「シャンヴァラーラから増援の依頼があった」 贖ノ森 火城は重々しい口調で『導きの書』をめくった。「竜涯郷深部に根付いた正体不明の悪意、『トコヨの棘』――別名《異神理(ベリタス)》と呼ばれるそれと対峙し、破壊してほしい、とのことだ」 それは、大地に突き立つ巨大な楔のかたちをしているのだそうだ。 大きさにして、五階建てのビルほどで、色は、見ているだけで気分が沈むような、不吉な赤。 それだけでなく、棘の表面には、無数の『顔』がびっしりと張り付いて、恐ろしいほどの苦悶の表情で呻き声や叫びを上げ続けているのだといい、また、目にしているだけで息苦しくなってくるそれは、すべての【箱庭】に必ずひとつ存在し、その【箱庭】を内側から蝕んだ後、『発芽』によって破壊するのだそうだ。「このことを知っているのは、今のところ至厳帝国皇帝クルクス・オ・アダマースとその側近ロウ・アルジェントのみ。――そうだ、女神ドミナ・ノクスですら、このことを知らない。帝国の『侵略』の理由も、どうやらこの辺りにありそうだな」 その『理由』を自分たちだけで抱え込み、他の【箱庭】に説明し理解を求めるでもなく、あえて強引な手段を取る意味もまた。「その辺りも、可能ならば尋ねてくれれば、とは思うが……何よりも、無理はしないでくれ。前回読みきれなかった危険の意味が、今、『導きの書』には示されている。今回の『トコヨの棘』と対峙するものは、皆、ひとりとして余さず、己が内の憎悪に貫かれ、突きつけられたそれとの対決を余儀なくされるのだそうだ。それは、我が身の軋むような痛みだと、先の参加者たちが証言している」 それが、『憎しみ』の威相を持つ今回の《異神理》の力なのだと告げ、「だが、各人が突きつけられた憎しみを乗り越えることが出来れば、その精神の力によって、棘は少しずつ崩壊してゆくとも『導きの書』には出ている。無論、強大な戦闘力を持つものが、直接ぶつかることも可能なようだ。――それには、精神の戦いを乗り越えられれば、という注釈がつくが」 棘との戦い方を伝授した後、「充分な準備と、心構えを。あの豊かな【箱庭】の崩壊を防ぎ、生まれたばかりの竜たちの安寧を護ってくれ」 火城は人数分のチケットを渡した。 それから、「――……それと同時に、憎しみと向き合うに必要なものが何なのか、そもそも憎しみとは何であるのかを、自分の中に構築しておくことも重要かもしれないな」 と、独り言のように呟くと、ともあれ武運を、と言ってロストナンバーたちを送り出したのだった。
1.遊戯の始まり 「これがトコヨの棘……」 春秋 冬夏は呆然と『それ』を見上げ、呟いた。 「……壮観、やねぇ」 彼女の言葉に相槌を打つように、傍らの森山 天童が、ゆるりと眼を細めて頷く。 旅人たちの視線の先には、異様で巨大なモニュメントが聳え立ち、息苦しいような圧迫感を放っている。 憎い、憎い、憎い! お前が、あいつが、自分自身が、何もかもが! 滅びよ、消えてなくなれ、腐り落ちてしまえ! 死を、死を、死を! 憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い憎い! 血を思わせる赤と、憎しみに歪む無数の人面で出来た塔は、一時も休むことなく憎悪の声を吐き出し続けている。それらの声が重なったうねりに辺りが歪み、その場に集った人々は、手足がぴりぴりと痺れるような気色の悪い圧迫感と、呼気が白くなるほど寒いのに何故か汗が噴き出すという、不条理な感覚を強いられていた。 ロウ・アルジェントによれば、それらは《異神理(ベリタス)》全般に共通した不可解で不気味な現象で、あまり長い時間、《異神理》の放出する禍々しいエネルギー――瘴気、と称されることもあるそうだ――に接し続けると、弱いものは存在そのものを歪められ変質してしまうこともあるのだという。 「ああ……なんでだろうな、妙に懐かしいような気がするのは」 憎悪の集合体に、苦笑めいた表情を見せるのはオルグ・ラルヴァローグ。 彼と、 「……一度退いたからには、マリアベルのプライドに賭けて任務を達成させてもらうよ」 誓いの言葉を口にするマリアベルは、先の依頼に引き続いての参加となった。 ――このままには、出来ない。 それが、あの《異神理》なる正体不明の悪意を目にしたものすべてが感じた、身震いするような薄ら寒さと危機感だった。 「これが、憎しみで出来た代物か……」 ロイ・ベイロードもまた、そのひとりだ。 「何と言う禍々しさ……放っておけば、どんな災いが降りかかるかも判らないな。確実に、消滅させるまでだ」 「……そうだね」 強き勇者へ、言葉少なに首肯するのはジュリアン・H・コラルヴェント。 思うところがあるのかないのか、薄青の双眸は、感情を含まないまま『棘』を見つめている。 「想像していたより大きいわね……本当に、こんなの、どうやって壊すの?」 志野 菫の発した素朴な疑問に、 「アレが発してくる負の波動に打ち克つことが出来れば、その反動で自ら崩壊していく。要するに、精神の戦いが大部分を占めるだろうな。それに勝利できれば、あとは、物理的な手段でも破壊が可能だ」 ロウが答えている。 それを耳にして、 「負の波動……ですの。では、あれは、どんなものを見せてくださるのかしら?」 三雲 文乃が唇の端だけで微笑む。 楽しみだとでも言わんばかりの口調だったが、顔の半ばまでを隠す黒いヴェールのおかげで、彼女の表情を――その中に潜む、真実の感情を伺うことは出来ない。 「憎しみ……か」 鮮やかで情熱的な印象の衣装を身に纏ったカンタレラは、透き通った赤の双眸で『トコヨの棘』を見つめていた。 「カンタレラには、それがどんなものであるか判るような気がするのだ。向き合わねばならぬものが何であるのかも」 独白する彼女の脳裏を横切るのは誰なのだろうか。 わずかに和らいだかに見えた目が、次の瞬間には翳る。 傍らのファーヴニールは、それを鋭敏に察しつつも口には出さず、 「乗り越えられたとは、思ってないけど……」 ヴォロスでのドラグレット戦争を思いながら呟いた。 「どうすればいいかは、少し判ったような気がする」 憎悪。 痛み。 絶望。 苦しみ。 それらを内包する、負の感情。 眼前に――魂の真ん前に突きつけられるものに、どう対処するかが、この戦いの肝となる。対応を見誤れば――要するに、自分との戦いに敗れれば――、待つのは奈落の如き闇ばかりだ。 「くれぐれも、気をつけろ」 徐々に震動を強めてゆく『トコヨの棘』を睨み据え、ロウが囁くように言う。 「ありとあらゆる隙間に、あれは入り込んで来る。癒えたはずの傷痕にすら、踏み込んで来るだろう。自分でも意識していなかったものに、飲み込まれてしまわないように」 ふつふつ、ふつふつと棘の表面が泡立ち始めた。 泡立ちに巻き込まれ、表面にびっしり張り付いた無数の顔が、絶叫を上げ、泣き叫びながら崩れ、砕け、消えてゆく。その凄まじい絶望の色に、冬夏が息を飲み、胸元でぎゅっと拳を握った。 「苦しそう……」 「そうだな。《異神理》とは、苦しみそのものだ」 冬夏の言葉にロウが頷いた時、棘の表面が嵐の如くに渦巻いた。 そして、次の瞬間、 ――憎い!! 激烈な感情が、赤い風とともに放たれる。 「……!!」 それは、旅人たちを全員、あっという間に飲み込んだ。 否、飲み込まれたのは、彼らの精神、無防備に晒された魂。 「ああ、あ……」 誰かが――誰もが、呻く。 赤い闇の中にずぶずぶと沈んで行きながら、彼らは、自分が自分自身に抱いていた――精神の奥底に育て続けていた憎しみを突きつけられる。 激しい痛みを伴って。 2.『わたし』に殺される 文乃がこの依頼を受けたのは、ある種の確認のようなものだった。 人間は、ずっと憎しみを見つめ続けることなど出来ない。 ――否、出来ないから、そのくせそれがあることが耐え難く苦しいから、忘れたふりで目をそらして仕舞い込んでいるだけなのかもしれない。 文乃もまた、そのひとりだ。 憎まれたこと、憎んだこと、憎んでいることから目をそらし、何もなかったように微笑みながら――本心を隠しながら生きている。 しかし、彼女は知っている。 自分は、憎しみによって生き永らえているようなものだと。 だから、それを確認してみたくて、あえて依頼を受けたのだった。 「憎しみの根源にあるのは、きっと、臆病な、わたくし……」 赤い闇の中を彷徨いながら呟く。 夫に裏切られ、殺されそうになり、それを逆手にとって彼を殺した時も、現在、こうして生きている今でさえも、彼女は臆病だ。 殺したいと思うほど疎まれていた、憎まれていた、愛されていなかったと信じたくなくて目をそらし、すべては己が所業ゆえと理解しているのに誰かに責任を転嫁したくて、激情の行き場がほしくて『彼』を――文乃の『完全犯罪』を見抜き彼女を追い詰めた男を――八つ当たりのように恨んでいる。 その臆病さ、卑怯さ、狡さ弱さを、一番理解しているのは、やはり自分自身で、 『ええ――そうね、憎んでいますわ。わたくし自身が、誰よりも、あなたを』 「!」 それゆえに、目の前に立つ憎しみのかたちがどんなものであるのか、判りすぎるほどに判っていたのだった。 『自分の醜さを棚に上げて、弱さを忘れたふりをして、お門違いの憎しみで立っている、そんなあなたがわたくしは憎いの。――あなたがこの世に存在することが耐え難いほど』 いつものヴェールを取り去った文乃が、そこには佇んでいる。 彼女の、文乃を見つめるその目には、熾き火のように静かな、しかし深く強い憤りと憎悪がじりじりと燃えていた。 「……憎しみがあったからこそ、わたくしはここに立っているのでしょう」 『ええ』 「それは、憎しみを肯定し受け入れているということではなくて?」 『本当に、心の底からそう言えますの?』 「……」 『本当は、思っているでしょう? 肯定すると言いながら忘れたふりをして、それを受け止める度量もない臆病な自分に生きる価値などないと。――憎しみが肯定出来ると仰るのなら、価値のない自分をも肯定なさいな』 もうひとりの文乃が、どこまでも冷徹に彼女を責める。 しかし、それを肯定すれば、今の文乃の在り方と矛盾してしまう。 それは、文乃が生きていることに意味などないと断じるも同然だ。 『そうしたら、わたくしがあなたを殺して差し上げますわ。だって……本当は、ずっと、こうしたかったのですもの』 その矛盾を理解して言うのだろう、憎悪に輝く双眸を細めた文乃が、ミステリアスな笑みを浮かべた途端、胸の奥を激痛と熱が襲った。 「……!?」 激しく咳き込み、口元を押さえる。 赤黒い血が、手の平を汚していた。 これは――毒、だろうか? 『消えてしまいましょう、世界から。それだけが、わたくしたちに出来ることですわ』 がくり、と膝をつく文乃を見下ろし、断罪者たる自分自身が優しく囁く。 それはまるで甘美な誘惑のようで、身体を内部から斬り裂かれる激痛に揺らぐ意識の中、碌でもない自分には相応しいのかもしれない、と、文乃はかすかに笑った。 * * * * * 「憎悪か……どんなもののことを言うのかな。嫌いや苦手なら判るけど」 冬夏は赤い闇の中を歩きながらずっと考えていた。 「劣等感とか嫌い、不平とか……負の塊、かな? きっと、人が持つ中でも強い感情だよね」 やさしい家族に囲まれ、愛されて、穏やかな日常を過ごしてきた冬夏には、憎しみという感情は馴染みの薄いものだった。 「……でも。すべてを憎むのって、苦しくないのかな。ずっと憎んでいたら、疲れちゃわないかな」 そもそも、強すぎる感情は持続させるのにもエネルギーが要る。 それなのに憎み続けるには、どれほどの怒りと絶望が必要なのだろう。 『うん……そうだよね、あなたには判らないよね』 不意に聴こえた声は、自分自身のものだった。 「えっ」 『大事にされて、ぬくぬくと大きくなって、その癖非力なあなたには、判らないよね』 言葉尻に含まれた冷ややかな怒りと侮蔑、憎しみは、いつもの自分とはかけ離れていて、冬夏は、目の前に佇むもうひとりの自分に怯む。 何より、彼女は、手に包丁を持っていた。 『誰の力にもなれない、誰も助けられない、誰も護れない、非力で弱くて情けないあなたが、私は大嫌い』 もうひとりの冬夏が、彼女自身がいつも根底で感じ続けている事実を突きつける。 『そのくせ、仕方ないって、『ここまで出来ればいいよ』って皆許してくれるって、どこかで甘えているあなたが大嫌い。――あなたなんかいない方がいい、その方が皆、幸せになれる』 断罪の言葉に呆然とする冬夏の目に、ぎらぎら輝く憎悪の目と、包丁の切っ先とが映り込む。――彼女がお菓子作りにも使ったそれが、大きく振り上げられる。 「や……」 殺意に、肌がぴりぴりした。 壮絶な恐怖が全身を包み、身体が竦む。 「やめて、お願い……!」 悲鳴は届かず、無慈悲な刃が、冬夏の身体に突き立てられる。 弾ける激痛。 死への恐怖、絶望。 「いやあああああああッ!」 ――絶叫。 無論、助けてくれる手は、ない。 * * * * * 今回の依頼を受けるにあたって、菫は、説明された『憎しみ』の意味を、少し勘違いしていた。 ――菫の根底にあるのは、人間と吸血鬼のハーフという異端だ。 皆が彼女のことを怖がる。 人間は、菫を吸血鬼だと。 吸血鬼は、菫のことを人間だと。 そう言って、彼女を何者でもない、中途半端な化け物にして、怖がる。 そのどちらもが、彼女にしてみれば、自分が本気になれば敵でも何でもない、他愛ない存在に過ぎない。だからこそ、どちらもが、彼女を恐れるのだろう。本能的に、『違い』を察して。 皆が、彼女を畏れ、敬い、――透明な壁を創る。 彼女から距離を取り、遠ざけようとする。 それが、どれほどの孤独か。 寂しくて淋しくて、どうすればいいのか判らなくて、結果、菫は腹を立てた。 彼女が覚醒した理由も、似たようなものだ。 (私は化け物なんだ) 虚しいその理解は、怒りと憎悪に変わる。 (むかつく) (私を『化け物』にする奴ら、全部) (殺してやりたい) (憎い) (――皆、殺してやりたい) そう、彼女は、『憎しみ』とは、他者が自分に、もしくは自分が他者に抱いているもののことだと……それと相対するのだと思っていたのだ。 しかし。 『何、勝手なことばかり言ってるの』 今、彼女の目の前に立つのは、ナイフを握り締めた彼女自身。 漆黒の双眸は、激情と憎悪にぎらぎらと輝いている。 そこに殺意を認めて身構えようとしたら、指一本動かせないことに気づいた。 『そうやって、自分のことばっかり。いったい何様のつもり?』 その場に磔になったかのように動けない彼女を、もうひとりの自分が嘲笑う。 『私は、そういうあなたが大嫌い。もっともっともっと、やるべきことはあるはずなのに、そこから動こうとしないあなたが大嫌い……殺してやりたい。――あなたこそが、死ぬべきなのよ』 《異神理》の力によって増幅され、普段は意識もしていなかったような場所から抉り出される、自分という存在そのものへの憎しみ。 それが、菫が向き合うべき本当の『憎しみ』だった。 「……!」 言い返したいことはある。 けれど、それを完全には否定しきれない自分もいる。 恐らく、誰ひとりとして、完全に否定出来るものなどいないのだろう。 理想とする完璧な自分に到達できるものなど、いないのだから。そして、何より、その憎悪を真実にしてしまうのが、『憎しみ』の《異神理》の持つ力であり、この場においての真理なのだから。 あふれ出す殺意に、戦わなければと思うのに、身体は、意思に反してぴくりとも動いてくれない。 『死んじゃえ……弱くて醜悪なあなたなんか。私が殺してあげる。いっしょに、死んであげるから』 憎悪と憐れみとともに、ナイフが菫の身体に突き立てられる。 強く握り締められた刃は、容易く彼女の肉へ潜り込み、 「……ッ!!」 激痛が、意識を白く灼(や)く。 『殺してあげる……ゆっくり、ちゃんと。安心して、すぐに楽になんて、しないから』 やさしく冷たく微笑んだもうひとりの菫が、引き抜いたナイフを更に突き立てる。ナイフの切っ先が、何度も何度も菫を貫き、彼女を穴だらけに……血塗れにしてゆく。 あふれ出す血が身体を汚し、激痛が全身を支配する。 憎しみに絡め取られて、叫ぶことすら出来ない。 これを絶望と言うのかと、どこか他人事のような意識の中で、菫は思った。 * * * * * 「竜涯郷……護らなきゃ、ねぇ」 呟き、ファーヴニールは赤い闇の中を歩く。 ここは、恐らく、精神を捕らえる檻だ。 《異神理》なるあの異様な『棘』は、己が領域に入り込んだものの精神を支配し、負の感情を増幅して打ちのめす力を持っているのだろう。 「憎悪、か……」 それが何なのか、ファーヴニールには判りすぎるほど判っている。 大切な人を護れず、また、大切な人を殺した――殺してしまった自分の弱さだ。あの時の絶望なら、今でも身震いするほどのリアルさを伴って彼の中にあるし、それはまだ完全に癒えてはいない。 しかし、 「あの時の、あいつの声、まだ覚えてる」 少し前にあった、ドラグレットの聖地での戦い以降、ファーヴニールは自分が成長し、安定したことを自覚していた。ある程度の自信もあった。 突破した、鍵も見つけた――そう、思っていた。 しかし。 《異神理》の持つ力は、ヒトが決して完全には修復し得ない、些細な隙間にすら入り込むのだと、そしてそれを不自然なほど激しく増幅するのだということを、ファーヴニールは身を持って体験することになる。 『……本当に?』 唐突に聞こえたのは、嘲りを含んだ自分のもの。 『本当に、そう、思ってるんだ? ……おめでたいね』 気づけば、もうひとりの自分に、背後から羽交い絞めにされ、拘束されている。竜変化もしていないのに恐ろしい怪力で、身じろぎすら出来ない。 「!?」 振り払おうともがくファーヴニールに、もうひとりの彼が毒を込めて囁く。 『そのくらいのことで、俺をなかったことにしてしまおうなんて』 くすくすという笑い声が耳に障る。 「なん、の、ことだ……ッ」 搾り出すように言った途端、背後から激烈な電撃を喰らった。 「ッ!!」 全身を強打されたような衝撃に目の前が真っ白になり、その場に崩れ落ちたファーヴニールの背を、もうひとりの彼が土足で踏みつける。跳ね起きようにも、異様に重たくて身動き出来ない。 『俺さ。お前のその、半端に悟ったみたいな認識、すっごい嫌なんだよね』 「何が、半端だ……ッいいから、退けよ……!」 咳き込みながら足掻くファーヴニールの背に、嘲笑が投げかけられる。 『突破した? 成長した? どこが、どんな風に? ――まだ、ちっとも償えてないくせに?』 「!」 彼を許して死んだ彼女。 すべてを受け止め、犠牲になった最愛の女性。 ――許されたことは事実だ。 しかし、ファーヴニールは、許してくれた彼女の愛に報いるだけのことを、すでに成し遂げられただろうか? 自分の勘違いや独り善がりではない、『何か』が出来ただろうか? 当然だ、そう言おうとして、出来ない自分に気づく。 ――それは、ここが、『憎しみ』の《異神理》の領域だから。 傷のひとかけらですら、格好の餌食となる場所だから。 「違う、それは、」 『違わない。だって……彼女を殺したのは、お前だろ?』 断罪の口ぶりで、事実が突きつけられる。 意識が沸騰する。目の前が真っ赤になる。 そう思った次の瞬間、前方に見知らぬ誰かが佇んでいた。 『ああ……ほら、もうひとつ、お前に見せてくれるってさ。憎しみの在り処を』 妙にやさしげな声とともに抱き起こされる。 霞む視界で見れば、見覚えのない白衣の人物が、冷徹な……冷酷な視線で、真っ直ぐにファーヴニールを見つめていた。 「……? あんた、は……」 自分の精神世界に何故見知らぬ人物が、と眉をひそめていると、 『ふむ……最適合者が見つかったことは非常に喜ばしい。ひとまず、その腕は、要らんな。脚も、内臓も、取り替えよう。その場合、再構成化に最も適合した物質は……』 彼は、まるで部品を扱うような物言いで、おぞましい言葉を口にした。 「な、ん……?」 『だって、さ』 もうひとりの自分が、くすくすと笑い、ファーヴニールの腕に手をかける。 めきり。 異様な怪力に、腕が悲鳴を上げる。 ねじれる――外れる。 「や……やめろ、やめろおおぉッ、それは俺の腕……う、で……?」 何がどうなっているのかと混乱した頭で自分に問いかけて、前にもこんなことがあった、とふと思う。 絶叫を上げるファーヴニール……当時はまだただの鈴鳴巧だった彼の身体から、たくさんのものを奪い、不必要なたくさんのものを付け加えて、彼を人間ではない何かに造り替えてゆく何者かのヴィジョンが脳裏を過ぎる。 「……あのイメージ、いつの……」 『そっか、覚えてないんだねぇ』 「な……?」 『彼のおかげで、お前は彼女を殺しちゃったのに』 「!」 それは、即ち。 ――苛烈な人体実験を行い、鈴鳴巧を、ファーヴニールにした張本人。 「まさか、そんな……」 失われていた、眠っていた記憶が、自分に不本意な運命を強いた者への憎しみが、《異神理》を介して浮上してきた、そういうことなのだろう。 『ああ、そうだ』 妙に楽しげな、もうひとりの自分が、 『どうせなら、もう、完全に鈴鳴巧を殺してもらおう。弱くて醜いお前が可哀想だから、苦しみも何もかも、忘れさせてやろう』 死刑宣告のごとき言葉を口にした。 それを受けて、白衣の人物がこちらへ歩み寄ってくる。 手には、鋭く冷ややかに光るレーザーメス。 「や……」 冷たい汗が背を伝った。 「やめろおおおおおぉッ!!」 しかし、その慟哭めいた絶叫を聴くものは、いない。 * * * * * 天童は穏やかな笑みとともに『彼』を出迎えていた。 「ああ……やっぱり、あんさんやねんなぁ」 予測はしていた。 当然のことだという意識もあった。 湧き上がる憎しみで身体がふたつに裂けそうだ。 恐怖も絶望も、確かにある。 しかし、それと同時に、 『せやなぁ、現れるとしたらわいやわなぁ』 目の前で艶然と微笑むもうひとりの自分、『禍因』たる黒い翼を――穢れを受け入れ外道へ堕ちようとする、黒地に彼岸花柄の羽織を纏った『彼』は、懐かしく愛しく、家族や旧知の友のように出会えて嬉しい存在なのだった。 「嬉しいわぁ」 天童はうっとりと微笑んだ。 「ここへ来たら、逢えると思ててん。ほんまに、その通りやったわ」 その言葉に、もうひとりの自分もまた、妖艶な笑みを浮かべた。 眼差しに、憎しみを載せて。 憎い。 殺してやりたい。 憎い――愛しい。 黒い天童が向けてくる憎悪と愛の意味が判る。 激しい感情に、周囲がびりびりと震え、天童の肌を傷つける。 黒い自分の憎悪に我が身を斬りつけられつつ、天童の笑みは変わらない。 『さあ……堕ちよか。不安定なままでいつまでも無様に足掻いとるあんさんが、わいは憎うて憐れでたまらんのや。わいの手ぇで、楽にしたるさかい、安心して堕ちよし』 「さよか……せやけど、わいもな、負に堕ちてしもたあんさんがな、憎くて愛しくてたまらんのやで。あんさんを楽にしてやれるんはわいしかおらんねんや、てな」 楽しげに、嬉しげに、憎しみをぶつけ合いながら、ふたりは対峙する。 先に動いたのは、どちらだったか。 ほとんど同時に、羽織を脱ぎ捨て、――そうして、凄惨な殺し合いが、始まる。 3.自縄自縛のスパイラル・エッジ 「世界のすべてが憎くてたまらない……か」 オルグは苦笑とともに周囲を見渡した。 「ああ、畜生、そりゃまるで……ガキの頃の俺みてぇじゃねぇか」 認めるのは悔しいが、オルグにもそういう時期があった。 それは、もしかしたら、多感な時代にかかる、麻疹のようなものなのかもしれない。 「ま、今はそうでもねぇけどな」 言って、オルグは、目の前に佇むもうひとりの自分と対峙する。 『憎い……嘘をつく奴らが。ノイズに満ちた、なにひとつ信じられない世界が、憎い。壊してやりたい……殺してやりたい』 目から赤い雫をこぼす彼は、少年の頃のオルグの姿をしていた。 『平気で嘘をつく奴らなんか、滅びてしまえばいい。こんな世界、存在しなければいい……!』 悲痛な、悲壮な叫びを上げる彼を、オルグは覚えている。 あれは、真実を見抜く眼をコントロールできず、些細な嘘さえ見破ってしまい――それを許せず、この世とは欺瞞だらけなのだと、生きるとは嘘の中を歩くことなのだと苦悩し憤った、幼い頃の自分だ。 ざらざらとしたノイズに思考をかき乱され、発狂しそうだとすら、否、いっそ狂ったほうがマシだと思った、そんな時期の自分だ。 オルグには、彼の気持ちが判る。 あの頃の苦しみなら、今でも如実に覚えている。 しかし、 『なにスカした顔してやがるんだ……俺が一番憎いのは、てめえなんだよ……!』 吼えた自分が、オルグを睨みつけた途端、全身を激痛が襲った。 『嘘を見破る眼だ? ふざけんな、何で俺なんだよ……俺はこんなもの、要らなかった! こんなもの、潰しちまえばよかったんだ……!』 慟哭するもうひとりのオルグに、胸倉を殴りつけられる。 まだどこかやわらかさを残した少年の拳は、しかし触れるだけで意識が揺らぐほどの痛みをもたらした。 何よりも、 「くそ、眼が……」 両眼が、痛い。 熱くて熱くて、破裂しそうなほど痛い。 そして、耳に流れ込んでくるのは、容赦のないノイズ。 嘘が、欺瞞が、偽りが、辺りを満たす。 『憎い……憎い、虚構に満ちた世界が、憎い。てめえも憎め、滅ぼしちまえ……!』 何もかもを憎んでいた頃のオルグが、泣きじゃくりながら叫んでいる。 本当は信じていたかったのだ。 本当は、見破りたくなどなかったのだ。 信じさせてくれなかった世界が憎い、見破らせた自分が憎い。 その憎しみが――嘆きが、オルグの全身を千々に斬り裂く。 咳き込んだら、口の中に鉄の味が広がった。 「ああ……そうだな……」 幼い、頑是ない憎しみに我が身を裂かれながら、オルグは膝をつく。 痛みに、意識が遠ざかる。 (……それでも) 瞼の奥にある光を、オルグはじっと見つめていた。 * * * * * ジュリアンは、皮肉げな笑みで彼を迎えた。 「ああ……やっぱり、そうか」 ――今まで、どこか機械的に依頼をこなしてきた。 無論それは、依頼達成を第一に考えてのことでもあったが、今回は、自分の中の不安感を見定めたい気持ちもあり、受けることにした。 話を聞いて、精神面での戦闘を制するには、自分を許すことが効果的なのだろうと、漠然と……しかし、確信を持って思っていた。 (……僕にそんな強さはないな) 自分は何故ここにいるのか。 何故、あの寂しい彼女に手を差し伸べたのか。 他にも見つけた、寂しい人たちには何もしなかったのに、何故? その違いは何なのか。 ――突き詰めて考えれば、 (僕は、大きな過ちを犯してきたのじゃないか) 壁にぶち当たる。 ゆえに、すべてを受け入れ自分を許すことなど、ジュリアンには出来そうもない。 『よく判ってるじゃないか』 涼しい眼差しを憎々しげにゆがめて、もうひとりのジュリアンが吐き捨てる。 『カッコばかりつけるくせに、弱くて、臆病で、卑怯で、何も出来ない。自分には関係ない、って、心を閉ざしていれば楽だろうけど?』 自分をかたちづくる弱さを厭い、断罪者の如く詰るその姿に嫌悪が湧く。 ――事実だと判っているからこそ、尚更。 劣等感と自己嫌悪、自分を許せないと感じている現状、それらが余計に、正しさを突きつける自分への怒りになる。 「だから?」 憤りを込めて返すと、断罪者の眼差しが殺意を孕んだ。 剣が引き抜かれ、次の瞬間には、切っ先に腹を貫かれている。 「!」 『幼い頃は、英雄に焦がれた』 突き入れた刃を捻り、ジュリアンの内部を更に傷つけながら――痛みに呻くジュリアンを楽しげに見ながら、もうひとりの彼が歌うようにいう。 『でも、すぐに諦めた。最初の挫折がそれだった。だから、彼女の誘いも、進んで受け入れた』 従う者に絶対の許しを与えていた、彼の主人。 あそこにいれば安心していられた。目を背けていられた。 (彼女はどんなことでもやれ、だが全部私の所為にしていい、と) 臆病な自分が安らいだ気持ちになれる、絶対的な場所だった。 ――結局、最後には、その臆病さゆえに彼女すら拒絶してしまったけれど。 『裏切ったくせに、見捨てたくせに、拒絶したくせに』 引き抜かれた剣が、更に突き立てられる。 耐え切れず崩れ落ちたところを蹴りつけられ、地面を転がると、彼は馬乗りになり、逆手に持った剣で何度もジュリアンを貫いた。 血がしぶき、呻き声が漏れる。 激痛に、目の前がチカチカする。 『あの子を見つけて? 寄りかかるものが欲しかったからって?』 あの子は……『彼女』は、ジュリアンが独りになってから見た、一番寂しい生き物だった。孤独を、哀しみを、虚しさを、存在そのものが叫んでいた。 それを思うジュリアンも寂しかったのだ。 だから。 『自分ですべて台なしにしたくせに、もう一度護り手になりたかった? だからあの子に声をかけて、真理数を失わせて?』 断罪者が厳しく詰る。 目を背けたい事実を突きつけ、言葉でもジュリアンを切り刻む。 『なんて醜悪なんだ、君は』 薄青の目が、嘲りと同等の怒り、憎しみを孕む。 冷ややかな殺意とともに、我が身を貫く断罪者を、痛みに霞む眼でジュリアンは見上げた。 (――最悪だ、醜悪だ、バカバカしい!) そんなことは、実を言うととっくに判っているのだ。 突きつけられたすべてを、本当は理解しているのだ。 「僕の醜さは、僕が一番知ってる……!」 『そう。だったら、もう、いいだろう? もう……終わりにしよう』 もがくジュリアンを押さえ付け、もうひとりの自分が剣を振り上げる。 ジュリアンは、それを、やはりどこか皮肉げに見ていた。 * * * * * 『本当は、知ってるんだよね』 マリアベルは、地面に這いつくばりながら、もうひとりの自分の嘲笑を聴いていた。真正面からギアの弾丸に打ち据えられ、植物に絡みつかれた身体は、鈍い痛みと重さに襲われた挙げ句枝葉や根に拘束され、巧く動かせない。 『一流のトレジャーハンターなんて名乗ってるけど、本当はそんないいもんじゃない、って』 憎しみの顕在たるもうひとりのマリアベルは、トラベルギアの照準を倒れ伏す自分に合わせながら、睨みつけてくる。 『そうだよ、ボクはキミ自身の絶望。キミの心の中にある、真っ暗な闇だ』 そっくり同じ顔なのに、憎悪に歪むもうひとりの自分はひどく寒々しく恐ろしい存在に見えた。マリアベル自身が、他者に対してあんな憎しみの顔を見せたことがないからなのかもしれない。 「ボクの……絶望……」 『一流のトレジャーハンターだなんて浮かれて、自分の力を過信してさ。それで、実力に見合わない場所に突っ込んだ挙げ句、真理数を失って世界から放り出されて? 結局、居場所をなくしちゃったんでしょ?』 「……!」 『判ってる? 全部、キミの所為なんだよ? 誰も責めないかも知れないけど、ボクには判ってるんだ。キミの慢心が、キミから居場所を奪ったんだよ』 「そ、れは……その、だけど、」 『それで、ちょっとは反省するかと思ったら、今度は異世界への切符に浮かれてさ。キミ、楽しんでたでしょ。暢気にお宝お宝って、ふるさとのこと、ちょっと忘れそうになってたんじゃない?』 「!」 目を瞠るマリアベルに、鋭い、冷たい視線が向けられる。 じわじわと殺意が滲み出て、 『ホント、馬鹿じゃないの。何のためにトレジャーハンターになったのかも忘れて、浮かれて。使命を忘れて自分の快楽を追い求めて、それで最後に何が残ると思ってるのさ? ――今のキミ、ホント、意味がないよ』 侮蔑もあらわに吐き捨てられる。 マリアベルは言葉を失っていた。 ここが《異神理》の領域内であるという、傷や弱さは不自然なほど激烈に増幅されてしまうのだという事実があるにしても、自分が突きつけてくるそれは確かに真実だったから。 「……ボク、は……」 足元からゆっくりと絶望が這い上がって来て、植物に絡め取られたままマリアベルはがたがたと震えだした。 寒い。 痛くて、熱くて、冷たくて、苦しくて、震えが止まらない。 『ねえ、判ったでしょ。キミがここにいる意味なんてないんだって。だから、ねえ、ボクがキミを、終わらせてあげる。そうしたら、楽になれるよ』 毒々しく、歪んだ慈愛を込めて微笑んだもうひとりの自分が、ゆっくりとした足取りで近づいて来る。その手の中に、鈍く光るナイフを認めて、マリアベルは息を飲む。 振り上げられ振り下ろされたそれが、我が身に食い込む。 弾ける激痛に、しかしマリアベルはなすすべを持たない。 * * * * * 真っ赤な闇の中を歩きながら、カンタレラはずっと、主のことを脳裏に思い描いていた。 それは、穏やかでやさしい記憶であると同時に、ある日の目覚めから、唐突に痛みと苦しみへと変わる。 魔術師である主は、とても穏やかな性質で、カンタレラに対して無理強いをするようなこともほとんどなかったし、彼女の献身を喜んでくれた。彼女の捧げる忠節と愛を受け止め、受け入れてくれた。 そんな主であったから、決して幸福な人生を歩んできたわけではないカンタレラが、彼を、主人としてだけではなく異性として愛するようになっていったのは、ごくごく当然の流れだったのかもしれない。 深く深く愛していた。 命をかけて仕えるべきよき主人として、魂を捧げて悔いない男性として。 ――今でも、愛している、それなのに。 『おまえはあの方を護れなかったのだ、カンタレラ』 不意に聴こえた声に、顔を上げる。 そこには、寸分違わぬ姿かたちをした、もうひとりの自分が佇んで、カンタレラを激しい憎しみの感情で見据えている。 『何故、見失った。何故、護れなかった。何故、おまえは』 ある朝、目覚めた時、傍らで眠っていたはずの主の姿はなかった。 必死で、寝る間も寸暇も惜しんで探したが、結局彼を見つけることは叶わず、禁忌に触れたことで真理数を失って、己が故郷すら見失った。今はもう、主がどこにいるのかも、生きているのかどうかすら、知ることは出来ないのだ。 『カンタレラはおまえを赦すことが出来ない。あの方を見失い、お傍に在ることも、お護りすることも出来ずにおめおめと生きているおまえが、憎くて堪らない』 淡々と、切々と、しかし激烈な怒りと憎悪を伴って紡がれる言葉に、カンタレラは唇を引き結ぶ。 「――知っている。おまえの憎しみは当然だ、カンタレラ」 そう、本当は、知っている。 彼を護っているつもりで、護られていた。 歌い手として、様々な暗殺術を会得した護衛として、彼の傍に在ることが幸せだった。彼が、カンタレラの力もあって地位を高めてゆくさまを見ているのが喜びだった。彼の、カンタレラへの感謝が、とてつもなく嬉しかった。 しかし、いつしか気づいていた。 『あの方が時折なさる“無理強い”は、おまえを護るためのものだった』 女としての不自由さ、弱さ、低い身分ゆえの苦労。 そんなものに躓きそうになるたび、彼は、カンタレラが気づけないほどさり気なく、そっと、穏やかに――時に、それが自分の我儘であるかのような言い回しで――カンタレラを助けてくれた。 護ってくれていた。 それは、きっと、彼自身が、カンタレラを愛してくれたから。 道具としてであれ、部下としてであれ、女としてであれ、確かにカンタレラを愛してくれていたからだ。 『愛してはならなかったのだ、カンタレラ。おまえは、間違えてしまった』 女としての愛を彼に抱いたことが間違いだった。 ひとりの女として愛したがゆえに、甘さが、隙が生まれ、そしてカンタレラは、彼を見失った。 「判って、いる……!」 憎かった。 自分の拙さも、愚かさも、弱さも。 愛しい人を心から愛することすら許されない自分自身も、何が出来るのかすら判らない今の己も、彼の足取りを――生死を確認しようにも、それすら叶わない自分の現状も。 何もかもが、憎かった。 『憎いだろう、辛いだろう、苦しいだろう。カンタレラがおまえを楽にしてやろう……ゆっくりと、時間をかけて。永劫の如くに苦しむがいい、それだけが、今のおまえに出来る償いだ』 言葉とともに、トラベルギアの装着された爪が、カンタレラの身体に潜り込み、冷たい金属が身体の中を通り抜けていく、吐き気のするような違和感と激痛が襲う。 『滅びてしまおう……無意味な、我らなど』 反撃に転じるだけの強い意志は、今のカンタレラにはなかった。 肉を抉られる痛みよりも、眼前に突きつけられた己が無力さと無意味さに、魂は打ちひしがれていた。 それでも、と、叫ぶ声が、奥底から響いたような気は、したけれど。 * * * * * ロイの足元は、見知った顔の骸で出来ていた。 何十人、何百人、何千人、何万人もの、人間の屍で出来ていた。 ――魔王の軍勢に殺された人々の骸だ。 「ああ……」 間に合わなかったのだ、と、後悔と絶望、苦悩が押し寄せる。 「あと少し、早ければ」 死した人々の苦しみの表情に、無力感が募る。 「――助けられなかった」 人類を救う勇者として立ち上がったはずだった。 心強い仲間たちと戦いを重ね、更なる強さを求めて自分を磨いた。 しかし、まだ、足りなかった。 「魔王……!」 年端もゆかぬ少女の骸を抱き上げ、ぼろぼろと崩れてゆく彼女の身体を抱き締める。 何故、殺すのか。 問うたところで無駄と知りつつ、問わずにはいられない。 「憎い……」 小さな呟きは、思いのほか大きく響き、ロイは歯を食いしばる。 無力だ。 あまりにも、彼は、無力だった。 『そうだ。俺は、無力なおまえが何よりも憎い』 不意に背後から声が響き、それと同時に強かに殴りつけられて、ロイは吹っ飛び、骸で埋まった地面を転がった。 『おまえに、もっと力があれば、誰も死なずに済んだのに』 衝撃に息を詰め、咳き込みながら身を起こして見遣れば、そこには、冷ややかな目をした自分自身が佇んで、ロイに剣の切っ先を向けている。 『おまえは、無力で無様だ、ロイ・ベイロード。これが勇者などとは、笑わせる』 振り下ろされた剣が、太腿に食い込んだ。 「!」 『……痛いか? だが、こんなもので、彼らの無念を慰めることなど出来るはずがない』 怒りと憎しみに双眸を輝かせ、もうひとりのロイが剣を突き立てる。 血がしぶき、激痛が脳髄を灼いた。 『おまえの弱さが! 彼らを殺したんだ!』 魔王軍によって村を、町を破壊され焼かれるたびに感じていた無力感、自分への怒り。 それが今、ロイを殺そうとしている。 「そうだ、俺は弱い……」 剣の切っ先に内臓を傷つけられ、血を吐きながら唇を噛み締める。 「強くならなければならなかった。俺は、魔王を斃せるほど、強くならなければいけないのに……!」 それが叶わぬまま、世界が救われぬまま、ロイは旅人となってしまった。 足元の定まらない焦りが、更にロイを苦しめる。 肉体の傷よりも、ただ、その事実が、痛い。 4.「光あれ」と彼らは希った どれだけの時間が過ぎただろうか。 永遠にも思える責め苦が、彼らを苛んでいる。 《異神理》の領域に囚われ、誰もが苦しみとともにもがいている。 死にすら値する痛みに、のた打ち回っている。 ――そんな中、初めに憎しみから脱したのは、オルグだった。 「くそ……いつまでもウダウダ言ってんじゃねぇぞ……!」 オルグは、両眼を襲う激痛を堪えて立ち上がった。 気づけば、いつの間にか、精神世界から現実へと帰還していたが、脳裏には、まだ、泣き叫ぶ自分の姿が見えている。 否、恐らく、あれが完全に消えることはないのだろう。 それは確かに、オルグの中にあったものなのだから。 「何が憎めだ、滅ぼせだ」 両眼から血が流れているのにも頓着せず、憎しみの声を上げ続けるトコヨの棘を睨みつける。 「いつまでもつまらねぇことを言ってんじゃねぇ! テメェが見抜いた嘘の中にはな、テメェのことを想った嘘だってあったんだ!」 過去の、頑是ない己に向けて、叫ぶ。 ――真実がすべてやさしいわけではない。 嘘がすべて人を傷つけるわけでもない。 それを知って、オルグは、自分の眼を憎むことをやめた。 嘘を糾弾することもやめた。 「それすらも許せずに、嘘だ、嘘だなんて思い続ける世界なんざ俺はごめんだね! 俺が言いたいのはンなくだらないことじゃねぇ。俺はテメェが憎む以上に、この俺を、仲間を、そしてあの世界を愛してるんだ。そのために命を懸けて惜しくねえって、思ってるんだよ……!」 きっぱりと断じ、オルグはヴァイオリンを構える。 弓を当てると、彼の心根そのものの、伸びやかな音があふれ出した。 「ああ、判ってる……隅でウジウジ泣き喚いてるテメェもこの際だ、思いっきり愛してやるよ、このクソガキが!」 語調は荒いが、口元は笑っている。 自分の憎しみを過ちだとは思わない。 そこに一欠片の真実もなかったとは思わない。 「テメェの憎悪は受け取った。心配しなくたって、全部受け入れてやるよ。――だが、そろそろ転調といこうぜ! 辛気臭い音楽にゃ、もう飽き飽きしたんでね!」 オルグは選んだ。 憎しみを受け入れ、受け止める道を。 迷わずに、前を見ることを。 「さあ……眼を開け、耳を澄ませ! テメェが憎んだ嘘を全部、愛に変えてやるよ……!」 威勢のいい掛け声とともに、音が、旋律が、あふれ出す。 しなやかな、健やかな――力強い音楽が、辺りを満たしてゆく。 それは、自らの精神世界に囚われたまま苦しみ続ける人々の心を、魂を揺さぶった。 目を覚ませと。 憎しみだけがすべてではなかったはずだ、と。 その音楽は、カンタレラにも届いていた。 ふと目を開ければ、身体の傷は消えている。 精神が受けた痛みだけが彼女に残っていたが、 「……それも、思いのゆえ、と」 明るく力強い旋律が、カンタレラに光を与えた。 「ああ……そうだ」 ゆっくりと起き上がり、自分の足で立って、辺りを見渡す。 ヴァイオリンを見事な手つきで演奏する金狼の青年が、こちらを見て、悪戯っぽく笑った。カンタレラもわずかに微笑み、それから胸元に手をあて、口を開いた。 ――目覚めを、癒しを、光を! その咽喉から迸る、圧倒的なまでの歌声。 魂を揺さぶり、揺り起こし奮い立たせる、救いと許しの歌が、カンタレラから放たれる。 (そうだ) 今は、こうして唄うことしか出来ない。 押し潰されそうな痛みに、苦しみに、絶望に、出来ることはそれだけだ。 (けれど……カンタレラは、愛しているのだ。今も、あの方を。あの方だけを) たとえ、愛したことが過ちだったとしても、その過去を消し去りたいとは思わない。愛することを止めたいとも思わない。今も、ずっと、途切れることなく彼を愛している。その自分を否定することは出来ないし、したくない。 (あの方が、カンタレラを愛してくださった、その記憶だけは真実なのだ) 彼に愛された記憶。 彼のぬくもり。 彼の笑顔、声、言葉。 (なくしたくない……忘れたく、ない) いつか、必ず、また。もう一度、絶対に。 わずかな希望だ。 しかし、それは、絶大な救いでもある。 「……やるじゃねぇか」 カンタレラの歌声に、オルグが、にやりと笑った。 負けじと強さを、美しさを、陽気さを増す音楽に合わせ、カンタレラは唄う。 (無力な己が憎いと思う、それは事実だ。だが、無力さのゆえにあの方を失ったのならば、強くなればいい。力をつけ、二度とあの方の手を放さぬ強さを得ればいい) 再び手の届く日が、いつ来るのかは判らずとも。 強くなろう、と、カンタレラは願い、今は遠い主を思った。 (どうか……カンタレラに力を。必ず、また、あなたに辿り着くから) 決意に彩りを増す歌声は、《異神理》の領域を揺るがすほどの力強さと情熱で、辺り一面に響き渡っている。 ロイは、その音楽と歌声によって目覚めた。 「そうだ……確かに、魔王は憎い。己が無力も憎い」 気づけば、彼は、剣を手に佇んでいる。 「だが、憎しみだけで強くなれるはずもない。憎しみだけで、魔王に打ち克てるはずもない。それでは、奴らと何ら変わらない」 憎しみに憎しみで返しても、結局同じことの繰り返しでしかない。 何も変わらず、終わらない。 「そうだった。危うく、忘れてしまうところだった」 何故、剣を取ったのか。 何故、戦うことを決めたのか。 あの絶大な存在に立ち向かう決意をくれたのは、なんだったのか。 「俺は、憎しみではなく、勇気で以って魔王に立ち向かう……憎しみだけでは、破壊しか生まない!」 叫ぶと、全身が軽くなった。 憎しみの力で、魔王たちを滅ぼし彼らの根城を破壊したところで、今度は憎しみに囚われたロイが魔王になるだけのことだ。あとには、何も残らない。 「勇気と、労わりと、友愛を。後の世を生きる、すべての同胞たちのために」 剣を握り締め、血の色の棘を見据える。 呪文を唱え、激烈な威力を持つ雷撃魔法『ギガボルト』二発分の力を剣に込めると、 「憎しみで象られている棘よ! 勇気でもって、消えるがいい……!!」 高らかな宣言とともに、《異神理》へとそれを叩きつける。 ごおおおおおんんん、と、閃光とともに鈍い音が響き、憎しみの顕現にひびが入った。それはまだわずかなものだったが、手応えとしては充分だ。 「……よし、畳み掛ける……!」 途切れることなく続く音楽と歌に背中を押され、ロイは再度呪文を紡ぐ。 憎しみの塔が立てる鈍い音でマリアベルは目覚めた。 まだ、身体が重い。 けれど、 「冒険心あってのトレジャーハンター、じゃないか」 聴こえてくる音楽が、歌声が、霞む眼に映った青の勇者が、マリアベルに気力を与えてくれる。 「過ちを否定することは出来ない。だけど、いつまでも過去に拘って後ろばかり見てたら、見つかるお宝も見つけられなくなるじゃない!」 叫び、跳ね起きる。 「それに、プライドあってこそのボクだもの。だからこそ、上に向かって登り続けられるんだ……!」 トラベルギアを引っ掴み、魔弾を限界出力まで高めると、棘に向けて発射する。 どおん、と、爆発音がして、《異神理》が揺らいだ。 「トレジャーハンターの心得その一。『昨日より今日。今日より明日。明日は明日の宝がある』!」 トレジャーハンターの仕事は、様々な宝物――過去の遺物を見つけ、世界を豊かにして、いつかは再興すること。滅びかけた世界を、色鮮やかに蘇らせること。 そんな職業を選んだのだから、いつまでもうじうじ思い悩んで至って仕方がない。常に前を向いて進んでこそ、新しい未来が切り開ける。 本当は、きっと、たったそれだけのことだ。 「よし……やる気、出てきた……!」 いつもの笑みを浮かべて、マリアベルはトラベルギアを構える。 「それじゃまあ、ちゃちゃっとやっちゃうか!」 呪文を紡ぎ、攻撃を続けるロイと並んで、マリアベルは戦いに加わった。 ぐらぐらと揺れながら憎しみの言葉を吐き出す《異神理》は、先程よりも幾分、小さくなったように見える。 「……今少し、励むとしよう」 「うん!」 力強い笑みをかわし、ふたりは身構える。 音楽と歌声と振動が、菫の意識を穏やかに揺らしている。 それをまるで子守唄のようだと、母の腕で眠っているようだと、うとうとと微睡みながら思い、――そして、ようやく、思い出した。 「ママ……」 母は、死ぬような思いをして菫を生んでくれたのだ。 会いたかった、と、抱き締めてくれたのだ。 そして、自分は化け物なんだと泣く菫を、怒ってくれた。 どんなに辛くても、苦しくても生きていけるようにと、深い深い愛でいつも包み込んでくれた。慈しんでくれた。 何があっても、信じてくれた。 菫は確かに、化け物なのかもしれないが、しかし同時に、母の愛の結晶でもあった。吸血鬼の父と人間の母が出会い、愛し合って、どうしても会いたいと思ってつくったのが、菫という子どもだったのだ。 それは、救い足り得ないだろうか? 「ああ、そっか」 ふわり、と身体が軽くなって、菫は起き上がる。 傷は綺麗に消えていた。 「そうだったね。そんな私が、ちっぽけな自分の憎しみに負けたら、駄目じゃん」 ぽつり、呟く。 母は、そんなことを望みはしないだろう。 「それに、誰かを憎むって、疲れるもんね」 やーめた。 言って、ナイフを手に、《異神理》へと向かう。 母のように包み込んでやることは、菫にはまだ出来ない。 ならば、向き合って、破壊するだけだ。 天童は、精神世界内での殺し合いを終えて、立っていた。 あの時脱いだ羽織を、もう一度纏って。 彼が最初に選んだのは、黒。 しかしすぐにそれを脱ぎ、青を選びなおした。 そして、覚醒したのだ。 あの、凄まじいまでの音楽に引き上げられるようにして。 「はてさて……今のわいは、どっちのわいやったんかいなぁ……」 どちらが勝ったのか、どちらが生き残ったのか、今の天童には判らないが、しかし重要なのは、残った己が、青の羽織を選び直したことだった。 青の羽織は『正気』、黒の羽織は『狂気』や『憎悪』の象徴だ。 天童は、正気の中に生きることを選んだ。 「ま、憎み続けるだけなんは……同じことだけしかないんは、しんどいさかいなぁ」 見遣れば、トコヨの棘はぐらぐら揺れている。 先に目覚めた仲間たちが果敢に攻撃を加えているからだ。 「この分やと、わいは休憩しとってもよさそうやなぁ」 懐から煙管を取り出しつつ、天童はかすかに笑った。 「あそこで憎悪をちょっと吐き出せたさかい、もう少しの間は何も憎まずに済みそうやわ」 煙管に火をつけ、独白したところで、傍らに倒れていたファーヴニールが呻き声を上げ、もがいた。 「……大丈夫かいな、ファーヴニールはん」 抱き起こし、頬を軽く叩くと、 「――……ッ!!」 女性的な面立ちの、繊細な風貌の青年は、壮絶な恐怖の表情とともに飛び起き、獣の本能そのものの動きで天童から距離を取り、身構えた。 「どないしはったん?」 おっとりと天童が問うと、ファーヴニールはようやく正気に返ったようで、 「あ、す、すみません……!」 血の気の引いたままの顔で、詫びを口にした。 「いや、構へんけどな。どないしはってんな?」 「あ、いや、あの……何でも、ない、です」 言いつつ、《異神理》が揺らいでいることを見て取ったのだろう、トラベルギアを手に、攻撃を続ける仲間たちの元へと走り寄ってゆく。 天童はその背を見送るに留めたが、走り去る彼の、 「あの……映像、あれは……だとしたら、俺は……!」 苦悩に満ちた呟きは、はっきりと耳に届いていた。 5.『わたし』は弱い、だから 明るい、伸びやかな音楽と、美しい歌声と、何かが爆発するような震動で、文乃は覚醒した。 毒でも飲んだかのような、臓腑の焼けるような感覚は消えていたが、相変わらず、自分は碌でもない人間なのだという認識は傍らにあって、文乃はヴェールの内側で微苦笑する。 「憎しみ……ですものね。苦しいに、決まっていますわ」 しかし、もう、彼女はここまで来てしまったのだ。 このまま消えることのない罪と、八つ当たりめいた執着心とともに、どこまでも行くしかないのだ。 「けれど……ねぇ?」 弱く醜く、無様な己を晒しつつも、生きている間は足掻くことが人間の務めだろうとも思うのだ。いつか来る、断罪の――終焉の日まで、必死に足掻き続ける、それが、もしかしたら自分に課された罰なのかもしれない、と。 「それだって、わたくしの問題ですわ。――わたくしが、どうにかすればよいだけの話ですわよね。ということは、アレを壊してしまえばすべて完了、ということかしら?」 いつものミステリアスな笑みを唇に浮かべ、呟いたところで、 「その通りだとは思うが……逞しい女だな」 少々呆れたような、疲れたような声とともに伸びた手が、地面に倒れたままだった文乃を抱き起こし、そっと立たせた。 「あら、ありがとうございます、ロウ様。少々お疲れのようですわね?」 「《異神理》に囚われて涼しい顔の出来る奴がいたらお目にかかりたい」 溜め息まじりのそれになるほどと頷き、 「ねえ、ひとつお尋ねしてもよろしいかしら」 「ああ?」 「あの棘、他の【箱庭】にもあると伺いましたが、それらも『憎しみ』なんですの?」 ふと浮かんだ疑問を口にする。 返ったのは、 「いや。似通ったものはあるかもしれないが、まったく同一のものは存在しない」 「では?」 「他の【箱庭】にある《異神理》は、他の感情を司っているはずだ。共通しているのは、それがすべて、負に属するものであるというだけで」 あまり、縁起がいいとは言えない答えだった。 先ほどまで激痛に支配されていた冬夏の身体を、死への恐怖と絶望に侵蝕されていた意識を、今は音楽が満たしている。 許されていいと、救われていいと、早く目覚めて立ち上がれと促す、力強い音楽を、半分だけ覚醒した意識で聴いている冬夏の脳裏には、家族や友人の笑顔が浮かんでいた。 それは次に、祖母が入院してからの家族の哀しそうな顔に。 そして、押し寄せる、後悔。 「ああ、そうだ」 誰にも、そんな思いをさせたくない。 冬夏が死ねば、哀しむ人がいる。 それは、疑いようのない事実なのだから。 諦めなかったから、夢が叶った。 非力でちっぽけな自分にも、できることはある。 そう思うことが罪だとは、思わない。 「私は弱い。だけど……生きなきゃ」 戦うことは苦手だ。 誰かを傷つけるなんてしたくない。 けれど、誰かの盾になって護るくらいなら、出来るだろう。 「私にも、出来ることはある……何か、したい!」 目を開けると、文乃が微笑みながら手を差し伸べてくれていた。 「あ……文乃さん! ありがとうございます……!」 「いいえ、どういたしまして。……もう少しのようですわ、頑張ってみましょうか」 「はいッ!」 音楽と歌と、仲間たちの果敢な戦いに勇気付けられ、冬夏はトラベルギアを手に立ち上がる。 弱くてもいい、自分に出来る精一杯を、後悔のないように。 冬夏が見つけた結論は、それだった。 光に満ちた、力強い音楽と歌の中、ジュリアンが覚醒したのは、実を言うとあまり格好のいい理由ではなかった。 断罪者が責め立てる弱さ醜さは、あいも変わらず彼の中にあって、きっとそれはこれからも変わりはしないだろうという確信があった。 けれど。 そう胸中に呟いて、ジュリアンは、唇に滲む血を拭い、よろよろと立ち上がる。 肉体のダメージは、覚醒したことで消えている。 ただ、精神が受けた痛みで、身体が重いだけだ。 「見捨てて、殺して、裏切って」 脳裏の断罪者に向かい、独語する。 「それでも君は僕を壊せなかった。だからこんな場所にいるんだ」 救いを、許しをくれた人を裏切って、拒絶して、寄りかかる場所が欲しいという理由だけで他者を巻き込んで、 「……今更だ、今更死ねると思っているのか」 自分の所為で真理数を失ったあの子を置いて? 「はは……それこそ、許されない」 無理やりの、崩れた笑みで断罪者に告げる。 「諦めるのが一番簡単だ。……弱いのも、格好悪いのも、今更だ、僕は!」 それでいい。 ――もう、それでいいと思う。 最後まで格好の悪いままで足掻ききる。 そういう生き方が悪いとは、思わない。 目を見開けば、ひび割れ傾いて崩れ落ちそうになった《異神理》が視界に入る。 ジュリアンは息を整え、一瞬だけ感応力を広げて周囲のデータを収集し状況を把握すると、念動力にのみ力を集中させ、そのエネルギーの塊をギアの風刃に乗せて、揺らぐ《異神理》へと叩きつける。 「これ以上僕に干渉するなッ!」 鋭い叫びとともに放たれた念動力の塊は、《異神理》へと殺到し、 がっ、ごッ、ど・おおおおおおおんんんんッ! ひびからひびへと伝ったエネルギーによって、憎しみによってかたちづくられた棘を、完全に破壊したのだった。 真っ二つになった赤い塔が、がらがらと崩れ落ちてゆくのを見て、 「よし……!」 オルグが、ロイが、マリアベルが拳を握る。カンタレラと天童、それから文乃は艶然と微笑み、菫はやれやれと溜め息をついてナイフを仕舞った。ファーヴニールは何故か蒼白な顔色をしていたが、怪我をしている様子はない。 冬夏が、お疲れ様でした、と安堵の表情で言う中、ごごん、ごん、と、破片が崩れ落ち、やがて何ごともなかったかのようにそれらは消えてゆく。 いくつかの破片は、消え去る前に、突如として吹いた生温かい風によってどこかへ運ばれて行ったが、 「あれは、どうなりますの」 「《異神理》の足掻きか……恐らく、竜涯郷に点在することになるだろうが、それほどの力は持たないだろう」 ロウが言うには、後ほど『掃除』を行えば何とかなる、とのことだった。 「……ふう」 ジュリアンは息をひとつつき、剣を腰に戻した。 消えてゆく憎しみの残滓に目を落とし、ふ、と唇の端で笑む。 「今更だ。――だから、僕は、このままでいい」 ひとつくらい、そういう結論があってもいいだろう、と、思う。 「ねえ、ロウさん」 冬夏は、撤退の準備をしながらロウに問いかけていた。 「華望月で聴きました。ノブナガさんに、『会合』のこと」 「ああ」 「もしかして皇帝さんは、その時に《異神理》について話したんですか? それで、信じてもらえなくて、皆を護るために悪者になるって決めたの?」 やさしくて強い人だと、聴いている。 それくらいのことは、きっとやってのけるだろう。 「だけど……どうやって《異神理》のことを知ったのかな」 首を傾げる冬夏の頭を撫で、じっと耳を傾けている旅人たちを見渡して、 「……そうだな、その話は、いずれ。今は、ひとまず休んでくれ。自分で思っている以上に、消耗しているはずだ」 ロウは告げる。 次の段階へと、話が進んだことを。 新たな戦いへの予兆を高らかに謳い上げながら。
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