● 「気持ちのいい日ね」 風はやさしくブリギットの頬をなで、春の陽は綺麗な金髪をさらに輝かせていた。そよ風に湖面は乱されることもなく、水中には逆さまのお城が綺麗に映っていた。 ハルシュタットの城。 この街を守ってくれているお城。そこに彼女は嫁ぐのだ。 「ありがとう、お父様。ずっとずっと幸せだったわよ」 昨晩の内に散々泣いて、涙は枯れ果て目も鼻も真っ赤な父親の額にキスをする。 「ありがとう、お母様。もっと幸せになってくるわ」 頬に母のキスを受けながら、微笑んだ。 城主の妻となるのだ。この上ない幸せだろう。 人となりはよくわからない。だけど、この街は平和で穏やかだ。 (悪い方じゃないわ) 不安がないといえば嘘になるけれど、同じくらい幸福な希望にあふれているから大丈夫。 (大丈夫と思っていたのだけれど) 家族と最後の別れをして、いざお城に入ると不安は一斉に押し寄せてきた。白亜の古城の外側は見慣れていたけれど、彼女がこの城の中に入るのは初めてのことだ。 (ちょっとくらい緊張しちゃうのは仕方ないわ、ブリギット。大丈夫よ) 自分を鼓舞して、気合いを入れるのにブリギットは背筋を伸ばした。姿勢を正しくすれば気持ちもしゃんとする。 「ただいま城主様が参ります」 キイィ…… 重たそうな扉の開く音がした。慌ててブリギットは腰を低くして頭も下げる。床を見つめながら色々な思いが頭を駆け巡る。 (あぁどんな方なのかしら……) ギュッとドレスの裾を握りしめる手はじんわり汗ばんでいた。 城主の姿は父や母でさえよく知らなかったけれど、古くから続くお城の主だ。 (ちょっとくらいおじいちゃんでも平気よ) おじいちゃんと仲良くなるのは苦手じゃない。のんびり暮らせそうでいい。 (いかつい髭の熊みたいなおじさんでも我慢するわ) おじさんだって嫌いじゃない。手入れのされた髭はダンディでいい。 「きみが、花嫁?」 (あら? 思ったよりお若い声をされてるわ) 「はい、旦那様……」 ゆっくり顔をあげると、ホールの階段の上にすらりとした青年が立っていた。 絹糸のように流れる青銀の髪。湖の青を更に濃くしたようなサファイアの瞳。 (綺麗な人) でも、綺麗な顔立ちに浮かべている表情は物憂げなもので、彼は挨拶をしようとするブリギットからさっと目を逸らすと言った。 「花嫁なんていらない」 「え?」 「いらない」 彼はそう言い捨てると、踵を返して自室へと戻ってしまう。 バタン 広間に虚しく響く音。 残されたブリギットと使用人達は呆然と立ちつくす。 (どうしましょう) つい先刻、今生の別れをしてきたばかりの両親の元に帰ればいいのだろうか。 (それはそれでいいけれど、ちょっとみっともないかしら) 「奥様」 (あら。旦那様にいらないと言われたのに私は奥様でよいのかしら?) いち早く立ち直りを見せた執事が落ち着いた声で微笑んだ。ほんの少し引きつっているような気もしたが仕方ない。 「お疲れでしょう? どうぞ部屋でお休みくださいませ」 「私、こちらにいてもよろしいのでしょうか?」 「もちろんでございます」 「帰らなくても?」 「そのような命は受けておりません」 (確かに帰れとは言われなかったけれど) 居心地が良さそうには思えなかったが、そのままお城の中の一室へと案内される。 (……) 一度、城主の部屋を振り返ってみるが、物音一つ聞こえなかった。 「私、失礼な事をしてしまったのかしら?」 「いえ……」 用意されていた部屋で花嫁衣装を脱ぐのを手伝って貰いながら、ブリギットはメイドに問いかけた。まだ彼女も困惑しているようで曖昧に微笑んでいる。 「これでも作法には自信があったつもりなのだけど……それなりに修行はしてきたのよ。それはもう厳しかったわ」 昔、高貴な身分の方にお仕えしていたというご婦人から作法をみっちり叩き込まれた。言葉遣いから立ち振る舞いまで。歩くの一つにあんなに意識を集中させた事はなかった。 「少しでも間違えようものなら、細い鞭で手の甲をピシャリと叩くの。とても痛いのよ! 鞭の先生なのかと思ったくらい!」 冗談めかしてそう言うとメイドの少女はくすくすと笑った。 「奥様は立派な貴婦人でしたよ」 「本当に? ありがとう。でも、それなら私、物凄く嫌われてしまったのかしら?」 ブリギットが首を傾げると、メイドも首を傾げた。 「貴方は私の事を嫌いになった?」 「いえ、そんなとんでもない」 「よかった。それなら旦那様にも好きになってもらえるように頑張ってみるわ」 そう、今はとりあえずそうしてみるしかない。いらないと言われてしまったけれど、必要になれればいいのだ。 (私達、お互いがどんな人間か全くわからない状態なんですもの) これから互いを知り合えば何か道も開けるかもしれないとブリギットは思った。 ● ブリギットはそのまま城で生活をする事となった。いくつかの制限はあるものの――城主に拒絶された手前、彼の部屋などには流石に近寄れなかった――概ね自由に動き回ることが出来るようになった。 何度か城の主と鉢合わせることがあった。一番最初に気づいた時は、酷く怒られやしないかと気が気じゃなかったが、慌てて彼女が一礼すると、彼はぎこちなく会釈を返してきた。 「あの、旦那様」 「旦那様?」 (いけない。花嫁なんていらないと言われた方に旦那様はなかったかしら) 「あの、その、どうお呼びしたらよいでしょうか?」 「ハル」 ブリギットがあたふたと尋ねるが、拍子抜けするくらいあっさりと返答がきた。 「ハル様ですね。あの、私……」 何か話そうと思ったけれど、ハルは黙って微笑むと背中を向けて立ち去ってしまう。 (どういうことなのかしら) 城主はいつ顔を合わせてもそんな調子だった。ブリギットは段々と城の暮らしに慣れていった。立場は宙ぶらりんのままだったけれど。 ある嵐の夜のこと。 叩きつけるような雨に、ひっきりなしに続く雷鳴。お城は風で吹き飛んでしまうような心配はないし、雨漏りだってするわけがない。だけど、穏やかに眠るには少々五月蠅い。 「すごい雨……」 コンコン 「失礼します。まだ起きていらっしゃいますか?」 「えぇ」 「失礼いたします」 入ってきたメイドは小さなカップの乗ったお盆を手にしていた。 「あらそれ」 「カミツレ茶ですよ」 「おいしい……ありがとう」 ふわりとやさしい香り。口の中に広がる蜂蜜の甘み。 「ご主人様の指示なんですよ」 不安だろうが少しは心が安まればいいだろうと。 (気を遣ってくださったの?) 彼はブリギットを拒絶したというのに。いまだにまともに向き合ったこともないのに。 もう一口、お茶を含む。素朴な味は彼のぎこちない優しさを現しているようにも思えた。 また別のある日。 「どうしよう。こんな所で」 庭園の中に薔薇の咲き誇る高い生け垣の素敵な一角をブリギットは発見した。それは自然の迷路のように入り組んでいて、思いの外に広かった。気づけばすっかり道に迷ってしまっていた。 「よじ登るか、突き破るか……」 「服が汚れるよ」 「きゃぁ!」 「っ!!」 不意に声をかけられてブリギットが悲鳴をあげる。振り返ると同じように驚いている青年がいた。 「びっくりした……ハル様でしたのね。申し訳ありませんが道に迷ってしまいました」 「知ってる」 こちらだとハルは歩き出す。 「何をしていたの?」 少し振り返ってハルはブリギットに問いかける。 望まぬ花嫁に対する態度にしては棘がないなとブリギットはもう気づいていた。 今もただ純粋な疑問の声。 「散歩と、少し庭いじりを」 「庭師がやってくれるよ」 「えぇ、手伝いと称してこうして遊ばせていただいてるんです。あ、これ」 「?」 「この前はありがとうございました。お茶」 薔薇の側に植えられていたカモミールに気づいてブリギットは礼を言う。 「礼を言われる程の事じゃ」 「私、とても嬉しかったのです」 話しながら目の前の葉っぱにいた害虫の進路に落ちていた枝を繋げる。そのまま這わせてそっと地面に逃がした。 「殺さないの?」 「なるべくなら。いずれどこかで踏み殺されてしまう運命かもしれませんが、私はなるべく命は大切にしたいので」 だから、出来るだけこちらにこないでねとお願いする方が好きですとカモミールを指し、庭師から借り受けた木酢液も掲げてみせる。 「どうされました?」 彼は俯いて地面を見つめている。 「……命が大切なら、おれから逃げて」 「……」 消え入りそうな声だったけれど、物騒な事を言われた気がした。 部屋に戻ってからブリギットは考え込む。 (……何か変だわ) それから、数日。 ブリギットは意を決して、ハルに直接問いかけることにする。 「ハル様! お話が」 「ごめん」 「待ってください!」 逃げだそうとするハルの腕をブリギットは捕まえた。 「何故、私を拒まれるのですか? そんなに私の事がお嫌いですか?」 「……」 「貴方はいつも私に優しい。とても優しい。必要ない者になど冷たくされればいいのにです」 「おれは優しくなんかない。君はここにいるべきじゃないんだ」 「私、貴方の優しさも、ここの暮らしも、段々と好きになってきました」 「まだ間に合うから」 「貴方は何かを隠しておいでではありませんか?」 「隠してなんか」 「私、貴方が怯えていらっしゃるように思うのです。その隠された何かが私を傷つける事を」 「!!」 「違いましたか? 申し訳ありません。不躾な娘で。ですが、ハッキリ言ってくださらないとわかりません。私、きっと貴方の事がもうすっかり好きになっているんです。貴方の花嫁になれたらいいと……」 「おれの花嫁になっては駄目だ!!」 ハルの悲痛な叫び。その勢いにブリギットの瞳は見開かれる。 「愛しいと認めてしまったら、失うことになるんだ。愛しちゃいけないんだ」 「どういうこと、です?」 「花嫁とは言うけれど、結局は生贄なんだ」 ハルが語りだすのはこの街の真実。それは普通ならば信じがたい話であったけれど、ブリギットはそれで全てを納得する事ができた。 「そんなことが……」 「失うのは辛い。嫌だ。だけど飢えは押し寄せてくる。おそろしい。苦しい。何もかもわからなくなる。我慢するんだ。でも、いずれはあの飢餓感に全て流されて大切な人を喰らってしまう。このままだと、きみも、そうなる運命なんだ!!」 全てを語ったハルの瞳からは涙が止め処なく溢れていた。 (あぁ、だから、怯えて、寂しかったんだわ。だから、きっとこの方が今、飢えていらっしゃるのは……) 「それでも貴方を愛しましょう」 まだわからない事もたくさんあった。だけど、彼が愛されたいと願っていることだけはわかってしまった。 「どうして、おれはきみを殺すのに」 ハルは泣きじゃくったままブリギットの事を抱きしめる。その腕の力加減にさえ優しさを感じてブリギットも泣き笑いになる。 「大丈夫。大丈夫です。愛する貴方の為ならば、命を捧げても惜しくはありません。でも、それでも貴方が負い目に感じると言うのならば、それなら、これでおしまいにしましょう」 「おしまい?」 「そう、私で最後です。誰も殺さないでください」 そうすれば、もう彼は泣かずにすむだろう。 「私で最後にしてください。そうなさればいい」 ハルを真っ直ぐに見つめてブリギットは微笑んでいた。この人に微笑んで欲しいと思ったから。 それはきっと、誰よりも何よりも美しく尊い笑顔だった。 ● 愛し愛され、満ち足りた暮らし。 いつまでも続いて欲しかった。けれど、幸せな日々は終焉を告げようとしていた。 「最後の花嫁なんて物語みたいな運命じゃありませんか? 私、昔から素敵なお姫様の物語に憧れていたんですよ」 それが切ない悲恋の物語だとしても。明るい調子でブリギットは語りかける。 「貴方は貴方の務めを立派に果たされたのですから」 また泣きじゃくる愛しい人にキスを贈る。何度でも何度でも。彼の涙が止まってくれるのなら。 「笑ってください。私、笑顔のハル様が好きです」 最期のブリギットの微笑み。ハルの顔は隠れて見えない。だけど、彼の笑顔はちゃんとわかっている。 「愛しています」 さあ愛しい人。 泣かないで。 貴方が泣くなら、いつでも私は笑ってあげましょう。 最後の最後、物語の終わりまで。 終わりの時まで。
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