爆音が轟き、焔が闇を舐める。悲鳴、罵言……男はそれらを背中に走った。しかし、薬の酩酊感に道に転がり、咽った。顔をあげたとき視界の先に見えた赤いヒールに息を飲んだ。「久しぶりね、ソーマ。老けたわね」「レディ・メイデン……あんたは美人のまんまだな」 絶望に満ちた声でその忌まわしい名を吐き捨てた。「いい風だな。黒耀の屋敷から火が上がって血と悲鳴の味がする」「……あんたは知ってるんだろう。俺が【夢の上】を作ったこと」「私の知る限り、そんな薬を作れるのは私の良人か、あなたぐらいのものよ……組織が解体されたあと、あなたは消えた」「あんたがいなきゃ政府の狗でいる意味はない。それにマフィアどもの報復は恐ろしかった……二十四年前にあんたは良人であるリンヤンを殺された。俺の、妻のニケも……いいやアイツは生きてる。まだい生きてるかもしれないんだ」「まだ、ニケのことを探しているの? そのためにマフィアにまで落ちたとはつくづく業の深い男になったものだ」「ニケを見殺したあんたがいうな! あんたを守るためにニケは敵陣につっこんで……リンヤンだってあんな風に死ぬヤツじゃなかった。あんたの作戦の落ち度のせいで!」 男は片手に持つライフル――黒色の銃を向ける。「リンヤンが作った最高傑作、あんたの武器。今は俺の手にある。……ターン【変身】!」 ライフルが閃光を放つと同時に男は立ち上がり、口笛を吹くと闇のなかから巨大な獣が飛び降りてきた。「俺はニケを見つけ出す。もう一度、あいつに会うんだ、俺は! ……もう俺は長くない。だからこれが最後のチャンスだ。俺はこの賭けに勝つ!」 巨大な犬の化け物――術と科学を合わせた【攻獣】に乗って逃げた。「メイデン様」 「私が追うわ。お前たちは手を出さないで」★ ★ ★ ビルの上に二人の男がいた。手にはスーツ姿に不似合いな刀が握られている。「ありゃ、黒耀のアジトあたりから火があがったな」「飼い犬に手を噛まれたってことか。……俺らの組織が一番、遅れをとっているとボス殿はご立腹だ」「ああ。薬が手に入れば、逼迫したうちの組織を立て直すこともできる」 裏社会を牛耳る五大組織のなかで経済的に逼迫し、最近は暁闇に脅かされている美龍会。 暴力団組織は縄張り内にある店からのみかじめ料で経営をたてているが、最近は他の組織の介入によって昔ながらの方法は通用しなくなってきた。「鬼一の旦那、あんたはあとからきてくれ。背負うと俺の飛行能力が落ちるからな。犬どもを使えば逃げてるやつは一発で見つけれるし、一番にいけるだろう。他のやつがいなきゃいいが」「あいよ。じゃ、ラクさてもらおうかねぇ~。ま、敵さんどもが多いときに助けにいける程度には走るさ。稿兄はボスが好きだからねぇ」「恩があるからさ」 美龍会は暴力団組織だが、街と親しい。政府にかわり治安維持に尽力し、ボスであるエバ・ヒ・ヨウファは孤児院などに多額の寄付をしてきたのだ。 稿は腕に添えつけていた仮面をとると、それを顔につけて、飛んだ。 と、黒い羽根をはためかせて、人の形をした化け物が飛びあがる。 あうううううううんんんんんん―――遠吠えに次々に犬たちが吼える。 美龍会が裏社会で恐れられる理由――【アヤカシ】。名ある術師によって仮面に封じられた怨念を我が身に纏い、人外のような能力を得る技。「天の狗と書いて、天狗ってのは、いいこというねぇ。昔のひとは……さぁて、俺もいくかねぇ。殺せるといいねぇ。人間を」 角のある仮面をひと撫でして鬼一は笑った。★ ★ ★「遠吠え……美龍会も動いたヨウネ」 見た目、十歳くらいの姿に鮮やかなチャイナドレスを着た少女が小首を傾げる。「恭一郎、お前の【言霊】、まだカネ!」「鈴さん、ええっと、待ってくださいね」 三十代くらいの気の弱そうな黒髪の男がにへらぁと笑い、早口に言葉を発した。「見つけておくれ。北へ東、西、南、消えぬ狗の匂いを……探、探、探、探、千里の目、目、目、目……ここから北南に一キロ方面かな?」「コノ、役立たズ! カナじゃないヨ!」 蹴り倒れた恭一郎はうっとりとした顔で鈴を見つめた。「鈴さんの足で蹴られるなんて、僕は幸せです。ああ、もっと罵ってください」「ホント、変態ネ。子供に罵られて興奮スルノ……まぁ、イイヨ。さっさと行くヨ」「敵に会ったらどうしますか? 僕、戦闘はあんまり」「そのために私がイルヨ。馬鹿、間抜け、トウヘンボク! ボスのためにも薬、手に入れるヨ! もう泥水漁りはおしまいネ! この地を支配していた組織、全部潰す!」 暁闇は他の地から流れてきた少数民族の寄せ集めだ。そのためひどい迫害にあってきた。彼らがボス・ウィーロウによってまとまったのが十年も前。もともと特殊技術に優れていたことと結束の強さでのしあがってきた。「私たちには安全に生きる場所が必要ネ。金と力がイル……私を、こんな体にした連中に復讐スル。チャンスをボスはくれたネ。感謝してイル」「僕は鈴さんがその姿でもいいかなぁって、あいた」「本物の変態ネ……十年前、有力者どもの玩具にされた挙句に薬で成長止められた、この恨み! さぁイクヨ。全員殺して奪ウヨ」「はい。けど、僕たち走るの遅いから、一番は無理かな。まぁ隙をついて、奪えるといいですね!」★ ★ ★「えーと、今回は薬を持ってるやつをさがすんだよねぇ? 矢部」 酒瓶を片手に赤色のドレス姿のニケが小首を傾げた。矢部はからからと笑って酒瓶に口をつけた。「変な仕事だよね。薬のデータを奪うなんて」「元々アレはうちの所のやったのをこの世界のもんが改良していいもんにしたらしい。それを横からかすめ取るってのはまた悪いことやなぁ」「にしても、そいつ、どこよ」「逃げまわっとるらしいし、追っ手もおる。……自分もニケも探すの得意ちゃうし、まぁ、音がすればそこにいけばええ」「ふぅん、そういうもんか……へんなの。なんかどっかで見たことあるかんじ」 ニケの反応に矢部は眉根を顰めた。「あはは、そんなことあるはずないのにねぇ。ニケ、ほら、記憶ないじゃん。大怪我しててさー。けど、旦那がいたことだけは覚えてるんだよねぇ」「イイ男やったて?」「うん。名前はね、ソーマってことだけだ。……それだけしか覚えてないけど、会いたいなぁ。だぁーりん」 ニケは無邪気に笑う。「さーてと、とりあえず騒動のするところにいこっか」
今回は複数の敵との交戦が予測されるとの司書の言葉に――集まったメンバーは、それぞれの得意分野がまるで異なることからまとまって移動するよりはそれぞれで攻めるほうが効率がいいという結論に達した。 「あ~ん! ジャックさぁん! だったら、ぜひ協力してくだぁい!」 泣きついたのは川原撫子。本人いわくちょっと腕力に自信がある以外は一般人である。 「アン? なんだヨ」 「だってぇ、私は、ノートを見て、地図見て、それで逃亡経路予想して動くしかないんですよ~! 絶対に敵さんたちに遅れをとっちゃいまぅ!」 「俺も誰かが観測者役になってくれりゃ大助かりだ」 まるで最愛の女を抱くように、相棒を腕にかかえたネイパルムがジャックに視線を向けた。 「チッ! しかたねぇーナァ。お前らァ」 頭をがしがしとかきながらもジャックには断るつもりはない。 「あの、でしたら、私、ジャックさんの能力のお手伝いができると思いますっ!」 絵奈が緊張した面持ちで提案する。 気配察知能力を上昇させて気を読むことで敵とターゲットを見つけ出そうと考えていた絵奈としてはジャックと協力して少しでもみんなの役立てればと考えた。 ジャックは絵奈を見ると、にやりと人の悪い笑みを浮かべた。 「ヘェ、この前の舞台にいた風の妖精チャンじゃねェか。今日も期待してるゼ? ヒャヒャヒャ」 以前、別の依頼で一緒になった絵奈の奮闘する姿を目撃して感心するとともに気になっていたのだ。その姿はどことなく子犬のようで、ジャックのなかにある悪戯心をいたく刺激した。 身長的に圧倒してしまうジャックはわざと絵奈の前に屈みこみ、右指が伸びてそのふくよかな胸に 「なにしてるのよ」 べしっとその指を黒い毛に覆われた太い脚が叩いた。 「あ、蜘蛛の魔女ちゃん!」 「キキキ! セクハラで訴えられたくなきゃ私の友達に手を出さないことね! おじさん!」 絵奈とジャックの間に割り込み、睨みをきかせたのは蜘蛛の魔女だ。背中にある蜘蛛の脚が威嚇するようにワキワキと動く。 「魔女だァ? どうもオレサマは魔女と縁があるようだナァ」 ここ最近のことを思い出してジャックの顔は苦虫を潰したように渋くなる。 「他の魔女と一緒にしないでよ! 私こそ魔女のなかの魔女なんだからね!」 「魔女のなかの魔女だァ~? テメェ、探索がきんのかヨ」 「出来るわよ! おじさんと違ってね、私にはすごいんだから」 「ホォ、見せてみろヨ」 今まで高飛車な態度だった蜘蛛の魔女の顔に一瞬だけ渋いものが走る。 「本当は、これちょっと……あんまりやくたくないんだけど」 「蜘蛛の魔女ちゃん?」 「見ないでよ!」 みなにそういうと背を向けて、ごほっと咳を一つ、二つ……ぞわ、ぞわっと黒い小さな蜘蛛たちが魔女のドレスを伝い、大量にあらわれる。 蜘蛛の魔女の体内で飼われている子蜘蛛たちだ。 「ふ、ふふーん! この子たちに命令すればターゲットなんてあっという間に見つかるんだからね! ま、どーしてもっていうなら、おじさんにその情報も与えてあげてもいいわよ! ただし、蜘蛛の魔女さまって呼んだらね!」 「チビ蜘蛛がさらにチビな蜘蛛を従えてるだけだろうがァヨ」 「なんですって!」 ジャックと蜘蛛の魔女の間で見えない火花が散るのを無視して撫子が蜘蛛の魔女の腰に飛び付いた。 「あーん! 蜘蛛の魔女さま、子蜘蛛さま! 情報、お願いしますね! ジャックさぁんもほら一緒に! ここはぁ、手段なんて選べませんよぅ! お願いしまぁす!」 両手をあわせてお願いのポーズの撫子に蜘蛛の魔女は、ふんと鼻を鳴らした。 「キキキ! いいわよ!」 「俺は一応、無線機をもってきたぜ」 ネイパルムが差し出したのはマイク式の小型無線機だ。 「ノートの連絡も怠らないが、こういうのものあったほうがいいだろう?」 「はぁい! つけれない人はいってくださいねぇ、私、こういうのすっごく得意ですからぁ」 撫子が無線機をつけながら、振り返った。 「ディーナさんも、どうぞぉ~」 「……うん」 まるで影のように佇んでいる都市型迷彩服で完全武装しているディーナ・ティモネンは撫子の声にゆるゆると無線機を受け取った。 「私は自分でつけられるから大丈夫」 「そうですかぁ? リーリスちゃんは?」 「私も大丈夫だよぉ! むしろ、あっちが心配じゃない?」 リーリス・キャロンは笑顔で無線機を受け取りながら指差す方向では 「なによ、これぇ! 脚にからまるっ!」 「おい、大丈夫か?」 「蜘蛛の魔女ちゃん、しっかりして」 「あららぁ~、大丈夫ですかぁ~」 無線機相手にヒステリーを爆発させる蜘蛛の魔女に呆れたネイパルムと心配する絵奈へと撫子が駆け寄っていく。 「ね、ディーナおねぇちゃん」 「……なに?」 「弱いって罪よね、だって、奪われだけだものぉ」 ディーナのサングラスに隠された瞳がリーリスを見た。 「ふふっ~。ここってそういう世界よね。だからリーリス、わりと好きなの! 今回のことだって奪うか奪われるか、とってもシンプルだと思わない?」 「……そう、だね。ううん、そうだよ。とってもシンプルなこと。……弱いことは罪なんだ。ただ奪われるだけなんだ」 最後は独り言のようにディーナは呟く。彼女の胸を満たす猛毒のような黒い感情がリーリスに強い酒を飲んだときのような陶酔感を与えた。 「オイ、ちびっ子……ディーナ」 ジャックの声にディーナは顔をあげた。 「……行こう。時間がもったいない」 ディーナの唇が紡いだ言葉は、彼女を前へと進ませた。 移動力に優れたジャックと絵奈が二人で行動するというのに当然のように蜘蛛の魔女がしゃしゃり出ると「私の移動力をナメないでよね!」の主張に三人で先陣を切った。 リーリスは 「私も、魔術師のタマゴとして、ジャックおじちゃんほどじゃないけど、力はあるし。三人がカバーしきれないところをがんばるね! ホラ、予言には出てないけど他にも敵がいるでしょ? そういう人たちが出てこないようにカラスさんとかにお願いして邪魔してもらうからぁ!」 と言って空を飛んで行ってしまった。 スナイパーであるネイパルムも単独で動き出している。 「うーん、みなさんね、すごいですねぇ。ディーナさんって、なにしてるんですか?」 地面に横になって音を聞いていたディーナは立ちあがると走り出した。 「え、ディーナさん!」 まるで猟犬のような素早さでディーナは闇の中に消えていく。そのあとを追うのは撫子には不可能だった。 「……私が最後なんですかぁ? あーん、はやく情報くださぁい!」 鼻孔をくすぐる不吉な香りに舞原絵奈は思わず形良い眉を寄せた。うなじが不安にチリチリと粟立つのを感じる。 「なんだか、街がざわついてますね」 「楽しい夜になるわよ!」 「どうしたカワイコちゃん、まだなにもはじまってねェゼ! ヒャヒャヒャ!」 蜘蛛の魔女とジャック・ハートに挟まれた絵奈は――現在、蜘蛛の魔女の首にしがみつき、その背に生えた見事な脚に腰を抱かれた状態だ。 蜘蛛の魔女は得意の糸を建物の壁に貼りつけて勢いをつけて宙を飛ぶ。その横をジャックは浮遊に加速能力で空中を走るという芸当を平然とやってのけている。 人離れした能力で疾走する二人の間で絵奈は大きな瞳をぱちぱちと瞬かせて、頷いた。 「はい! がんばります! みなさんの足手まといになりません! ……あそこです!」 絵奈の目が犬を捉えた。 「キキキ! よーし、いくわよ!」 「うんって、え! きゃあ!」 蜘蛛の魔女は壁と繋がっている糸を切ると、宙から地上へと放たれた矢の如く、落下した。 どんっ! 二本の脚を地上を突き刺し、小さな我が身を軸に地上に着地すると素早く糸を網にして犬たちを捕まえると力任せに自分へと引き寄せた。 「キキキ! 目障りな犬ッコロどもね! おなかすいてるし、ちょっとはやい時間だけど、ご飯にしようっと」 「ご飯って、え、あの」 「オイ、ちび蜘蛛より、コッチだろうが」 蜘蛛の魔女が捕えた犬たちを相手に舌舐めずりしてにやにやと笑うのに、彼女がなにをしようとしているのかイマイチわかってない絵奈を、ジャックが肩を掴んで自分に引き寄せることで視線を逸らした。 間一髪で捕まらなかった野良犬たちは獰猛な目をしてジャック、絵奈に牙を剥く。 「私が、いきます!」 絵奈は腰の短剣を引き抜き、構える。光を帯びて、長剣と化した刃は風を纏い、放つ――小さな竜巻によって犬たちが薙ぎ払われ、雷撃がトドメをさす。 「邪魔しないでください!」 「ヒャヒャヒャ! こっちには風の妖精チャンがいるんだからよぉ~、吹っ飛ばされちまうゼェ?」 「蜘蛛の魔女さまもいるわよ!」 片手に食べ終えた犬の骨を持って蜘蛛の魔女がにやりと笑う。 「まだまだ私のおなかは満たされてないんだからね!」 「ちび蜘蛛! 食べるばっかじゃなくて戦えヨ!」 「キキキ!」 ジャックと蜘蛛の魔女は手を動かしつつも口喧嘩することに余念がない。 (二人とも、すごい) と感心をする絵奈は犬たちを追い払ってしまうと、息も荒くその先にいる黒い影に駆けた。 「ソーマさんですか! え!」 絵奈が向かった先にあったのは白衣のみ。 ふっと視界が翳る。 見上げたときには遅かった。 なんと絵奈の上にジャックほどの大きさのある狼が牙をむき出しにして覆いかぶさってきたのだ。 「絵奈! ジャックって、あんた、横……!」 「――っ」 ジャックの頭に冷たい銃口が押し当てられる。 ジャックは憎々しげな一瞥を向けた先には右手に持つライフルがジャックの頭を、もう左手にある小型銃が蜘蛛の魔女に向けられたソーマが立っていた。 「テメェがソーマかァ? 中々やるじゃネェかヨ」 「……異世界のヤツか?」 慎重にソーマは問う。 「そうだ。テメェのデータのためにわざわざ来てやったんだセェ?」 ジャックが首だけ動かして、ソーマを真っ向から睨みつける。その手にいつの間にかレーガンが握られ、ソーマの腹に押し当てられていた。 「オレサマは死なネェ。テメェはどうかナ」 「……俺が死ねば、あそこのお嬢チャンは噛み殺されるぞ」 ソーマの脅しにジャックの唇がゆっくりと笑みを作る。 と 「キキキキ!」 蜘蛛の魔女が癇癪を起して叫んだ。 ソーマの意識が完全にジャックに釘付けになったタイミングで地面を蹴って高く飛躍し、絵奈の上にいる攻獣に飛び乗り、蜘蛛の脚が巨体を無造作に刺した。 その隙をついて絵奈が逃げるのを見届けたジャックは片方の手に風の玉を生み出し、ソーマを壁まで吹き飛ばした。 「っ、がはっ、ごほっ!」 ぐったりしたソーマは憎々しげにレーガンを向けるジャックを睨みつけた。 「騙し合いはオレサマのほうが一枚上ったコトだ! ヒャヒャヒャ!」 「ジャックさん、待ってください! あ、あの」 絵奈が声をあげてソーマに近づいていく。 「あなたが夢の上を作ったんですか? どうしてそんな……いえ。あの、その薬のデータを譲っていただけないでしょうか? お願いします!」 絵奈は真っ直ぐにソーマの前にすくると膝をついて、頭をさげた。 「オイ、カワイコちゃん、お前、殺されかけたんだぜ」 「ジャックの言う通りよ! あんた、このおっきな犬みたいに痛い目みたくないなら薬を渡しなさい! 安心してよ。殺しはしないわ。あなたみたいな死に損ないを食べても美味しないだろうし!」 攻獣の上にいる蜘蛛の魔女が残酷に笑う。 「二人とも、お願いだですから、待ってください」 絵奈はソーマを真っ直ぐに見つめた。 「気になっていたんです。あなたはどうしてそんなにも必死なんですか? それに、殺そうと思えば、私たちのことを殺せましたよね? けどしなかったのは理由が?」 絵奈にはジャックのような駆け引きも、蜘蛛の魔女のような強引な手段に出ることも出来ない。ただ己の誠意を示すだけだ。 ソーマの濁った瞳が絵奈を真っ直ぐに見つめると、片手を伸ばして、頬に触れた。 「その馬鹿ぽいところ、うちの嫁さんそっくりだな……悪かったな。肩に傷つけちまって」 今まで気が高ぶって気がついていなかったが、絵奈の右肩は獣の爪で深く抉られていた。 「いえ。ぜんぜん、痛くいないです!」 「忘れちまったら、困るんだよ。お嬢チャン、あんた、無くしたものを再び取り戻せるなら、どうする? 俺はそれにすべてを賭ける」 「それは誰のためですか」 「嫁さんがいてな、たぶん、あんたたちみたいに異世界にいる」 「ロストナンバーって事ですか、その人は」 「名はニケ。知らないのか? そうか――来たな」 ソーマの声が合図のように、空から殺気が降ってきた。 文字通り、それは上から下へと落ちてきたのだ。 絵奈がぎょっと顔をあげたとき、一筋の刃が襲いかかってきた。 殺される――はっきりとした殺意と憎悪が猛スピードで迫ってくることに絵奈は恐慌状態に陥った。 「オラァ!」 ジャックが絵奈の前に移動し、バリアーを張る。相手が弾かれるタイミングで、追撃を放つが、驚くほどのスピードでそれ――稿は宙で身を捻って避けきると、地面に着地して刀を構えた。 「なにしてんのよ! こんな犬っころごとき!」 蜘蛛の魔女が糸を放つと、それを見越していた動きで稿は駆けす。じぐざぐに走ることで糸を回避し、距離を十分に詰めると立ち止まり、片手に持つ刀を大きく振り上げ、槍のように投げた。 蜘蛛の魔女は慌てて横に逃げようとしたが、蜘蛛の足は未だに攻獣を突き刺したままで俊敏に動くことが出来なかった。 刀はぶすっと音をたてて、蜘蛛の脚を一本突き刺し、壁に縫いつける。 「っ! きゃあああ!」 今までの強気は崩れ、幼い子供のように蜘蛛の魔女は悲鳴をあげた。痛みはないが、自分の武器である脚が傷つけられてショックからパニックに陥る。慌てて刀を引き抜こうしたとき足場であった攻獣が動き出して、なんと宙ずりの状態になってしまった。 「っ、う、ぅわぁあああん! たすけてよぅ!」 「それぐらい自分でどーにかしろォ! 出来るだろうがッ」 ジャックの怒声に返ってくるのは蜘蛛の魔女の情けない叫び声のみ。 「行ってください。私は平気です!」 「妖精チャンを置いていけるかヨ」 必死に気丈に振舞っているが、絵奈が人間の持つ本物の殺意と憎悪に恐怖しているのは一目瞭然だ。 攻獣が稿に突撃しようとした瞬間――あおおおおおおおおおおおおん! 力強い咆哮に攻獣がその前足をとめ、獰猛な目がぎらぎらと輝やかせたまま、稿の前で伏せをしてみせた。 あおおおおおおおおおん、再びの咆哮に攻獣がふらりと動き出すと牙をむき出しにジャックたちに襲いかかる。 「チッ!」 ジャックがレーガンを握りしめ、片方の手に風を生み出す――。 ぱあん! 攻獣が横に倒れた。起きあがろうとするのに、二発、三発――続けざまに心臓、頭、足を狙った完璧な射撃が放たれた。 五発目で攻獣は完全に動かなくなった。 「遅せェゼ!」 『ヒーローは遅れて出てくるもんだ……犬は任せろ。人間のほうは早すぎる。出来てせいぜい威嚇ぐらいだ』 無線機から聞こえてきた頼りがいのあるネイパルムの声にジャックは、凄絶な笑みを浮かべた。 「上等だァ!」 ジャックが殺し合いを楽しもうとしたが、くしくも邪魔がはいった。 「えーい!」 なんとか追いついた撫子は強水を発射して犬と稿、さらには戦闘態勢にはいったジャックを巻き込んで、壁に叩きつけたのだ。 そのタイミングをネイパルムは逃さない。出来れば敵を一人でも減らしたいが、水が邪魔なのに無難に犬たちを殺していく。 『おい、騒ぎを聞きつけて別のがきたぞ』 とスコープ越しに見えた影の存在を告げる。 ぱん! ネイパルムが狙っていた獲物が、先に倒された。 (なに) 立て続けに二回――わざと獲物を奪い取って挑発している。 (敵にスナイパーがいたのか?) うなじにぴりぴりとした殺気を味わい、ネイパルムは我知らずに目を眇めた。 スナイパーは文字通り、一撃必殺。そのせいで捕虜にはなれない。捕まればそこで終わる。ゆえに危機察知能力はこのなかの誰よりも高いと自負していた。身体も闇に溶け込むように黒く染めて、移動は伏せるとして徹底していたが、先ほどの射殺で敵は、ネイパルムの居場所を把握しただろう。 ネイパルムはベテランのスナイパーらしい冷静さで身体を低く、動き出した。 (向こうがその気なら、のってやる) 命を質にいれて死神を誘いだすことへの言い知れぬ恐怖と快楽。 自分の命をチップに、ネイパルムはゲームの席に腰かけた。 「ふぅ! 水掃除完了でぇす! 乾かすのはみなさんでしてくださぁい!」 撫子は敵と味方を水で一掃して、絵奈が守っているソーマのところに駆け寄った。 「撫子さん、待ってください。ソーマさんは、奥さんに、ニケさんに会うためにこんなことをしたんです……私、協力したいんです!」 「ニケちゃん? あぁ! もしかして赤いドレスのすごくきれいな髪の毛をした女の子ですか? 片腕の」 「ニケを知っているのか!」 ソーマが撫子の肩を掴んだ。 「え、ええ! 知ってます。すごぉく強いんです! じゃあ、もしかして、あなたがニケちゃんのだぁりんさん?」 「本当に生きてたのか……よかった」 ソーマは脱力したようにその場に崩れた。 「マフィアに命じられたとはいえ、あんなものを作ることが許されないことぐらいはわかっている。だが俺には時間がない。これが最後のチャンスなんだ……俺はあいつに会う。もう一度、……ずっと不安だった。あいつの死体はいくら探しても出てこない、生きているのかもわからなくて……異世界に行ったなんて妄想もいいところだが、それでも生きている可能性があるなら!」 切々と語られるソーマの声に、絵奈は胸が痛くなった。 夢の上のせいで罪もない人間が死んだことを絵奈は知っている。この薬は根絶やしすべきものだという考えは変わらない。 しかし、覚醒して、世界を見失った者をこうして必死に探すソーマに同情の余地はあった。 「データ、貸してくださぁい! 私が、それをもって逃げます! ソーマさんの安全を優先しましましょう! 絵奈ちゃんはソーマさんを守ってください!」 「はい!」 撫子は微笑んだ。 「女の子には、恋愛ってすっごく大事なんですよぅ。敵だろぉとなんだろうと! だから協力します!」 「必ず会いましょう、ニケさんに!」 撫子と絵奈の言葉にソーマは懐から小さなメモリを取り出すと、それを撫子に投げた。受け取った撫子はメモリをぎゅっと握りしめたあと、声を高く叫んだ。 「よぉし! いきますよぉ! みなさーん、データはここですよぅ!」 撫子が注目を集める隙に絵奈がソーマを庇いながら走り出す。 「止まれ――制御、待、待、待――足は重く、鉛、動けない、その身は鎖で縛られた如く」 絵奈は突如として、自分の体が鉛のように重く感じられて、ふらつくと横から強烈な蹴りによって地面に倒された。 先ほどの同じ、殺意だ。だがこれは先ほどよりももっと深い。暗い夜の海に沈むような、恐怖が押し寄せる。 絵奈は痛みに耐えながら必死に剣に魔力を纏わせて威嚇しようとするが、細い足が絵奈の手を踏みつけた。 「死ねヨ」 必死に奮い立とうとする心を容赦なく打ち砕く。放心する絵奈の顔面に向かって拳が振り下ろされた。 「させるかァ!」 絵奈の前に空間移動したジャックが現れ、間一髪のところで庇った。 ぽたと、血が絵奈の顔にかかる。 「ジャックさんっ!」 ジャックの下腹に小さな少女――鈴の手が突き刺さっていた。ジャックは自らの怪我を気にせず、鈴を払うと振り返る。 「無事かァ!」 「は、はい。私……っ! あ……ああああああああああああ!」 絵奈は瞠目し、悲鳴をあげた。 心に忍び込む。――恐怖、怒り、悲しみ――死――おねえちゃん! だめ、たすけて! ――鮮やかな赤、肉が裂けるリアルな音。敵はモンスターではない、同じ人。それが笑っている。 あははははははははは! 死ネヨ、絵奈――血まみれの姉が笑う。 「お前の心は壊れていく、それは黒、それは赤、黒、黒、赤、赤、壊、壊、過去の、恐怖よ。蘇れ!お前の持つ恐怖に、怒りに、殺意に、……狂、狂、悲しみよ」 恭一郎の放つ言霊が絵奈の心を蹂躙し、壊していく。 慣れない人間との戦闘、ジャックの負傷に絵奈の緊張は限界まで達していた。数分とかからず、言霊の見せる悪夢に悲鳴をあげることすらできなくなり、その場に震えながら蹲った。 「テメェ!」 ジャックが吼えて恭一郎を狙おうとするが、鈴が立ちはだかる。 「……強、岩の如く、鋼、一撃は放つ、刃、剣、剣! ……我が敵を討つ」 鈴がジャックとの間合いを詰める。鉈を掴んで応戦するが、鈴の両手は剣のような頑丈さを発揮して鉈を弾き、ジャックの腹を深々と抉った。 「お前、オモシロイネ、うんといたぶってあげルヨ!」 「ごめんダァ!」 ジャックはちらりと背後を見るとソーマはすでにここから逃げ出していた。 ジャックは絵奈を片腕に抱いて、空間移動で蜘蛛の魔女の前に行くと自由を奪っている刀を抜いてやったが、その際に一本の蜘蛛の脚がぽろりと落ちた。 「う、うわぁああん!」 「泣いてるんじゃねェヨ! あのスナイパー野郎、なにしてんだァ!」 敵に囲まれた状態でジャックは舌打ちすると、むっと鼻孔に甘い匂いがした。 「やぁん、待たせ~」 ジャックの頭上からリーリスがフワリっと地上に降り立った。 「ホラ、ハオ家とか咎狗とか警戒してて遅れちゃった。ごめんね! ここは私に任せて逃げて!」 リーリスはにこにこと笑うと、赤い瞳を輝かせて鈴を捉えた。鈴は構えたまま新手にどうするべきか思案顔だ。 「テメェに借りを作るとはナァ」 「ふふ! 今度倍にしてかえしてねぇ」 リーリスが飴を舐めるような笑みを浮かべるのにジャックは舌打ちする。 リーリスとしてもあまり本性は出したくないが、幸いにも、みんな争うことに夢中だ。 せっかくの狂乱に、いい子にしているのはあまりにもつまらない。 赤い目で鈴を見つめ、そのなかにある憎悪の甘みを味わいに、うっとりとする。だって、最近はね、いい子にしてたしもの。だからね、ちょっとくらい、いいよね? 「美味しそうなお姉さん……望みを叶えてあげるよ? お姉さんが殺したがってる、にくーい人、ほら、お姉さんの後ろだよ。殺していいんだよぉ?」 甘い、甘い、毒がまわるように、鈴はふらふらと振りかえる。 「鈴さん――えっ」 鈴の拳が恭一郎の腹を突き刺した。 「やぁん! こっちもピンチですぅ! たすけてくださぁい!」 撫子は必死に犬たちを追い払うが、気がついたときには囲まれていた。すると、背にぞっと殺気を感じて咄嗟に伏せると、髪の毛が数本、ぱらりと切れて落ちる。 「きゃあ!」 黒い気を纏い、額に一本の角を生やした鬼が立っていたのだ。それも大きな刀を悠々と振りまわしているその姿に撫子はその場に尻餅をついて息を飲む。 「伏せて!」 轟音が響く。 犬、死体、人を狙って的確に撃つ、撃つ、撃つ――! 「ひゃあ、ディーナさん!」 伏せたあと素早く物陰に隠れた撫子はたえまなく弾丸を放つ――武装したディーナを認めた。 ディーナは、威嚇のための発砲をきり上げると、懐に隠してあった催涙手榴弾を投げ、周囲が煙に包まれた隙をついてさらに撃つ。無駄もなく、容赦もない銃撃。 ディーナのサングラスに隠れた目は、敵を見ていた。 「SМGが豆鉄砲扱い、か」 犬はほぼ仕留めたが、その死体を盾にした上、鬼一は驚くべき身体能力を発揮して刀で弾を切り落すという驚愕の防御に出たのだ。 決定的な一撃は与えられなかったが、これも予想はしていた。 すぐさまに銃を持って撤退する。 この場でディーナがするのは敵を誘いだすこと。 殺すだけ。 一人でも多く。殺せ、殺していけ。さぁ、追っ手きなさい! ジャックがネイパルムに悪態をついたとき、彼もまた戦っていた。 冴えた空気を肺いっぱいに吸う。そして、同じだけの時間を使って吐き出す。じれったくなる時間に心が焦げ付き、つい動き出しそうになるのを必死に耐えていた。 二脚の上にある相棒のスコープから敵を探す。 どこだ――? 犬を立て続けに射殺し、ネイパルムにスナイパーとして挑んできた愚か者は。 戦場にいるときと同じ、張り詰めた糸のような緊張。 敵に気がついた地点でネイパルムは素早く移動した。おおよそ二キロの地点で、幸いに隠れるに適した水タンクを見つけることができた。それも長い首を伸ばして周りを観察こともできそうだ。 覚醒してからネックになっているこの巨大な肉体は障害物と夜のおかげで今は目立たない。ビルの屋上ということで風は強く、ベテランでも忌避する場所ならば、敵もそうは気がつかないと踏んだ。 ネイパルムにとって風は味方だ。天賦の才能だろうか、風を読むことは誰よりも、長けていた。 ぴんっと張り詰めた空気が弾ける。 一直線に自分に向けられた殺意の弾をスコープ越しに感じて咄嗟に体を地面に倒す。水タンクに穴が開き、水が溢れて肌を濡らした。 見つかった! 敵はまるでネイパルムの行動が、いや、その姿が見えているように撃ってくる。それも風すら計算した見事な射撃は敵ながら賞賛すら浮かぶ。 這いずりながら、建物のなかへと隠れて息をつく。 この場合、ネイパルムがとるべき行動は逃げ続けることだ。犬を射殺した以上、仕事は達成したようなものだ。 が、 相棒とともに走りだす。 「あそこから狙ったとしたら……」 自分を狙えた場所を頭のなかでざっと考えて下に降りた。どこかの会社らしく、無人の机が並び、面白いことにいくつもの衣装と姿見――デザイナー類の会社らしい。 窓にはカーテンが引かれて外からはなかが絶対に見えない。 窓に近づいて敵の居場所を探れば――伏せたまま移動し、窓へと手を伸ばしたとき、窓硝子が破壊された。 相手は俺が見えている! ――だが、なぜ? 心臓をつき動かすのは死の焦燥、脳裏に決定的な負けカードをひく己の姿が浮かぶ。 絶体絶命の状況下であるが、味方に助けを求めることはできない。 孤独がネイパルムを包みこむ。 まるで犬だ。一度決めたら、その喉を咬みきるまで探して追いかけてくる。 「咎狗のやつか……?」 厄介なゲームのテーブルに座ったものだと己の悪運に舌うちする。 頭がめまぐるしく思考するなかで、ふと気がついた。敵は焦っているのではないのか、でなければ、当たるか当たらないかの無理な発砲はしないだろう。 「……なら、まだ負けてねぇ」 ひとつの閃きにネイパルムは賭けた。 彼女は待っていた。風のなか、肉親よりも信頼できるライフルを構え、スコープを覗く。肉眼で見る。 ふいに、カーテンが揺れて、なかが見える。 黒い竜の姿があった。 引き金を絞り、撃つ。 黒い竜の姿が砕け散る。――硝子――! 「終わりだ」 ネイパルムは砕けた硝子とは別方向で、相棒を構えていた。そして慈悲深く終わりを告げると引き金を引いた。 放った弾丸に確かな手ごたえを覚えながら全身から息を吐く。 「……っ、本当に見えてたんだな」 相手には自分が見えている。なら、それを逆に利用してやること考えた。幸いだったのは、敵が優勢に立ちながら焦れていたことだ。ネイパルムは部屋にある姿見を使って自分のわざと映すことにした。たった一つの銃弾、それがあれば場所を特定し、撃つことが出来る。 ネイパルムは葉巻を取り出すと、フゥと火を吹いた。そっと口に葉巻をくわえて動き出す。 「まだ仕事は終わってねぇな」 ジャックは絵奈、蜘蛛の魔女、撫子を連れて狭い路地に空間移動した。このまま戦うにはあまりにも不利すぎるために、逃げたのだ。 この状況にジャックのなかで獰猛な怒りが吼えさかっていた。それは防衛のための感情とは異なる、確かな血を欲する獣のものだ。 ここ最近、ずいぶんと荒事から遠ざかっていた。それはそれで楽しいとも感じていたが、鬱憤が溜まっていたらしい。 おもしれェ……! ジャックの燻り続けていた闘争心に火がついた。 「イイネェイイネェ、エンドアを思い出すぜ……!」 「ジャックさぁん?」 「テメェらは、ここにいろヨナ。あぶねーときはテキトーに逃げろ」 それだけいうとジャックは空間移動するのに撫子はため息をついた。 「あ~、もう! 勝手に行っちゃうしぃ~! どうしよう~……あっ」 路地から現れた二つの影に撫子は目を大きく見開く。真っ赤なドレスのニケと着物姿の矢部だ。 「会いたかったんですよぅ!」 「撫子はん? ……その子、危ないな」 撫子の横には蜘蛛の魔女が癇癪を起して殺すと叫ぶ横ではまるで人形のように座り込んだ絵奈がいた。 矢部は絵奈に近づくと、おもむろに顎を掴み、持っていた酒をその口に流し込んだ。度の強いアルコールに絵奈は咳き込み、心が現実へと戻ってきたが、錯乱して暴れ出した。 「しっかりして!」 撫子が必死に絵奈を後ろから抱きしめるのに、矢部の手が、その視界を塞ぐ。 「怖がることあらへん。その夢はな、また心の底にしまっとき。うんと底にや。忘れてええから、な?」 「……はいっ……! すいません、もう、大丈夫です」 ようやく落ちついた絵奈の頭を撫子は優しく撫でた。 「よかったですぅ~! 矢部さん、ありがとうござすまぁす。そうだ。ニケちゃん、あなたのだぁりんさんがいたんです! ソーマさんって人です、知りませんか? ニケちゃんのこと探していたんです! ソーマさん、逃げちゃって、……ニケちゃん!」 撫子の説明が最後まで終わらない内にニケは駆けだした。地面を蹴って飛躍し、ビルの壁を蹴って放たれた矢のように移動していく。 「撫子はん、それ、ほんまの情報かい?」 「はい! 早く追いかけましょう!」 と撫子が叫ぶ。絵奈は震える足でよろよろと立ちあがった。 「私も、行きます……! 足手まといにはなりません……! 私は、私の出来ることをやります!」 「私も行くわよ! あの犬を殺さないと気が済まないんだから! べ、べつに脚の一本くらいで放心していたわけじゃないんだからねぇ!」 ようやく立ち直った蜘蛛の魔女は今まで泣いていたことを恥じるように顔を真っ赤にして叫ぶ。 「休戦しましょう。矢部さん」 「……こんな別嬪の女の子らに守られるとは自分もまだ捨てたもんやあらへんなぁ」 リーリスの赤い目は無感動に倒れた男を見下していた。 ちょっとぐらい人の目のないところで遊ぼうと思ったのに。 「塵族って脆いのよねぇ」 忘れてたわと、失望のため息が一つ漏れる。せっかく楽しめるかなって期待したのに。 「つまら……え?」 鉄の弾ける音に鈴の顔が吹っ飛び地面に崩れる。 恭一郎が懐に隠していた銃で鈴を躊躇いなく撃ったのだ。見ると、腹の傷が癒えている。 「修復、修復、傷は無……あーあ、鈴さん、好きだったのに、残念です。なんてことするんですか、お嬢さん」 恭一郎の手が鈴の死体へと伸び、その頭を撫でると早口に何か告げた。と、死体が動き出した。それに合わせて周りにいる犬の死体も。 「やだ、ホント、この世界の塵族って、おもしろぉい」 退屈しなさそうね。 にぃとリーリスは唇を釣り上げて笑う。 獰猛な牙を剥いて襲いかかる犬にリーリスは魅力を最大限に発揮するが、犬は動きを止める様子もなく覆いかぶさってきた。そっか、死んだから効果ないのか。犬の牙が喉を刺すが、慌てることもなく、その頭を慈悲深く撫でて塵へと変えた。 「普通の人じゃないのか、なら……満たせ。食、食、――堕ちろ」 「ふふ、今度はなにしてるの?」 どろりとした闇がリーリスの体を包み、底のない闇へと堕ちていく。 「え?」 目を瞬かせる。おかしいと感じたとき、その闇がなんなのかがわかった。 リーリスの精神が、リーリスを食べている。 まるで人形のように動きをとめたリーリスはぐらりと崩れ、その上に無数の犬たちが牙を剥いて噛みつく。 「物理的なものがきかないなら、あなたがあなたを食べればいい。ねぇ、お嬢さん」 リーリスの精神が、リーリスを食べて――。 ぱんっ! 恭一郎は自分の身に何が起こったのか理解できずに胸を見た。そこにはネイパルムの放った銃弾によって穴が開いていた。 「あ、しまった……」 倒れていたリーリスは言霊から自由になるとすぐに起き上がり、周囲がすべて塵へと変えた。 「んふふ。逆転しちゃったぁ!」 倒れた恭一郎を見て、蕩ける笑みを浮かべる。 「こんな体験、久しぶりよ! だから、お礼に、うんとおいしく味わって食べてあげる」 ――ぐしゃあ。 ディーナを追跡する稿は刀を振い、その細い手足を突つくが、自己暗示によってディーナは痛みはまったく感じることはなく、ただ目的のためだけに動いていた。 不意に足を止めて振り返るとマシンガンを撃つ。 稿は驚くほどの身体能力を発揮して空へと飛ぶと放たれた矢のようにディーナに体当たりを食らわせた。 衝撃に吹っ飛び、地面に転がる。それでも立ちあがる。ディーナは走りだすと路地の角を曲がった。気配だけで稿が追いかけてきているのがわかる。 「まちやが……っ!」 足にかかったワイヤーに稿が前のりに倒れる。 ディーナが乱戦に遅れた理由は一つ。 手持ちの破裂手榴弾のピンをワイヤーで止め、即作の罠を完成させるため。 爆発音。紅の炎。空気が熱される。 仕込んでおいたワイヤーでビルの上へと逃れたディーナは無感動にその様子を眺めていた。 これである程度のダメージはあったはず。たとえ肉体能力に優れていても所詮、相手は人間でしかない。 ディーナは地上に着地すると無駄のない動きで炎へと駆けた。マシンガンを捨てたその手には信号拳銃が握られている。まだ生きているならば、これでトドメをさすつもりだ。 「くそったれ!」 稿は血まみれな上、仮面の半分が砕けている状況でもしぶとく生きていた。その砕けた部分から現れた目は怒りと憎悪の炎を燃やしてディーナを射貫いた。 ディーナは稿の腹を狙い、飛び蹴りを落として地面に叩きつける。アバラの折れる音がする。口のなかに銃を突っ込もうとすると、まだそんな元気があるのかと呆れるほどの力で抵抗された。 「誰も生きている価値なんてないのよ。私も、キミも……死んでしまえばいいの」 「価値だと?」 「そうだよ。弱いことは罪なんだよ? 私が弱いから、助けたい子が助けられなかった。また目の前で殺されてしまった……だからね、罪なんだよ。悪いことなの。生きてちゃいけないの。もし違うならキミが私を殺せばいい」 稿の頭突きに、ディーナの体が僅かに浮く。その隙をついて下から稿は這い出た。 無慈悲な銃声が轟く。 「っ!」 ディーナの銃は稿の太腿を撃った。それでも稿は腕を伸ばして、折れた刀を握りしめると雄たけびをあげて立ちあがった。 再び、銃声が轟く。 ディーナの銃は、稿の腹を抉るようにして吹き飛ばした。それすら無視して稿は前へと突撃し、ディーナの横腹を刺す。勢いに押されてディーナは地面に倒れる。 「死にたいなら、てめぇだけが死ねっ!」 片腕でディーナの胸倉をつかむと稿は吼えると、横面を張り倒した。まだディーナは意識があって、動こうとする。その白い掌に腹抜かれた刀が突き刺さる。さらに稿は無造作にディーナの右足の骨を折った。それでもディーナは起き上がろうとする。 「自殺志願者の相手する暇、ねぇん、だよ……っ、こぼっ、くっ……鬼一の旦那の気配が消えた? ……そんな……ちくしょう!」 怒声とともに殴られ、ディーナは気絶した。そのときになって、ようやく彼女は動きをとめた。 ジャックが空間移動で、そこへと出たとき、いきなり片腕が斬られた。地面へと落ちる腕に血が飛び散り、痛みはあとになって襲ってきた。 驚いたことに鬼一は直感だけでジャックの出現を感じ取ったらしい。 本当は様子見に気絶する程度の電流を流す予定だったが、やめた。人を丸焦げにするだけの電流を放つ。 周りの石がカタカタと小刻みに震えだす。 銀に輝く閃光が爆ぜる。 「いっけェ!」 鬼一は自分の持っていた刀を地面に突き刺すと、それを軸に宙に飛ぶ。そこに瓦礫の追撃が落ちる。鬼一は自分の着ていた上着を脱いで一撃目を防ぐ。しかし、カマイタチは避けようがない。 ぼろぼろの上着を捨てると、鬼一は身を捻って突撃してきた。あえてカマイタチを全身で受けるつもりなのにジャックは逃げない。腰を低く落として、レーガンを構える。 「そんなモンは、借りものだろうっ! ダセェんだよ」 鬼一と突撃するぎりぎりのタイミングでジャックのレーガンが火を噴いた。 仮面がみしっと音をたてて、砕ける。 「!」 鬼の仮面の下の顔――鬼一の口が開いて、ジャックの首に牙を突き立てた。 「っ!」 壁に叩きつけられた衝撃が背中に走り、血が沸騰する。ジャックのレーガンを持つ手に鬼一の手が重なり、撃つ。ジャックの太腿が焼ける。いやな匂いがしたが、痛みは感じなかった。 もつれ合った状態でジャックは鬼一の髪の毛を乱暴に掴むと、血肉が食いちぎられることもあえて無視して引き離した。 血まみれの顔で、笑っている鬼一にジャックも知らず知らずに笑っていた。 「終わりだァ!」 鬼一の左胸にジャックは風の刃を突き立てた。 大きな痙攣のあと鬼一の身が崩れたのにジャックも食いちぎられた首を手で庇い、その場に膝をついた。 「ハッ! やるじゃネェかヨ」 絵奈の能力と蜘蛛の魔女の移動力で撫子はすぐにニケを見つけた。そこにはソーマもいた。 二人はしばし見つめ合い、何か話しているようだったが絵奈たちには距離があったせいでどんな会話がなされたのかはわからない。 一言、二言ののちにニケが震えながらソーマに抱きついた。ソーマも黙ってニケを抱きしめ返した。 「本当に、ニケちゃんだったんだぁ~……あっ!」 二人の前に赤い服が――メイデンが現れた。 「待ってくださぁい!」 撫子が叫び、ニケたちの前に飛びだした。 「二人を許してあげてください! 方法は間違っていても、会いたかったんです!」 絵奈も祈るように見つめ、蜘蛛の魔女は威嚇するように脚を蠢かせる。 赤い服のメイデンは――左肩から首にかけてごっそりと抉れていた。血も流しているが、驚いたことに見える肉体のほとんどが機械だった。 インヤンガイの住人には一部、肉体を機械化する者もいるというが、まさか、メイデンもそれなのかと驚きが広がる。 「オイ、その喧嘩、オレサマも乗るゼェ! 美人は歓迎だが、テメェは願いさげだ、弱いものいじめが楽しいかヨ」 空間移動したジャックがメイデンの後ろをとる。 「もし必要なら、これ、あげますからぁ」 撫子が差し出したのはメモリだ。それにメイデンはまったく興味を示さずにソーマに歩み寄った。 誰も動けないなか、メイデンはソーマの手にあるライフルをとると、大切そうに片腕のなかにしっかりと抱きしめた。 「……取引をしましょう。薬のデータはあなたたちにあげる。私のことは見逃してちょうだい」 「見逃せだァ~」 「絶対的に不利な者が命乞いは当たり前だと思うけど? 弱い者いじめは嫌いなでんしょ? ジャック」 「じゃあ、ニケちゃんたちのことは」 「ニケもソーマも戸籍上は死んでるのよ。死人は殺しようがないわ」 メイデンは一度だけソーマたちを見つめたあと、背を向けた。 「残りの人生、せめて二人で生きなさい」 矢部はニケを一瞥したのち、静かに背を向けた。何も言わずに立ち去ろうとする矢部を撫子が引き止めた。 「ニケちゃんのことはどうなるんですか!」 「帰属ではないにしろ、ニケがここに残りたいいうなら、自分はとめん。少人数とはいえ、逃げたやつはいままでおった。自由にすればええ。せいぜい、追われる身として隠れて生きるとええわ」 「自由なら、矢部さんだって、そうなるべきです! 幸せを目指しましょう!」 撫子の言葉に矢部は一瞬だけ辛そうに笑った。
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