消える消える消える。 ほんのちょっと目を離した隙に。 ほんのちょっとよそ見をしていた間に。「ねえ」「ねえ、あのこはどこにいっちゃったの?」 森の中に、湖のほとりに、丘の上に、野原のどこかに、あの子は居るのだろうか。「ねえ、かくれんぼ?」「ねえ、どこをさがしにいこう?」 消えた、消えた、消えた。 帰ってこない、あの子は居ない、そうしてまたひとり友達が消える。 * 世界図書館の書架で見かけた真っ赤なクマのぬいぐるみこと世界司書ヴァン・A・ルルーは、ひどく難しい表情で自身の《導きの書》を見据えていた。 もっふりとした手を顎にあて、首を傾げては何かをしきりに思案している。 一体どうしたというのか。 ついつい気になり、悩めるクマのぬいぐるみに声を掛けてみれば、「《神隠し》が起きているんです」 彼から返ってきたのは、聞き覚えはあっても現実感には乏しい単語だった。「モフトピアで、ごく短期間にこの現象が頻発しているんです。それもひとつの浮島に留まりません。勿論、消えたアニモフ達も、クマ型、ネコ型、ひつじ型と多種多様なのですよ」 浮遊諸島モフトピア。 空を周回するその浮島をいくつも渡り、何者かがアニモフ達を連れ去っているらしいとルルーは言う。「いまのところ、アニモフ達は消えた仲間が帰ってこないことを《かくれんぼ》だと勘違いしているようです。しかし、そうでないことは、我々の眼には明らかでもありまして」 コレは、モフトピアの担う《理》の範疇から逸脱している。 そもそも、いくつもの浮島で同時多発的に起き、誰も行方が分からず帰ってもこないのだとすれば――確かにかくれんぼの域を超えてしまっているだろう。「判断材料はもうひとつあります」 こちらの考えを察してか、ルルーは長い爪を一本立てて言葉を継いだ。「以前、ターミナルのとある屋敷の事案をお願いしたことがあるのですが、どうもそれと似た物件……とてもモフトピアの住人たちが作ったとは思えない《館》の存在が捕捉されました」 太陽からも遠く、アニモフ達が訪れることはほとんどないという無人の小さな浮島に佇む館。 ソレがいつ頃からあったのかは分からない。 しかし、この《神隠し》の現象と時を同じくして《導きの書》に現れたという事実は無視できない。「神隠しにあったアニモフ達が何の目的で攫われているのかは不明ですが、この館との関連を疑ってみるべきなのかもしれません」 なにより、館の存在そのものが他のどの異世界よりも端的にロストナンバーの関与を物語っている気がした。 ただし、《導きの書》は、その点についてあまり多くを語ってはくれていない。 モフトピアに起きている現象、その《事実》を断片として浮かび上がらせているだけなのだと言う。「曖昧なままで何かを判断するのは難しい。ですが、この事件が例え《惨劇》の名を冠することはないとしても……このまま放っておくわけにもいきません」 放置しておけば、《被害》はさらに拡大するだろうことは想像に難くなかった。 そこに悪意の介在があるかどうかとはまた別の問題である。 モフトピアに存在するありとあらゆるものが、他者に危害を加えるようにはできていない。 けれど、外の存在は彼らを傷つけることができてしまう。 この事実を忘れてはいけないのだと、言外に彼は告げる。 取り返しのつかない《何か》が起きる前に、喰いとめる必要があるのだ。「館と神隠し、そしてその目的と関係がいかなるものなのか……消えたアニモフたちはどうすれば取り戻せるのか……」 ヴァン・A・ルルーの瞳がまっすぐに向けられた。「よろしければ、この謎、解いてみませんか?」 * かつん、と靴音が響く。 かつん、かつん。 足音は次第にリズミカルになる。 くるりと楽しげに、《彼女》は甘い香りが漂う大ホールで思い切りよく飛び跳ねて。「ステキステキ、とってもステキ! 今度はどの子にしようかな」 弾んだ声が、ふわりと空に舞って散った。
浮遊諸島モフトピア――ぬいぐるみに似た住人達が住まう、光あふれる世界。 人懐こく愛くるしい存在が、純粋な瞳で自分を迎えてくれる世界。 どこまでも青く蒼く広がり続ける空に、絵本にでてくるようなわたがしの雲とクッキーのような星とアメ細工の虹が描き出されている。 「いらっしゃい」「いらっしゃい」「いらっしゃーい!」 ふんわりとした世界に降り立ったのは、3人と1匹のロストナンバーだ。 「キャー! どうしよ、すごいカワイイ、すごいカワイイ、すんごいカワイイっ!」 ティリクティアは歓喜の悲鳴をあげて、出迎えてくれたクマのぬいぐるみ型アニモフたちをまとめてぎゅうっと抱きしめた。 幼さの残る少女がぬいぐるみに埋もれる姿は微笑ましい。 「ひさしぶりだな」 青銀の毛並みを持った猫――ハルシュタットはすらりとしなやかな体をうんっと伸ばし、空を仰ぐ。 夢の国は、今日もおいしい香りに包まれていた。反射的に腹の虫がぐぅっとなってしまうようなおいしい香り。アメ細工の浮島でアメまみれになったことを思い出す。 「相変わらずなのにな」 甘くてふわふわしていて、心地よい。 なのに、ここにはいま、『事件』が起きている。 「モフモフさん……じゃない、アニモフさんたちが消えたとなったら、心配だよねぇ」 サシャ・エルガシャもふわんとゆるむ頬を自覚しながら、自分たちを取り囲むアニモフ達を眺める。 「早くお屋敷を見つけなくっちゃねぇ」 神隠しという名のかくれんぼの正体を早く見極め、終わらせてあげなければ、とサシャは思う。 哀しいことなんてこの世界の子たちには似合わない。 「ふうん?」 ティリクティアとあまり年齢の変わらないリーリス・キャロンは、右手中指に嵌るブラックオニキスの指輪のそっと唇で触れながら何かを思案する。 「だれが何のために、っていうのが重要かな? クマクマさんの導きの書には、はっきりした記述は浮かんでなかったし?」 そういいながらも、リーリスの眼差しはすでにひとつの仮説を組み立てつつある探偵のソレに近しい。 幼い少女たちに、年長者のメイド、そして青銀の仔猫は、次々と物陰からやって来てはわらわらと近づき取り囲むアニモフ達にまみれながら互いの視線を交わし合う。 さあ、誰から何を聞こうか。 * たっぷりの甘い香り。 たっぷりの可愛らしいぬいぐるみ達のぬくもり。 楽しくて楽しくて仕方がなくって、心が弾むままにぎゅうっと抱きしめる。 * 「……で、最初の現場がここ?」 聞きこみと称してハルシュタットたちはルルーからの資料をもとに『事件』の起きた浮島を渡り、そうして辿りついたのが、この手乗りサイズのクマ型アニモフ達が住まう小さな浮島だった。 アニモフ達のふわふわした言葉を繋いでいけば、謎の《神隠し》の始まりはどうやらここであるらしい。 すべてがオモチャみたいなこのお伽噺の世界で起こっている事件の背景を知るために、繰り返し差し出す質問たちを、今度は彼らに向けてみる。 「ねえ、あのね、聞きたいことがあるの」 そういって、最初に切り出すのはティリクティアだ。 「なあに?」「なあに?」「ききたいことってなあに?」 「《かくれんぼ》はいつから始まったの?」 アニモフ達はきゅるんとした黒い瞳を互いに見合わせ、首を傾げあう。 「いつ、かな?」「きのう?」「おととい?」「うんとまえ?」「ちょっとまえ?」「どれくらい?」 顔を突き合わせて、うんうんと唸りながら一生懸命思い出そうとしてくれるその姿は可愛らしいけれど、彼らには少々難しい質問だ。 「すっごく前からなのかな?」 「あのね、うんとね、すっごく前からじゃないよ」「すこしだけ前だよ」「うん、すこしだけ」 こくこくと頷き合い、彼らが出した答えがそれだった。 「かくれんぼの瞬間を見た子は居たりしちゃう? その子が消える瞬間とかどう? なんか見れた?」 リーリスが次の質問を差し出して。 「ふりかえったらもういなかったの」「あっというまにかくれちゃったの」「すごかったねー」 ふわふわほわほわと笑い合うアニモフたち。 「それじゃあさ、どんな子が上手にかくれんぼできてるんだろう?」 続いてハルシュタットが問いを重ねた。 「げんきな子?」「ぽわーとした子?」「いつもはすぐみつかっちゃう子もいるよ」「いろいろだよね?」「ねー?」 繰り返される質問に、繰り返される答えたち。 「あのこ、どこにかくれてるんだろ」「みつかんないねー」「すごいよね」「“見ぃつけた”っていってたのにね?」 何かがおかしいのに何がどうおかしいのか気づかないまま、アニモフ達はただただ不思議そうに顔を見合わせる。 この子たちは何も知らない。 この子たちはまだ何にも気付いていない。 ソレを確認し、初めに戻ってティリクティアが最後の質問にとりかかる。 「そっか……じゃあ、《かくれんぼ》が始まる前に何か変なことは起きなかったかしら? いつもと違う、珍しいこととかでもいいのよ」 これはどの浮島で聞いてもはっきりとした答えが出なかった問い。 けれど、 「アレのこと?」 はじめて明確な反応が返ってきた。 「きっとアレのことだよ」「アレだね」「あのね」「あのね、すっごくピカピカ光る流れ星を見たんだよ」「いきなりピカって光って消えて」「ビックリしたよね」「ねー?」「「「ねー?」」」 彼らはその光が、遠く、たまたま巡りめぐっていた館の佇む小さな浮島に落ちたのを見たという。 その流れ星を観に行こうとしたけれど、今の今までそんな提案があったことすら忘れてしまっていたらしい。 「いろいろ教えてくれてありがとう。はい、これはお礼だよ」 最後にサシャがエプロンのポケットから小さく包んだクッキーを取り出し、集まってくれたアニモフたちに渡していく。 「あのね」 「なあに?」 「みんなはかくれんぼ、楽しい?」 アニモフ達はサシャの質問の意図がよくわからなかったのか、ただただにっこりと、 「「「かくれんぼすきー」」」 そう声をそろえて元気に応えた。 彼らの無邪気な様子に、痛いような切ないような何とも言えない気持ちになる。 「あのね、実はワタシたち、かくれんぼの鬼になりにきたの。だから、かくれんぼが終わったら、みんなでお茶会しましょ?」 「「「「うん!」」」」 無邪気な彼らの楽しい時間を楽しいままで終わらせたいと、そう願う。 「それじゃあ、まずは今わかってることの整理からいこうか?」 すべてがミニチュアな浮島の小さな小さな花々が揺れる広い花畑で、ハルシュタットは、雲でできたイスの上に乗って雲でできた円卓の上に両前足を乗せて、そう切り出した。 調査の基本は情報収集。 さらに言うならば、収集すべき情報には『可能性』への検討と考察と展開が必要となる。 「いままでで得た内容で仮説は一応たったと思うんだ」 「まあ、大方の予想どうりって感じじゃなあい?」 「うんうん! あとはこの《目》で確認するだけで犯人が何者かは分かりそうだね」 「ただし、動機そのものが今の情報からじゃまだちょっと掴めないな」 ポンポンとやり取りされる、少女二人と仔猫の会話にサシャは参加しない。 彼女はむしろ、席にはつかず、手のひらサイズの小さなティーポットで手のひらサイズの小さなティーカップに甘いミルクティを注ぎながら、3人の発言に耳を傾ける。 「動機なんて案外単純なものじゃなぁい?」 「でも、その単純な動機でアニモフ達がひどい事になってたら許せないんだけど!」 「えっとねー、単純に考えたとして」 リーリスは白い指で自分の唇をなぞり、 「一人ぼっちで言葉も通じなくて寂しかったら……もしかして全然本人ひとりだって平気かもだけど、とにかくまあ、目の前のもふもふ動く可愛いお人形さんがいたら、その子たちでお家をいっぱいにしてみたいって思わない?」 自分だったそうするよ、と、にっこり笑う。 「それが、“被害者”のミッシングリングだったということか……」 ハルシュタットは甘い香りに包まれながら、思考の海へと沈み始める。 「消えたアニモフ達の共通点は“アニモフ”だというただ一点のみで……それなら、うん……ルルーが惨劇じゃないって保証はしてくれた点も納得できるか」 「じゃあ、アニモフ達はひどい目にあってはないかしら」 仔猫の口からこぼれる呟きに、ティリクティアはほんの少し安堵の表情を作る。 しかし、リーリスは無邪気な笑顔のまま、首を横に振った。 「たーだーし! 悪意がなくたって、ホントーに大丈夫かどうかなんて分かんないよぉ?」 「え?」 「だって、ぬいぐるみだって思ってるわけでしょ? ぬいぐるみにお菓子とかあげたりしないよね? あげるふりはしたって。それで、モフさんたちにご飯あげなくて、モフさんたちが飢え死にしちゃって、“あ、電池切れちゃった”って言われると困っちゃうよねー?」 その指摘はまさしく最も恐ろしい結末をさしている。 あり得ないわけではない、悪意のない《罪》が生まれてしまう可能性。 「でー、ね、いきなり来ていきなり攫っていきなり消えるんだとしたら、そーいうのにいっこ心当たりがあるんだけど」 リーリスはくつりと笑った。 「0世界でね、アポーツを見たよ? クレヴォワイヤンスで視えてる範囲のモノだったらね、意思も命も関係なく、えいって手元まで引寄せちゃったりするの。ね? それって《神隠し》っぽくなぁい?」 「あぽーつ? くれぼ……?」 彼女が口にする聞き慣れない単語に、はじめて聞き役だったサシャが目をしばたく。 「ああ、聞いたことあるな。物体引き寄せ能力、だっけ? クレヴォワイヤンスは障害物を越えて透視できる能力って解釈だったかな?」 「ネコちゃん、正解。だから誰にも捕まえらんないって思えば、納得できちゃわない? そーいう能力持ったロストナンバーだとして、相手にするならちょっと大変。現行犯逮捕もむずかしそうよねぇ?」 かくれんぼの犯人は、おそらく簡単には捕まえられない。 「……その“予測不能”を予測したら、動きやすくなったりするわよね」 「ティアちゃん?」 「どういうことかな、ティア」 「その《かくれんぼ》の首謀者の姿を捕捉できれば、事件もあっという間に解決して、それでアニモフ達の危険も去るわよね?」 ティリクティアはぐっと握りこぶしを作って立ち上がり、俄然気合いの入った眼差しで空を見据える。 「相手の動きが分かったら、次にどうするのかも見えてくるでしょ? あんな可愛い子たちがいつまでも神隠しにあうなんてかわいそうだもん」 かつて王国の守護者として生きた巫女姫の中で、何かが強く訴えかけてくる。 守らなければ。 取り戻してあげなければ。 ロストレイルから降りた先の駅前で、自分たちを取り囲んできたアニモフをぎゅっと抱きしめた感触を思い出す。 あのぬくもりは大切なものだから、だから自分はあの子たちのために最大限のことをする。 光を反射して金のようにきらめく琥珀色の瞳に、ティリクティアは《未来》を映し出した。 ――二重写しの現在(いま)と未来(さき)。 ミニチュア世界でトコトコ動くクマのぬいぐるみ達に重なって、白い白いわたがしの降り積もる白い丘のその上で、アライグマ型アニモフたちの尻尾が揺れる。 日の光を浴びて光るミルクオレンジ色の湖面。 周りに茂る木々の合間から湖までを行ったり来たりとせわしない。 そこに降り立つのはひらりと踊るワンピースに赤いパンプス、そうして舞い散る花びらだった。 華奢な白い手が伸びる。 伸びた手が、転げまわってはしゃぐアライグマの一匹を捕える。 突然すくい上げられ、抱きしめられて、仲間達から引き離された彼はただただ驚いて目をパチクリするばかりだ。 彼を抱きしめた白い手の持ち主は、その顔にどこまでも嬉しそうな満面の笑みを浮かべて。 そうして、消えた。 「“見ぃつけた”……」 ふぅっと大きく息をついて、そのまま後ろに倒れ込んだティリクティアの身体を、やわらかな花々が抱きとめる。 「……あの子、そう言った……」 「ティアちゃん……っ! だ、大丈夫!?」 慌てて駆け寄り跪いたサシャに、仰向けのままで力なくへにゃりと笑い返す。 「あー、平気平気……ちょっとね、ちょっと疲れちゃうだけ……休んだらすぐ元通りだよぉ」 「そうなの?」 「そうなの。だからね、心配いらないんだよ?」 自分のことよりもまずは『事件解決』が最優先だからと、笑って見せた。 「“犯人”が見えたわ……赤いパンプスの女の子……たぶん、私やリーリスよりも年上、だけど……もうすぐ、ホントにもうあと10分後には、神隠しが起こる……」 そう言って、たった今自分が見たものすべてを仲間達に語る。 リーリスは、小さく手を打って、笑みを作った。 「じゃあ、その子がいない間に館とやらに行ってみよっかな。それが一番手っ取り早いし」 「事件は未然に防がなきゃだけど、クマ司書さんは、“館と神隠しの目的と関係を調べてみたらどう”って言ってたものね」 「お屋敷へ行くことにしたの?」 サシャが問えば、 「あのね、のんびり《待ちの態勢》って好みじゃないの。どんどん動かなくっちゃ」 更ににっこりとリーリスは笑う。 「そうだね! ワタシもはりきんなくちゃ! だって御屋敷だもの、メイドの出番だもの!」 「……じゃあ、おねえさん、リーリスと一緒にくる?」 「え」 「私、次の犯行までなんて待てないもん。だから行くんだけど……メイドさんもリーリスと一緒に、さっさと館まで会いに行く?」 口の端をほんの少し持ち上げて、愛らしい顔にあどけない笑みを浮かべる。思わず抱きしめたくなるようなその表情に、サシャはにっこりと頷き返す。 「ええ、ご一緒させてくださいな」 「いいよ。リーリスと一緒だね。ネコちゃんは?」 「おれは“現場”に行く。“犯人”と接触できるチャンスがあるなら押さえときたいし」 「ハルシュタットさんは別行動……か。ティアちゃんはどうする?」 気遣うサシャに、 「うんとね、先に行っててほしいかな。少し休んだら追いかけるから……それまで自分で今できることしてる」 地面に転がったままで手をあげる。 「待ち合わせは屋敷で」 そう告げると、サシャは頷き、ハルシュタットは額を彼女の頬にすり寄せて応える。 「それじゃ、おねえさん、お手をどーぞ?」 「え」 「一緒に行くんだもん、手ぇ繋ご?」 ブラックオニキスの指輪がはまる手を差し出して、リーリスは驚くサシャの褐色の手に己の指を絡めて手を繋ぐ。 そうして小さな足がとんっと地を蹴った瞬間―― ふわ。 なにげなく、さりげなく、けれど確かにリーリスの足は何もない空間を踏んだ。 「えぇ…っ!?」 目に見えない道、目に見えない階段、目の見えない何かがそこに存在していることを彼女は示し、空を歩く。 浮雲の地面から、ふたりはどんどん離れていく。 どんどん花畑から離れていく。 少女が誘う空中散歩。 軽やかに進むリーリスに連れられて、サシャの姿もまたどんどんと遠のいてく、その姿は眺めるモノに不可思議な浮遊感と、そうしてわずかな眩暈を感じさせた。 「おれも行くよ、ティア。あとで会おう」 「うん」 それぞれがそれぞれに行動を起こしていく。 それらを眺め、見送り、そうしてティリクティアはゆっくりと深呼吸を繰り返した。 肺いっぱいに吸い込んだ空気は、甘くてやさしくておいしい。 花に埋もれて横たわったままでいると、いつのまにか、小さなクマ型アニモフ達が自分を取り囲んでいた。 だいじょうぶ? そう、つぶらな瞳が問いかけてくる。 そんな彼らをしっかりと見つめ、少女は笑う。 「待っててね。かくれんぼ終わらせて、すぐに楽しいお茶会開くから」 ところでね、と言葉を変える。 「流れ星が落ちた館についてちょっと聞きたいことがあるの。いいかしら?」 * あふれる甘い香りを胸一杯に吸い込んで、彼女は幸福感に満たされる。 くすくすと、自然と笑みがこぼれた。 可愛いカワイイかわいいカワイイ。 なんて可愛いんだろう。 もっとほしい、もっともっとほしい、もっともっともっと―― * リーリスの作り出す《見えない道》は、真っ直ぐに行きたい場所へと続いているらしい。 「見ぃつけた」 自分の手を引き、迷うことなく先を歩く彼女の声に、サシャはふと顔をあげた。 「まあ」 「齧ったらアレじゃない? すっごく甘そう、的な?」 薔薇のレリーフが施された鉄柵の向こう側――その建物はモフトピアにありながら、モフトピアにはない精巧可憐な佇まいを見せていた。 外壁は淡いクリーム色を基調とし、波打つ装飾を凝らした梁や柱は純白、そして屋根の部分などは赤で彩られたソレは、一見するとまるでイチゴのケーキそのものだった。 二階正面には円柱が立ち並ぶバルコニーがせり出しており、館そのものが作り出す美しいシンメトリーともあいまって、まるで舞台装置の一部にも思える。 モフトピアの世界に似合っているけれど、それでもにじみ出る違和感になぜか心が引き寄せられた。 入りたい、触れたい、関わりたい、という欲求が不思議とわきあがってくる。 そのことに首を傾げたくなりながら、サシャはリーリスに手を引かれたまま、見えない道からふわりと降り立ち、ふたり一緒に開かれた鉄の門をくぐり、そうして館の扉へと手をかけた。 甘い香りがする。 けれど、そこに長く放置され続けた屋敷特有の空虚さが混じってくる。 玄関ポーチには誰もいない。 扉を押しあけ、中を覗きこめんでも、ガランとした印象がぬぐわれることはない。 「こんにちはー。モフさん達を返してくださいなー」 リーリスがふわんと声をかけてみても、応えはない。 動く気配も感じられない。 「だれもいないのかしらー?」 「お、お邪魔いたします!」 さらに一歩二歩と踏み込んでいけば、すぐ正面に開け放たれた広間が見えた。 「……食堂だわ」 思わず訝しむ様にサシャは呟きを落とす。 「でも、なんのお料理も並んでないんだね」 「ええ……」 そこにずらりと並んでいるのは、白いクロスが掛けられたテーブルとアンティークのイス、それからロウソクのない三又の燭台たちだけだ。 天井から下がる真鍮のシャンデリアにも光はともっていない。 通常の家屋であれば、玄関から入ってすぐの場所に大食堂が待ち構えていることはないはずだ。 少なくともサシャはこういった作りの屋敷をしらない。 この屋敷は何のためにつくられたのだろうか。 「おもてなしのための場所、なのかしら……」 生活するのではなく、むしろ迎賓館としての役割が振られているのだとしたら、この様式にも納得ができそうだ。 「つまりソレって、モフさんたちをおもてなしってこと?」 「……ちょっと変かな?」 「どーかしら? わざわざあの子たちを呼ぶんだったら、もっとあの子たちに合わせた家具にしそーだけどねー」 「それじゃ《ロストナンバーを招く》のが正解なのかな」 リーリスの言う通り、もてなすなら相手(客人)に合わせた調度品でなければ意味がないだろう。 「ね、答えなんて今は分かんないんじゃない? だから、探索開始しよ?」 「そっか、うん、それもそうだね!」 「ぐるっと回ってどこかで会えたらいいね、おねえさん」 「次に会った時には、お互いの情報交換だね。あ、もちろん、何かあったらノートにメール頂戴ね? ワタシ、すぐに駆けつけるから」 約束、と指切りをして。 リーリスが軽やかな足取りで屋敷の奥へと向かうのを見送り、そうしてサシャは小さく気合いを入れる。 「さ、まずはお掃除開始!」 この屋敷に足を踏み入れてからずっと気になって仕方なかったのだ。 磨きこまれていない木目の廊下、鈍く濁った真鍮のドアノブ、絨毯の端や窓枠に見える埃のかたまり、部屋の天井隅に微かに見える蜘蛛の巣の影。 どれもこれも、一度気づいてしまったら見過ごすことはできない汚ればかりだ。 とても手入れが行き届いているとは思えない。 辺りをつけて、大食堂の隣に位置する細身のやや小さな扉を開ければ、そこには目当ての掃除用具がひっそりと収納されている。 はたきやほうき、チリ取り、バケツ、ダスターに至るまで何でも揃っていた。 しかもそのどれもが、サシャがメイドとして仕えている屋敷で使用するものとほとんどデザインが変わらない。 つまるところ、19世紀の英国人がこの一式をそろえたと判断してもいいだろうか。 「アニモフちゃん達のセンスじゃない、よね?」 だとしたら誰なんだろう。 ふと浮かんだ疑問への答えは、今の自分の中にはない。 頭を使うのはあんまり得意じゃない。 でもやるべきことならちゃんと分かっている。 「かくれんぼしてるなら、地下室とかあやしいかな? あとはやっぱり隠し部屋?」 掃除をしながら、ひとつひとつ検証していこう。 まずは、決めたことをきちんとやる。 ソレが一番大切なことだと自分自身に確認し、甘い香りがほのかに漂う屋敷の中でサシャはもう一度拳を握った。 ティリクティアが示した《誘拐》の現場は、ミニチュア浮島からほど近い場所にあった。 白いわたがしが降り積もる白い丘の上。 ハルシュタットは樹の上にのぼると、フルーツジュースで満たされたミルクオレンジ色の湖の前できゃっきゃと笑い転げまわるアライグマ型アニモフ達を眺めることにする。 のんびりとした光景は、ゆるやかな眠気すら呼び寄せるようだ。 ここに《彼女》は現れるという。 現れたら、まずは、彼女が一体どんな《気配》をまとっているのかを見極めたいと思った。 彼女の顔を見て、彼女の声を聞いて、彼女の反応から、何かを掴みたいと願う自分がいる。 ソレは微かに、自分の心の深い部分に触れる行為だ。 ちりちりと、焼けつき焦げつくような感覚が、ハルシュタットの胸の奥で存在を主張する。 神隠し。 その現象に重ね見るモノに思いがぶれそうになった時、そこでふと別の疑問が頭をよぎる。 ミニチュア浮島で《流れ星》が観測されたのは、つい最近の出来事だ。では、ルルーの《導きの書》に捕捉された館は一体いつからそこにあるのだろう。 「ところでさ、いっこ聞きたいんだけど」 樹の上から声を降らせると、アライグマのアニモフたち数名が自分を振り仰ぐ。 「きみたちって、屋敷を見かけたことある?」 彼らは互いに顔を見合わせて。 「ずーっとずーっと前に見たよ」「ついこの間も見たよ」「むかーしからあるよ」「でも今もあるよ」「気づいたら忘れちゃうけどね」 アニモフ達は次々答えをよこしては、また仲間に呼ばれて湖へと飛び込んでいく。 そんな彼らを眺め、考える。 神隠しが起きたのはついこの間。 でも館はずっと以前からこのモフトピアに存在していた。 だとしたら、館は一体何の目的でこの世界に建てられたのだろう。 ルルーは今回の案件を話す時、ターミナルで起きた《幽霊屋敷》を引き合いに出していた。 建物には作り手の癖やセンス、好みが反映される。 もしもこの館とその幽霊屋敷とを比較したら、そこにまだ見ぬ《ロストナンバー》の介在を見出すこともできるのだろうか。 思考に沈む。 アニモフ達を眺めながら、思考はずぶずぶと内側へと沈んでいく。 と。 ふいに、甘い香りが鼻先をくすぐった。 それは予兆。 あるいは、予定調和の前触れ。 ハルシュタットは枝を蹴り、ひらりと飛び降りる。 「なにしてんの」 「え」 花びらをまとって、何もない空間から現れた赤い靴の彼女は、ふんわりした地面に足を着いた途端に小さく後ろへ跳ねた。 自分の問いに、彼女は目を丸くした。 「なにしてんの?」 「……なんで……」 「連れて行くならさ、おれにしてくれない? アニモフたちじゃなくてさ」 「……なんで」 リーリスやティリクティアとそう年齢の違わない外見をした彼女は、その大きな瞳をめいっぱい見開く。 「おれの言葉、分かるよね?」 「なんで」 見開いて。 「なんだ?」「なんだなんだ?」 きゅきゅっと顔をあげたアライグマたちの視線に晒され、仔猫の自分に見上げられて。 彼女はアニモフ達の誰もその腕には抱かず、伸ばした手を引っ込めて、半歩下がって、そして、消えた。 花びらが舞う。 彼女はいない。 「いまの、なあに?」 遊び転がることも忘れて、アライグマたちはそろって首を傾げた。 「たびびとさん?」 「まあ、そういうことになるのかな?」 あの子からは、《魔物》の気配はしなかった。 悪意も血のニオイも何もしなかった。するのはひたすらに甘いお菓子の香りだけ。それからほんの少しのスパイスと淋しさのカケラのようなもの。 それから、あの子には、あるはずの真理数が存在していなかった―― 「おいかけるか」 顔をあげ、空を見上げる。 彼女が向かったのは、あの《屋敷》だ。 * 仔猫があたしを見ていた。 仔猫があたしに話しかけてきた。 久しぶりに聞いた意味のある単語。 言葉を操るあの仔猫は、あたしに何を言ってきたんだっけ? * ふぅっと大きく息をついて、ようやくティリクティアは動き出す。 トラベラーズノートには、ハルシュタットからのエアメールが一通届いていた。 ロストナンバーを確認。 その一言がすべてだ。 自分たちが追うべき存在は、未保護のロストナンバーでほぼ確定した。 これから自分も屋敷を目指すとメールを返し、《イチゴのケーキ》のようだと評された館へと足を向ける。 どこにあるのかなんてわからない。 ヒントはサシャから送られたメールのみだ。 それでもなんとなく、本当になんとなく、心赴くままに進めばそれで辿りつける気がした。 アニモフ達が遊び場にしているようには思えない、小さな無人の浮島に佇む館。 「あの子達が作るのは無理そうだけど……だとしたら、ロストナンバーが建てたってことになるわよね」 彼女が現れるよりもずっと以前に建てられたという、ソレは一体だれが何のために用意したモノなのか。 考え出したら、止まらなくなりそうだった。 「異世界にロストナンバーに合わせたロストナンバーの為の建物が建ったら、それって、何かの拠点になるかしら……」 もしかするとただの酔狂なのかもしれないけれど、建物の役割には好奇心が刺激される。 世界図書館の歴史は長いようで短い。 でも短いようでやっぱり長い。 その中で誰かがこのモフトピアに辿りつき、館を作ろうと思い立ったのだとして、一体そこにどんな目的があったのだろう。 かつて自分は、巫女姫候補として両親の元から引き離されて神殿で過ごし、巫女に選ばれたのちもやはり王子と共に神殿で暮らした。 窮屈だったあの場所を、自分の家だと呼べるかどうかは分からない。 もちろん、気安く誰かを招いて茶会を開くというものでもなかった。 けれど、それでも考える。 いきなり見知らぬ世界にたったひとりきりで飛ばされて。 右も左も分からなくて、言葉も分からなくて、見たこともないモノばかりに囲まれたとして。 「……別荘よりは、ロストナンバー保護施設、とか? 仮住まい、とか?」 その時、どこか懐かしい感じのする建物が自分を出迎えてくれたとしたら、きっと嬉しいし、きっと安心する。 そんな気がした。 * はやく、あの屋敷へ戻りたい。 帰りたい。 帰る場所の分からないあたしの為の、あたしが決めたあたしの家に…… * リーリスは数十メートルに及び延々と続く廊下を渡りきった先の、突きあたりの階段から二階へと向かっていた。 折れ曲がりながら上へと続く階段は手すり部分に細やかな植物のレリーフが施され、辿りついた階上で左右に並ぶ扉には、どうやら三匹の仔猫やパイをモチーフにしたデザインが描き出されている。 おいしそうで可愛らしいその意匠は、けっして自分の趣味ではない。 けれど、不思議と心をくすぐられる。 ただ、いたるところにあふれている甘い香りが気になった。 あまりにも甘い香りがあふれすぎていて、まるでここがお菓子の国だと錯覚してしまう。 「ふうん?」 リーリスに見えているのは淡い想いの軌跡、残り香、そういったものであり、生あるものから生を奪う『食事』の気配は微塵も感じられなかった。 「ご飯にしちゃうのかなって思ったんだけどなぁ……ふうん?」 アニモフが消えて帰ってこない。 この話を耳にした時、最初に浮かんだ仮説は、《ツーリストによる狩り》だった。 抵抗することを知らない獲物を前に、己の力をふるい、存分に食らい続けるという、たまらなく魅力的なパターンだ。 けれど、ヴァン・A・ルルーは、《惨劇》の存在を否定した。 もしも《彼女》がこの世界を餌場と決めて動くのなら、この世界のモノたちにとってソレは悲劇以外のなにものでもない。 「でも違うんだもんねぇ」 ディアスポラ現象でリーリスが飛ばされた世界には、生命がなかった。少なくとも、食事の対象とみなせるものはひと欠片も存在していない空間だった。 けれど。 もしも飛ばされた先が《無尽蔵に狩りができる世界》だったとしたら、きっと自分は嬉々として食事を行っただろう。 誰にはばかることなく存分に、己の欲するままにありとあらゆる生物から《精気》を搾取し続けただろうとも思う。 好きなことを好きなようにする。 それは別に悪いことでも間違っていることでもない。 だから、きっと彼女も好きなことを好きなようにしているにすぎないのだと予想する。 そしてソレはおそらく、外れてなんかいないのだ。 巡る巡る、思考が巡る。 ふと思い立ってトラベラーズノートを開けば、そこにハルシュタットと、それからティリクティアからのメールが届いていた。 さらりと文字を目で追い、パタンとノートを閉じる。 「いよいよだね」 行動を予知された《彼女》は結局誰も攫えずに消えたと、ハルシュタットは告げた。 だとすれば、彼女はここに帰ってきているはず。 帰って来て、一番にすることはなんだろう。 「早く姿を見せてちょうだいな」 開けた扉。 そこには猫足のテーブルと、4脚のひじ掛け椅子があるばかりだ。 次の扉も、その次の扉も、判を押したようにテーブルとイスのセットに植物をモチーフとした真鍮のシャンデリアがあるばかりだ。 そうして、各部屋の間の壁に一枚ずつ掲げられた小さな額縁の中には、いやに美味しそうなパイと、そのヒトカケをフォークにさして食べようとする紳士の姿が、なぜか微妙にポーズや身につけたアクセサリーのデザインを変えながら描かれている。 しかもそれは全部で26に及ぶ。 けれど可愛らしさのカケラもない。 生活感のなさを埋めることもない。 こんなに空っぽなら、もっとかわいいものでも飾っておきたくなるだろう。 「それじゃあ、カワイイ子たちはどこに飾るかってことだよねー?」 もっと広い場所だろうか。 外から見る限り、バルコニーのある部屋はきっととても広いはずだ。 「だれ?」 ふいに、背後から硬い声が響いた。 「……だれ?」 ふわりとなびくワンピース、赤いパンプス、揺れる髪。砂糖とシナモンでできた人形みたいな彼女は、ティリクティアが未来の時間軸の中で見たという《神隠し》の張本人。 「ようやく会えた」 リーリスの眼がふっと細められる。 「ええとね、誰かって言われたら、たぶんお仲間さんって答えるんだけど?」 「……仲間?」 「迷子なあなたを迎えにきたり、さらわれちゃったモフモフさんの解放をお願いしに来たりしたかんじ、かな?」 「なにを言ってるのか分からないわ」 「なにを言っているのか、分かるんじゃない? だって、ちゃんと言葉が通じちゃってるもん」 「……なにを言ってるのか、分かんない……分かんない! あたし、戻んないから!」 ふいっと、《彼女》はリーリスに背を向けて、そしてとんっと地を蹴った。 「鬼ごっこするつもり?」 白い指で赤い唇をそっとなぞる。 「だったら捕まえてあげるまでよ」 そういって吊り上がった口元が浮かべる笑みは、あどけなさのカケラもないチェシャ猫のそれだった。 リーリスとは反対方向の棟に向かって掃除を続けるサシャは、本来ならありそうな書斎の代わりに、資料室と銘打たれた二つ並びの部屋に入り込んでいた。 誰かが棲んでいる気配はあるのに、生活感は薄い。 本棚を見ればその持ち主の人となりが分かるというが、資料室に並んでいるのは妙に事務的で個人の趣味というよりは図書館などのような公共の施設めいた空気感が強い。 そして、それらにもうっすらと埃がかぶっている。 「あら?」 しかし、埃の舞う部屋で、サシャはかすかな違和感を覚える。 何かがおかしい。 でもそれが何なのか分からない。 分からないままに、はたきで埃を払い落し、乾いた布巾で細やかな薔薇のレリーフが施されたガラス戸の書棚の縁を磨きあげようとして、 「きゃ、きゃあっ!?」 がこん。 何かが手に触れたと思った瞬間、壁に取り付けられて動くはずのない書棚がいきおいよく真横へスライドする。 支えを失って盛大に倒れ込んだサシャの目の前に出現したのは、人ひとりがようやくくぐれる程度の小さな木製の扉だった。 床に座り込んだまま、サシャはじっと視線を注ぐ。 隠し扉、隠し部屋、ソレを探していたのは事実。 だとしたら、コレは探し物が見つかったということだろうか。 そろりと立ち上がる。 掃除の途中でこの場を離れることには抵抗があるけれど、でも、この扉があいている今がチャンスだと考えたい。 「よし!」 意を決し、サシャは書棚の裏側へ続く扉へと手を伸ばした。 辿りついた隠し部屋に何度もまばたきを繰り返した。 分厚い本がぎっしりと詰まった書棚に、何かの資料ファイル。それから、使い込まれたらしき跡がうかがえる製図台。 そのどれもに厚く埃が積もっていた。 難しいことは分からない。 けれど、ここがどれだけの期間、無人だったのかを考えることはできるし、何よりこれまで見てきたどの部屋よりも《個人》を感じることができる。 「旦那様ならきっと悲しむわ」 読まれることなく埋もれた本。埃をかぶって閉じ込められた機材。語られることのなかった論文たち。 何気なく、本当に何気なく手を伸ばして、 「あれ?」 手に取った書物の間から、はらりと落ちたのは白い便箋だった。 クセの強い文字たちは、インクが滲んで何が書いてあったのか判別できない。 ただ、冒頭に『Dear E……』の綴り、そして署名なのだろう『Henry』という綴りだけが辛うじて見て取れた。そう、異世界の文字ではない、サシャにとってなじみ深いアルファベットによる文字列で、だ。 「ディアー、エ、エディ……? ヘンリー……、ベ…、フ?」 「“ヘンリー”って誰の事かしらね」 「きゃっ」 心臓がいきおいよく跳ねた。 心臓と一緒に身体も跳ねて、跳ねたついでに持っていた手紙を取り落とし、拾い上げようとして体が製図台にぶつかり、そのせいで本棚までソレが押しやられ、バランスを崩し―― 「あ、わわわっ! どうしよう、どうしよう、ああ……っ」 狭い場所で大きく動けばあらゆるものが引きずられ、時には重力に従い落ちもする。 咄嗟に掴んだ何かの布が、べしりと音を立てて引き剥がされた。 それが額縁を覆う白布だと気付くよりさきに、ふたりの興味はその《中身》へ向かっていた。 「肖像画、かしら?」 「ふうん? コレって、アレ? 家族の写真の代わりみたいな?」 秘密の隠し部屋に飾られた、白布で覆われていた大きな絵画。 そこに描かれているのは繊細な衣装をまとった線の細そうな男と肘掛椅子に腰かけた女性であり、彼女のおなかは生命を宿した柔らかな曲線を見せていた。 「おねえさんってもしかして、破壊しながら何かを見つける天才?」 「うぅ……っ」 興味深げなリーリスの赤い瞳に晒されて、ひたすらサシャは顔を赤くする。 「それにしても、なんだか意味ありげだけど、ずーいぶん古い感じ」 言いながら、彼女は小さな白い手で肖像画の縁をなぞる。 なぞりながら、くすりと笑う。 「この部屋だけ《個性的》だね。他はみーんな一緒なのに。だけど、モフさんたちをさらってる《彼女》の部屋っぽくはないかなぁ?」 「そうよね……うん、そうなの。《彼女》っぽくは全然ないの。むしろ……なんだか《元の持ち主さん》の匂いを残している気がする」 この部屋の趣味は、なぜかひどく懐かしい。 「ところで、モフさんたちを探すんなら、そろそろ場所を移さない? なんだかさっきからずっと甘いニオイがしてるの」 「甘いニオイ?」 言われてみれば確かに、どこかからか甘い香りが漂ってくる。 「モフさんたち、きっとそこに集めれてるんじゃないかしら? 歩きまわってるのにちっとも姿が見えないんだもん。物音だってしないしねぇ?」 目につく扉をとりあえず片端から開けていったというリーリスは、そのほとんどの部屋がベッドとドレッサーとサイドテーブルと肘掛椅子で構成されていたと告げた。 「パーティをするためだけのっていうか、パーティ客が宿泊するためだけの屋敷っていうなら、なんか贅沢だよねー? しかもソレを異世界に作っちゃってるわけだし?」 それに、と彼女は続ける。 「犯人さん、見つけたけど逃げられちゃったし? ここにはこなさそーだし」 「え、会ったの!?」 「でももうどこか行っちゃった。捕まえよーかと思ったんだけど、見つかんないかな」 「逃げちゃったんだ」 それを聞き、ふとサシャは思いつきを口にする。 「ねえ、リーリスちゃん。どうかな? お茶会、こっちでも盛大に開いてみない?」 「ん?」 「うんと楽しいことしたらね、ふらっとかくれんぼの犯人も出てきてくれるんじゃないかな? アニモフちゃん達も一緒なら尚更だと思うの」 それに甘いものを食べたらもっといい案が浮かぶかもしれないと思う。 「……いいかもね、ソレってちょっとやりたい感じ」 そうときまれば、急がなければ。 甘い香りの漂う甘い甘い屋敷の中で、これ以上ないくらいに甘い楽しくにぎやかな茶会を開こうと決める。 リーリスが腕を絡めてくるのを可愛らしいと思いながら、サシャは見知らぬ誰かの秘密の部屋から這い出した。 * 目が覚めた時、あたしはお菓子とぬいぐるみに囲まれていました。 窮屈で冷たくて厳しい、あの白くて固いお家にはない、甘くてやわらかくて温かいものばかりでした。 あたしはたまらなく、それがほしいと思いました。 * 「おれにとっては、あの城と《彼女達》が世界の全てだったからな……」 既にこの屋敷に潜入しているリーリスやサシャを探すことなく、ハルシュタットは――青銀の猫ではなく華奢にしてしなやかな肢体を持つ彼は、長い髪をなびかせ、館内を興味深げに歩く。 足元では細身のブーツに嵌められた銀の環飾りが互いに触れ合って可憐な音を立てていた。 石造りの冴え冴えとした城と木目調を前面に押し出したこの建物とでは、違う部分の方がはるかに多い。 ずらりと並ぶ扉に真っ直ぐな廊下、方向感覚を狂わせるモノはなくただ規則的に区切られているだけのこの建物は、複雑な構造をしていない。 それでも古城での日々、過去の記憶が刺激される。 選ばれた調度品には職人のこだわりが感じられるのが、その誘因かもしれない。 「次はここか」 別棟へ向かう渡り廊下の手前の階段を上り切り、廊下を覗きこんだ先に見えた華奢な扉に手をかけた。 「ん?」 誰かの生活する気配は微塵もなかった部屋たちの中、ここにだけは摘まれたばかりの花が飾られていた。 ベッドにも砂糖の花びらが散っている。 「……あの子の部屋、なのかな」 立ち入り、そばに暖炉に近づけば、消し炭ひとつなく磨かれたマントルピースにプリンとパイを持った少年と泣いている少女たちのモチーフが彫り込まれているのが見て取れた。 彼女たちは泣いている。 泣いているのに、その少年のそばにいる。 「……おれが愛した花嫁達も、みな、《神隠し》と称されていたのか?」 唇から微かにこぼれ落ちた独白は、聞くモノも、応えるモノもいない《問い》だった。 これこそが、この『事件』に関わった時からずっとチリチリと音を立て微かな痛みを誘ってきた《想い》のすべてだ。 愛おしくて愛おしくて、どうしようもなく哀しいあの時間たち。 白亜の城、湖畔に聳え立つ豪奢にして壮麗なるあの場所で、自分は花嫁たちの《愛》によって糧を得ていた。 彼女たちは、自分の糧となり、礎となった。 ではアレも、《神隠し》と呼ばれたのか。 ではこれも、《愛》のカタチでしかないのではないだろうか。 だとすれば、やはりそこに悪意なんてない。 どこにもない。 「だから早く終わらせよう……」 リーリスが告げた言葉を思い出す。 犯さなくていい罪、知る必要のなかった悲しみ、そんなものをあの赤い靴の少女が負う可能性を、ハルシュタットは早々に潰してしまいたかった。 「捕まえたい」 両の手を見、呟きをこぼす。 瞬間。 「え」 手の中に、少女が落ちてきた。 甘い香りと舞い散る花びら、ソレを予兆にして彼女が偶然差し出していたハルシュタットの腕の中にすとんと収まった。 「……こんにちは」 「――っ!」 彼女は眼を大きく見開いて、パクパクと一生懸命に何かを喋ろうとするけれど、それが声に変わることはなかった。 「申し訳ない。素晴らしい屋敷だったから、勝手に入らせてもらった」 優雅に微笑み、告げた言葉に、彼女は何度もまばたきを繰り返す。その頬は見る見るうちに赤く染まっていった。 「あなたが今のここの主なのかな?」 「……あ、……ええと……住んでるってことならそうなるけど」 しどろもどろの彼女にそっと微笑みかけて、言葉を続ける。 「そう。では、ずっとここに?」 「気が付いたら、ここにいたわ。あたし、この屋敷に呼ばれたのね。ここってすごいわ、すっごくかわいいわ、可愛くて、温かくて……」 まるで、と彼女は続ける。 「まるで夢の国みたい」 その視線は遠く、どこかに投げかけられる。夢ではない――おそらくは自身の出身世界に対する痛みや悲しみや憎しみめいたものがちらりとだけその瞳に揺れた。 「……夢の国、か……あなたはここにひとりで?」 「ひとりだけとひとりじゃない。ぬいぐるみたちを集めてるの……すごいのよ、ぬいぐるみが勝手に動くんだもの。一体どんな魔女がどんなスパイスで作り出したのかしら」 ふわっと嬉しそうに応える彼女はきっと、彼女の世界の物差しでここを計っている。 彼女は、ここが本当はどこなのかを知らないでいる。 「ところでとてもいい香りがしないかな?」 「え?」 「焼き立てのお菓子が持つ、とても甘くていい香り。……あなたではないのかな?」 「……お茶会は、したわ……でも、知らない……こんな、いい香り」 「それじゃあ、行こうか。おれも気になるから。“美味しい”って大事だよね」 彼女を下ろし、その手を取って、ハルシュタットは歩き出す。 懐かしくて優しくて温かくておいしい焼き菓子と紅茶の香りに導かれるまま、ふたりは共に長い廊下を歩く。 * ソレは初めて知ったぬくもりでした。 * 「イチゴのケーキだわ、うん」 ティリクティアは館の外観をしみじみを見上げてひとり頷いた。 既に仲間たちは全員この屋敷の中にいる。 「あれ?」 ふと、鼻先をくすぐる甘い香りに釣られた。 ソレは二階のバルコニー辺りから漂ってきているみたいだ。 引き寄せられる、くすぐられる、コレはなんだろう。 何が起こっているのか知りたくて、扉を開けてすぐの食堂から右手側の通路を辿ったところで、天井近くの壁に掲げられたタペストリーに目が止まった。 「なに、あれ?」 積み上げられたパイやたくさんの黒ツグミ、王様の前でパイから飛び出す黒ツグミ、金貨を数える王様とひとりで何かを食べる女王様、それらひとつひとつに物語が感じられ、すべてを合わせてひとつの物語になっているようだった。 やや色褪せたタペストリーの中に描かれたコレは一体だれの趣味なのか。 タペストリーを追いかけるうちに、気づけば階段を上り、扉の並ぶ狭い通路を幾度も折れ曲がっていた。 そうして辿りついた先。 目の前に突如姿を現したその両開きの大きな扉は、他の何よりも重厚にして華やかな装飾が施されていた。 手を伸ばし、押し開いたその瞬間――あふれた光と音と甘やかな香りに包まれて、一瞬、別の世界の扉を開いてしまったかのような錯覚に陥る。 「こんにちは?」「こんにちはー」「おちゃかいによーこそ」「いらっしゃーい」 天井にいくつも掲げられた真鍮のシャンデリアはまばゆい光を放っている。 花と花と花たちに囲まれて、白いクロスが掛けられた白いテーブルを取り囲むのは、ヒツジやネコやクマ型のアニモフ達だった。 彼らは首や頭に花を飾られドレスアップをされて、そこら中のイスにぎゅうぎゅうと座っていた。 その手にはスコーンやクッキーが握られ、その口の周りにはたくさんのカケラがくっついている。 「……お、お茶会?」 「そう。ティアは三番目だよ」 「え、あ、リーリス!?」 いつの間にそこにいたのだろう。 モフモフと動きまわったり、ひとつのイスに群がったりするアニモフ達を横目に、彼女は優雅にひとり肘掛椅子にすわり、サイドテーブルに置かれたクッキーをつまんでいた。 アニモフ達にコレといった危害は加えられていないらしいことにとりあえずはホッとするが、何が何だか分からないのは同じだ。 「あの子より先にティアちゃんが到着だね」 大ホールの奥の通用口から、サシャが大きな白いプレートを抱えてやってきた。 「サシャ?」 「たった今新しいスコーンが焼けたところなの。アツアツもすごく美味しいのよ?」 「そーだよ」「サシャのおかしおいしーよ」「こっちおいで」「おいでよ」「なくなっちゃうよ」 「わ、ちょっと待って」 クマとネコに手を引かれ、ひつじに後ろからきゅっと押し出され、ティリクティアは驚きながらもリーリスの隣の椅子に腰を下ろした。 「コレ、全部サシャが?」 「大ホールの向こう側に厨房があるの。アニモフちゃん達に協力してもらって、チョコチップや蜂蜜もたっぷり使えたよ」 「すごいでしょ? リーリスも驚いちゃった」 「旦那様もアフタヌーンティをとても愛してらしたから、得意になったの」 サシャにとっての《お茶の時間》は、敬愛する大切な相手に喜んでもらうための時間だったと懐かしげに教えてくれた。 そんな彼女からもう少しでアップルパイも焼けそうだと聞かされ、 「そう言えば、いろんなところでパイの絵を見たわ」 「タペストリーに暖炉のレリーフに絵画、ずいぶんたくさんあったよねー」 たくさんのツグミたちが飛び出すパイに、手袋をはめた仔猫たちがつかんでいるパイ、たくさんの紳士が切り分けるパイに、男の子に指を突っ込まれた大きなパイ。 とにかく至る所にパイが描かれていたと指折り数えて挙げていく。 「ツグミに仔猫に紳士に男の子……? あ!」 単語を繰り返しながら、そこでカップに紅茶を注いでくれたサシャの動きがピタリと止まる。 「それって、マザーグースだね」 「え?」 「イギリスの童謡なの。それはそれはたくさんの歌があってね、子供たちは小さい頃からいろんな歌遊びをしたわ」 「リーリスは読んだことあるよ。壱番世界の女の子ってお菓子でできてるんだっけ?」 「え、そうなの!?」 ビックリしたティリクティアに、サシャはふわっと微笑んだ。 「このお屋敷を建てたご主人様は、もしかすると壱番世界のイギリスの方なのかもしれないわ。それもとびきり甘いモノ好きな」 ずっとどこか懐かしさを感じていた理由が、サシャにはようやく理解できた気がした。 自分の仕える旦那様の屋敷に流れる空気と似たモノがここにあったせいだ。そして自分の慣れ親しんだ歌遊びが随所にちりばめられていたせい。 「そうだ、マザーグースの中にはね、みんなで輪になって踊るモノだってあるんだよ」 そういって歌を口ずさもうとしたが、まるでそれを遮るように、再び大きく大ホールの扉は開かれた。 「え」 現れたのは、赤い靴を履いた女の子。 「あ、かくれんぼのこだ」「おかえりー」「こんどはだれをおさそいしたの?」 警戒心のカケラもなく、アニモフ達はわらわらと彼女の元へ近づいて行く。 けれど、 「なにを、してるの?」 そんな彼らの歓待には無反応で、ただただ彼女は顔をこわばらせ、きつい視線で睨みつける。 「あたしを捕まえに来たのよね? お母様のさしがね? あたしをまたあの部屋に閉じ込めるの?」 「あなたがどこの誰かも分からないのに、どーしてそんなことできるの?」 「私達はね、居なくなった子を探しに来たのよ。この子たちがヒドイ目にあってたら、あなたのこと、うんとうんと怒ろうかと思ってたけど」 どこからともなく取り出したハリセンを突き出して、ティリクティアは鼻を鳴らす。 「これでスパーンって殴って根性叩き直すつもりだったけど、やめたわ」 「ちゃんとヒトの話は最後まで聞くべきじゃなぁい? 話し半分で逃げちゃうなんてよくないよー?」 リーリスはにっこりと微笑みかける。 「帰る場所が分からなくなった迷子さん、ここがどこだか教えてあげるから、ちゃんと聞いてね?」 そんなふうに差し出される言葉に後ずさりしかけた時、 「あー、いいにおいー」 足元から、ほにゃっとした声が上がった。 視線を落とせば、そこにはミルクオレンジの湖で出会った仔猫が寄り添い自分を見上げていた。 「美味しいもの食べながらさ、話きこーよ」 「待っていたんだよ、ワタシたち」 「信じらんないかもしれないけどね。まずは座って、それで聞いてほしいわ」 サシャに続き、ティリクティアも言葉を向けて、 「ディアスポラ現象のこと、ロストナンバーのこと、異世界のこと、他にも色々たくさんビックリするお話があったりするわけ。ね、聞いておくべきじゃない?」 だから逃げるなと、リーリスは言外に告げる。 告げて。 そうして、席に着いた彼女のために語りだす。 ティリクティアやサシャの言葉を間にはさみながら、世界図書館のこと、旅人のこと、失われた居場所のこと、そうしたたくさんのことを少しずつ聞かせた。 ここですべてを語ることなどできない。 けれど、少女はようやく自分をさす単語を見つけた。 「あたしは、ロストナンバー……」 「おれもさ、きみとおんなじ。おれたちみんな一緒」 だから淋しくもないよ、と青銀の仔猫は笑い、 「いろんな人と出会っていろんな美味しいモノが食べられるし。それでさ、美味しいモノっていろんな人を“招いて”、そうして食べるのが一番なんだよ」 ただ一方的に攫うのではなく招くのだと、揺れる彼女の瞳を見て告げて。 沈黙が降りる。 彼女は眼を伏せ、拳を作り、微かに震えた。 そして。 「……ごめん、なさい」 ほとり、と彼女の瞳から涙が一粒こぼれ落ちる。 「わあ」「どうしたの」「なかないでぇ」「だいじょうぶ?」「どこかいたいの?」 おろおろするアニモフ達に囲まれて、彼女はもっふりとした腕に抱きしめられた。 彼らの言葉を、彼女は理解できない。 けれどぬくもりも優しさも伝わる。分かる。気づく。 この世界に放りだされた自分を、この子たちはこの子たちなりに気遣ってくれていたのだと分かり、更に涙は止まらない。 自分はこの子たちを魔女が作ったぬいぐるみだとしか思わなかったのに。 「泣かないで」 ハルシュタットは彼女の頬に伝う涙をざらつく舌でなめとり、額をすりよせた。 「きみは知らなかっただけ。でももう知ったから、だからもう大丈夫、だよね?」 問いかけは続く。 「さて、きみの名前を聞いてもいいかい? おれはハルシュタット。食べるのが好きな猫だよ」 紡ぐ。繋ぐ。彼女のために繋がりを作る。 「ワタシはサシャ・エルガシャと申します。お屋敷でメイドをしています」 「私はリーリス・キャロン。リーリスでいいよ」 「私はティリクティア。ティアって呼んでね」 アニモフ達も交えた簡単な自己紹介は巡り巡って、そして最後に少女の元にやってきた。 彼女は、赤い靴を履いた彼女は、 「あたしは……あたしの名前は、キャロル・シュガー。白の国を治める領主の13番目の娘」 アニモフ達にぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、彼女は自分の名を口にした。 「さあさ、お茶にしましょ? 今度こそ、みんな一緒に楽しいお茶会にしなくっちゃ」 たくさん招いて、たくさんの楽しい時間を。 そんなサシャの提案は、わぁッと湧き上がるハルシュタットとアニモフ達による盛大な拍手でもって迎えられた。 「甘くておいしい時間だよ! さあ、サシャ特製のスコーンとマフィン、それからクッキーを召し上がれ! もちろん紅茶だって、ほら、この通り」 「!!」 彼女の持ち込んでいたティーポットからは、紅茶の代わりに万国旗がずらりと飛び出す。 魔法使いか手品師か。 「このポットからはなんだって飛び出すんだから」 「お菓子も飛び出す?」 「もちろん」 目を輝かせたハルシュタットに、サシャは笑って頷き、ポットから色とりどりの宝石みたいなキャンディをあふれさせた。 それはとても楽しいひと時。 温かくて優しい時間。 涙もすべて乾いてしまうくらいに、笑顔ばかりで満ちた時間。 「……そう言えば、あたしの背中を押してくれたあの人……あの銀の髪のヒトはどうしたんだろう?」 いつの間にか姿を消していたというキャロルの不意の一言に、サシャは目を輝かせ、ティリクティアは首を傾げて、自分たちの見知らぬ《人物》の登場に不思議だとはしゃぎ出す。 そんな彼女たちの言葉を素知らぬ顔で聞き流すハルシュタットに、リーリスだけが意味ありげな視線をよこした。 「ネコちゃんは知ってるんじゃない?」 「さあ、なんのことかな」 とぼけておいて、あとはもうお菓子に夢中になってしまった彼の傍らで、彼女たちの夢見がちな議論はさらに白熱し。 ついには、この屋敷に客を呼んで誰か見たことがないか聞いてみようという話にまで発展し。 ホールにいたアニモフ達の友達の友達のそのまた友達までも誘うべく、招待状代わりの小さなお菓子をモフトピア中に配り歩くという一大イベントとなるのだが。 ソレはまた、別のお話。 そして。 結局銀の髪の青年を見つけることなく終えた茶会の後。 ターミナルの一角に佇む《幽霊屋敷》をひとり訪れたハルシュタットは、そこで偶然ブルーインブルーのとある断崖絶壁の島に佇む《奇妙な館の噂》を耳にするのだが、それもまた別のお話、である。 END
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