――喪った者を呼びもどす。 古来より数多の者たちに渇望され、幾度となく追い求められてきた奇跡。 世の理をくつがえすが故に禁断とされてきた願い。 その願いを叶える宝物が、今、ファーヴニールの手の中にある。 白い花を浮かべた小さな水晶球。 儚くも美しいそれは、先の依頼で手にした禁忌の≪水中花≫だった。 「……ちょお。なんやのその顔」 眼前に現れた少女は、開口一番眉根を寄せて言いはなった。 均整の取れた体つきにすらりと伸びた手足。腰に手を当てて身を乗り出すと、肩までの黒髪が艶めきながら肩をすべり落ちる。 「呼び出したんは巧やで。そない驚かんでもええやんか」 「あ、ああ」 けしかける声さえも懐かしい。 半ば放心状態のファーヴニールは、喜びを感じると同時に混乱を覚えていた。 これまでも何度かこの手の道具は手にしてきたが、その全てが眉唾ものだった。 世界の理に触れる禁忌。その一線を越える術など、どうあってもありはしない。 そうたかをくくっていたのだが。 「夢じゃ、ないんだよな……?」 壊れものに触れるように、少女の頬に手を伸ばす。 指先からは、微かにぬくもりが伝わってくる。 「……巧」 少女が目を細め、すっと息を吸いこんだ。 華奢な腕をゆっくり掲げ、 ――バァン!! 背中に痛烈な一撃。 「グハ……ッ!」 思わずむせて膝をつく。 「どや。これでも夢や言うんか?」 仁王立ちをして見下ろす少女を前に、滅相もないとばかりに首を左右に振る。 その様子に満足したらしい少女が、「久々にやると手が痺れるわあ」と、熱を冷ますようひらひらと手を振って笑う。 そのしぐさを見て確信した。 間違いない。彼女は生前の『緑川百合華』そのものだ。 思わず破顔したファーヴニールに、少女の表情も和らぐ。 「な。この魔法、一日しか保たへんのやろ。ほんなら早よ行こ。巧が暮らす世界、どんなところか教えてや」 正確には魔法と言って良いものかわからない。 だが、今はそれが魔法であろうと、呪いであろうと、どちらでも構わなかった。 水晶球の力は一日で失われると聞いている。 この奇跡が本物であるのなら、その時間を一刻とて無駄にはしたくない。 モタモタするなと手を引く百合華に従い、ファーヴニールは少女の長い指を握り返した。 「巧、早う! 走りや!」 手招きする百合華に急かされ、停車していた路面電車(トラム)に駆け込む。 幸い乗客は少なく、二人で後部座席を陣取ることができた。 百合華は流れていく景色を見ながら、「あれはなんて建物なん?」「あのお店可愛いなあ!」など、初めて訪れる世界に興味が尽きない様子だ。 ちなみにロストレイルの発着駅はすでに見学済みだった。 異世界の者とすれ違うたびに、「ちょお見て! あんなひと初めて見たわ、どこ世界人なん!?」と叫ぶので、ファーヴニールはその度に頭をさげ続けていた記憶しかない。 (なお某兎の貴族と出会ったおり、百合華が出会い頭に彼の耳を引っぱった一幕については割愛する。) 「次はあそこへ行きたい」と百合華が示したのは、ターミナルの中心に建つ世界図書館だった。 「あの建物すごいなあ。町のどこに居ても見えるんね」 「色んな世界の情報が蓄積されてる場所だしな。俺が今仕事をもらってるのも、あそこだよ」 「へえー。巧、ちゃんと仕事できてるん? 失敗して怒られてへん?」 「出来はともかく、怒られてはいない」 「ほんまにぃ?」 茶化すように見あげる少女の瞳が、いたずらっぽく細められる。 ファーブニールが仕事を請け負う場所だと聞いたからだろう。 百合華は世界図書館のなかでは大人しくしており、顔見知りの世界司書に声を掛けられた際もよそいきの顔で話を合わせていた。 「やけに大人しかったな……」 「私のせいで、巧に悪い印象を持たれたら嫌やん」 「じゃあ駅で騒いでたのはなんだったんだ?」 「それとこれは、別!」 くるりとスカートの裾をひるがえし、視界に入ったカフェに駆け寄る。 「巧ー! 喉が渇いたからお茶しよう!」 はやくもテラスの椅子に腰掛けている百合華に気付き、ファーヴニールが慌ててその姿を追いかける。 百合華を連れてターミナルを連れ歩くのは大仕事だ。 好奇心旺盛な少女はなんにでも興味を示し、すぐにあちこち道を逸れていくのだ。 カフェでひとしきり異世界の味覚を楽しんだ後は、 「前を歩いてくれんと道がわからんやろ。次はどっち行くん?」 不平を言いながらも、振り返ってファーヴニールが追いつくのを待っている。 先ほど繋いだ手はいつの間にやら離れてしまっていた。 その代わり、幾度となくくりかえされる他愛ないやりとりが愛おしい。 彼女のぬくもりだけではない。 彼女の言動すべてを目にできることが嬉しかった。 どういった理(ことわり)で彼女が蘇っているのか。その原理はわからない。 ただわかるのは、記憶、感情、性格、そのすべてが『元のまま』であるらしいということだ。 禁忌へ触れた罪の意識は薄れつつある。 だが、百合華は自分が『復活したマヤカシ』であることを察しているようだった。 刻一刻と迫る願いの期限が、ファーヴニールの気持ちをかき立てていた。 続いて訪れた画廊街は、多くのひとの姿で賑わっていた。 「まだ少し時間もあるし、誰かに描いてもらうのも良いな」 前から気になっていた絵師もいるし、一枚頼もうかと声をかけると、 「私は、ええよ」 百合華は背を向けて立ち止まった。 「……どうした?」 問いかけるものの、頑なに首を振り「必要ない」の一点張りだ。 遠く行きすぎる人々を見やるばかりで一歩も動こうとしない。 「百合華」 小さな肩幅と、その後ろ姿に不安を覚えた。 声をかけると振り返り、微笑む。 「そんな顔しいな。深い意味はあらへん。さっきから電車賃とか、カフェ代とか、全部払ってもらってるやろ? 姿絵とか、めっちゃ高いみたいやし」 「気をつかわなくても大丈夫だ。百合華は――」 ――百合華は、一日しかここに居られないのだから。 続く言葉を、思わず呑みこむ。 ファーヴニールの表情を見て、少女はその続きを察しただろうか。 再びバアンと背を叩いた後、 「ほおら、時間がもったいないで。次はどこ行くんや?」 これまで通りの表情で、ファーヴニールの背中を押しはじめる。 ファーヴニールは唇を引き結んだまま百合華を手を取ると、 「こっちだ」 駅の近くにある水辺へと誘った。 途中いく度か休憩を入れたとはいえ、百合華が現れてから二人は歩き通しだった。 ファーヴニールは少女を気遣い、ある公園へやってきていた。 これといって見どころのない場所だが、豊かな自然の中にたたえる青い水辺が気に入っている。 ここには自由に使える小舟があるため、誰もが好きに水遊びを楽しむことができた。 ここからなら、ターミナルの全景を眺めることもできる。 訪れるひとも少なく、静かに過ごすにはちょうど良い。 「一日歩き続けたら、足がクタクタやね」 世界図書館を遠く見あげ、向かいに座った百合華がまぶしそうにターミナルの情景を眺めている。 「悪かったな。たくさん歩かせて」 ファーヴニールは小舟を水辺の真ん中に浮かべ、櫂を休めた。 「なんで巧が謝るん。私が見たいって言ったんよ」 そうして請われるままに連れ歩き、すでに約束の時間が訪れようとしているのだ。 今を逃したら、もう二度と会えないかもしれない。 その想いばかりが彼を焦らせる。 だが、何から伝えればいいのかがわからない。 話したいことは山ほどある。見せたい場所も、紹介したいひとも。世界も。 だが二人には、もう迷うだけの時間もないのだ。 「私のほうこそ。さっきはごめんな」 「さっき?」 「画廊街に居たとき」 「ああ……」 そういえば先ほど、かたくなに描かれることを拒んでいた。 「巧が、『本当の私』のことを忘れそうで。嫌やってん」 絵に描かれた己に捕らわれるのが嫌だという。 違う己に塗り替えられるのが嫌だという。 「そんなん、巧の中に『本当の私』がいたら、大丈夫やろ?」 確かめるように問いかける百合華の眼に、ファーヴニールは頷きかえす。 一緒に過ごした間、消滅を恐れていたのは誰でもない百合華だったのだろう。 彼女はすでに逝った記憶を抱えているのだ。 その瞳が、ファーヴニールを遺して逝くのが不安だと物語っている。 「ああ。大丈夫だ」 迷いなく応え、百合華に手を伸ばす。 少女はファーヴニールの手を取り、導かれるまま眼前に膝をついた。 「嬉しなあ。今でもそうやって、私のことで泣いてくれるんや」 百合華はそっとファーヴニールの涙を拭う。 優しく降りそそぐ言葉に、触れる指先。 愛情だけではない。あらゆる想いがうずまいていた。 咎も謝罪も。 全てを内包して。 浮かぶのは、ただ静謐な感謝のことばだった。 「ありがとう」 出会ってくれたこと。 赦してくれたこと。 愛してくれたこと。 「ありがとう」 抱きしめた少女の身体は、すっぽりと腕に収まった。 刻限が迫っているためか、温もりはあれど重さを感じない。そのことが余計にファーヴニールの胸を締めつける。 「巧、笑って。笑っててや」 ――私の記憶に残る巧の顔が、いつでも笑顔であるように。 突風が吹き、ひときわ大きく小舟が揺れた。 水面がさざめき、水鏡に映ったターミナルの新緑をかき乱す。 それは、いつか視た夢の光景にも似て――。 開いた腕の中に少女の姿はなかった。 小舟の上のどこにもいない。 まるで突風にさらわれたように、愛したひとは去っていった。 直前まで絡めていた指の温もりを覚えている。 耳元に響いた声を覚えている。 「……ありがとう、百合華」 ファーヴニールは水晶球を手に、もう一度だけ、涙をこぼした。 やがて≪水中花≫はキンと微かな音をたてて砕け散った。 破片はすべて水に沈めた。 白百合は今度こそ永く静かな眠りにつくだろう。 青と緑に抱かれた、この水底で。 了
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