前日に降り続いた雨は上がり、その日、世界は優しい色彩に包まれていた。 ミントの葉の上で煌めく雨粒はジュレのよう。瑞々しく転がり落ちるそれを舌で受け止め、彼は花束を抱え直す。柔らかな包装紙の下、白い葉と赤い花があどけなく揺れた。 今日はあの子の誕生日。大好きなあの子の誕生日。ごめんねと言って、おめでとうを贈ろう。ふたりの大好きなラビットローズと一緒に。 金平糖の花畑を抜け、ハーブが靡く草原を越えれば、彼女の家はもう目の前だ。「こんにちは、リリ。マルだよー」 こんこん。玄関の扉をノックする。「ねてるのー?」 こんこんこん。返事はない。 彼は首をかしげつつドアを開けた。次の瞬間――彼の瞳がいっぱいに見開かれ、震えた。 彼女は寝ていた。正確には、眠っているように見えた。仰向けになって、目を閉じていたから。「……あ」 ふんわりと漂う甘い香りはどこか場違いだ。テーブルの上には真っ白なティーセットとお菓子の皿。だが、ポットもカップも倒れ、お菓子は散らばり、レースで縁取られたテーブルクロスには真っ赤な染みが出来ていた。 どうしてだろう。その“赤”は、“死”という概念の薄い彼の本能にさえ壮絶な恐怖を訴える。「あ……うあ……」 ラビットローズの花は赤。彼女もまた、胸を深紅に染めて倒れている――。「モフトピアで殺人事件だとさ」 シド・ビスタークは軽く肩をすくめた。 現場はうさぎ型アニモフが暮らす小さな集落。被害者の名前はリリ、第一発見者はボーイフレンドのマル。リリの自宅を訪ね、胸から血を流して倒れている彼女を見つけたマルはその場で卒倒した。 騒ぎはあっという間に集落全体に広まり、過剰に怯えたアニモフ達は固く戸口を閉ざして家にこもっている有り様だ。どんなものでも好意的に受け入れる彼らだが、同胞が傷つくという事態はさすがに衝撃が大きすぎたらしい。「そんな状態だから、調査や捜査のようなことは全くなされていない。ただ、リリは前日にマルと喧嘩したそうだ。だから、マルを疑う向きもあるそうだが……安易な決め付けかもな。どんなカップルだって喧嘩くらいするだろうさ」 アニモフ達は“悲しいこと”に不慣れだ。ある者は事件のショックでおやつが食べられなくなり、別の者は睡眠時間が十時間から八時間に減ったという。笑ってはいけない。彼らにとっては大問題なのだ。「まあ、何だ。アニモフ達に解決なんかできっこないし、お前達が行ってやってくれないか。モフトピアで殺人事件だなんて首をひねりたくなる話だが、もし本当に殺人だとしたらそれはそれでおおごとだ。ああ、それから」 シドはチケットと一緒に一枚の絵写真を差し出した。薔薇に似た花が描かれている。大きな葉に比して花は随分小ぶりだ。「その集落の特産品のラビットローズだ。大きな白い葉と茎の上に小さな赤い花がぽつんと咲くもんだから、カラーリングがうさぎみたいだって言ってな。香りもいいし、煮詰めても美味いんだと。事件が解決したらご馳走してもらえるかも知れないな」 うさぎの目には色素がない。つまり、彼らの目は血の色だ。 誰かが誰かを殺す。世界のどこかにはそんな“悲しいこと”が存在するのだと、ロストレイルでやってきた旅人が話していたことがある。「リリ。リリ」 傍に行きたいのに。怖くて。悲しくて。彼女を抱き上げることもできない。彼女の家に足を踏み入れることすらかなわない。「リリ。リリ。ぼくのせいで……」 真っ赤な瞳から涙をこぼし、マルは「きゅう」とお腹を鳴らした。悲しくたってお腹は空く。
「リリ。リリ」 「マルさん、大丈夫ですよ。まずは落ち着きましょう」 「リリ。リリ。ぼくのせいで。ふえええええん」 「弱りましたね……」 ヴィヴァーシュ・ソレイユの眉宇にほんの少し苦渋が浮かぶ。英国貴族を思わせる美青年がふわふわのアニモフを前に困り果てる姿はどことなく微笑ましいが、当のヴィヴァーシュにとっては笑いごとではない。 (モフトピアの住人は死とは無縁のように思えますが……) それを確かめようにも、マルが冷静さを取り戻さねば話が進まない。 見かねたトリシマカラスが助け舟を出した。 「うさぎ型ということは、もしかして人参が好き? 良かったらどう?」 「……う?」 マルの泣き声がぴたりと止んだ。カラスが差し出したのは優しいオレンジ色の人参マフィンだ。力なく垂れた耳をぴんと持ち上げたマルはすぐさまマフィンにかぶりついた。 「そんなにお腹が空いてたのか。沢山あるから、遠慮しないで」 カラスは好意的な苦笑いを洩らした。ヴィヴァーシュの心情は複雑である。泣くアニモフには百の言葉より一のお菓子ということか。 うにゃーお、と甘えた声が響き渡る。猫である。青銀――それは月光を静謐に弾く湖面のような――の被毛を光らせ、小さな猫がマルに突進した。もとい、じゃれかかった。 「んー、いいにおい。人参マフィンと、ラビットローズだね」 ハルシュタットという名の猫はごろごろと喉を鳴らしながらマルに頬ずりした。ラビットローズの花束を握り締めたままのマルには薔薇の香りが染みついている。 「ラビットローズって煮詰めて食べるんでしょ? ってことはローズジャム? 美味しいのかな。ねえねえ」 ハルシュタットは大の食いしん坊だった。司書から依頼の説明を聞き、真っ先にラビットローズに喰いついたのも彼である。 「うん……とってもおいしいよ。甘ーくて、ふんわり幸せな気分になるの」 「そうなんだ。紅茶にジャムを入れて飲むの、おれは好きだよ。リリさんもそうだったんじゃないかな」 マルの瞳がわずかに震える。青い双眸をくりくりとさせ、ハルシュタットはそっとマルを促した。 「お腹空いたでしょ、一緒に食べよう。きみのおうちでお茶会してもいい?」 「……うん」 マルの手の中で、小さな薔薇がぴょこんと揺れた。 ざわざわざわ、ひそひそひそ。 「パン? マフィン?」 「はちみつだね」 「紅茶と、生クリーム!」 閉じこもっていてもアニモフはアニモフだった。マルの家から漂ってくる匂いにつられ、皆がひょこひょこと戸口に顔を出し始める。 「焼けたよー」 家の中ではハルシュタットが分厚いトーストを手にしていた。香ばしいきつね色の上に蜂蜜をたっぷり垂らし、バニラアイスをこんもりと乗せる。真っ白なアイスクリームはパンの熱で優しくとろけ、穏やかに蜂蜜と混じり合った。淹れたての紅茶にホイップクリームを落とし、カラスが持参した人参マフィンも並べれば即席のお茶会の始まりだ。 (本当に殺人事件だったら面白いですよねぇ) ティーカップで口許を隠し、テオ・カルカーデはこっそり微笑んだ。世界図書館の異世界博物誌の記述から考えれば、アニモフがアニモフを殺すことなどそもそも有り得ない。 一方、幼女の姿をしたシーアールシー ゼロはすっくと立ち上がった。 「十時間の睡眠が八時間になってしまうとは由々しき事態です! 可及的速やかにアニモフさんたちの悲しみを慰撫せねばならないのです」 「まあまあ、まずは腹ごしらえといきませんか。腹が減っては何とやらですよ」 すぐさま聞き込みに向かおうとするゼロを引き止め、テオはのんびりと紅茶をすする。ゼロは豊かなウェーブヘアを揺らしながら素直に腰を下ろした。だが銀色の瞳はどこかとろんとして、カップや茶菓子をゆるゆると見つめるばかりだ。 「おや。召し上がらないのですか?」 「ゼロは零なのです。何もないし、必要ないのです」 彼女の言葉に深意があるのかないのか、誰にも分からない。しかしテオは分かったような顔で「成程」と微笑むばかりだ。謎めいたやり取りにカラスが首を傾げている。 「おいしい。パンもアイスおいしい」 「アイスは何味が好き?」 「ぜんぶ!」 マルとハルシュタットの会話が弾んでいる。ハルシュタットは好きな食べ物や集落の住人達のことを尋ね、マルを哀しみから遠ざけようとしているようだ。両者の様子を見守りながらヴィヴァーシュはほっそりした指でカップをつまみ上げた。左手でソーサーを添え、蝋細工のような唇を湿らせる。片方だけ覗く緑眼が静かにマルをとらえた。 「マルさん」 「うー?」 マルの口許はアイスクリームと蜂蜜でべとべとだ。リラックスした様子を見て取り、ヴィヴァーシュは慎重に言葉を継いだ。 「リリさんのことなのですが……」 マルのうさぎ耳がぴくりと震え、ぺしょんと垂れた。ハルシュタットが物言いたげに口を開きかける。ヴィヴァーシュは軽く目配せを返してマルを見つめた。 「私どもは、リリさんが本当に亡くなったのかどうか確認するために……今回の出来事を解決するためにここに来ました。落ち着いてからで構いませんので、一緒にリリさんのお宅へ行ってみませんか」 「そうだな。少し話も聞かせてくれないか?」 「はなしって……」 カラスの申し出にマルの赤目が頼りなげに揺れる。カラスはマルのカップに紅茶を注ぎ足し、ホイップクリームを浮かべて差し出した。 「彼女が倒れていた時のことなんだけど……眠っているように見えたって事は、ベッドに横たわっていたのかな?」 「……ううん。床に、たおれてた」 甘い紅茶を舐めるように飲みながら、マルは消え入りそうな声で答えた。 「リリはどこででも寝ちゃうんだ。お台所で寝てたこともあるよ。すぐうつらうつらしちゃうの」 「まどろみの誘惑には抗い難いのです」 ゼロは八歳の姿に似合わぬ言い回しで賛意を示した。 「他のみんなはあれから彼女の姿を見ていないのか?」 「たぶん。ぼくは何もきいてない……」 「ってことは、今も家の中で倒れたままなのかなぁ」 カラスは腕を組んで唸った。誰かがリリの姿を見れば真っ先にマルに知らせるだろう。 「とにかく、ここで推測を続けていても埒が明きません」 場を仕切り直すように手を打ったのはテオだった。 「現場百遍、百聞は一見に如かず。彼も落ち着いたようですし、そろそろ現場検証と参りましょう。――ね?」 颯爽と席を立つテオの髪の下、不思議な獣耳が楽しげに揺れた。 「さて。どう思いますか、皆さん」 リリの家へ向かいながら、テオはロストナンバー達に楽しげに耳打ちした。 「事実確認の前に各自の推理を披露し合いましょう」 「推測を続けても埒が明かないって言ってなかったか?」 「ミステリを読んだことはおありで?」 「ん? そりゃ、一度くらいは」 言わんとする事をはかりかね、カラスは目をぱちくりさせる。テオの言葉には掴みどころがない。 「私は覚醒してから初めて読んだのですけれどね。ミステリに限らず創作物語というものに触れたことがなかったもので、新鮮で新鮮で。ああすみません脱線しましたね、要は――」 不思議な詩人は上機嫌で、饒舌だった。 「推理談義とでも呼べば良いんでしょうか、登場人物が互いの推理を披露して検討し合うシーンが登場することがあるんですよ。メタ的な意味は脇に置いて、あらゆる可能性を比較検討整理収斂して新たな視点を獲得するという意味では有用だと思いませんか?」 「それはそうだな。じゃあ――」 カラスはマルに聞こえないようにして自説を述べた。続いてヴィヴァーシュとハルシュタットが。ゼロは皆の後に発言するつもりでいたが、テオに促されて口を開いた。 「ゼロは皆さんの見解に賛同するのです」 その後で自らの仮説を付け加える。テオはにっこり笑い、「結論は全員一致ですね」と肯いた。 リリの家はふんわりとした芳香に満たされていた。ラビットローズの香りだとマルが告げる。清潔なテーブルクロスには真っ赤な染みが残り、手作りの焼き菓子が無言で散らばっている。こぼれた紅茶は既に冷めてしまったようだ。使われぬまま倒れたポットやカップの白が目に痛いほど眩しい。 そして、テーブルの足元には仰向けになったリリの姿。 「……まるで眠り姫のようだな」 カラスがぽつりと呟いた。胸を鮮やかな薔薇色に染めたリリは静かに目を閉じている。 テオはインバネスを翻しながら室内を調べ回った。テーブルクロスの染みに触れると粘着質の赤が指に付いてくる。乱れているのはリビングのテーブルとその周りのみで、クローゼットや引き出しは綺麗なままだ。 「物盗りではないということでしょうかね。次は検死を――」 「お待ち下さい」 やる気満々のテオをヴィヴァーシュが静かに制した。 「リリさんに触れる役は女性にお願いしては。ぬいぐるみのような姿をしているとはいえ、恋人のマルさんが見ている訳ですから。……傷口の様子も知りたいですし、お願いできませんか?」 ヴィヴァーシュの視線はハルシュタットの毛を握り締めたマルからゼロへと移る。創傷の形状から凶器が特定できるかもしれない。ゼロはこくりと肯き、リリの傍らに膝をついた。 「こわい……」 「大丈夫。きっと大丈夫」 青銀の毛並に顔を埋めたマルの背中をハルシュタットが優しく撫でている。耳を垂らして涙ぐむうさぎの姿を横目におさめ、ヴィヴァーシュは緩やかに嘆息した。 (少し、腹立たしいかも知れませんね) 大切な人がいなくなるのは心が痛む。だが、もし大切な人が悪戯好きだったとしたら……。一定の理解は示しつつも、笑って済ませる気にはなれない。 やがて、リリの胸の染みと脈を調べていたゼロが顔を上げた。 「外傷は見当たらないのです。リリさんは――」 「シッ」 テオがゼロの唇に人差し指を押し当て、悪戯っぽくウインクしてみせた。戸惑うゼロにハルシュタットが意味深な笑みを送る。 「ねえ。リリは?」 マルが縋るような目を向ける。テオは「これは難解ですねえ」ともったいぶって思案顔を作った。 「外傷が無くても毒殺ってこともありますし……毒が回って倒れる時にテーブルの上を散らかしてしまったとか」 「ええっ……」 マルの赤目に涙が満ちる。ヴィヴァーシュはいくばくかの非難を込めてテオを一瞥したが、テオはどこ吹く風といった風情でキッチンへと入って行く。 カラスはマルの許しを得てリリをベッドに運んだ。だらんと投げ出された手を取り、胸の上で組み合わせる。彼女の体からふんわりと立ち上る芳香が鼻をくすぐった。 (マルと喧嘩したショックも関係してるとか?) 純真無垢を絵に描いたようなアニモフだ。ボーイフレンドとの喧嘩によって過大な精神的負荷をこうむったとしても不思議ではない。 「さてと。準備はこんなところでしょうかね」 キッチンから戻って来たテオは大荷物だった。ボウルにホイッパー、砂糖に蜂蜜。小さな紙袋は壱番世界でいう小麦粉やベーキングパウダーの類だろうか。怪訝そうな一同の視線を受け、テオは自信たっぷりに胸を張った。 「要は怖がらせずに誤解解いて安心させれば良いんでしょ? ふふん、任して下さい。友人にこういうのの専門家がいたんです」 だからといってテオが出来ることにはならないのだが、それはそれだ。 ざわざわざわ、ひそひそひそ……。 家々の戸口からうさぎ型アニモフ達が顔を覗かせている。彼ら彼女らの長い耳は一様に垂れているが、まあるい瞳に浮かぶのは不安と好奇心が半分ずつといったところだ。 「だあれ?」 「ぎんいろ……」 聞き込みにやって来たのはヴィヴァーシュとゼロだった。銀糸の髪を風に靡かせながら沈思に耽るヴィヴァーシュの後を、同じく銀髪のゼロがついて歩いている。 「きれいだね」 「かわいいね」 「でも、めだたないね」 「ふしぎだねー」 ゼロを見たアニモフ達が口々に囁き合う。ゼロの容姿は見る者の嗜好や基準にかかわらず究極の美少女として認識されるが、注目されることはない。美しく、しかし空気のように地味という二律背反の姿をしたゼロはアニモフ達の目にも不可思議に映るようだ。 (外に出て来てくれると良いのですが) ヴィヴァーシュが辺りを見渡すと、アニモフ達はぴゅっと家の中に引っ込んでしまった。ヴィヴァーシュの美貌は血筋の高貴さを窺わせるが、些か取っつきにくく見えることも事実である。 「怖がられているのでしょうか。状況が状況ですから仕方ありませんが……」 ヴィヴァーシュはわずかに眉根を寄せる。それが更に彼を気難しく見せている。 「アニモフさん、見て欲しい物があるのです」 代わってゼロが進み出た。 「ここに縄があるのです。何の変哲もない縄です」 彼女はなぜか縄の切れ端を取り出した。壱番世界の単位で二十センチほどの長さのそれを一体何に使おうというのだろう。 「この縄に力を送ると不思議なことが起こるのです。こうして、こうやって……」 左手に持った縄の端を右手でこねくり回す。するとどうだろう。くたりと垂れていた縄が、右手と左手の間でぴんと直立したではないか。 「わああ」 「手品、手品」 「すごーい!」 目を輝かせたアニモフ達がわらわらと出てくる。ヴィヴァーシュは無言だった。縄の先端に括りつけられた釣り糸がうっすら見えている。 「もっと、もっと!」 「では、花を出すのです。この何の変哲もないステッキを振ると……」 おもちゃのような黒ステッキを振りかざす。しかし何も起こらない。慌ててもう一度振ると、チープな造花がすぽんと飛び出した。だがアニモフ達はぱちぱちと手を叩き、きらきらと目を輝かせている。ゼロは頃合いを見計らってお菓子――ハルシュタットの提案で持参した物だ――を配った。ラビットローズのジャムをトッピングしたクッキーである。 「お菓子を配れば安心して出て来てくれるんじゃないかな。ラビットローズのジャム、きっとみんな好きだと思うよ!」 というハルシュタットの予想は的中したようだ。クッキーは瞬く間になくなり、入れ替わりにうさぎ達の笑顔が広がる。 「眠れない人はこれをどうぞです。安眠機なのです」 ゼロが次に差し出したのは掌サイズの機械だった。渦巻きとゼンマイが付いている。ゼンマイを巻き、緩やかに回り出す渦巻きにアニモフ達は目を輝かせる。 「それから、こちらはお香と香炉です。香りは安らぐのです」 「香り……といえば」 ようやくとっかかりを見つけ、ヴィヴァーシュが口を開いた。 「ラビットローズも良い香りがしました。皆さんはあの香りはお好きですか?」 「だいすき!」 「ジャムもおいしいのー」 「マルさんもラビットローズを持っていました。リリさんの家にも……。この集落の特産品だそうですね」 「うん。リリはどこからとってきたんだろうね」 「ねー」 「……どういう意味でしょう?」 ヴィヴァーシュはかすかに眉を持ち上げる。すっかり警戒心の解けたアニモフ達はにこにこと応じた。 「あのね、ラビットローズはとっても“でりけーと”なの。どこにでも生えてるわけじゃないんだよー」 「ラビットローズはね、お花がとっても小さいから」 「ジャムにするにはいっぱいいっぱい必要なの」 「でも、先にマルが摘んじゃったから」 「リリの分はのこってないと思ったのにねー」 「マルもリリもラビットローズが大好きなんだよー」 口々に言い合うアニモフ達の前でヴィヴァーシュとゼロは顔を見合わせた。 おぼろげに、何かが見えて来た気がする。 「リリさんはどんなお人柄なのですか?」 リリのことならマルに訊くのが一番だろう。しかしヴィヴァーシュはボーイフレンドの言葉よりも第三者の客観的な感想を求めた。 「マルのことが大好きなんだよ。お料理とお菓子作りも上手なのー」 「でもねー、ちょっぴりおこりんぼなの」 「クッキーをマルにつまみ食いされた時、プンスカしてた」 「今回はどうして喧嘩をしたのでしょうか。喧嘩をしても怒りが持続するとは思えないのですが」 「んーとね、………………」 アニモフからもたらされた答えはヴィヴァーシュの推測を確信に変えた。 「おねーちゃん、おねーちゃん」 「ゼロはゼロなのです」 「ゼロおねーちゃん!」 アニモフ達は無邪気にゼロに群がっている。 「皆さん、後でお食事会をしませんか?」 「おしょくじ? みんなでごはん?」 「はい。ハルシュタットさんからのお誘いなのです」 「はるしゅ……? よくわかんないけどわかったー。その前に手品やって!」 「では、とっておきをお見せするのです」 ゼロはすうと息を吸い込んだ。 かあん、かあん、かあん。 「さあ、皆さん。楽しい楽しいお菓子作り教室ですよ」 リリの家のほど近く、花と緑がそよぐ広場でテオがミルクパンを打ち鳴らしている。彼の前には折り畳み式のテーブルがしつらえられ、リリの家から拝借した食材や調理器具が所狭しと並べられていた。 ミルクパンにとろりと生クリームを注ぎ、緩やかに火にかける。ふつふつと膨らむ香りに誘われたのか、うさぎ達の耳がぴょこぴょこと覗く。 「どなた様もお気軽にどうぞ。参加希望の方は材料と道具をお持ち下さい、ああ、できればラビットローズも」 テオは生クリームに蜂蜜を垂らし、更にひとしずくのラム酒を落とした。えも言われぬ香りが更に広がる。これはアニモフ達を呼び寄せるためのデモンストレーションだ。 その様子をリリ宅から見守りながら、カラスは首を傾げていた。 「何をする気なんだろう」 「ん? お菓子教室でしょ?」 「いや、それはそうなんだけど。教室を開いてどうするつもりなんだ?」 「いいんじゃない? だってみんな楽しそうだよ」 そう言うハルシュタットこそが楽しそうに髭をぴくぴくさせている。いつの間にか、ボウルや粉を手にしたアニモフ達がわらわらと集まり始めていた。 「一緒に参加してきたら?」 そわそわとするハルシュタットにカラスが苦笑する。ハルシュタットはふるふるとかぶりを振った。 「マルさんと一緒にここにいる」 「……うん」 ベッドに寝かされたリリを気にしながら、マルは再びハルシュタットの毛を握り締めた。 「後で一緒にラビットローズを摘みに行かない? おれも自分でジャムを作ってみたいな」 食べ物には目がないハルシュタットだが、異世界の動植物を持ち帰ることはできない。ジャムに加工して土産にしようという算段だったが、 「うん……でも、近所にはもう残ってないと思うよ。ぼくが摘んじゃったから」 というマルの言葉に目をぱちくりさせた。 「そうか、今日は彼女の誕生日だよな。プレゼントにするつもりだったとか?」 カラスの問いにマルはこくんと肯いた。 「彼女もラビットローズを摘んだってことは、家の中のこの匂いもラビットローズの香りかな?」 マルはまた肯いた。リリに触れたカラスは、彼女の体も同じ香りを纏っていたことに気付いている。 「リリもぼくもローズジャムが大好きなの。リリの作るジャム、とってもおいしいの……」 ぐすぐすと涙ぐむマルの姿にハルシュタットはそっと目を細めた。きっとリリはマルのためにジャムを作っていたのだろう。事件の真相も見当がついている。だが、ぎりぎりまで秘密にしておく。マルの驚いた顔が見たい。 「俺の故郷の童話には――」 一方、カラスは別の筋書きを考えていた。 「お姫様が死んでしまったり、眠ったまま起きなくなってしまう話があるんだ。けれど、お話の最後でお姫様は必ず目覚める」 「どうやって?」 「王子様がキスするんだよ」 「えっ」 マルの頬がぼっと紅潮した。 「眠り姫を目覚めさせる為には王子様のキスが必要なんだ。彼女にとっての王子様は君、だろ?」 リリを目覚めさせる事ができるのはマルだけだと、カラスはそっとマルの手を取る。 「キスが駄目なら、手を握って名前を呼ぶとか」 「で、でも」 「私も賛成です」 そこへヴィヴァーシュが戻って来た。 「一緒にラビットローズも捧げてみてはどうでしょう。リリさんの大好きな薔薇を」 ヴィヴァーシュの声は平素より大きかった。目を閉じたリリに聞こえるようにと。 しかしマルは答えない。握り締めた薔薇ばかりが所在なげにこうべを垂れている。 「で、でも、そんなことしても……」 「やってみればいいんじゃないかな。もし失敗しても状況が悪くなるわけじゃないんだしさ」 ハルシュタットがマルを勇気づける。瞳を揺らすマルをぎゅっと抱きしめ、ぽんぽんと背中を叩いた。 「これで目覚めてくれれば前よりもっと仲良くなれると思うよ。そうでしょ?」 やがて、マルは小さく肯いた。 その頃、テオは菓子作りに没頭していた。 「……っと。なかなか思うような色が出ませんねえ」 眉根を寄せて考え込むが、ハイビスカスの瞳には好奇心がちらついている。テオの横顔は興味深い実験に取り組む科学者そのものだ。 目の前にはアニモフ達に集めて来てもらったラビットローズの花が並んでいる。 (リリがそのまま出て来たらそれはそれで騒ぎになりそうですがね) どうせならもう少し楽しみたいと、リリの家にあったジャムを元にレシピを推測して試行錯誤している最中なのである。 「しっぱい、しっぱい」 「べたべたー」 アニモフ達は材料をこぼし、ついでに味見もして、手も口もべとべとだ。 「おや、気を付けて下さいよ。怖~いべとべとお化けが出ますよ?」 「ええ、おばけやだー!」 テオの法螺を真に受けたうさぎ達はあわあわとその場を行き来する。マルを含めた彼らの純真ぶりにテオは感心していた。故郷の基準に照らし合わせても相当に無垢である。 (だからこんな騒ぎになってしまったのでしょうねえ) 嘘とは縁のない――表面的には――世界から来たテオだが、アニモフ相手には嘘と冗談を意識して使い、楽しんでいる。故郷の住人達に同じことをしたらどうなるだろうと、ほんの一瞬、回想に耽る。 「せんせー! 次はどうするのー?」 「はい? ああ、そうですね」 だが、アニモフの呼び声にすぐに引き戻された。 「そろそろ次の工程に移りましょうか。材料を混ぜて生地を作ります。こねずにさっくりと混ぜるのがコツですよ」 「はーい」 「さくさくー」 まるで幼稚園のような光景だ。テオの指示に元気いっぱい答え、アニモフ達はにこにこと作業を続ける。楽しそうな空気と甘味の香りにつられ、更に別のアニモフ達も顔を見せる。 「何……何やってるの……」 「はいはい、どなた様もお気軽にどうぞ。完成品はこちらです、試食はご自由に。そちらの貴方には卵を割ってもらいましょう」 詩人の舌は相変わらず滑らかだ。突然の教室を訝る住人達には有無を言わさず甘味と仕事を与えていく。初めは戸惑っていたアニモフも目の前の菓子と作業に夢中になっていく。テオは満足げに肯いた。作戦の第一段階は成功だ。 「はい焼けました、チョコブラウニーです。味見したい人いませんか」 もっとも、思惑とは関係のないお菓子まで作って楽しんでいるのだが。 「おれも手伝う! お食事会の準備も!」 とうとうハルシュタットが飛び込んできた。カラスとヴィヴァーシュ、マルの姿も見える。 「そういえば、聞き込みにはもう一人行ったのでは?」 「ゼロさんですか。彼女はアニモフ達の相手をしているようですが……」 ヴィヴァーシュは珍しく言葉を濁す。首を傾げたテオだが、謎はすぐに解けた。 「皆さん、お待たせしたのです」 ずずうぅん。地響きが轟き、テーブルの上の調理器具が飛び跳ねる。カラスは目をぱちくりさせた。 高層ビルを十本束ねたような脚が歩いてくる。巨大化したゼロだった。声で辛うじてゼロと分かる程度で、腰から上は雲の彼方に霞んでいる。体のあちこちにはアニモフがぶら下がっていた。 「好評につきサービスしていたのです」 服も体に合わせて巨大化、なのに肌のキメは変わらず、髪の毛も細く美しいままである。何とも不条理な巨大化だが、アニモフ達は喜んでいるようだ。 「お帰りなさい。犯人は分かりました?」 「犯人?」 テオに問われ、ゼロはしゅるしゅると縮んだ。アニモフ達がきゃあきゃあ言いながら纏わりつく。テオは含み笑いをしてみせた。 「だって犯人を探しに行ったのでしょう? それとも、貴女が犯人を探す必要などありませんかねぇ?」 「おっしゃることがよく分からないのです」 「つまりこういうことです。可能性の話ですが――」 テオはもったいぶったしぐさで人差し指を立てた。 「第一発見者が見つけた時点ではリリは生きていたのだとしたら。とすれば、最初に近付いたヒトがそこで殺害したとかありますよねぇ。いやあくまで可能性ですよ?」 ゼロは目を白黒させ、マルはおろおろとした。初めにリリに触れたのはゼロである。一方、この短時間でテオの性格を把握したカラスはぷっと噴き出した。 「もうその辺にしておきませんか。マルさんが怖がっていますので」 「もちろん冗談です!」 テオは満面の笑みでヴィヴァーシュに応じた。ヴィヴァーシュは軽く眉間を押さえた。どこまでが嘘でどこまでが本気なのか分からない。 ゼロにくっついて来たアニモフ達も加え、お菓子教室は一層賑やかさを増す。ハルシュタットは猫の手で器用にごちそうの準備を始めた。周りのアニモフ達がせっせと木の実や野菜を摘んで来てはハルシュタットに渡している。魚を釣って来る者もいた。クッキーにココアにオレンジにパンケーキ、それにラビットローズ。美味しい物に甘い物、みんなの“大好き”がみんな揃って、みんなみんな笑っている。 「完成!」 「完成です!」 やがてハルシュタットとテオの声が重なった。温かいポトフに魚の香草焼き、人参たっぷりサラダにカラフルなマリネ……。 と、不意にテオが「うっ」と呻き声を上げ、わざとらしく膝を折った。 「せんせー、どーしたの?」 「包丁で指を切ってしまって……」 テオの手元を覗き込んだアニモフ達は一斉に息を呑んだ。 彼の指はべっとりと血に塗れていたから。 「ラビットローズのジャムですよ。ほら」 テオは飄々と笑い、アニモフに指を舐めさせた。アニモフの表情が驚きから笑顔へと変わる。 「ね? このように、状況によってはジャムを血と勘違いしてしまうのですよ」 テオは得たりとばかりに胸を張った。 「いやはや苦労しました、普通にジャムを作るだけではなかなか血に近付かなかったものですから……火を止めた後で赤ワインを加えるのが決め手とはね。砂糖にワインに水飴、この三者の配合が絶妙でなければこの色は出ないようです」 そのぶん味は折り紙つき、この色は美味の証だと胸を張る。このレシピを編み出したリリの苦労は相当なものだっただろうと付け加えて。 そう――旅人達は初めから気付いていた。リリの家で見た赤い染みはラビットローズのジャムであると。血ならば時間と共に褐色に錆びる筈なのだから。 『マルと喧嘩した事がショックで昏睡状態になったとか? あとは、何かの拍子に転んで気を失ったとか』 『驚かせようと演技をしたら迫真の演技で騙せてしまい、事が大きくなったのでは。それで収拾がつかなくなって悩んでいるのかも知れません』 『リリさんは死んでるんじゃなくて眠ってるだけなんじゃない?』 『恐らくリリさんはマルさんのために徹夜でラビットローズのジャムを作っていたのです。その際、睡魔、もしくは原材料にアルコール飲料を用いた故の酩酊で意識を失い、こぼれたジャムが周囲を赤く染め上げたものと推論するのです。存命しているリリさんが他のアニモフさんの前に現れないのは、マルさんと喧嘩したため出づらいものと思われるのです』 『何にせよ、リリは生きてそうですよね』 リリの家に向かう前、五人の間ではそんな推理が交わされたのだ。 「さあ、そろそろお姫様を呼ぼう」 カラスの手によってリリ宅の扉が開かれる。ラビットローズを握り締めてリリの元に向かうマルを皆が見守っている。 (ラビットローズにしろ口づけにしろ、付加価値のような物語を付ければ一石二鳥でしょうね) アニモフ達のショックを癒すこともヴィヴァーシュの目的だ。この際もう一芝居打って信じ込ませ、彼らの記憶を上書き出来れば良い。 「リリさんも一緒に食べよ! 早く来ないと冷めちゃうよ!」 ハルシュタットが陽気に笑った。美味しそうな匂いが漂う中で呼び掛ければ簡単に起きてくれると信じている。 マルはリリの手を取り、彼女の上にかがみこんだ。 「リリ。リリ……」 ぽろりと、涙がこぼれる。 「昨日はごめんね。お誕生日おめでとう。――大好きだよ」 薔薇の花弁とマルの唇が、リリの頬にちょこんと触れた。 マルの手の中、一回り小さなリリの手がぴくりと動く。ゼロははっと胸を押さえた。マルも瞳をぱちぱちとさせる。 「リリ……?」 ああ――ゆっくりと開かれる瞳はラビットローズの色をしている。 「……マル」 「リリ!」 「マル。ごめんね、ごめんね」 目覚めのキスを受けた姫は、顔をくしゃくしゃにして王子に抱き付いた。 穏やかな拍手と喝采が広がる。マルとリリは手を繋いで祝福の中へと飛び出した。 (無事解決……のようですね) ヴィヴァーシュはそっと息をついた。二人を囲むアニモフ達の笑顔を見れば、真の意味での“解決”に至ったことが用意に察せられる。 「良かったね、良かったね」 「おめでとう!」 「おめでとうございます」 ゼロが二人の手を取った。膨らむ風船のように巨大化し、二人を肩に座らせる。粋な演出にテオがひゅうと口笛を鳴らす。 「お祝いだよ! みんなで食べよう!」 ハルシュタットが音頭を取り、賑やかな食事会が幕を開けた。 「うん、良かった。何はともあれ、良かった」 「お兄ちゃん!」 ゼロの肩から滑り降りてきたマルがカラスの元へ駆け寄ってくる。 「ありがとう。ありがとう」 「え、あ……ああ」 ふわふわの手でぎゅっとシェイクハンドされ、動物好きのカラスはほわりと相好を崩す。 「甘いものはね、好きなひとと食べるのが一番おいしいんだ」 ハルシュタットがにっこり笑って皆の気持ちを代弁した。 賑やかなパーティーが終わり、お土産にラビットローズのジャムを貰って、旅人達は帰りの列車に乗り込んだ。 「結局、リリは夜なべでジャム作りをして、ワイン入りのジャムにとどめを刺されて眠りこけてしまったわけですか。熟睡していて初めは騒ぎにも気付かなかったって言うんだから呑気というか何というか。そういえばマルとリリの喧嘩の原因って何だったんです?」 「ラビットローズの取り合いだそうです。二人はリリさんの誕生日に食事の約束をしていました。リリさんはマルさんをもてなすために、マルさんはリリさんへのプレゼントとしてラビットローズを求めたわけです。しかし二人の家の近所に生えているラビットローズは限られています。先に花を摘んだのがマルさんだったので、リリさんはマルさんに花を譲ってくれるよう頼みました。ですがマルさんとしてはプレゼントを先に渡すわけにはいかないので……ということですね」 「リリさんはマルさんのためにあちこちラビットローズを探し回ったそうなのです。その際の肉体的疲労も睡魔に襲われた一因と考えるのです」 「二人とも相手のためにラビットローズを探してたってこと? とっても仲良しなんだね!」 そんなやり取りを聞きながら、カラスはスケッチブックに鉛筆を走らせていた。記憶が新鮮なうちに今回の出来事を描き残しておきたい。0世界に帰還したらきちんと色を塗って仕上げよう。 「うーん。描き切れないなぁ」 巨体のままアニモフ達と交流していたゼロの姿だけは紙におさまらない。とりあえず、彼女の髪を滑り降りるアニモフの姿を描き留めた。 数日後、0世界のターミナルでは。 「ち、血!? 猫が死んでる!」 「この猫、確かロストナンバーだよ。司書に連絡しないと!」 口から胸を真っ赤にしたまま眠りこけるハルシュタットの姿が見つかり、ちょっとした騒ぎになった。ラビットローズのジャムは仕上げにも赤ワインを用いるため、大量摂取の際はアルコール分に注意されたい。 (了)
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