先行く花篭の少女達が色鮮やかな花弁を赤色煉瓦の道に撒く。慣れ親しんだハルシュタットの街の白壁と緋色屋根に別れの眼差し向けて、ディアナは黒髪飾る白百合のヴェールを風に撫でられるまま、背筋を伸ばす。頭巡らせ、真直ぐに前を向く。遥かな霊峰から雪の女神が吹き降ろす氷の風は、今日ばかりは火照った頬に心地よかった。 満開の花で飾られた輿の上、真白な衣裳纏い、花嫁は街外れの湖畔の古城へと送り届けられる。 花篭の少女達が、端々に雪残る森の小路に花を撒く。赤の煉瓦道がとりどりの花に彩られる。少女達の腕や脚に巻かれた金色の鈴が、しゃらしゃらしゃら、水流れるような音で花嫁行列を包む。 花輿を担ぐは父と兄達、道案内の役は母。花嫁の路を彩る少女達は近所の子達。花嫁の輿に静かに続いて、街の長達。この街の花嫁行列につきものの、太鼓やハープやバイオリンの楽は無いけれど、 (城主さま) ディアナの胸は冬空輝く今日この日、初めて会う城主への想いにさんざめいている。それはまるで、千の祝鐘が鳴り響いているかのよう。 「ディアナ」 輿担ぐ父が、思わしげな視線を寄越すのに、ディアナは柔らかな微笑みで返す。大丈夫、と紅で彩った唇を動かす。大丈夫、お父さん。 少し不安はあるけれど、心は晴れがましい想いに満ちている。 街の顔役から、会ったこともない湖畔の城主の花嫁にならないかと半ば懇願じみて言われた時は、何よりも驚きが勝った。 いつからか、街外れの古城に居しているという城主。自らを幽閉するが如く城に籠もったまま、けれどこの街を護っているという城主。 (確かに) いつだったか、大きな戦乱が起こった時も、周囲の街が賊に襲われた時も、この街だけは静かだった。ハルシュタットの城主は嵐でさえも退ける、と言うのは街の古老の弁。それが嘘か真か、ディアナにはわからない。けれど、その平和に包まれ、家族に愛され、ディアナは今日までを生きてきた。 梢を雪に飾られた樅の緑が冬陽に揺れる。樹々の隙間に、どこまでも青い湖の水面が漣翻し光る。湖に踊る白鳥のような、白亜の城が見える。 (ああ、でも) 城主さまがあの古城みたいなお爺ちゃんだったらどうしよう、とディアナはちょっと眉を寄せる。でも、それでも、 (私を育ててくれた家族が、街が安らぐなら) 心を籠めてお仕えしよう。 そう思い定めるディアナを乗せて、花輿は静かに森の小路を進む。やがて古城の大門前の橋に辿り着く。錫の灯篭に照らされた橋を渡り、翼持つ獅子の像が護る大門を潜って、城主に見えることが出来るのは、花嫁だけ。 「ディアナ」 父が、母が、兄達が、花篭の少女達が、花嫁をそれぞれに抱きしめる。 「幸せよ」 ディアナが笑えば、母が泣き崩れた。父と兄達がきつく手を握った。離すまいとするかのような男達の手を、ディアナはそっと解く。まるで生贄にでもなるみたいね、とこっそり笑う。泣かないで、と母の肩を抱く。 「私は城主さまの花嫁になるんだから」 平凡な農家の娘に過ぎない私にとって、それはきっととても栄誉なこと。 重い音立てて、大門の扉が開く。門の奥の薄闇に、一人立つ影がある。 別れ難い家族と別れ、ディアナは一人で橋を渡る。まるで大きな隧道のような門を潜る。門の暗がりを進む間に、何処かで何かのからくりが動き、背後で門の扉が閉まる。不安か期待か、どきどきと胸が高鳴る。神聖な儀式みたいよね、と自らを励まし、門の先を目指す。 「――ディアナ」 門の向こうに立つ人影が、名を呼んだ。深く低い、憂い秘めた静かな声に、ディアナは思わず足を止める。ヴェールの下から、その人を覗き見る。 青空をそのまま集めたような鮮やかな光の中に、その人は居た。 門の奥は、花園となっている。空から降り注ぐ陽の光を青く跳ね返す、不思議な銀の髪の青年が、どこか途方に暮れたように立ち尽くしている。その華奢にも見える細身に纏うは、花嫁迎える正装。腰ほどまである、一つに結われた髪が冷たい風に踊る。 お爺ちゃんじゃなかった、と思うよりも、先。 助けを求めながらも拒否しようとしているような、ひどく悲しい青い眼に、惹かれた。 「城主さま」 歩み寄ろうとする。城主の青年が押し留める形に片手を挙げる。門を潜り終えない間に、足を止めさせられる。城の傍の湖と同じ深い青した眼に、青銀の睫毛が陰を落とす。何よりも重い決意を促すかのように、その眼を上げてディアナを見詰める。 本当に、と城主の青年は唇を開く。 「後悔しないかい?」 何かに怯えるような城主と向かい合い、ディアナはしっかりと胸を張る。押し留めようとする手の指示に逆らい、歩みを進める。城主のその前に、立つ。 優しい母とよく似ていると言われた緑の眼で青年を見仰ぐ。働き者の父に緑育てる術を習った指で、青年の手をそっと取る。後悔など、といつか兄が歌ってくれた詩のように朗らかに言葉を紡ぐ。 「いたしません」 花嫁のヴェールに青年の繊細そうな指先を導く。ゆっくりと、白い紗を上げてもらう。 「私は、貴方の妻となりましょう」 私は、貴方を愛しましょう。 ディアナは、真っ直ぐに城主の青年を見詰める。この人の眼は、なんて綺麗な青なんだろう。なんて寂しい眼をしてるんだろう。そう思って、ふと照れた。私はこの人を見詰めすぎている。 「すみません、……城主さまが、あんまり綺麗だから」 それでも眼を逸らすのが惜しくて、見詰めるままに慌てて言うと、憂い宿した眼が驚いたように見開かれた。幼い少年のようにきょとんと瞬きする。瞬きして、雪が溶けるようにふわり、笑み崩れる。 「おれよりも、ディアナの方が綺麗だ」 ディアナが思わずそっと伸ばした腕を、青年は受け止めてくれた。抱きしめさせてくれた。はしたなかったかしら、とはにかんで笑む頬を、優しい手で撫でてくれた。 そうして、初めての口付けを交わした。 ――これは、『ハルシュタットの青き護り主』の花嫁の物語。 二人で庭に花を植えた。二人で城の塔の天辺まで探検した。二人で流星の一夜をテラスで過ごした。二人で、互いの好きなものについて語り明かした。 城主が執務室から疲れ果てて出て来た時には手製のハーブの茶を淹れた。 街の家族恋しさにひっそりと泣いているところを見つけられ、城主が詫びた時、ディアナは怒った。 「私はあなたの妻なのです。だからどうか、謝ったりしないで」 それはぎこちなく、初々しい、二人の日々。 ディアナはハルシュタットの城主を、親愛籠めて、 「ハルさま」 と呼んだ。 ハルシュタットの城主は華奢な見かけによらず、大食漢だ。 寡黙なメイドが運んでくる丸鳥の香草焼きを、木の実入りのパンをミルクのスープを、籠一杯の果物を、一欠けらも残さず口に入れる。毎食それなのに、日に日に城主はやつれた。滑らかな頬が削げ、眼の下に黒い隈が沈み込む。元より白い肌が血色失い、青褪める。 「ハルさま」 ある日、ディアナは意を決する。食事終えて尚、空腹訴える城主の手を取る。病気ではないのかと問うよりも先、 「だめ、だ……」 城主はディアナの手を振り解いた。青褪めた顔を片手で覆い、椅子を蹴って立ち上がる。怯えるような一瞥をディアナに向けて後、食堂を飛び出す。 「ハルさま!」 「おれから離れて!」 悲鳴に近い、錯乱した城主の訴えを退けて、ディアナは後を追う。 大理石の廊下を駆ける。森や空の絵画で埋められた廻廊を、月光のもと草花が憩うて揺れる中庭を、花象る柱が高い天井支える大広間の前を、横切る。古城は石で出来た巨大な迷路のよう。 「ハルさま」 繰り返し名を呼ぶ。長いスカートの裾が足に絡む。裾を踏んで何度か転ぶ。唇を噛む。スカートの裾を短く結び、再び駆け出す。 「ハルさま!」 悲しかった。あのやつれ方は尋常ではない。心労か、病か。酷い辛さを抱え込んでいるはずなのに、どうして私には何も言ってくれないのだろう。愚痴を吐いて、弱さを曝してくれないのだろう。支えたいのに。あの人の肩を支えて、二人で立っていたいのに。 あのままでは、きっと死んでしまう。 幾つもの扉を潜る。幾つもの廊下を駆け、幾つもの階段を登って降りた、その先。城の奥の奥、黴で黒くなった地下への階段を最後まで降りた所に、愛する夫は居た。城の広さと同じほどの、広大な空間。暗闇に占められたその広間の央。蒼白く浮かび上がって、奇妙な形の魔方陣。 「ハル、さま……?」 「来るな!」 禍々しささえ感じる魔方陣の縁で、城主の青年は自らを押さえ込むように蹲って、叫ぶ。 「来ちゃ、駄目だ」 両手で顔を押さえつける。掠れた声で言い、呻く。 「……街に帰って」 「嫌です!」 衰えた身体から必死に搾り出したであろう言葉を、ディアナは絶叫に近く遮る。 「どうしてそんなこと……!」 「だってこれ以上傍に居られたら!」 来るな、と制止の形に伸ばされる腕に構わず、ディアナは足を進める。 「駄目だったら!」 泣き出しそうな眼がディアナを見仰ぐ。 「喰らって、しまう」 絶望浮かべるハルシュタットの傍ら、ディアナは膝を突いた。 「おれは、――」 城主の青年は息と共、自らの正体を、真実を吐き出す。 この街を護る為、この城に強制的に閉ざされた魔族であること。 街護る魔力を得る為、異性の血肉を必要とすること。 「花嫁、なんて言葉で隠して」 街を護る為、城主を生き永らえさせるため、ディアナは生贄として差し出された。 「でも、……おれは、」 青の眼が歪む。女神畏れる使徒のように、膝で後ずさる。 「きみが好きだ」 瞳を逸らしたくて、逸らせずに、城主の青年はディアナを見詰める。許されない告白をしたかのように、震える息を飲み込む。 「喰いたくない……!」 限界に達した飢餓から逃れようと、叫ぶ。首を横に振る。 「だから、どうか、」 逃げて、の言葉を、ディアナは遮る。腕を伸ばす。大切な硝子細工に触れるように、ハルシュタットの城主をそっと抱きしめる。重い真実を知り、色失った唇で、気丈に淡く微笑む。 「愛しています」 その言葉を口にすれば、唇は更に甘くほどける。初めて会ったあの日に、この人を愛そうと決めた。だから、 「どんな結末も、覚悟していました」 地下の暗闇に、魔方陣が蒼白く光を放っている。魔物である青年を喚んだものか、それとも、青年をこの地に封じるためのものか。炎のように揺れる光をその緑の眼に煌々と宿して、ディアナはハルシュタットの城主の両の頬に手を遣る。飢餓に削げた頬の冷たさが痛々しかった。泣き出しそうな湖水色の瞳が、愛しかった。 「ハルさまが生きてくださるなら、」 夜闇に燃える月光よりも強く、ディアナは微笑む。 「街が安らぐのなら、」 息の掛かる間近で、決意を言葉にする。 「私の全てを、ハルさまに差し上げます」 笑み刻んだ唇を、城主の冷たく乾いた唇に重ねる。頬を寄せる。その代わり、と僅かに潤んだ声で、祈るように最期の願いを囁く。 「私の他には、もう誰も殺さないで」 耳元で、城主が深く深く、息を吐き出す。そのまま紙風船みたいに萎んで死んでしまうのではないかと思って、ディアナはその背中を両腕でかき抱く。 「……必ず、果たす」 花嫁の抱擁に励まされ、ハルシュタットの城主は震える声で応える。花嫁の覚悟を受け入れる。床に落ちていた腕が持ち上がり、自らの背中へおずおずと回されるのを、次第に熱と力が籠もるのを、ディアナは穏かな歓喜で以って迎える。 くすり、笑む。 「はしたなかったかしら」 スカートの裾を結わえたままだったことを思い出す。健康的な腿が半ば剥き出しになっていたことを恥じらい、ちょっと待ってね、とはにかんだ笑みで衣装を正す。乱れた髪を撫で付け、その場にきちんと膝を揃える。しっかりと胸を張る。 「私は、ハルさまを、この街を、愛しています」 まだあどけなさの残る顔を花綻ぶような笑みに満たす。両腕広げ、ハルシュタットの城主をその胸に招く。愛する城主の、愛する街の湖と同じ色した美しい瞳が近づく。掌に、恭しく唇が触れる。額に頬に唇に、首に、キスが降る。 ハルシュタットの城主の心に想い残して、ディアナの命は、そこで絶える。 ――これは、『ハルシュタットの青き護り主』の最初の花嫁の物語。 終
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