夜になっても眠らない、日本の歓楽街に二人はいた。「ここだ……なにか手がかりがあるといいが」「そうだね。まぁ気楽にいこうよ」 ロストナンバーであり、この地方を仕切る大手ヤクザ組織の若頭である遠山とイタリアに本部を置くマフィアのラッキーは同じ裏社会関係のよしみで、なにかと協力関係を結んでいた。 今回は遠山が気になる情報を仕入れたのに、二人で調査することになったのだ。 最近、街で人が消えている――。 若い十代から二十代前半の若者ばかりが消えている。それだけならば家出や個人的なトラブルだと気に止めることもないのだが、それに合わせて不審な死体もぽつぽつと出るようになったのだ。五人の行方不明の内、三人が全裸で、しかも身体が細切れにされて発見され、そのなかの一つは複数の大型の獣に襲われたようにずたずたの状態であった。 夜がくる。そうすればどれだけ危険でも、人は快楽を求めて歩き出す。 煌びやかな魔天楼。 酒に、女に、人に、または薬に、酔いたくて、寂しくて、仲間を求めて人は集まり、一夜を過ごす。 歓楽街を見周り、そこから少しばかり離れた公園からくぐもった悲鳴が聞こえてきたのに遠山とラッキーは足を止めた。盛ったカップルかと思ったが、違った。「ぎゃはははは、血を出したぜ、血」「うわぁ、きたねぇ」 若者たちの声。よく見ると、その真ん中には若者が倒れて、暴力を振るわれている。 若者は酒を飲んで、気分がハイになっているらしく、手ごろな相手を捕まえていたぶっているらしい。「おい、お前ら、なにしてるんだ」 見かねた遠山が止めに入る。倒れている若者に近づくと鼻血を流して震えているのは、小動物のようにすら見える。「立て、大丈夫か? ほら、血を拭え」「……ちがう、ちがう、おれはちがう……したくない、したくない」「お前?」 頭を抱えて震える青年のおかしな言動に遠山は目を眇める。酒、いや薬でも飲んでいるのか?「俺は、したくないんだ。もう……逃げて、逃げてくれ。さわるな、さわるなっ! たすけて、たすけてくれ……空廼」 怯えた青年の咆哮とともに、彼をいたぶっていた若者の一人が叫びをあげた。見ると、その若者の全身が黒い毛でおおわれ出す。「な、なんだよ、うわぁああああ」 もう片方の若者が逃げていく。遠山が止めようとしたとき、震えていた青年に腕を思いのほか強い力で引っ張られた。「交代だ。郁矢……あいつは俺の獲物だ」 にたぁあああと青年は笑う。楽しげに。 そして立ち上がると、その手から光が放たれる。銀の糸――それが空を飛び、逃げ出した若者に触れ――ぐしゃり――血肉が飛び散る。 遠山とラッキーはそれを見ているしかできなかった。いや、なにが目の前で行われたかを把握することすら出来なかった。「く、はあははははははははははははははは! ばかじゃねぇのかよ! 自分よりも弱いと思ったやつに殺されちまってよ! ああ、血だ。血だぁ! いいね、いいね! もっと悲鳴をあげさせりゃあよかったぜ!」 青年は狂ったように、嬉しげに、楽しげに、うっとりとした顔で笑い続ける。「その力……お前、世界樹旅団か!」 狂い笑っていた青年がようやくそこに遠山とラッキーがいたことに気がついた顔をした。「あん? まだ、いたのかよ。……おっさん、あんた、あいつの血がついたぜ。くくく、ならもうすぐだ」「なにを言って……っ!」 とたんに遠山が、その場に崩れた。「遠山! どうし……っ!」 ラッキーの目の前で、遠山の体が、先ほどの若者のように――片腕だけだが黒い毛でおおわれている。 白目を剥いた遠山が襲いかかってくるのにラッキーは、躊躇わず銃で応戦するが、黒い毛におおわれた腕は鋼のように銃弾を弾き飛ばし、懐に飛び込むと殴り倒れた。「っ!」 よだれをしたたらせ、赤い目をした獣と化した遠山にラッキーは舌打ちとともに、ナイフを引き抜くと、首を狙って切り込む。赤い血が飛び散り、悲鳴をあげて遠山が崩れる。しかし、それも数分で、傷口が黒い毛に塞がれる。「へぇ、仲間なのに攻撃するのに躊躇わないんだな」「自分になにかあったら見殺してくれっていうのが俺たちの決まりだから」 ラッキーは笑って言い返すと、青年は手に再び光を溜めて、糸のようなものを放つ。慌てて後ろへと避けるが、次の瞬間には片腕がごとっと落ちた。 血が噴き出し、悲鳴をあげる暇すら与えられず、ラッキーは地面に倒れ込んだ。「いいね、いいね! 俺はそういうやつは大好きさ! 逃げるんじゃねぇぜ! 血だ。もっともっと俺に血を見せてくれ。くくくく、殺しあえ。……郁矢、交代だ! あれを呼べ!」 叫んでいた青年の顔が、ふっと弱弱しいものに変わる。今にも泣き出しそうな顔は、目の前の悲惨な状態を見ると、口に手をあてて、震え、嘔吐する。「う、うえ、げっ……っ、やりすぎだ。空廼……っ、俺はただ、ただ普通に生きていたいだけなんだ。だから逃げてくれ。本当に、もう、いや、なんだ。けど空廼は殺したいって、俺は、こんな力を……」 震える青年の背後から三匹の獣が飛び出してきたのにラッキーは息も荒く、立ち上がると、その場から逃げ出すことを選んだ。★ ★ ★「壱番世界で、世界樹旅団が目撃された。それもかなり危険なやつが……」 渋い顔をして告げるのは黒猫にゃんこ――の三十代の姿である黒だ。「ラッキーからの報告では、そいつは人を獣に変えて操る力と、なんかの方法で物を切っちまう力があるらしい……」 黒は深いため息をついた。「実はラッキーと一緒に遠山という男が調査していたんだが、遠山は敵によって獣化されて、襲ってそうだ。……ラッキーも今は意識不明の重体、今は治療中だ。それで詳しいこと聞けなかったが、このままほっておけば壱番世界が大変なことになる。絶対に止めてくれ」
「……ここね」 ほのかの深紅の唇から静かな声が零れ落ち、琥珀色の瞳は感情を湛えることはなく、ただじっと宙を凝視する。 「大丈夫かなぁ」 「きっとできるのです」 『頼るしかあるまい』 「どうなるんだろうねぇ」 ほのかの一メートルほど後ろには心配げに頭をかくファーヴニール、全身が銀色のゼロ、逞しい猟犬のクラウス、いつもはつけているグローブを外したニジュクが見守っている。 あまり近づきすぎては念を読むほのかの邪魔をしてしまうと考慮し、わざと距離をとっていたのだ。 一行はまず敵の情報を少しでも集めるためにも司書から教えられた事件現場に足を向けた。 夜は摩天楼が煌めく繁華街は太陽が出ている時刻は人の数が少なく、通りに面した店はすべてシャッターが降ろされ、アルコールと胃酸のかおりが悪臭となって立ちこめていた。 問題の公園にくるとほのかが 「……もしかしたら、わたしに出来ることがあるかもしれません」 おずおずと切り出した「死霊の残留思念」を読めるかもしれないという可能性。聞きこみは難しそうなのもあり、それを試してみることにしたのだ。 今は両手を胸のまえであわせ、祈りのポーズをとってほのかは目を閉じている。 死霊を見るのとはわけが違い、その残した念を読むのだからそれ相当の精神力と時間を要するらしく、ほのかは先ほどから微動だにしない。 『ほのかは時間がかかりそうだ。その間にオレたちも出来ることをしよう』 「できることか」 『鼻を使って奴の臭いを探るなりできるだろう』 「それは流石に俺たちには無理だと思うな」 犬のクラウスなら可能だろうが、一応人間であるファーヴニールには無理だ。ただ何もせずにほのかを待っているよりは周りを見て回るのもいいだろう。 「ゼロ、がんばるのです」 「ぼくも」 ゼロとニジュクが茂みを探すのに、クラウスも自慢の鼻をひくひくとさせる。 ファーヴァニールもまた腰を低くしてなにかないかと公園を探し、ジャングルジムで不吉な赤黒いあとを見つけた。 血痕のあとだと悟ると、ファーヴァニールは身をかたくした。 どんな方法で人を獣化させているのかは不明である以上、不用意に敵の残したあとには近づかないほうが賢明だ。 「……ちょっとだけ気ぃ悪いね。迷惑!」 小声で吐き捨て、ファーヴァニールは下唇を噛んだ。 ★ ★ ★ ――聞かせてちょうだい、あなたの声を ほのかは呼びかた。 ここには無数の念が渦巻いている。 そこから目的の念を捜し出すのは容易いことではない。 海に潜るときのように心を深く深く沈め、気配を読みとることに心を傾ける。 無数の声から、これだと思うものの糸を掴んで引き寄せた。 ――死にたくない 切実とした声。 震え、泣いている。 怯えた子どものように。 無数の人、人、人……あざ笑っている。見下している。刃物がきらめく。 殴られる。 痛み。 悲鳴をあげる。 もうゆるして、もうゆるして…… 笑う、笑う、笑う。 また殴られる、なぜ、こんなことに? 痛い、苦しい。吐いた。それでまた笑われる。また殴られる。たすけて、たすけて たすけてくれ、死にたくない、死にたくない、もう、いやだ、もういやだ 絶望に彼は叫ぶ。 痛みもなく、苦しみもなく生きたい。ただ、それだけが叶わない。 ――ばぁか、みぃんな、おまえを殺すんだぜ 優しい声がささやく。 まだ続いている痛み、痛み、痛みの連続のなか、ふっと心が浮遊するような不思議な感覚が全身を包みこむ。 滴る血、血、真っ赤な血、紅の、朱の、それが散る、散ってゆく。 ――殺しちまおうぜ! ぎゃはははははははははははははははははははは! ほのかは顔に水をかけられたようにはっと両目を開けた。とたんに心に流れ込んできた津波のような激しい感情に頭が混乱した。 叫びたい、吐き出したい、泣いて、助けを求めたいという想いが彼女を支配する。肉体が小刻みに震えると足の先から感覚が失われていく。 「危ないっ!」 ファーヴニールが慌ててよろめくほのかの肩を抱いて、支えた。 「……あ」 ほのかの白い肌はいつも以上に血の気を失い、紙のようになっていた。 「……ごめんなさい」 「座ろう。運ぶよ」 錆びたベンチに座ったほのかは、心配げに自分を見つめている四人に、口元だけ微かに動かして微笑みを浮かべて心配ないと示した。 そして、先ほど見たことを、ゆっくりと説明した。 「複数の男に取り囲まれて殴られていた?」 「ええ、それで血が……あとには笑い声が」 ほのかは迷いながら言葉をひとつ、ひとつを確認するように口にした。まるで荒れ狂う海のような念を言葉にするのはなんとも難しい。 四人はほのかからの貴重な情報から新しい発見とともに推測を展開した。 「もしかして、じゅう化したひとの血をかぶると感染するのかな?」 『オレもそう思う。戦いのときに奴に血を流させないように注意しよう』 「ゼロ、いろんな本で読んだのです。獣化の呪いの類は血を媒介にすることが多いのです。敵さんの血、獣化した人の血、それに敵さんにより流された血に触れると獣化するのかもです」 それに、とゼロは柳眉を寄せて難しい顔を作った。 「人から人に血を媒介に獣化を感染させるおそれもあるのです。あと血によって敵は人格を変えているのでしょうか?」 「……以前、この世界でお会いしたキャンディポットさんは、花を化け物に変えていたけど……あまり派手にやると怒られると……適当に切り上げていった様子だった」 ほのかは以前の事件も踏まえて、今回の件にしても住民の殲滅ならば規模が小さいと感じていた。旅団の考えは不明だが、無造作に人が殺されていくのはやるせないとも。しかし、ゼロの考えを聞くと今回は大きな陰謀が絡んでいるのではないかと不安に胸が騒いだ。 「もう一度、読んでみましょうか……?」 「それはほのかさんに負担が掛かりすぎるよ。戦うときに気にするところがわかっただけでも十分。近くにコンビニがあったし、飲み物を買ってくる」 「ゼロも一緒に行くのです! 敵さんの対策を今のうちにするのです」 「よし、行こう、ゼロ」 ほのかが止める間もなく、ファーヴァーニとゼロはターミナルで友人関係であり、和気藹々とコンビニへと歩いていく。 『オレはもう少しここを探ってみよう。何かあれば呼んでくれ』 クラウスはそういうとすたすたと公園のなかを見回りだす。 ベンチに残ったのはほのかとニジュク。 ほのかが気遣わしげな視線を向けると、ニジュクはびくりと肩を震わせた。 あからさまな態度にほのかは僅かに目を見開く。ニジュクもまた自分のしてしまった失敗に気がついたのかバツ悪い顔をした。 その小さな身から伝わる緊張を読みとると、ほのかは申し訳なさそうに目を伏せた。 「ここに来て……皆さんが良くして下さっていたから忘れかけていたけど……そうよね、気持ち悪いわよね」 「え」 ほのかが深く頭をさげたのにニジュクは目を丸めた。 「ごめんなさい……なるべく、あなたから離れる様にするわ」 ニジュクは顔を歪めて何か言おうとしたが、まるで陸にあげられた魚のように口をぱくぱくと動かすだけで言葉を発するにはいたらない。 一つの誤解だった。 ほのかは自分の力がニジュクの怯えの原因と思い、ニジュクは成人している女性が苦手で、ほのかと二人きりなのに困ってしまっていた――些細なすれ違いが生んだ誤解を互いに解くこともできずに、鉛のように重い沈黙が二人の間に流れた。 「ただいまー。ん? どうかした?」 「ただまいなのでーす」 戻ってきたファーヴァーニとゼロはその場に流れる微妙な空気に目を瞬かせる。 『なにもなかったが、ここにある匂いは覚えたぞ……なにを買ってきたんだ?』 公園をぐるりと一周し終えたクラウスが戻ると首を傾げて二人を見上げた。 「敵さんへの対処のためのものなのです。まずは、これです!」 ごそごそとコンビニの袋からゼロが取り出したのは透明な合羽だ。 「気休めかもしれませんが、これで血を防ぐのです」 『オレはどうするんだ、人間用なんて着れないぞ』 犬であるクラウスが憤然と言い返す。 「それなら心配無用なのです。犬用もあったのです」 ゼロがにこにこと大型犬用の透明な合羽を取り出してみせる。 「最近のコンビニってなんでも揃ってて、本当に便利!」 ★ ★ ★ 夜が訪れると昼間は寂れていた通りに明かりが灯り、どこに隠れていたのか人が溢れだす。 呼び込みや酔っぱらい、誘いかける女、喧嘩の声……耳を満たす喧騒と輝き。 そのなかを五人は周囲を警戒しながら歩いた。 問題は、敵がいつ現れるかがまったくわかっていないことだ。 右を見ても左を見ても人、人、人……そこからたった一人の敵を探し出せというのは砂漠で小さな金を探すのと同じほどの途方もない行為だ。 だがこうしている間にも誰かが被害にあっているのではないかと焦りが心をせき立てる。 『ここはオレに任せろ』 クラウスが鼻をひくりと動かした。 自慢の鼻は昼間訪れた公園にあるすべてのにおいを嗅ぎ、覚えていた。 昼間覚えた臭いに似たものを優れた嗅覚で、また聴覚は悲鳴、不振な音の発生場を探そうと試みた。 『……公園で嗅いだことのある臭いだ! それも血の匂いも!』 クラウスが顔を険しくさせて叫び、駆け出す。 そのあとを残りの四人は追いかけた。 飲み屋の横にある細い通路は表がきらびやかだというのに、その道に一歩足を踏み入れただけでうんざりとするほどにゴミが散らかり憂鬱な闇をはらませていた。 クラウスは鼻先に皺を寄せた。 『ここだ』 「こんなところに……?」 ゼロが怪訝な顔で呟く。と、太い男の呻き声が聞こえてきたのに五人は顔を見合わせた。 酔っぱらいの声のようにも思えるが、こんな道の裏側で――? 不審という水によって急速に育った不安と恐怖の花が咲き、五人の心を蝕んでゆく。 『危険だ。オレが行こう』 「俺も一緒に行きます」 クラウスとファーヴァニールが視線をあわせ、頷きあう。それにニジュクが手をあげた。 「じゃあ、つぎはぼくね、ぼく」 「……ニジュクくんは二人を守ってあげてほしいんだ」 ファーヴァーニは穏やかに微笑み、ニジュクに視線を向けたあとほのかとゼロを見る。 この場で戦いとなったら接近する可能性が高い。その際、ゼロとほのかを守る者が必要だ。 「けど」 ニジュクが不満と困惑を混ぜたような顔をするのに、その肩をファーヴーニが軽く叩いた。 ああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛! 飢えた獣の叫び声が闇を切り裂いて五人の耳に轟いた。 弾かれたように五人が駆け、奥へとたどり着くとそこには一匹の巨大な獣とその前に倒れた男がいた。 噎せかえるような血の臭いと吐瀉物。 倒れた男がふらふらと立ち上がった。その顔は殴られたのか鼻や口が切れて、血を流して悲惨な有様だ。 「お前が、この事件の犯人なのか!」 「……だれ?」 ファーヴニールの怒声に男――郁矢は眉を寄せ、井戸の底のような瞳で、じっと五人を見つめる。 『ファーヴニール、離れていろっ』 クラウスが風の刃を無数に生み出して放つと獣が前に飛び出して郁矢の盾となり、雄叫びをあげて鋭い爪を振りあげて襲いかかってきた。 『まずいっ』 「俺も、いく」 ファーヴニールがエンヴィアイを取り出して構える。近づいたら血をかぶる可能性があるので、一定の距離以上、敵に接近を許すつもりも、近づくつもりもない。 放たれる弾丸、そして雷の牽制に獣は怯えた。 その隙をついてクラウスのカマイタチが放つ。 二人の息の合った攻撃に獣は手も足も出ない。その様子を獣の後ろにいる郁矢は呆然と見つめ、小刻みに震えだした。 「いやだ、助けて」 上で硝子の割れる音が響いた。 驚いて目を向けると、建物の上から人が、いや、獣だ。 それは奇妙な姿だった。右腕から首までが毛で覆われているのに、それ以外は人間の姿をしていた。しかし目は白く濁り、口からこぼれる涎は人間らしい理性の欠片はまったくない。 「あれは……遠山さん」 ファーヴニールが驚きに声をあげる。 遠山はファーヴニールとクラウスの前へと降りたつ。そのあとに続く二匹の獣はほのかたちの前へ――完全な挟み撃ち。 「ここはぼくにまかせてよ!」 ニジュクがトラベルギアを取り出して、衝撃波を放って獣たちを牽制する。 「ゼロもやるのです!」 ゼロはコンビニで購入した瞬間接着剤を持つと、巨大化と縮小を高速で繰り返す。やや巨大化したまま、それ以上に巨大化したままの接着剤を腰に持って、勢いよく噴射する。そのときも巨大と縮小を繰り返した状態のままで、無限に中の液体が出るように工夫した。 どろどろの液体は獣たちを捕え、固まる。 確保が成功したのにゼロは微笑みとともにぷっしゅーと声をあげて、その場に尻餅をついた。 ゼロとニジュクの活躍にクラウス、ファーヴニールも負けてはいない。 カマイタチと雷撃に射撃で遠山と残りの二匹を近づかせように牽制し、じりじりと追い込んでゆく。 「こっちは終わったからフォローするね!」 ニジュクは奏でる軽やかな曲に、ファーヴニールとクラウスは心の底から力が湧きあがるのを感じた。 『力が漲る……! いっきにいくぞ!』 「サンキュー! おう!」 「……たすけて、たすけて、空廼、このままじゃこのままじゃ……ちがう、俺はこんなこと望んでない、ただ、ただ普通に生きたいだけなのに、どうして、……っ、きもち、わるいっ」 獣の後ろに隠れて震えていた郁矢の動きがふっと止まった。暗い目がぼんやりと眺めたと思うと、口元か皮肉げに、にちゃりと笑った。 「ったくよ、都合の悪いときだけ俺を呼びつけやがって!」 するりっと立ち上がる郁矢、否、空廼は首を軽く横に傾げると、こきりっと骨を鳴らす。 「おい、獣ども、ここはひけ。場所が悪すぎる」 空廼の声に獣たちが動きを止めると、驚くべき飛躍で宙へと舞いあがり、逃げていく。 残った空廼はにやりと笑うと、猛然と突っ込んできた。 『いかんっ』 「っ!」 クラウスとファーヴニールの攻撃するタイミングを計っての接近、ファーヴニールのエンヴィアイが真っ直ぐに空廼の姿を捕え、撃つ。 空廼はファーヴニールの攻撃をあえて避けなかった。腕、頬、足と弾が皮膚を掠めても、怯まず懐に入ると光の糸が放たれた。 「!」 『させるかっ』 クラウスが吼えた。風でわざと地面に散らばったゴミを巻き込んだ風の壁を作り出し、攻撃を遮断しようと考えたのだ。 「甘いんだよ」 光の線が風を突き抜けると獲物を狙う白蛇は嬉しげに宙で大きくうねり、真っ直ぐにゼロへ、否、彼女の捕えた獣たちに巻きつくと一瞬にして、まるでパズルのピースのように細切れに切り刻んでしまった。 風の壁が消えたあとに、空廼はにやにやと猫のように笑って立っていた。 「平穏を乱すなっていわないけど、赤いもの好きなら許されるのはトマトまでだよ!」 「あははははははははは」 咆哮に答えたのは狂気の洪笑。 今度は素早い動きで攻撃を全て避けた空廼は、片手をあげて手招きした。もっと遊ぼうとねだる子供のように。 楽しげに笑う顔には罪悪はなく、むしろ楽しんでいる。その顔を見たとたんに全員の背筋にはっきりとした嫌悪の震えが走った。この事態を、人を殺すことを、殺されようとしていることをこの男は心の底から楽しんでいる。 空廼と獣を追いかけ向かったのは、繁華街の裏通りの先にある小さな人気ない、死人の腹のような静かな公園であった。 錆びた遊具が片隅にあるだけであとはがらんと広い空間があるばかり。 その中央で空廼は待っていた。 追いついた五人が公園に足を踏み入れると同時に獣たちが襲い掛かってくる。 先ほどの狭い路地よりは好きに動き回れることが獣たちには有効に働いているらしく、大きく飛び跳ね、攻撃する直前まで予想しづらい動きで、不意打ちを狙ってくる。 クラウスとファーヴニールが苦戦するなかで前へと出たのはニジュクだ。彼は小柄な肉体を最大限に活用し、獣たちの攻撃を避け、さらには反撃し、死角にはいると手を伸ばして、その肉体に触れた。 ニジュクは命ないものに触れると、それを腐らせる特殊能力があった。 毛や爪を腐らされた獣が本能の恐怖から逃げるのにニジュクはますます前と出た。 『行き過ぎだ!』 クラウスが叫ぶが、ニジュクは止まらなかった。まるで夜風のように素早く獣たちの後ろに隠れている空廼に接近すると拳を振るう。 「にがさないんだからな!」 「……だったらなんだよっ! 別に光だけが武器ってわけじゃねーぜ!」 空廼の長い脚がニジュクの腹を蹴る。小さな身にはあまりにも強い衝撃にふっ飛ばされ、ジャングルジムに叩きつける。 ニジュクは苦しげに倒れるのに空廼はにやにやと笑って歩み寄ると足を止めた。 「……郁矢、交代だ。このガキをやっちまえ」 すると先ほどの傲慢に見下していた男から、その外見は同じだというのにまるで違う人物へと変貌した。 「にげろって……いったのに」 「待って……あなたたちの目的はなんなのですか? ……獣になった人たちを戻す方法はないのですか?」 ふらりと、ほのかが気配もなく現れてニジュクをかばいながら郁矢を見つめる。 「……にげれば、いいんだ。このまま、どうして誰も、ほっておいてくれないんだ。そうしたら、何も起こりはしなかった、なにも……」 郁矢の顔が歪み、吐き捨てる言葉は迷子になって途方に暮れた子供のようだった。 郁矢がほのかに気をとられているのにニジュクはそっと後ろにあるジャングルジムに触れた。 「にげて、おねえちゃん!」 ニジュクが叫ぶのにほのかは何が起こるのか察して横へと逃げる。 その場でなにが起こるのかわけがわからないままでいたのは郁矢だけだった。 根元が腐ったジャングルジムが崩れ、土煙をあげる。 「やった!」 敵を倒したと確信したニジュクが喜びの声をあげたとき、ぬっと土煙から鋭い爪が伸びてきたのにほのかは咄嗟にニジュクを抱きしめた。 「!」 あまりにもいきなりのことにニジュクは驚き、パニックに陥りかけた。こんなにも間近に女性がいるというだけで震えてしまいそうになるが、ほのかの肩に鋭い爪の傷があるのに顔から血の気がひいた。 見ると、目の前には郁矢と、ジャングルジムを片腕で持ちあげた遠山がいた。 「……ほのかおねえちゃん怪我!」 普段ならほのかを突き飛ばして逃げてしまうか、それとも硬直して動けなくなるところだが、今はショックのほうが勝っていた。 ほのかは口元に優しい笑みを浮かべた。 「……大丈夫よ。あなたが無事でよかった……わたしにはカタシロがいるから」 ほのかの傷は消え、かわりに身代わりとなったカタシロが攻撃をくわえた獣の遠山と郁矢に向かって不気味な奇声をあげた。 遠山が怯み、片手でもっていたジャングルジムを無造作に地面に捨てると頭を抱えて蹲る。 しかし、それよりもひどいのは郁矢だ。その場に倒れ込むと、げぇげぇと吐瀉物を吐き、泣きじゃくった。 「いやだ、いやだ、……たくない、死にたくない! 助けて、たすけてぇ! 空廼!」 その悲鳴にほのかは昼間、聞いた声を思い出した。 「……彼の力の源は……」 血ではない。いや、血は感染のための手段。だが、それを発動させているのは…… 気が付いたときにはなにもかも遅かった。 あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛! 獣たちの動きがぴたりと止まり――いきなり雄叫びをあげる。 めき。 音をたてて獣たちの背中が盛り上がり、一回り大きくなると爪、牙がさらに鋭く進化した。 『これは……』 「どうなってるんだ」 あまりにも突然に醜悪なものがさらなる醜悪なものへと変貌したのに誰もが息を飲んだ。しかし、それだけでは終わらなかった。 あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛! 咆哮。 それとともに獣たちは仲間の獣へと襲い掛かり、共食いをはじめたのだ。 めき、めきめきめき。骨の折れる音、血をすすりあげる音、なにもかもが悪い悪夢のような光景だ。 「っ! なにをしたんだ! お前!」 耐えきれずにファーヴニールが睨みつけて叫ぶその先には、笑みを浮かべた空廼が立っていた。 「俺はなにも。やったのはお前らだろう? 郁矢に恐怖を与えた……あーあ、気絶してしばらくは出られないな。あいつ……こんな大物を見るのは久しぶりだ。俺も少しは楽しめそうだな」 哄笑する空廼をファーヴニールは思いっきり睨みつけて、拳を握りしめる。 「……ごめんなさい、あれはわたしが」 「ほのかさん、それにニジュクくん、無事でよかった!」 ほのかは悲痛な顔で首を横に振った。 「……ごめんなさい、わたしのカタシロのせいで」 「違うよ。ほのかおねえちゃんはぼくを守ってくれただよ、悪くないんだよっ」 「それは、どういう」 「……彼の、力の源は恐怖なんです。深い恐怖を味わうことで、血を浴びた人を獣にしているんだわ」 ほのかの言葉にファーヴニールは瞠目する。 だが思い返せば、遠山たちが獣になったとき彼は人々によって暴力を振るわれていた。先ほども、そして今もまた 「なぁ、あんたたち、自分たちが守るものがいかにつまんねーものかって思うことはないか? いかにくだらないものかって……郁矢の言うように、あいつはただここにきただけ。それに絡んできて暴力振るったのはあいつらだぜ?」 くくっと喉を震わせて空廼は笑う。 「弱い者があれば虐げる、そんなやつら、守る価値があるのかよ?」 めき。 獣は最期の一匹になるまで壮絶な殺し合いを繰り返し、残ったのは一匹――遠山であったものは完全な飢えた獰猛な野獣と化していた。 あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ああ゛あ゛あ゛! 歓喜、絶望、失望、哀惜……聴く者の心を蝕む咆哮。 「なぁ、教えてくれ。あんたたちはどうしてこんなやつらを守るんだ? 弱いと思えば虐げ、強いと思えばこびへつらう。あんたたちの正義ではこんなうじ虫どもも生きている価値があるのか、じゃあ、その虫に虐げられてるやつら、みぃんな助けてくれるのかい? ふん、偽善も大概にしねぇと気持ちわりぃぜ」 歌うように、目に見えない絶望の弾丸か放たれる。 「こいつらは自業自得なんだよ。それでも、まだ、あんたたちは守るのか? ……なぁ、こっちにこないか? 守るよりもあいつらを殺していったほうが楽しいぜ?」 甘い、甘い、毒が、どろどろと、世界を侵食していく。 それを叩き壊したのは祈りのような弾丸の咆哮。 ファーヴニールの放った弾丸は、空廼の右頬を掠めた。血がじわりと零れ落ちる。 「それがお前らの答えか?」 炎を燃やす瞳で睨みつけるファーヴニールと空廼の視線は宙でぶつかりあう。 空廼は小馬鹿にしたように肩を竦めた。 『ここにいる者がお前側につくと思うなっ』 続いて放たれるカマイタチ、衝撃波、さらには瞬間接着剤を空廼はバックステップを踏み、口笛を吹くと呼ばれたように獣が前へと出て吠え、空気を震わせた。 「お前らが正しいなら、見せてみろよ。その力で! ……さて、郁矢も倒れちまったし、俺は行くよ。生きていりゃあ、また会えるかもな」 高らかな哄笑を残して闇の中に空廼は消えていく。それを追いかけようにも、獣が立ちはだかり、襲い掛かってきた。 「捕まえるのです!」 ゼロが先手必勝と、接着剤を放つが、それは獣から見れば緩慢な動きでしかなかった。素早くそれを避けると、巨大化したゼロを標的に獣は鋭い爪を振るった。 巨大化しているゆえに避ける場所がないゼロは、その一撃を受けて後ろへと転がる。獣はさらに容赦のない追撃を放つため、ゼロの上へと飛び乗り、拳を振るいあげる。 「ゼロ、小さくなれ!」 『させるか!』 クラウスがカマイタチを放つのに合わせて、ゼロは巨大化を解いた。獣は目標がいなくなったのに素早く空へと逃げると、カマイタチをすべて避けきって地面に直地した。 『避けただけと……!』 クラウスは驚愕に目を丸めた。あの状態で攻撃を避けられるはずがない――獣の本能で殺気を感じ取り、予測して避けたのか。 ぐぅうううううううるるるるるるるああああああああああああ! 獣はまた啼く。否、あれは嗤っているのだ。 「このままじゃ……」 ファーヴニールが拳を握る。 空廼がいなくなっても、この獣を野放しにしては多くの被害が出るのは目に見えている。 「わたしが……囮になります」 「ほのかさん!」 「……わたしは大丈夫です。カタシロがありますから……カタシロの力であれの動きを少しは止めることができるかもしれません」 「けど」 「させてください。わたしのせいでもあるんです」 ほのかのせいではない。 しかし、ほのかの強い瞳に、その場にいた誰も反論は出来なかった。 「ぼく、ぼくが、守るよ。絶対、絶対に守るからっ!」 「ゼロもがんばるのです!」 『厄介な相手だが、オレたちならやつを倒せる』 「……わかった」 ファーヴニールはエンヴィアイを握りしめた。 四つん這いの獣の前にほのかはふらりと前に出る。守りなどない無防備な姿は、さぞや獣の攻撃心を刺激したに違いない、よだれをたらして飛びかかってきた。 「させないんだからな!」 ほのかの後ろに隠れていたニジュクが衝撃波、ゼロが接着剤を放ち、獣を後ろへと追いやった。 ぐるるるるるがああああああ。 獣が威嚇の声をあげ、飛躍する。 『させるか!』 クラウスの起こした土砂を含んだ黒い竜巻が行く手を遮り、獣が宙で動きを止めた一瞬。 そのタイミングを狙っていた。 竜巻が消えたとき、その後ろに隠れていたファーヴニールが銃口を向ける。獣の腕が殴りかかってきたが、それを竜化した腕で受け止め、胸に銃口をあてた。 「っ!」 ――届け――! 弾丸が、この化け物の放つ憎悪も、哀惜も、歪みも、すべてを断ち切れるように、祈りをこめて引き金をひく。 銃声が静寂を満たした。 胸に大きな穴を開けた獣は力なく落下して地面に叩きつけられ、血をとめどなく溢れさせる。 そして、獣の姿がじわじわと変化し、人へと、戻ってゆく。 最期だけはちゃんと元の人に戻れたことは、この場にいる五人にとっては救いだった。 『旅団め……!』 クラウスの苦い呟きが、静寂のなかにひっそりと零れ落ちた。
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