ひどい顔だ、と、かすれた――引き攣った笑みが漏れた。 その笑みもすぐに消え、鏡の向こう側で、相沢 優が無念に歯噛みしている。 まったくもって、ひどい顔だ。 今日一日で起きたたくさんの出来事に、心と意識が追い付かず、頭の中がぐちゃぐちゃになっている。肉体の痛みや疲労より、精神の疲弊のほうが深刻で、さらに言うなら性質が悪かった。 「くそ……」 思わず、悪態が出る。 それが誰に向けられたものなのか、自分でもよく判らない。 蛇口をひねり、勢いよくほとばしる水を両手で受けて、乱暴に顔を洗う。 水の冷たさは、少しだけ意識を明瞭にしたが、それもすぐに、吹き荒れる感情の嵐によって散り散りになってしまった。 「なんで、」 その感情を言葉に載せて吐き出そうとするも、失敗する。 何を言えばいいのかも判らず、ただ、やりきれない気持ちばかりが募った。 鏡の向こう側で、洗面台のふちを握り締めて優がうつむく。 無念だ。 無念でしかたがない。 どうしようもなく、己の無力を思う。 あの時、自分にどんな力があれば、すべてがうまく運んだのか、と。 「……」 ロストレイルへの、世界樹旅団による一斉の襲撃。 各車両で激しい戦いが繰り広げられた。優の乗っていた双子座ロストレイルも例外ではなく、懸命の反撃と抵抗が行われたものの列車は半壊、車両の半分が旅団に奪われた。 優は、こうしてどうにか0世界へ帰還することが出来たが、 「灰人さん、綾……」 奪われた車両には、ともに戦った仲間が乗っていたのだ。 そして、双子座以外で略取されたロストレイルにも。 「目の、前で」 握り締める手に、ぎちぎちと力がこもる。 「……あんな」 遠ざかっていく車両を目にして、追いかけたいと切実に思い、しかし結局、何もできなかった。 彼らは無事だろうか。 ひどく扱われてはいないだろうか。 まさか、命まで。 「……ッ」 鏡の中の優が歯噛みする。 あまりにもあっさりと、この手をすり抜けて行った大切なものに。 大切なものを掠め取っていった旅団に。 そして、それらを上回る、自分の無力への歯がゆさに。 思考は、想いは、奪われた人々が失いがたく大切であるがゆえに、堂々巡りの袋小路を抜け出せない。 内へと向かう自責は、優に己が無力と無様を突きつける。 鏡ごと自分を叩き割りたいような衝動に襲われ、左手で右手を押さえて呼吸を整えた時、 「……あれ、優君? こんなところでどうした?」 その背へ声をかけたのは、乙女座ロストレイルから帰還したばかりの青年、ファーヴニールだった。 「あ……ニール、さん……」 彼もまた激しい戦いを繰り広げてきたはずだったが、女性的に整った面にも、強い力を秘めたしなやかな四肢にも疲労の色はなく、また、己の無力を嘆く苦悩も感じられない。 「あの、俺」 信を置く友人の姿を目にしたら、ホッとして気が緩んだ。 伝えたいことがたくさんあって、しかしそれがうまく言葉にならず、口ごもったところで、ファーヴニールの穏やかな眼が優を見つめる。涼しげな口元が、ねぎらいの笑みを刻んだ。 「大変だったね、優君。お疲れさん」 「あ、いや、うん……ありがとう。ニールさんも」 「……あのふたりのことは」 「!」 「そっか。……ねえ」 「?」 「優君、君は絶望してる?」 直截な、内面を抉り込んでくるような問いに目を見開き、優は拳を握った。 「そんなはず、ない」 強く首を振る。 そして、そうじゃないと思い直しもする。 絶望するはずがない、ではない。 絶望なんて出来るはずがない、のだ。 このままやすやすと奪われるのか? このまま我が身の無力を嘆き続けるのか? このまま手の届かない場所にいる大切な人を諦めるのか? ――答えは、否、だ。 「ニールさん」 「ん、なに?」 「少し付き合ってほしい場所があるんだけど、いいかな」 「……もちろん」 優の胸中を察したのだろう、ファーヴニールは精悍な笑みを浮かべて頷いた。 優は、立てかけられ所在なげなトラベルギアを掴み、大股で歩き出す。 苦悩はいまだ消えず、じりじりと咽喉を焦がし続けるけれど、何かせずにはいられなかった。 * * * コロッセオに到着してからも、ファーヴニールはいつも通り落ち着いていた。 彼もまた、乙女座ロストレイルにおける激戦をくぐりぬけ、帰還して、世界図書館側の被害を目の当たりにしたクチだった。 奪われた車両には友人も知人もいるし、世界樹旅団の今後の動きを思えば対策も警戒も必要なことは理解しているが、 「ニールさんは、冷静だね」 「ん? まあ……そうだね。だってさ、みんなが無事じゃないわけないし? なんせ、あいつらだよ?」 「あー……うん、そうなのかな。そうだといいよね」 「俺はわりと、本気でそれ、信じてるんだよ。だからかな」 ファーヴニールは、友人たちの無事を、そして『どうにかなる、どうにかする』という楽観的な未来を強く確信していたのだ。それゆえに、彼はいつもの調子で、意識をクリアに、感情をフラットに保つことが出来ていた。 「それに、」 「え?」 「……いや、何でもない」 目の前で仲間を連れ去られ、気持ちの整理がつけられず苦しんでいる優に突きつけるのは酷かと思って言葉を濁したが、むしろ、ファーヴニールの意識はすでに、世界樹旅団そのものへ向いている。 ここで終わるはずがない、という意味も込めて。 「それで……優君、君はどうしたい? 俺をここまで連れてきたのは、お茶をしながら世間話をするためなんかじゃないよね?」 「もちろん」 トラベルギアの柄を握り締め、優が真っ向から見据えてくる。 その眼の中に、いまだ収める場所を知らずちらつく動揺と焦燥を認め、ファーヴニールはいたわりの笑みを浮かべた。 「ニールさん、俺は強くなりたい」 「うん」 「きっとすぐに、次の戦いが始まる。俺は……護るために、少しでも強くなりたい」 「うん」 「もう、あんなふうに、何もできず見ているだけなんていうのは、いやだ」 「……うん」 優の心痛もまた、痛いほどに判る。 奪われ、喪いながらも戦いに身を置き続けてきたものとして。 「じゃあ……余計な言葉は要らないな。始めようか」 トラベルギア『エンヴィアイ』を手に、ファーヴニールが宣言すると、優は深呼吸とともに身構えた。 「……行くよ」 言葉とともに、ファーヴニールの腕が雷撃をまとう。 それと同時に彼は地面を蹴った。 一拍遅れて優が剣を構え、真っ直ぐに突っ込んでくる。 漆黒の双眸が、きらりと光を反射した。 ファーヴニールを見つめるそれらは、確かにまだ迷っているけれど、深く深く澄んで濁りひとつない。人の心に寄り添い、共感を貴びながらも、必要な時には迷わず武器を取れる、強い魂の垣間見える眼だ。 「いいね……優君、君らしくて」 その在りかたは、ファーヴニールには心地よい。 一直線に向かってくる彼めがけて雷撃を撃ち放つと、優はギアの防御壁を展開してそれを防ぎ、そのまま剣を振りかぶった。抜群の運動神経と、武術を習っていた経験もあって、優の撃ち込みは申し分のない速度だ。 ファーヴニールは振り下ろされる剣をエンヴィアイで受け、しばしの力比べのあと大きく弾いて後方へ跳んだ。 膝のばねを駆使して、高低織り交ぜたステップを踏み、トリッキーな動きで間合いへと入り込むと、前後左右から撃ちかかる。機動性に富んだエンヴィアイは、ファーヴニールの動きを妨げることなく、彼の思うように斬り込んでいく。 刃と刃が激しく重なって、こぼれるように火花が散った。 「小回りの利かない長剣で、俺の撃ち込みにこれだけ対応できるって、すごいな。壱番世界人には特殊能力が存在しないっていうけど、それ、実は嘘なんじゃないか?」 優は無言だ。 柔軟で強靭な手首と肘の力で、間合いに入られると非常にやりにくくなる長剣を巧みに扱い、ファーヴニールのギアを防ぎながらも的確に隙をついて斬り込んでくる。 「だけど」 ファーヴニールはかすかに笑った。 いたわりと気遣いの色が含まれていたことに、優は気づいただろうか。 「猪突猛進だけが戦いじゃない」 真っ向から挑んでくる優の在りかたは確かに心地よい。しかし、本当の戦場で、それが常に通用するとは、きっとどの兵法者も言えない。 「脇が甘いよ」 がっきりと組み合った瞬間、小規模な雷撃を生み出して左右から攻撃する。 素晴らしい勘でとっさに身をひねったものの、脇腹を雷撃にかすめられて優が顔をしかめた。 「ッ!」 「俺たちは純真無垢な善人じゃない。旅団の連中だってそうだ。どこから、どんなふうに攻撃が来るかなんて、自分の常識だけで決めつけていたら、いつか死ぬ」 「……判ってる!」 食いしばられた歯の間から、激情をはらんだ言葉が返る。 彼が冷静さを欠いていることなら、最初から気づいていた。 「魂は熱くていい。だけど、心は静かに、フラットに。じゃなきゃ、困難な戦局を斬り開くなんて出来やしないよ。――なんて、ちょっとカッコつけすぎかな」 にやりと笑い、同時に複数の雷撃を発生させる。 それらはまさに竜のごとく身をくねらせ、交互に優へと襲いかかった。 「!?」 さすがに予測の範囲を超えていたか、優の、優しげに整った面には焦りが揺れる。 「……ッ!」 それでも、トラベルギアの防御壁と、高い身体能力を極限まで駆使して、襲い来る数条の雷撃をすべてしのいだのは称賛に価した。 しかし。 「それで終わり……ってわけじゃ、ないよね?」 ほんのわずかに優の意識がそれた――旅団の襲撃からずっと張りつめ続けていたものが、危機回避の安堵でゆるんだのだろう――瞬間、ファーヴニールは彼の懐に飛び込んでいた。 こういう時、銃剣はひどく都合がいい。 エンヴィアイを突きつけながら、 「どうする、優君。ここで終わる? そんなはずないよね? 君はまだ戦える。君の中じゃ、まだ何も折れちゃいない。そうだろ?」 優へ向けて紡ぐ言葉は、同時に、自分への確認でもあった。 困難に直面し、強くありたいと切実に願い、膝をつくことはあっても折れず、傷つきながら立ち上がる。立ち上がらなくてはと強く思う。負けられない、喪えない、まだ戦えるという意志がふつふつと燃えている。 なぜか? ――無論、生きているからだ。 いのちある限り進めと、己の中で何かが叫ぶからだ。 それは、ファーヴニールも優も、きっと変わらない。 だから、己が無力に苦しみもがきながらも何かを掴もうと手を伸ばす優を見つめるたび、ファーヴニールは意志を新たにする。まるで、鏡に映し出された魂を見るように。 「俺はこのままじゃ終われない。君が『次』に向ける意志を見届けなきゃ帰れない。……君は、どうだ?」 淡々と、しかしあまたの想いを込めたコトノハに、優の眼が大きく見開かれる。その瞳に、静かで強い意志がきらりと輝く瞬間を、ファーヴニールは確かに見た。 * * * もがきながら剣を揮っていた。 闇雲に、がむしゃらに。 けれど、それでは駄目だ、と、ようやく気づいた。 否、気づかせてもらった、というのがきっと正しい。 「……ニールさん、俺」 「言いっこなしだ。さあ……やろう」 快活に笑い、ファーヴニールがバックステップで跳ぶ。 優もそれに倣い、跳んでから、小規模な防御壁を複数、つくりだした。 そしてそれをファーヴニールめがけて撃ち放つ。 強固な壁は、使いようによっては攻撃の手段ともなる。打ち据えられれば、ただではすまない。 「へえ……なるほど。なら、俺も!」 瞬間、ファーヴニールの左腕が竜のそれへと変化する。 金属質の、青を基本としたグラデーションの美しい、冷ややかに攻撃的な腕が、ばちばちと音を立てて稲妻をまとった。同時に出現した竜の尾が、優の放った防御壁を薙ぎ払い、甲高い破裂音とともに消滅させる。 「優君の意志を見せてくれ。俺も、惜しまずに見せるから!」 烈しい雷撃をまとった竜の拳が、風圧すら伴って叩きつけられる。 優はそれを、いっそ穏やかですらある心で見つめ、微笑みとともにギアで受け止めた。 根本的なスペックから言って、真っ向からの組み合いは不利。 そうとなれば、受け流すだけだ。 ぎゃぎっ、がっ、ぢっ。 金属同士のこすれ合う鈍い音。 「俺は……戦うよ、ニールさん。打ちひしがれたって負けたくない。どんなにひしゃげたって折れられない。だって、俺にはまだ、出来ることがたくさんあるんだから!」 斜めに掲げた剣の表面に、防御壁を発生させる手順の応用でごくごく小規模なエネルギーをまとわせ、激烈な雷撃を放つファーヴニールの拳を滑らせながら力を殺して流す。 ファーヴニールが上体を左に退き、拳を引くだけと見せかけながら、同時にエンヴィアイで斬り払う。しかし優は動じず、真っ向から振りおろした剣で銃剣の切っ先を撃ち落とした。 ぢぃん、という高らかな金属音。 また、火花が散った。 「……気づいたね、優君」 「うん、ニールさんのおかげで」 ファーヴニールの微笑へ、優もまた明るい笑みを返した。 「押して駄目なら引いてみろ、って、壱番世界の諺にもあるの、忘れてたよ」 魂は熱く、心は静かに、フラットに。 ファーヴニールの言葉が鮮明によみがえり、優の中へ染み渡っていく。 「凝り固まらない。勝手に絶望しない。ありとあらゆる局面から可能性を見出す。……よく考えたら、基本中の基本だよね」 「ああ。だけど、何より大事なのは、その基本に自分で気づくことだ。違うかい?」 優が首を振ると、ファーヴニールはにやりと精悍な笑みを浮かべ、 「じゃあ……いっちょ、決着をつけようか。せっかく、コロッセオに来たんだから」 身構えると同時に、全身を竜変化させた。 「!」 身の丈5メートルにもなる、金属質の、硬質で攻撃的なデザインの、無機質な――しかしとてつもなく美しいと断言できるそれの全身に力がみなぎるのが判って、優はぶるりと背筋を震わせた。 恐怖ではない。 驚くべきことに、彼は、昂揚したのだ。 「勝ち目があるかどうかなんてわからない……だけど、負けられない!」 高らかに宣言し、ギアを構えて突っ込む。 竜変化の威力なら知っている。 しかし、反動ゆえに長時間発動させられないこともまた知っている。 「なら……その隙をつく。見極めて、捻じ込む!」 無論ファーヴニールは、優がその隙を狙ってくることをも想定しているだろう。 「力試しだ」 高らかに咆哮した竜が、両の拳に雷撃を絡み付かせる。右と左、組み合わされ塊となった拳が、突っ込んで行く優をめがけて振り落される。 触れるだけで肉などこそげ落とされる鱗を持ち、爪や関節のひとつひとつが鋭利な刃物のようなそれは、まるで、茨をまといながら堕ちた星のような恐ろしいエネルギー塊だったが、喰らえば無事では済まないそれを頭上にして、優には焦りも恐怖もなかった。 彼はただ、竜の足元へスライディングの要領で滑り込み、二重三重に発生させた防御壁でファーヴニールの両拳をどうにか――恐ろしい衝撃に襲われはしたが――受け止めた。両足の間から背後へ潜り抜けた瞬間、素早く体勢を立て直してギアの柄をきつく握り、身体に回転を加えつつ剣を振り抜いた。 しかし、一瞬で状況を判断し、竜変化を解除したファーヴニールもまた、エンヴィアイを水平に薙いでいる。 ――そして。 ざりっ。 鈍い音がほぼ同時に響き、 「……ッ!」 「ぅおッ!?」 ふたり同時に吹っ飛んで、地面を転がる。 双方、とっさに刃の流れと同じ方向へ向かって跳んだのが功を奏して、斬れたのは皮膚一枚といったところだったが、 「あー……相討ち、かぁ。残念だけど、俺、もう、無理。疲れた……」 「俺も、さすがに竜の心なしでの全身竜変化はキッツイわー。俺も限界……腹減った。それに俺たち、よくよく考えたら戦ってきたばっかりなんだよなぁ」 体力のほうが、先に尽きた。 ふたりとも、コロッセオの床にごろりと寝転がり、荒い息を吐く。 ファーヴニールのいうとおり、ふたりとも、きちんとした休息も取らないままここに来たのだ。張りつめた意識が緩んだ今、これ以上戦意を保っておくことは、肉体的にも精神的にも難しい。 斬れた場所からはじわじわ出血していて、身体のあちこちが痛いし、無理を強いた筋肉が悲鳴を上げ始めている。 しかし、優の心は晴れやかで、新たな決意に満ちていた。 「……ニールさん」 「ん?」 「ありがとう」 「いや? 俺は何も、特別なことはしてないよ。優君の持つ本来の力が、ちゃんと想いに沿ったってだけなんじゃないかな?」 一足先に復活したファーヴニールが、まだ寝転んだままの優に手を差し伸べてくれる。優は、笑ってその手を取り、勢いよく起き上がった。 「とりあえず医務室かな。それから飯行かない? 俺、美味しいところを知ってるんだ、このお礼にご馳走するよ」 「ぶは、そういうときは年長者にカッコつけ役を譲るもんだよ優君。給料日直後のニールさんに任せなさい」 武器を収め、肩を並べて歩き出す。 「……ま、とりあえず、お疲れさん。次の戦いはすぐに来る、それまでに英気を養おうぜ」 「ん。これから、だもんな」 優は笑い、頷いた。 ――戦いの結末はまだ見えない。 けれど、判ったことがある。 今はそれで十分だ、と、思った。
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