ふと気がつくと、目の前に広がるのは限りなく雪色に近い壁とキラキラと輝くシャンデリアだった。 身体を起こし、とりあえずは、しんと静まり返ったこの部屋でなぜ自分がこんな場所に横たわって天井を眺めていたのかと考える。 気を失っていたのかもしれない。 しかし、よくわからない。 一体自分は何をしていたのか、どうしようとしていたのか、自分は果たして――「え」 ふいに、窓の向こうを何かが横切った。「な、なんだ?」 頭の中で警鐘が鳴り響く。 凄まじい速度と強度で、不安が足の爪先から頭のてっぺんまで這い上がってくる。「ここ、なんなんだ……っ?」 大きな窓に手をつき、目を見張った。 ガラスの向こうに広がるのは果てしのない青で、その青は大きくうねりながら遥か彼方までつながっていた。 また、どこかで物音がする。 今度はこの建物の内部からだ。 慌てて扉へ近づき、耳を押し当てる。 また物音がした。 何か重いモノを引きずるような不吉な音が遠ざかっていくのが分かる。「……なんなんだよ、一体、ここは一体、どこなんだ……?」 自分は悪夢のただなかに居るのだろうか? 逃げ出さなければ、早くこの場所から逃げ出さなければ、自分の頭がどうにかしてしまう。 * 自分を執務室に招いた世界司書――タキシードを着た赤いクマのぬいぐるみことヴァン・A・ルルーは、なぜか《導きの書》を手にとても複雑そうな顔をしていた。 たまらなくワクワクして喜びたいのだが不謹慎だからはしゃげないというような、むずむずとする困惑顔だ。 彼の首筋から覗くファスナー・チャームの存在も気になるが、普段冷静な彼が浮かべるめずらしい表情にも興味が引かれる。 一体どうしたのかと声をかけてみれば、「絶海の孤島に佇む館、というフレーズはどうしようもなく心躍らせるものではありませんか?」 いくぶん真剣な眼差しで、そう問い掛けられた。 前後の脈絡がない唐突な問いを投げ掛けられ、一瞬答えに詰まる。 すると彼はふと表情を和らげ、もっふりとした右手をあげた。 そうして、「私から皆さんへ、お願いしたいことがふたつあります」 彼はまず鋭い爪を1本だけ立てた。「ひとつ。ブルーインブルーの特命派遣隊の報告書の中に『なぜか上陸できなかった小島があった』という記述を見つけたのですが、件の島に佇む《館》につい先程ロストナンバーの転移が確認されました」 ではその人物を保護することが目的なのか。 依頼内容としては実にシンプルだと、そう納得しかけた時、「転移してくる方々は、4名、ですね」 一瞬、その数字に思考が固まった。「多少の時間のずれはあるかもしれませんが、その館に複数の、しかも互いに言葉も通じず、常識も通じない方々が鉢合わせすることになります」 漠然とイヤな予感を覚えて赤いクマ司書を見やれば、彼はこちらの考えに同意するかのようにこくりと頷いて見せた。「もちろんこういった事例は非常に珍しくはあっても過去に前例がまったくなかったわけではありません。ただし、ここで問題なのは、転移されたロストナンバーのひとりが、半ば無意識に“自身や他者の恐怖・不安を具現化させてしまう能力”を持っている、ということなのですよ」 一端言葉を置き、それから彼は続ける。 見知らぬ異世界に飛ばされ、まったく言葉の通じない未知の存在と遭遇した場合、一体どんな状態に陥るのか。 じわりと、額に汗が滲んだ。 更には周りを海に囲まれた絶海の孤島での目覚めだ。 恐怖に囚われ、恐慌状態で思考を暴走させてしまえば、最悪、実体のある悪夢が無秩序な惨劇を呼び起こしてしまうということだ。 トラベルギアで制限された能力ならば問題はない。 けれど、制御されない能力が爆発すれば、その影響力は小さな小島の消失だけでは収まらない可能性もある。「私の《導きの書》は《惨劇》を暗示してはいますが、ソレは確定されていない未来です。できる限り速やかに、かつ穏便に、事態の収束に当たっていただければと思います」 そして、もうひとつ。 そう言って彼は爪を2本にし、「今回の舞台となる《館》に、《建築家ヘンリー》の署名、あるいは彼に関連する資料などがないかどうかを調べていただきたいのです」 切り出されたのは、いくぶん予想外の案件だった。「先日調査をしていただいたモフトピアの館、そしてターミナルの幽霊騒ぎのあった館、そのどちらにも彼の署名を見つけることができました。しかし、ヘンリーの署名を見つけることはできても、彼に関する資料はどこにも見当たらないのですよ。長い年月の中で消失したという可能性もありますが、そうでない可能性も否定できません」 だから、その存在を探る行為が果たして吉と出るか凶と出るかは一種の賭けだと、ルルーは言う。 謎の建築家の建物が次々と舞台になっているのだとすれば、そこには何らかの意味が生じているということでもある。 ソレが一体何に繋がるのか、あるいは結局どこにも繋がってはいないのか。 思案するそぶりを見せたこちらへと、ヴァン・A・ルルーは静かな眼差しを向ける。「いかにして《異界の館》で恐怖に怯える《彼》や他のロストナンバーを保護するのか、また、いかにして孤島に佇む《館》で建築家の関連性を見出すのか……よろしければこの謎、解いてみませんか?」 * 見つけた玄関の扉は開かなかった。 まるで外側から何者かががっちりと抑えつけているかのようだ。 出してくれ。 廊下は捻じれ、至る所が迷宮のようだ。 時折血の匂いが鼻先をくすぐる。 恐ろしい事件が起きているのではないか。 オレは恐ろしいモノに殺されようとしているんじゃないのか。 ここはどこなんだ。 なにがいるんだ。 出してくれ出してくれ出してくれ。「どうして、出られないんだ。入ることはできるのに、どうして出られないんだ……っ」
誰か、ここから出して。 * 四名のロストナンバーは、塩分混じりの風雨に晒されてなお『白』を掲げる館を見上げ、そうして、重々しい扉を押し開いた。 飛び込んでくるのは、吹き抜けのエントランス、中央に構えた二階へ続く階段、鮮赤の絨毯、天井のシャンデリア、それから立ち並ぶ柱に上下左右の壁へ連なるいくつもの扉だった。 「とにかくロストナンバーの保護が最優先だな……」 相沢優は大きなカバンを肩に掛け直し、天井を振り仰ぐ。 十七歳の少年らしい真っ直ぐな眼差しは、探索者というよりもむしろ救出者という方が似つかわしいだろうか。 「……不安を具現化させるロストナンバー、か」 ロディ・オブライエンは何かを思案するようにわずかに沈黙し、 「まあ、俺に恐れるものなど何もないがな」 「ロディさんならそう言うと思ってました」 くすりと笑う優の方へと振り返る。 「不安と言えば、転移してくるロストナンバーは四人だろう? 確か壱番世界の日本で、『四』は不吉な数字とされているのではなかったか?」 「あ、ええ、そうですね。『四』と、それから『九』は、漢字の読みの関係で病院とかだと特に嫌われる数字なんですよ」 ソレがどうしたのだろうと言いたげに小さく首を傾げると、 「我々探索者も四人、未保護の相手も四人、となると……これ以上ない取り合わせだろうな」 ロディはさらりと、真顔のままにそんなことを口にした。 「え、そ、そうなんですか……っ? 不吉なことが起こりますか!? これは既にあらかじめ定められていた悲劇、神が与えたもう試練以外の何物でもないということですかっ!?」 びくりと肩を震わせ、半ば涙目になって怯える三日月灰人に、優は慌てて手を振った。 「あ、でも、ほら、『四』って『幸せ』の『し』とも読めますよね? 何事も発想の転換じゃないですか? ね?」 「おお……! 神よ、どうか、どうか迷える子羊たちに慈悲を……!」 「神は賽を投げ、我々はその御心を推し量るばかりだと思うがな」 神に祈る牧師へと、守護天使は至極当然と言わんばかりに告げる、そんなコントのようなやり取りの最中、 「……血のニオイがする」 立ち上がれば成人男性を越えそうな大型の灰色狼――ロボ・シートンは、その鋭敏な嗅覚で以て違和感をも嗅ぎ取っていた。 「でも、何かおかしい」 「え」 「生きてないニオイだ……人間の血のようで、まるで違う」 感覚が指し示すままに、ロボはゆるりと身体を這わせ、不吉にして不自然な痕跡を追いかける。 「なるほど。随分と不自然に擦れてはいるし、唐突に浮かび上がってきたようにしか見えんが、まあ、たしかに何か重たいモノを引きずったような跡があるな」 「……と、とりあえずこの血の跡を追うべき、ですよね」 「あ、その前に」 優は玄関ホールの端から端までをぐるりを見渡し、 「よし。タイム、頼んだ」 腕に止まらせていたオウルフォームのセクタンを、宙へと放った。 「あの子が俺の目となってくれます。そうすれば、探索はより効果的に進むと思いません?」 「ああ、その通りです……まさしく。さあ、綻も……いきましょう」 灰人もまた、オウルフォームのセクタンを己の肩から天井高く自分たちを見下ろすシャンデリアに向けるようにして放つ。 視覚を共有する《ミネルヴァの眼》――このセクタンの能力を駆使することで、探索の範囲はより広く、そして効率もはるかに上がるだろう。 優と灰人は視線を交わし、同じことを考えついていたことにほのかな笑みを交わしあう。 そうして四人はともに、ダンスホールもかくやと思える吹き抜けの玄関から先、鮮赤の絨毯を敷いた階段の裏側へ続く板張りの通路へ進んでいく。 死角は多い。 せり出した壁が目隠しとなって、ちょっとした巨大迷路を思わせる。 かつんかつんと小気味よく響く爪音や、かつかつと鳴る足音に、いまのところ反応する者はいない。 不安を具現化する能力――ソレは果たして、どのような状況下で自分たちの前に発現するのだろうか。 「場合によっては二手に分かれる必要が出てきますよね」 どこか空間的捩れが生じているかもしれないこの館の中で、優は対応策をあげていく。 「できるだけ独りにはならない方がいいと思うんですよ。でも、どうしても別れる時が来たら、その時はトラベラーズノートで連絡を密にしていきましょう」 「いいだろう。救出に来たはずが自身が閉じ込められ、ミイラ取りがミイラになるのだけは避けたいしな」 「ロ、ロディさん? な、なぜそんな不吉なことわざをご存知なんです……!?」 「知っているモノは知っているからな」 「ミイラ取りがミイラとは、物騒な言い回しだぜ、ソレ。シャレにならねぇな」 そういいながら、ロボは自ら先頭に立ち、目につく(もしくは鼻につく)扉をひとまず開けていく。 開けて行きはするが、扉はけして閉ざさない――これもまた優の発案だ。 孤立する、あるいは孤立させられる可能性を排除すべく、開けて、覗きこみ、声を掛け、沈黙のみが答えであることを確認してはまたロボの後を追うことを繰り返す。 断続的に残されていた引き摺られた血の跡は、ちょうど、両扉で閉ざされた部屋の手前で途切れていた。 「中からも血のニオイがするが……だが、それだけだ……生物じゃないが、見てみるか?」 「お願いします」 「あまり、刺激はしない方がいいか」 トラベルギアである銃を懐にしまいこんだロディは、手持無沙汰のようにキャンディを口にほおった。 かろん、と小さな音を口の中で転がしながら、かの守護天使は、最低限、何が飛び出してきても反応できるだけの緊張感を以て、何度目かの扉に手を掛ける。 「応接間か?」 薔薇をモチーフとした壁紙に彩られ、絨毯が敷き詰められたその内部には、繊細なシャンデリアに見下ろされるカタチで、白いレースのクロスを掛けられた木製の丸テーブルに、ソファが四つ並べられていた。 こことまったく同じ間取りと調度品の配置された部屋が、四角く切り取られた壁の向こう側にもうひとつ窺える。 「へえ、まるで鏡みたいだ」 「そういうモチーフなのかもしれませんね・……」 優の言葉に頷きながら、灰人はソファを横切り、窓際に置かれたガラス棚の中をそっと覗き込んだ。 そこには、数客の年代モノと思しきティーカップとソーサー、それからポットが、コレクション然として並べられている。 隣の部屋にももしかすると、まったく同じモノが置かれているのではないだろうか。 しかし、目当てのモノはそこにはない。 「……マザーグースを連想させる調度品は、こちらには見受けられないようです……」 「そのマザーグースとやらも壱番世界の代物か?」 「ええ、ロディさん。とても可愛らしいモノから怖ろしいモノまで、子供たちの遊びにも取り入れられてますし、英国にとってはとても身近な童謡なのだと思います」 どこか懐かしげに眼を細めて、灰人はほのかに口元を笑みのカタチに変える。 「親から子へと受け継がれる詩篇……精神の根底に鎮座する感性……19世紀頃の英国人と思われるヘンリー氏にとっても、ソレは同じではないでしょうか」 だからこそ、彼は彼の建てた屋敷に、マザーグースに関連するモチーフを刻んでいるのだ。 「マザーグース、か」 植物パターンの壁紙の支柱をそろりと指で撫で、質感に違いがないかを探りながら、ロディは応接セットから離れたガラス戸棚へ、そして窓へと進む。 眼下に広がるのは、どこまでも続くブルーだ。 果てしのない青の中に取り残されて、ひたすらに怯え、震えるモノがここには居る。 「四人のロストナンバーを見つけること、それから建築家ヘンリーの署名と資料を探すこと、ソレが今回の依頼のすべて、になると思うか?」 その疑問とともに、ロディは仲間へと視線をよこす。 「ルルーは、“長い年月の中で消失したという可能性もあるが、そうでない可能性も否定できない”と言っていた……“そうでない可能性”というのは一体何なんだ?」 「裏があると言いたいのか?」 ロボが怪訝そうに問いで返し、 「ああ、そうか」 優は頷きで以て、ソレに応える。 「……例えば、意図的な改竄とか? ヘンリー氏は記録のない建築家ですよね? だとしたら、彼の存在を公にできない理由があったってことになりません?」 「公にできない理由、か。面白いな」 「消される理由が分かんないと、この推理って進みませんけどね。でも、何かしらの材料がここにはありそうだって思えます」 「資料なら書庫でも当たれば早々に見つかりそうでもあるがな。意外なところから意外な事実が飛び出してくるかもしれん。まあ、隠し部屋に必要な資料のすべて放り込まれているとすれば、話は別だが……」 「地下室なんかも探したくなるよな」 ロディの言葉に、ロボが小さく相槌を打つ。 この広大にして冷たい屋敷のどこかにあるだろう、秘密を知りたい。 「そうですね! ヘンリー氏はなぜこんな館を建て続けているのか、隠し部屋や隠し扉を用意してまで彼は《何》をしたかったのか」 彼自身を知りたいと、優は呟く。 「俺たち、ヘンリーって人のこと、なんにも知らないわけだし」 彼に関わる手記、手紙、あるいはそれに類するものを見つけ出せたら、そこからある程度の人物像も形作られるのは出ないか。 「……私は」 「ん?」 ソファの背に手を掛け、灰人が溜息のように言葉を落とす。 「私は……ヘンリー氏は、愛する者のために行動を起こしていると、思えるんです……」 「それはおまえの希望か?」 「どちらかと言えば私の願い、ですね……だってロディさん、ヘンリー氏には《妻子》がいらっしゃるんですよ?」 揺らぎを湛えた瞳で、灰人は続ける。 必死に告げる彼は今、ヘンリーに自分を重ねているのかもしれない。 思いつめた表情で視線を外し、俯き、そうして何か痛みに耐えるように灰人はぎゅうっと眉間にしわを寄せた。 「……私にも、壱番世界に残してきた妻とまだ見ぬ我が子がいます……私は彼女たちを片時も忘れたことはありません……ヘンリー氏もまた、そうである気がします」 「妻と子、か。守れるものならば、ソレが許されるのなら、真っ先に守りたいだろうな」 同意するロディの言葉に、灰人の中の何かがチリチリと灼けるように痛みだす。 「そう……真っ先に守りたい対象、のはずなんです……妻子が危険に晒されるような真似を、彼は選択するでしょうか? 愛する妻と子が苦しむような、自らの罪によって最愛のモノにまで重い十字架を背負わせるような、そんな真似をするでしょうか?」 だとしたら、彼の行動原理はけっして罪に問われるべきものではないだろうと、灰人は言う。 だが、そんな灰人の問いに、今度はロボが問いを投げ返した。 「なあ、ひとついいか? 残してきたモノのために戦うか、残されたモノとして戦うかで、方向性は大きく変わりそうだぜ?」 どこか重々しく言葉を返す。 「残されたモノとして……とは?」 「復讐ってやつさ」 守るべきモノを奪われたら、例えば自身の無力さをつきつけられるかのように理不尽に永久に失われてしまったら、その時、次に自分が為すべきことを冷静に考えることができるのか、と、ロボは問う。 かつてモンスターを討伐する闘士として、そして長く続く戦争の中に身を置いてきた戦士としての問いでもあったのかもしれない。 「復讐……」 「あ」 互いの内側すらも垣間見せるかのような三名の会話に耳を傾け、口をつぐんでいた優が不意に声を上げた。 暖炉に突っ込んでいた体を引きだし、 「焼けてるけど、これ、手紙じゃないですか?」 ソレとともに、右手には焦げた古い紙の切れ端を掴みだしていた。 「使用されている言語は、壱番世界の英語ですよ……」 読み上げるまでもない。 四名は優を中心にして、かつては白い便箋だったのかもしれない紙片を覗きこんだ。 『 ……ジェーン、君の見る空と僕の見る空が同じだったのは、あの日までだ。 あの子が生まれて、君はきっとかけがえのない景色を見ているはずだ。 』 『 僕は戻れない。 でも、君と僕らの子供の未来のために、僕は旅を続けるよ…… 』 辛うじて拾えたのはほんの数行、旅先とも言えるこの場所から妻に宛てた手紙の一部分だけだ。 「これは《ヘンリーの手紙》か?」 「……ああ、やはり彼は愛する者のために……」 戻れない、という文面は、まるでロストナンバーからロストナンバーならざるモノへと向けた言葉のようにも取れる。 ソレが本当にヘンリーのモノであるのかを含めた議論はしかし、すぐに中断された。 「おい、またひとつニオイが増えたぜ」 ロボの金色の瞳に訝しげな警戒色が混ざり込む。 「ニオイがする……不自然な血に混じって、生き物のニオイだ。たぶん、これは人間、じゃないな」 言った瞬間、ロボは床を蹴り、凄まじいスピードで部屋を飛び出し、走りだしていた。 「俺はあいつを追いかける! おまえたちは二人で動け!」 「わかりました!」 「あ、は、はい……っ!」 咄嗟に追いかけたロディは、振り返らずに言葉だけを二人に投げて、そうして常人ならざる脚力で以て狼に続く。 「どなたがいらしたのでしょ、う……」 その後ろ姿を視線で追いかけていた灰人の眼が、ふ、と遠のく。 「どうしたんですか?」 「……綻が、ステンドグラスを見つけました……」 二重写しの視界の中で見えるのは、階段の踊り場に嵌めこまれたステンドグラスだ。そこに描かれているのは、小舟にちょこんと座る少女である。 折れ曲って上階へと続く階段と、いずこかの部屋に繋がっているだろう渡り廊下、その先に同じく船に乗る少女が描かれた扉が見える。 更に踏み込めば、同じ絵がもう一つ見つかりそうな気がした。 「これは、マザーグースです……三艘の船に乗った女の子の……行ってみましょうか」 「了解です」 しっかりと頷き、優は灰人とともに綻が見つけたステンドグラスを目指し、走る。 * 獣の声が聞こえる。 何かの足音がする。 血のニオイがする。 ここはどこ? ここはなに? こわい。 怖い怖い怖い怖い怖い―― * ロボは空を駆けるように入り組んだ通路を疾走し、そして――一瞬、身体を低くしたかと思った次の瞬間、己が顎門を大きく開き、食らいついた。 「――っ」 巨大な、ソレはおぞましいほどに醜く膨らんだ人間のような存在で、ソレはロボの牙によって鮮赤を撒きながらその身をのけぞらせ、振り落とそうと足掻き暴れる。 「消えろ」 命令と銃声と衝撃が同時に響く。 喰いちぎられた喉笛と、弾丸に貫かれた心臓がソレに亀裂を生み、膨れ上がっていたバケモノ本体はビシャリと厭な音を立てて弾けた。 振り撒かれた赤い塊の向こう側に、ロボは小さな存在を認める。 カタカタと震え、怯え、気を失いそうなほどに蒼褪めた小さきもの――物陰に隠れ、けれど隠れきれずにいる幼い狐がそこにいた。 「……お前が出現に気づいたロストナンバーか?」 「いや、違う……だが、こいつも救うべき対象だ」 そうしてロボは、ゆっくりと仔狐の元へ進み出る。 悲鳴を押し殺してガタガタと震え続ける小さきモノへと、精一杯の穏やかな眼差しを送り、口を開いた。 「オレは灰色狼のロボ・シートンだ。異世界から来た同胞よ、おまえに会うためにオレはここに来た」 響くのは威厳に満ちた声音。 聴覚を刺激する、重々しくもしっかりとした意志ある言葉。 「はじめまして、と、そう挨拶させてもらおうか、同胞よ」 「……しゃべってる……」 「いかにも、俺は喋る。言葉を操るモノだが、ソレはおまえも同じだろう?」 「俺の声が届くだろ? 分かるだろ? ならば、話せるはずだ。話せるということは、分かりあえるということだ。名を聞いてもいいか?」 かつては純白だった毛皮を赤黒く汚した仔狐は、怯えながらもゆっくりと頷いた。 「……リンク……」 「リンクか、了解した。では、リンク、改めて言おう。俺たちはお前を救いに来たんだ。だから怯える必要はもうどこにもない」 「ボクを、お家に返してくれるの?」 「……お前の家を俺は知らない。だが、おまえの行くべき場所は知っている」 「でも」 涙で潤んだ双眸が、ロボと、そしてロディを見上げる。 「でも、この屋敷には知らない音ばかりが、あふれてた……知らないオソロシイモノであふれてた……あいつらみたいにオソロシイモノでいっぱいで」 仔狐の中にあるのは、あふれんばかりの不安と恐怖だ。 「水の中に沈められちゃうんだ……ボクらみんな、食べられちゃうんだ……大きな影が動いてるもの……うなり声が聞こえるもの……怖い、怖いよ……」 「おそろしいもの?」 「そう……ああ、また音がする! 怖い、怖いよ、怖い足音が聞こえてくる……っ」 小さな前足で耳を塞ぎ、うずくまる。 「足音……」 ズシン…と臓腑に響く地鳴りが確かにしている。 ひどく重たい《何か》が歩きまわる気配に、仔狐はさらに小さく縮こまった。 「くるよ、大きな影が来るよ、あいつらが、ぼくを、つかまえにくるよ」 「大丈夫だ。オレがいる。オレが迎えにきた以上はありとあらゆる不安がたちどころに消え失せる」 「え」 仔狐の首の付け根を咥え、ふいっと頭をひねって、そうして薄汚れて震える小さな体を自身の背へと器用に放る。 「わ、あ、っ……! くる、来るよ、怖いモノがく――」 「コワイモノなど、蹴散らせばいいだけだ。心配はいらん」 「しっかりしがみついていろ。そうすればなんの問題もないだろう。それに、ロディもいる。その男はおまえの恐怖を容易く打ち砕くだろう」 「え」 巨大などす黒い赤色の塊が窓を突き破り、生臭い瘴気と粘液とを振りまきながら部屋の中へとなだれ込んできた。 しかし、ロボは躊躇いなく床を蹴り、折れ曲った通路に向けて、疾走。 その背を護るように立ちはだかったロディは、怜悧な美貌にわずかの動揺もなく、正確無比に銃の引き金を引いた。 ロボの背で、仔狐はびくりと身を震わせたが、同時に、おぞましい生き物が打ち砕かれた瞬間を目の当たりにし、その心に安堵と感嘆が生まれたらしい。 灰色の毛並みにしがみつきながらも、 「ところで、誰かほかには見なかったか?」 「……ほか?」 キョトンとした顔で首を傾げたその子は、ハッとしたようにごそごそと羽織っていた半纏の内側を探る。 「あのね、これ拾った」 そう言ってロディの掌に載せられたのは、片方だけのごくごく小さな木の靴だった。 「いきなり目の前に現れてね、ぎーぎー泣いて走って逃げて消えちゃった……」 「ロディ、その靴の持ち主がさっきのニオイの主だ……ん?」 またしても、ロボの鼻先を血の匂いがくすぐった。 生きていないニオイ。 本来ならばむせかえるほどの濃厚さであるはずなのに、どこか薄っぺらいニオイが、海の匂いと混ざり合いながらじくりと軋み、移動している。 「床下に、何かいる……それから、上階にも……移動してるぜ」 その動きは誰かを、あるいは何かを追っているとしか思えない。 追いつめられた生物は、時に自殺行為とも取れる場所へと自ら突き進むことがある。 「このまま、《厄介な能力》を持った人間もまた、自らをより狭く暗く危険な場所へと追い込んでしまっている可能性もあるか。下に降りる手段を見つけねばならんな」 「それらしきものは今のところないようだが、探すしかないだろうぜ」 「誰かを探すの?」 「おまえと同じ、そして俺たちと同じ、数奇な運命を辿るモノを迎えに行くんだ」 ロボは床から滲み出てくる臭気に顔をわずかにしかめながら、ロディとともに、地下室へと降りる手段を探り始めた。 「…どうしても落ち着かなければ最終的な手段だが気絶させるという手はある。否が応でも能力を遮断出来るだろう。面倒は出来るだけ避けたいがな」 さらっと呟くロディに、あまり迷いらしいものはうかがえなかった。 * 恐ろしい悲鳴が聞こえた。 何かが更に侵入してきている。 逃げられないのに、出られないのに、何かがここに入り込んできてる。 どこに行けばいいんだ……どこに行けば、出られるんだ…… 血のニオイがする。 この屋敷に棲まう《何か》が、人間を引きずりこんでくるのか―― * 「みっつの船に三人の少女……間違いありません。綻はどうやらここを通ったようです」 ステンドグラスの嵌めこまれた階段の踊り場、そして視線を導くようにして続く渡り廊下、その先の扉と続く光景は、軽いめまいを引き起こすようだった。 「よし」 扉に手を掛けたのは、優だ。 耳を押し当て、中の様子を窺い、そして思い切りよく開け放つ。 「だれもいない……」 「……随分と広いですが、寝室のようですね……隣には、バスルームもある」 その向こうにもうひとつ部屋がある。まるで高級ホテルのスイートルームだ。 「主人の寝室かもしれません……バスルームを挟んで、その奥は……クローゼットが」 壁に手をつき、灰人はひんやりとした感触を確かめていく。 ソレを気に掛けながら、優は自身のトラベラーズノートを開いた。 「ロディさんとロボさん、ロストナンバーをひとり保護できたみたいだ」 メールを確認し、優はそっと安堵の笑みを浮かべる。 「ああ、ではあと三名に……」 「だけどまだ能力者までは見つかってないみたいだ」 タイムの《ミネルヴァの眼》が、おそらくは19世紀の英国の調度品だろう家具たちや、白を基調とした館を汚す赤黒いシミを見つけている。なぜか一部には焼け焦げた跡も窺えた。 逃げ惑うモノがいて、赤黒いあの痕跡が消えないのならば、まだ悪夢は続いているということだ。 「一刻も早く見つけてあげましょう、他の方々も」 ベッドには誰かが使ったような形跡はない。 多少の個性はあっても、そこに住まう人間の生活感は何ひとつ感じられず、まるで展示品のように整然と片付けられ、その整然さはなぜかモデルルームを彷彿とさせた。 内装や調度品までを完璧に取りそろえたモデルルーム。 あるいはゲストハウス。 ブルーインブルーに建てられたこの屋敷は、石材をメインに使用し、堅牢かつ重厚な印象を見るモノに与える。 無人島に佇むこの館を訪れるものがいるとしたら、ソレはやはり、ロストナンバーではないかとすら思える。 「地元の人たちにとって、この館はほとんど意識されていないんですよね?」 ふと、思いついたように優は灰人を見やった。 「だとしたら、さっきの手紙……、アレって誰が燃やしたんだと思います?」 「途中訪れた誰かが暖を取るために行ったか、あるいは」 対する灰人は、キャビネットを覗きこむ。 「使用されていた便箋そのものには年代を感じました……長く無人であったことを考えれば、燃え滓のまま何十年も経っていたとしても不自然ではないような気はしますが……」 「でも、どうしてかな? 微妙に証拠隠滅の香りなんて表現を使いたくなります。……あ、それ」 「……絵皿、ですね」 キャビネットを開いた灰人の背後から、優も顔を覗かせる。 ふたりの目線よりもやや上に飾られた二枚のソレは、ひとつには赤の女王とトランプの兵士のモチーフが、もうひとつには白の女王とポーンのモチーフが、それぞれ対になるようにして描かれていた。 「赤と白の女王……たしかふたりは姉妹なんだっけ」 「そう、そうでした……」 「なんだか誰かを思い出せそうな気がする……誰だろう、つい最近見聞きしたような気がするんだけど……」 「名前が綴られていますよ……JaneとEva……白の女王がジェーン、赤の女王がエヴァということになりますか。誰かから贈られたもの、なのでしょうか……」 「ジェーンがヘンリーの妻だとしたら、このふたつの名前にも意味がありそうですよね」 優は、ふと、赤の女王が描かれた皿の下に、ペンでも使ったのか、ごく小さな走り書きを見つけた。 “You did not choose ……” 「“あなたは選ばなかった”……? でも、何を選ばなかったんだ?」 思わず首を傾げ、ソレに灰人が応える。 「絵画の裏に何かの仕掛けがあったりしませんか?」 灰人の手が赤の女王の描かれた皿を取り上げる 優の手が、白の女王の描かれた皿を取り上げる。 二人同時に同じことを考えていたのだろう。 綺麗に重なったその行動は、ふたりの願いを聞き届けるかのように、あるいはふたりの期待に応えるかのように、ある結果をもたらした。 ごとん。 背後で、壁が動いた。 「うわ!」 「鏡台が……」 オモチャ箱のように、仕掛けは至る所に存在している。 そして仕掛けは仕掛けを施すに値するだけの何かを抱いているはずだ。 正面に据えられていた波と水泡の文様を刻んだ鏡台が、こちらに側面を見せている。そしてソレが動いた分だけ、壁にはぽっかりと口が開いていた。 「……モフトピアの館と同じだ……奥に続いてる……」 「行ってみましょう」 絨毯の色や埃のたまり具合からして、この隠し扉はもう随分と長い間、使われてはいなかったようだ。 探すべきロストナンバーが迷い込んでいる可能性は低い。 しかし、ゼロでもない。 灰人と優はそろって、人間がようやく一人通れるだけのスペースに、その身を滑り込ませた。 そして、その光景に、目を見張る。 持ち主の個性を排除した館の深部には、そこにだけ《持ち主個人》の《顔》が隠されている、というのがモフトピアでの報告書から受けた印象だ。 ソレはそのまま、ここにも適用されるらしい。 大量の本棚、大きな文机、製図板、あらゆるモノが狭い空間に凝縮されている。 「なんだかここだけすごく生活感がある……人の気配というか、整理はされているけど、長く不在にするつもりはなさそうな感じがする」 「ここがヘンリー氏の私室だとして……、そうですね……《当時》のままだとしたら、また何か見つかるかもしれません……例えば、貴方が暖炉で見つけたようなものが……そう、もしかするとここに……」 「灰人さん?」 埃の積もる文机へといきなり体をもぐり込ませる。 床に伏せ、ガタゴトと音を立てながら机のさらに下にまで手を伸ばし、右に左にとじりじり腕を這わせていった。 身を低くして、目いっぱいに腕を伸ばして、机と床の隙間限界までもぐらせた指先が、かさりと何かに触れる。 「……正解、です……」 「ホントですか?」 「ええ……どうやらヘンリー氏は、とにかく思いつきなどをすぐ傍にあるモノへ書いてしまう方のようです……」 紙クズを拾い上げ、灰人はそこにひどく馴染み深い壱番世界の英字が綴られているのを確認する。 『 確かにあの時、君はそうすることが最も正しい選択だと考えたんだろう。 だけど、いまでも僕は自分の考えが間違っているとは思っていない。 だからこそ、僕は行動を起こす。 迷える者たちを導くために、あるいは同胞を守るために、僕は館を作るんだ 』 灰人と優は、その文面を何度もなぞる。 「……迷える者たちを導くため……か。この手紙って、いったい誰に宛てたモノなんだろう」 くしゃくしゃに丸められ、書き損じがうかがえる古い手紙の切れ端は、本来は誰に届けられるべきモノだったのだろうか。 「誰かと対立している、でも憎しみ合ってるわけではない、対等な関係として、自分の意思を相手に伝えようとして綴られているわけだ」 「走り書きなら、この製図板の、この図面の左下にも……」 『 エヴァはどうしているだろうか? 彼女のことだから、もしかすると 』 「エヴァ……さっきの絵皿の彼女のことかな?」 意味深な文章は、またしても途切れている。 英語で書かれた古い手紙は、インクのシミや打ち消し線、不自然な空白にまみれていて、正確な意図を読み取ることは難しそうだった。 「そして、この配置とこの構図なら当然振り返った先には」 「ええ……、ここにもやはり肖像画がありますね」 白布で覆われた絵画は、ふたりの期待に応えるように壁に掲げられていた。 しかし、はぎ取った下から現れたのは、モフトピアにあった夫婦の肖像画ではない。夫婦ではなく、安楽椅子に腰かけ、赤ん坊を抱いて微笑む母子像だ。 「……ああ……」 灰人はどこか夢視るように、切なげに、そっと手を伸ばし、絵画の中の抱かれた赤子の輪郭をなぞる。 「生まれたんですね……貴方はこの世に生を受けることができた……そういう、ことですね」 ちりちりと胸が痛む。 きりきりと頭が病む。 それでも愛おしくて、嬉しくて、羨ましくて、灰人は渇いていくらか絵の具の変色した絵画をそっと撫で続けた。 「あれ?」 だが、その浸るような時間を優の訝しげな声が立ち切った。 「え、ど、どうしました?」 「……タイムが館の外に出たんですよ。窓のひとつが開いたままだったんだ。屋根の上にもうひとつ、塔のようなものが」 「塔?」 「屋根裏部屋、とも違うような……いま、ちらっと何か影が揺れて」 「影……ですか?」 「だれが入ってきたんだ。追われている風だった……行かなくちゃ、助けを求めている」 そう台詞を重ねる優と優の言葉に気を取られていた灰人の背後で、ふいに、ぴちゃん…っと水音がした。 妙に場違いな音だと、そう認識したと同時に、 「あ、わ…っ」 「灰人さん!?」 ずるり…と、どす黒い赤色の水が床下から何の脈絡もなく湧き出し、灰人の身体を引き寄せ、優の目の前で彼の身体を飲みこんだ。 「灰人さん――!」 追いかけても、もう遅い。その手は届かず、互いの指先が一瞬触れあいはしても、優は空を掻き、そして硬い床に膝をついた。 「……これも、誰かの想像の産物、なのか……?」 じわりと背中に冷たい汗が滲み、後悔の色を含んで伝い落ちた。 セクタンの視界は世界を二重写しにする、そこに気を取られ、反応を遅らせる一因となってしまったのだ。 優の目の前で、灰人が消えた。 正確には、意思ある水によってどこかに引きずり込まれてしまった。 どこなのか、いまの自分にはわからない。 どくどくと打ち続ける鼓動の痛みに顔をわずかにしかめ、優は立ち上がった。 「行こう」 《建築家ヘンリー》の謎はひとまずおいて、優は部屋を飛び出した。 タイムは《塔》を見つけ、塔の中に揺れる人影を目撃している。 もしかするとそれが、自分たちの探すべきロストナンバーである可能性もある。 灰人を見つけなくちゃいけない、けれど、この状況を悪化させる不安や恐怖の具現者を一刻も早く見つけ出すことも必要なのだ。 為すべきことの判断を、誤りたくはない。 オウルフォームとなったタイムの視界が、優の次に行くべき道を指し示す。 狭く細い階段をのぼりつめた先、辿りついた屋根裏部屋の、その奥から覗く手すりと階段。四角く切り取られているその場所こそが、塔へと続いているのだ。 * ここはどこ、ここはなに、ここは一体どういうこと。 あの人は、どこ……? あたしは、捨てられた? * 「自然さと不自然さ、在るべき所になく、なくて良い所にある、そういった矛盾から見出せるものも多いはずだ」 「自然なところと不自然なところを見分ける……か。オレにはすべてが不自然に思えてならねぇがな」 「見分けるの? 不思議なところ?」 「まあ、地道に探す事も必要だろう。どこかに隠し部屋があるという可能性は高いだろうが、それもまた探す気で探さねば見つからないだろうしな」 涼やかな金色の守護天使と言葉を操る銀狼とが白い子狐を連れて進むのは、迷路と化しつつある館の奥だ。 この屋敷にはとにかく扉が多い。 だが、同じパターンで続く扉のうちのいくつかはただの飾りでしかなかった。 開いても、ただ壁が待っている。 何も収納できず、何があるわけでもない、扉の厚さ分だけ壁がくり抜かれているダミーの扉だ。 探すべきは、書庫、あるいは書斎。そこにも隠し扉があるのかもしれないし、場合によっては隠し通路を発見することにもなるかもしれない。 転移したロストナンバーの保護と並行して資料の捜索をも目的とした行動なのだが、その一方でロディは別のことを考え始めていた。 赤黒い水に取り込まれ攫われたという、灰人のことだ。 灰人はヘンリー自身だけでなく彼の妻子の存在そのものをひどく気にかけていたが、その横顔で揺れる翳りに、ロディは自分と同じ色を見ていた。 「ロディと灰人は似てるな。……優も近いが、お前たちからはより近似値の“喪失”のニオイがする」 「喪失のニオイ、か。なるほど、おまえにはそう感じるか」 「ロストナンバーは多かれ少なかれ、喪失を背負う定めだ。生き様、存在意義、仲間、愛する者、積み上げた時間、記憶、……何かを確実に失いながら、《旅》を続けているものだけどな」 心が軋む音に、無理やり耳を塞ぐ必要はない。 だが、それにどう向き合うかで、取る行動は変わるだろう。 「……この屋敷では、不安や恐れが具現化するんだったな」 「そうだぜ」 「おまえは何を見る?」 「……“獣王を狙うライバル”、なんて答えになるのだろ、たぶんな」 だが、とロボは続ける。 「俺は影に怯えるよりも、立ち向かう方を選ぶし、こいつの手前もある。恐れなんぞ抱いている暇もなければ、過去に捕われている場合でもない。やるべきことがここにあるからな」 「ロボ……」 ギュッとロボにしがみつくリンクをちらりと見やり、ロディは軽く肩を竦める。 「では、やるべきことをやり遂げるか」 一対いく度目か分からないほど開け閉めを繰り返してきた扉のうち、ようやくひとつが軋んだ歪な音を立てて、自分たちを迎え入れるための口を開いてくれた。 「ほお、これは見ものだな」 空間という空間すべてを埋め尽くすようにずらりと並ぶ背の高い本棚たちの間に、三名はそろりと踏み込んでいく。 「……これ、何?」 「すごい量だ」 同系色でまとめられた分厚い背表紙には、ブルーインブルーだけでなく、様々な異世界の文字が綴られている。 そのほとんどが、公共図書館のように整然と、かつ無個性に並んでいた。 棚ごとに一応のジャンル分けはされているらしく、プレートと背表紙に視線を滑らせていくことで蔵書の傾向も掴めてくる。 「ここは歴史についてなのか?」 本棚の側面に掛けられた額縁の中では、片方だけの木の靴に小さな女の子たちが三人仲良く座っている構図の版画が収められていた。 どこか童話的とも言えるその絵に、灰人の言う、『マザーグース』を想い浮かべた。 ふ…と、ロディの感覚に何かが触れる。 生前すぎるほど整然と並べられた無数とも言える書籍たちの中で、その一角だけが、不自然にガタガタとせり出していた。 はらり、と紙が落ちてくる。 頭上から細切れの紙片が、まるで雪のようにハラハラと、落ちて降り積もる。 「……海底遺跡への論文集のようだな。随分と古いが……、ん?」 拾い上げたそのページに、ロディの目が止まった。 「“ラビット・ホール”……? ウサギの穴がなんだというんだ?」 活字が並ぶその余白部分に走り書きされているのは、ごくごく短い単語の組み合わせだった。 「一体どこからきた?」 そもそもの本体を探し当てようと顔を上げたその時、ロディは探し物のひとつをも見つけ出す。 ゴトリと抜け落ちた本の隙間から覗く、小さな瞳。二十センチほどの帽子を被った緑の小人が自分を見つめていた。 彼はびくりと震え、あたふたと本をかき分け、逃げようとする。 その行く手を阻むように、ロディは包みを解いた小さなキャンディをすとんと目の前に落としてやった。 「逃げる必要はないだろ。……飴でも食べるか?」 「?」 「甘いモノは心を安らがせる」 優美にして優雅に、ロディはそのしなやかな白い指で、キャンディごと小人をすくい上げた。 「捕獲した」 「早いな!」 「……飴で釣れた。役に立つな。リンク、こいつを頼む」 「え、え?」 捕獲されたことにも気付かない様子でむぐむぐとキャンディにかぶりついている小人をリンクへと手渡す。 「こいつはこいつなりに逃げようとしていたらしいが……おかげでこの辺りの本はだいぶ無残なことになったな」 「それで気づくこともある」 ロボはそこら中にまき散らされた紙片を眺め、そして、ソレらに交じってモノクロの写真に目を止めた。 肝心の顔が破かれてしまっているけれど、肩を組んだ二人の男や、腕を組む男女、それから、そこかの薔薇園の風景がそこに見て取れる。 「これも、手掛かりか?」 写真の裏にはいずれも日付が記されている。ロボには馴染みのない、『19 August 18xx …Eddy』といった文字が並んでいる。 「エディ……また、エディか……」 確か先に発見された手紙にもその名があったな、とロディを振り仰げば、彼はトラベラーズノートに浮かびあがっているのだろうメールの文面を見つめていた。 「どうした?」 「灰人が攫われた。……ロボ、あいつの居場所を辿れるか?」 「いまはまだ、分からない……だが、灰人はおそらく、地下に連れていかれた気がする」 血のニオイが濃度を変えて蠢いているのが嗅ぎ取れる。 優は別のニオイの元へと上を目指しているようだが、自分たちが行くべきは地下で間違いないのだろう。 * 追いかけてくる、追いかけてくる、怖いモノが、おそろしいモノが、追いかけてくる―― * 「――っ!?」 その扉を開いた時、優は全身にびりびりとした痛みを感じた。 「――だれ!?」 鋭く響く悲鳴じみた声に、心臓が貫かれる。 「だれ? 誰なの……っ?」 カーテンが揺れる、白いワンピースが揺れる、白い髪が揺れる、白い肌の白い少女が、自分よりもほんの少しだけ年下に見える彼女が、斬りつけるような眼差しで優を迎えた。 「大丈夫」 優は微笑む。 「もう、大丈夫。俺たちは助けに来たんだ」 「うそ」 「嘘じゃないさ」 「どうして、ねえ、どうしてなの、どうしてあなたは笑っているの、笑えるのよ、怖い、やだ怖い怖い怖い怖い……っ」 泣きはらした目に再び涙を溜めて、彼女は後じさる。 「あんた、誰、誰なの、ご主人さまはどこへやったの? あたしをどうするつもり? あたしは、あたしは、あたしはご主人さまの傍を離れられないのに!」 ゆらり、と彼女の姿が揺らいだ。 それは、その姿は、かつて傷つけた《彼女》の姿――大切な存在、守りたくて、守れなかった、大切な人。 「こないで!」 ばちんっと、飛び散ったのは紛れもない火花だ。 強烈な痛みと共に優の身体ははじかれ、床に転がった。 髪の一部が少し焦げたのだろう、イヤな匂いが鼻先にわずかに漂う。 しかし、優はひるまない。 電流にしびれる体を起こし、目の前の、恐怖を攻撃に変える彼女へと、ためらわず、視線を向け、言葉を向ける。 「……君がいやなら、これ以上は近づかない……でも、聞いてほしんだ……俺は、俺たちは、君を救いに来た」 「人間なんか信じない、嘘つき、嘘つき、あたしを追いかけてきたでしょう、あたしを壊そうとしたじゃない、水のカタマリを見たわ、流動するアレはあなたの武器なの、ねえ、それともここは実験場?」 「……違うよ。ここは、ブルーインブルー……君の知らない、君が来たことのない、異世界の館さ」 傷つけたくない、誰も傷つけたくない、どんな形であっても痛みを与えたくない、痛みに触れさせたくない、傷を作りたくない、触れたくない。 だから、優は微笑む。 怯える彼女へと、微笑みかける。 「……知らない……なに、それ、なに? ご主人様はどこ? 言いなさいよ、言ってよ、ねえ、廃棄処分なの、そうなの、違うの、ご主人さまはどこよ、あたしを壊すなら、お願いよ、最後にご主人さまに会わせて……っ!」 彼女の台詞は支離滅裂だ。 感情だけが先行し、怯え、我を忘れている。 バチリと、またしても彼女から火花が散る。 押さえきれない感情が放電のカタチを取って優の網膜と肌を焼く。 「こないで」 「……行かないわけには、行かないだろ?」 優は現実的な痛みや痺れによろけながらも、それでも彼女へと言葉を発する。 「俺は、守るべきモノから逃げたりしないんだ」 それは相沢優の意志、決意、覚悟。 だから、逃げないし恐れないし怯えないし、投げ出したりも絶対にしない。 「君の行くべき世界を、君の必要としているものを、俺たちはきっと示せると思うんだ」 悲鳴じみた拒絶を浴びてなお、優は彼女に手を伸ばす。 「……怖くないよ……何も怖くないんだ、ねえ……俺が見える? 俺の姿が見えてる? 声は、届いてる?」 やわらかく、静かに、けれど真摯に、彼女を視線で捕え、告げる。 「……大丈夫。俺の声、聞こえるだろ?」 聞こえるなら分かるはずだと、ありったけの想いを込めて、けれど彼女が怯えないぎりぎりの距離から、語りかける。 「大丈夫大丈夫。ほら、大丈夫って口に出してみよう? そうすれば大丈夫って思えてくるんだ、不思議だけどね」 やわらかく、優しく、穏やかに、優の言葉が相手に沁みとおっていく。 「俺が君を護る。だから、俺と一緒に来てくれないか?」 自分の両腕の中に収まる、小さな存在。 かつて守ることができず、傷つけた少女を思い出させる、頼りない存在。 「君の不安や恐怖は、君を苛む。君を傷つける。でも君が信じさえしてくれたら、もう怖いことなんか起きないんだ」 だからこそ、優は語りかける。 何度も同じ言葉を繰り返す。 次第に彼女の中に吹き荒れる激情が収まっていくのを肌で感じながら、言葉を落として行く。 「……俺たちを信じて……」 「……あたしを、たすけて」 か細い願いを口にして、真っ白な少女は優の胸に顔を埋め、すがりつく。 感情の暴発が収まった彼女の身体は、ひんやりとしていて、作り物のように冷たかった。 「あ……」 タイムの視界が、ロディとロボ、そして彼の背に乗った仔狐や皿に小さな緑の小人らしき姿を映しだす。 ロウソクを灯す旅人が描かされた扉の前に、彼らはいた。 この先に進むぞと、ロディの視線が、タイムの眼を通して自分を見ているような気がした。ここまで来いと、そう告げられているようにも思えた。 「地下室に降りられるってことか……」 「……なに?」 「まだ救わなきゃいけない人がいるんだ。あとひとり、ね」 あとひとり。 あとひとり見つけ出せば、そしてその相手から恐怖と不安を取り除くことができれば、この館はただの探索すべき対象に変わる。 * 誰か、助けて…… * 靄が掛かったような重い意識を引きずりながら、灰人は目覚めた。 そこは冷たい床の上。 窓らしきものは見当たらないが、どこかでランプが灯っているのだろう、薄ぼんやりとした光の切れ端が闇をかすかに照らしている。 「う、こ、ここは……」 軋む身体を立て直すように、灰人はじわりと身じろぎする。 なんとか起き上がろうと手をつき、身を起こしたところで、肩に何かに硬いモノがぶつかり、そして何かが転げ落ちた。 ごとん、とやや重い音を立てて転がるものを、手探りで何とか追いかけ、拾い上げる。 「……ワインボトル……?」 濃い色ガラスの中に液体らしきものは入っていない。 だが、何か別のモノが入っているようだ。 捻じ込まれていたコルクの蓋を開けて取りだそうと試みるが、ソレはびくともせず、掌で黒ずんだ鈍色の光を放つばかりだった。 「一体ここに何が……」 もっとよく見ようと明かりを求め、立ち上がりかけたその時、ふと視界の端に何かが映り込んできた。 うすぼんやりとした暗がりの、酒樽と思しき物や積まれた麻袋の向こう側から、床に投げ出されているのは白い華奢な腕であり―― 「だ、大丈夫ですか!?」 うつ伏せに倒れていたのは、若い女性だ。 長い髪も薄手のワンピースも何もかもがぐっしょりと濡れていて、生臭く腐敗した海水のニオイが不意に嗅覚を刺激する。 「え、あ、あ……」 水死体、という単語が頭に浮かんだその瞬間、ずるり、と女が動き出した。 女が這いずってくる。 彼女が、何かを訴えかけるように、顔を上げ、床を這い、手を伸ばす、その顔は、ソレは、まさしく妻の―― 「う、あ、あぁあ……っ」 悲鳴、慟哭、あるいはそれに限りなく近い何かが喉から迸りかける。 しかし、灰人はそれをギリギリでねじ伏せた。 いるはずがないのだ。 彼女がここに居るはずはない。 彼女は、だって――だって、遠の昔に―― 「っ……!」 ズキンズキンズキンと、こめかみが疼き、痛み、苛む。 昔に、なんだというのだろう、違う、彼女は今も壱番世界で自分を待っていてくれている、まだ見ぬ我が子とともに緑あふれる教会で待っていてくれている、だから違う、彼女はここにはいない、いないいないいない、いないから――そこで彼女が苦しんでいるなんてことは万にひとつもあり得ない。 「……消えて、ください……」 深呼吸をして、きつくきつく瞳を閉ざして、波打つ心に平静さを取り戻す努力をして、そうしてもう一度呟き、命ずる。 「ここから消えてください」 彼女のカタチを語るなど、許されることではないのだから、永遠に消え失せてくれと、そう告げる。 そして。 「……消えて、くれ」 自分の台詞とかなさる自分のモノではない微かな呻きが、耳を掠めた。 音のする方へ、視線を向ける。 「ああ、貴方は……」 棚と木箱の隙間に身を寄せてカタカタと小さくなって震える十五六歳と思しき少年の姿を、灰人は見つけた。 「ああ、どうか……どうか怖がらないでください……」 途端、あふれだすのは、聖職者としての想い、使命、そして、願いだ。 灰人は膝をつき、ロザリオを握りしめ、微笑みかける。 「大丈夫です、ご安心を。と言っても、私では頼りないかもしれませんが……それでも、貴方はもうひとりではないのですから……ひとりきりで怯えずともいいのです」 できる限り温かく、やわらかく、慈悲深き神の御言葉を伝える時と同じように、静かに、穏やかに、相手へと沁みとおるように、言葉を紡ぐ。 「幻は所詮幻。何が起きようとも、何を見ようとも、そう……心を強く持てば乗り切れますよ」 そして、彼の手を取る。 「他の人には内緒ですよ? ……正直言うと、私も怖い……ですが神に誓って、いえ、愛する妻に誓って貴方を守ってみせましょう」 何かにぐっしょりと濡れてしまった彼の冷え切った両手を自分の掌で包み込み、そして、 「貴方を守るために、我々はここまで来たんですから」 腕の中へと抱き寄せて、そっと灰人は《彼》の頭を撫でつけた。 「怖いことなんて、もう何も起こらないんです」 にっこりと、確信に満ちた頬笑みを浮かべ、力強く、断言する。 「ああ、そうだ。自己紹介がまだでしたよね? 私は三日月灰人。かつて田舎の教会で牧師をしておりました。貴方の名前を窺っても?」 その台詞に、少年は初めてはにかんだ笑みで、頷きを返した。 「オレは……オレは、セドリック・ナロー……」 魔物の襲撃を受けた村で、郵便屋をしていたと、そう告げた。 その言葉に頷き、そして灰人はふと天を振り仰ぐ。 「ああ、ほら、救いの手はすぐそこに」 途端。 バサバサと二羽の重なりあった羽ばたきが飛来する。 頭上から、光が差し込む。 闇色の世界に一条の光が、まるで救いの手を差し伸べるかのように差し込んでくる。 「ようやく見つけたぜ」 「なるほど、ここに繋がっていたのか」 「灰人さん、無事ですか!」 逆光の中、三つのシルエットが発するその力強い声に導かれるようにして、灰人は立ち上がる。 その手はしっかりと、《彼》と繋がっていた。 「さあ、出ましょう? 開かない扉なんて、きっとどこにもないんですから」 今度こそにっこりと、灰人は笑う。 * 扉は、いくつもの集まった手によって、開かれた。 * 庭園の代わりの大海原を睥睨できるサンルームを持つ大食堂には、いくつもの長テーブルとイス、そして英国のアフタヌーンティを思わせるティーセットや銀食器が並んでいた。 無事に保護された四人を迎え、優は仲間たちも含めて、席に着くよう促した。 「ディスカッションの前に、まずは腹ごしらえと行こう」 ごそごそと、優はずっと肩から掛けていたカバンを置き、その中身を次々と取り出し、並べていった。 「紅茶にスコーン、それからサンドイッチ、あとはあったかいスープも作ってきたんだ。まずはさ、空腹を満たすところから始めよう?」 腹が減ってるとロクなこと考えないから、と微笑み、プラスチックのカップに注ぎ分けては手渡して行く。 「熱いから気をつけて」 「随分と用意がいいんだな」 「“腹が減っては戦はできぬ”、ってヤツですよ」 ふふっとどこか楽しげにロディへと応え、優はいそいそと給仕に掛かる。 「ボクも、欲しい」 「あたしも」 「はい、どうぞ。みんなのために作ってきたんだから、遠慮なんかいらないって」 コワイことはもう何も起きないから。 そう信じてもらうために、彼ら彼女らの不安の一切を心のうちから追い出せるように、優はここまで来たのだ。 「灰人さん、大丈夫ですか?」 「……大丈夫、って言えると思います」 弱弱しいけれど、それでも確かに灰人は微笑んだ。 「でも、どうして、俺たちはここに来たんだろう」 「まるで……呼ばれているみたいだった……引きあうように、ここに来たみたい」 「びっくり、した……でも、ここで、よかった……」 まだどこかぎこちないけれど、でも、彼らはそっと笑った。 ロボは気づく。 あれほど屋敷中に充満していたはずの、薄っぺらい、けれど不可解なほどに濃厚な血のニオイが完全に消えていることに。 「そうだ。モフトピアの屋敷とターミナルの幽霊屋敷、そしてこのブルーインブルーの屋敷……ひとつ、気になる現象があったんですが」 「なんだ、優?」 「報告書と今回のことを照らし合わせて、気づいたことがひとつ」 そう言って優は自分の指を一本立てて見せた。 「《ヘンリー》の建てた屋敷には、不思議な力が宿っていると思えてならないんです」 「不思議な力?」 「……ターミナルでは人目を引いたのに、モフトピアのアニモフ達も、このブルーインブルーの住人たちにも存在をほとんど認知されていない……けれど、確かに何らかの舞台にはなりうるこの場所……」 そこで一度言葉を切り、ともに椅子についているリンクたちへと顔を向け、続けた。 「ここは、ロストナンバーを引き寄せる力が宿っているのではないか、って……俺にはそう思えてならないんです」 「真理に目覚めたモノだけが集う場所か……なるほど、面白い」 ロディは目を細め、優の推理に頷く。 「この館は何のためにあるのか――迷えるモノの道標となるのだと綴られた、あの紙片の文句とも合致するだろう」 「なるほどな。別荘のように感じられたのも、事実ゲストハウスってことか」 初めに提示された謎――何のためにこの屋敷はあるのか、何の目的で建てられたのか、その一端を理解できたように思える。 ここもまた彼の作品だ。 そして彼の意志は、ここにも受け継がれていると言ってもいいのだろう。 しかし。 「では、《建築家ヘンリー》とはいったい何者なのか、というのはやはり気になる」 謎が謎のまま、答えに辿りつけていない。 そんなもやもやした空気の中、ひとり、灰人だけは違う表情を浮かべていた。 何かに迷うような、戸惑うような、複雑なカオで、両手の中にカップを握り込み、そこへ視線を落としこんで、 「……ずっと、考えていた……」 灰人はポツリと語りだす。 「ルルーさん曰く、先日、モフトピアの浮島に建つ館で発見されたのは、とある夫妻の肖像画と、エディという人物に宛てられた手紙だったんですよね?」 ソレは、事実の羅列。 「そして……私の妻は、私を灰人ではなく、ハイドと呼んでいました」 ソレは、過去の回想と、比較。 「つまり、エディとは、エドマンド……館長の愛称ということになるわけで……」 ソレが、ひとつの仮説へと進み、 「だとすれば……ヘンリー氏は館長の、おそらくはかつて交流のあった友人であり」 仮説からまた別の仮説へと移り、 「世界図書館に記録のない建築家、ヘンリー……彼の姓は、おそらくベイフルック……つまりは……」 最後の言葉をためらうように、灰人は、静かに目を閉じた。 次に続く牧師の言葉を、誰もが沈黙と共に待つ。 彼は、しんとした空気の中で、まるで溜息をつくように、そろりと告げる。 自らが辿りついた、その答えを。 「ヘンリー・ベイフルック氏とは……、アリッサ嬢の行方不明の父親、という推理が成り立つような気がするのですが……いささか、飛躍しすぎでしょうか?」 構築された理論の展開。 帰着するロジック。 灰人の己の内にあり、導き出されたその《解》に、誰もが一瞬、息を呑んだ。 息を呑み、そして切り返す。 「だが、それならばなおさら、記録がないというのはおかしくないか?」 「……そこに何か別の意味があるように思えます。すべては憶測ですが、きっと」 彼は彼の信じたモノの為に進んでいるのだと思いたい。 そんな灰人の想いを汲むように、優は爽やかに笑った。 「迷えるモノの導き手になりたいと望んだヘンリーがアリッサの父親なら、いつか館長と同じように再会できたらいいな」 そこでどんな物語が展開するのかは分からずとも、できることなら彼女の笑顔で締めくくってほしい。 そう願うと告げれば、灰人は静かに深く頷いた。 「そういえば、地下室で見つけたボトルの中身は気にならねえのか?」 「あ、ああ、そうでした! フタが開けられなくて……、あっ」 ロボに言われ、懐から取り出した途端、ワインボトルは彼の手から滑り落ちた。 硬質な床に叩きつけられ、響く音。 飛び散ったガラス片の中から出てきたのは、やはり折りたたまれた紙だった。 拾い上げ、そこに並ぶ文字を見たとき、様々な想いがその胸に去来した。ソレは驚きでもあり、同時に強い意志を感じさせるものでもあった。 しかし、ソレに対する議論が始まるよりも先に、海魔に襲われた帆船からの救援信号が屋敷に向けて放たれる。 議論は後回しだ。 思わぬ形で八名のロストナンバーたちは難破船の救出と海魔討伐に乗り出すことになるのだが、それはまた、別のお話。 そして。 旅を終えて、世界図書館へと戻ってきた彼らは、記録のない建築家《ヘンリー》の名を思わぬところで目にすることになるのだが。 それもまた、別のお話、だ。 * * 『 親愛なるエディへ アリッサを頼むよ ジェーンと僕の大切な一人娘、あの子の幸せを君に託す ヘンリー・ベイフルック 』
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