたり……言葉が通じる存在が来たことにソアレは少しだけ目を丸くした。それはすなわち、誰かと言葉を交わしたいというソアレの願いに他ならない。そう感じ取ったからこその賭けだった。 __次の夜明け前、空から君を迎えに小鳥たちがやって来る。囀りが聞こえたら合図をくれ。聞こえなければ…… 「聞こえなければ。……何故、その後を言葉にしなかったのですか?」 「負ける賭けはしない主義だから、かな」 夜明けまで、あと七時間。 ◆ __かつん __こつん 独房の薄い壁に、ロナルドは小石を投げては返ってくる音に耳を澄ませる。暇を持て余した意味のないひとり遊びにしか見えないそれを、ルサンチマンは止めもせずただ何とはなしに眺めていた。 不意に、壁から返ってくる音が少しだけくぐもった鈍い音に変わる。きっと、ソアレがこの音がした向こうに背をつけているのだろう。ロナルドはふっと笑って、石のぶつかった壁に背をつけてぽつぽつとしゃべり始める。 「ソアレ、聞こえる?」 「あ……はい、お二人が隣に入れられた時から全部聞こえてます」 「やっぱりいい耳してるねぇ。で、賭けのことは考えてくれた?」 「……」 「本当に今のままでもいいって言うんなら、君にとって損のない賭けだと思うけどね」 ソアレの返答が止まる。 「裏切らないものも世の中にはあるかもよ?」 「あるとは言わないんですね」 「おじさん嘘つきにはなりたくないからねぇ」 「……そういうところ、ちょっと好きです。でも、お二人にはついていかない」 頑ななソアレの心が、少しずつほどけているのがロナルドには感じられた。だが、ルサンチマンにはまだそれが分からない。 「こんなわたしのことを気にかけてくれたヒトがいる。それで充分です」 「つまらないことで満足しちゃ駄目でしょ」 「いいんです、このままで。いい思い出をありがとう」 __思い出……? ルサンチマンがソアレの言葉にわずかに反応を見せた。思い出とは記憶をセンチメンタルに言い換えただけのもの……そんな理解があったが、今のルサンチマンにはそれ以上の意味を持って聞こえたらしい。 「それは今日の記憶を貴方の心に留めておく、ということですか」 「そう、ね。さっきも言ったけど、それで充分だから」 これ以上は要らない。親交を深めれば、思い出を沢山作ってしまえば、いつか裏切りがやって来たときに辛さが増すだけだから。だから、そっとしておいてほしい。ソアレの哀しい願いが、ルサンチマンの心に何かの引っかかりを作る。 「薄幸の美少女はオペラの中だけで充分なんだけどねぇ」 「……?」 「自由じゃない。君は何処へだって行けるんだよ」 「……」 居るべき場所を自分で決められる。それに勝る自由はきっと無い。自分を裏切らない誰かが居る場所もきっと、この広い世界群のどこかにはあっていいのだ。だが、それはここにただ居るだけでは決して見つからない。可能性を探しに、ターミナルへ行こうとロナルドは締めくくった。 「とにかく、この賭けはもう始まってる。OK?」 「……誰が、賭けに勝つんでしょうね」 そう呟いたのは、ソアレか。それとも。 ◆ 「ロナルド」 「んあ? 何、愛の告白?」 「馬鹿ですか?」 「用事なら早く言ってよね」 「本当に賭けを行うのですか?」 「もう始まってるって言ったでしょ」 「……理解出来ません」 壁越しの会話を聞き、ルサンチマンはロナルドが言わんとすることをわずかではあるが理解し始めていた。だが、何故ロナルドがそれをソアレに伝えようとするのか、何度拒否されても諦めないのかという理屈に至ることはまだ、出来なかった。 「裏切りは人の常です」 「そうだね、俺もそう思うよ」 「なら、何故あんな賭けを? 貴方はソアレに誤解を植え付けようとしているのでは?」 「知らずに決め付けるのとさ、知って比べるのとじゃどっちがマシかって話」 「……それも、ソアレの言う思い出とやらになるのですか」 「そういうこと。イイ事知らずに生きるだけなんて、つまらないじゃない」 つまらない。ルサンチマンの行動原理にはありえない言葉だった。だが、少しずつ少しずつ感情らしきものが生まれ、育ちかけているルサンチマンの心に、その言葉はひどく響く。 ロナルドはルサンチマンの感情のなさを苦手に思っていたが、このやりとりに反応するルサンチマンを見ているうち、その意識が段々と薄れていくのを感じていた。 「Take it easyだよ、何事も」 「……だそうですよ」 壁の向こうからの返事は無かった。 夜明けまで、あと二時間。 ◆ 独房の窓は、入る者がやすやすと逃げ出せないように天井近くに作られている。その窓から少しずつ、白む空の気配が差し込んできた。賭けの時間は近い。 「……」 満足な寝具も無いこの独房で、ソアレはいつも夜明けより早く起きる癖がついていた。浅い眠りを何度か繰り返し、細切れの夢を見る。今日は特に、賭けのことが頭をちらついて離れなかったせいか、ソアレは何度も目を覚ました。 「空から、迎えに……? まさかね」 呆れたように笑って、それでも白く明るくなってゆく窓を見上げずにはおれなかったその瞬間、ソアレの耳に何羽もの鳥の囀りが届く。 「え……?」 朝の訪れを告げるように。 ソアレを呼ぶように。 空耳だと何度目をつむり首を振っても、囀りは止むことはない。 それは新しい一日の始まり。 長い長い夜とのお別れ。 ソアレは思わず、隣の独房……ロナルドとルサンチマンが居るはずの方を向いて、合図を送るための小石を掴んでいた。小石を投げんとする右手が、涙で濡れて朝日にきらめいていたのは、きっと。 ◆ 「聴こえるか?」 「はい、ソアレもおそらく捉えているでしょう。……本当に、合図があると思うのですか?」 「そう言って、ずっと武器を構えてるのはどっちよ」 「……どのみち、逃げるためにはここを壊す必要があります」 「あっそ」 __こつん 「! ソアレか?」 「ロナルドさん……き、聞こえました……!」 「そうか、よし! 賭けはおじさんの勝ちだ、さあ逃げるぞ!」 「了解しました」 ルサンチマンにとって、この程度の薄い壁を、あるいはこの古い建物そのものを壊してしまうことは造作も無い。ただ、何処から壊して逃げるかの違いだけだ。ルサンチマンは賭けの判定を下し、迷わず独房と独房を隔てる壁にジャマダハルの刃を突き立てる。 「どうだ、聴こえたんだろう? それが朝の気配だ、新しい朝のね」 ◆ __ハミング・ソアレと呼ばれる、可聴域を広く持つ人々は、口々にこう語る __ドーン・コーラスを聴きたいが為に、補聴器はつけずに眠るのだと __暁の唱和は、祝福の音であると
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