二月十四日。壱番世界的に言うバレンタイン・デー。その実態が製菓会社の陰謀だろうとなんだっていい。必要なのは切っ掛けと甘いチョコレートと甘いささやき。甘くとろける、一日。 ところでそんな甘い一日に、ダークでブラックでビターでカカオ99%な、そんな苦い一日を迎えようという青年が一人。「……はっ、俺としたことが!」 目を覆うほどの金髪を形だけちょっと避け、青年が自分の後ろの荷物を見下ろした。紙袋に詰められた沢山のパッケージは、チョコレートだ。「うう、貰えないからって勢いでなんか買っちゃった……」 なんとなく甘い香りに誘われて街に出て、気がついたらこれだ。甘いものは嫌いじゃない。が、これだけの量が食べられるとも思えない。思えば興味に惹かれてどんな味かも不明なトンデモ企画もののチョコレートも手に入れた気がする。うーとかむーとかひとしきり呻いて、司書の青年……鹿取燎は、唸ったままああそうかと呟いた。「食べればいいんだよね、食べれば」 * という顛末だった。「今日一日くらい、カロリーとか忘れません?」 それがあなたたちの前に現れた司書のコメントだった。「もうどんな味とかどんな形のものを買ったのかすら思い出せないけど、こう、壱番世界の風習で恋人に贈るとか言ってるけど、もうとにかくチョコレートはあるわけだし」 だから、チョコレートパーティってことで。 友達どうしで来ても、恋人同士で来ても、もちろん一人で来てくれても、良い。 甘く香り高いチョコレート……もちろんケーキやホットショコラも含めたありとあらゆるチョコレートが、あなたをお出迎え。この際だから持ち込みだってOK。「場所はお茶会的雰囲気のチェンバー。ぜひ遊びに来てね」
萌える緑色と、ゆるやかに葉が擦れる音。軽やかな光の粒をちりばめたみたいに、木々の間から零れた陽光が地面にモザイク模様を描いている。ふうわりと穏やかな風に乗って、カカオの香りが鼻孔をくすぐった。 「もうここまでチョコレートの香りがしているのね」 少女が一人、腰まである金の髪を風に遊ばせ、それと同じように左肩の片翼も風に浸すように広げてみたりしながら歩いていた。ここは、0番世界のとあるチェンバー。周囲にはどこか植物園めいた庭が広がっている。青い瞳を嬉しそうに細めて、ホワイトガーデンは歩みを進めた。と、ふと背後からの足音に彼女は振り返る。そちらから、彼女より幾らか背の高い少女が歩いてきていた。短く纏めた白い髪がさらさらと風になびき、その頭からすらりと伸びた兎によく似た耳が風を受けて時折ぴくりと動く。赤い瞳を数度瞬いて、彼女はふと理解したように呟いた。 「あなたも、お茶会に?」 「ええ、そう」 ここからも甘い匂いがしますね、と赤い瞳の少女……カサハラが言って、ホワイトガーデンがそれにくすりと微笑んだ。 「よほど沢山なのかしらね」 「――お、もう先に来てたんだな」 二人がのんびり歩き始めようかというと、やはり追いついてきた女性がいた。長い赤色の髪を一つに結いあげて、颯爽と歩み寄ってくる。髪が風を孕んで、光のモザイクの中を軽やかに踊った。 「あなたも?」 「ああ。一人で過ごすかもと思っていたけど、賑やかになりそうだ」 ちょっとした包みとポットとを手に、彼女……ホタル・カムイも並ぶ。楽しげに紫の瞳を煌めかせて、彼女は微笑んだ。ふうわり、とろけるような甘い香りが、誘うように漂ってきている。 * 「……あ、ようこそいらっしゃいました」 ゆるい微笑とともに、司書の青年が出迎える。ごく短い小道の先はガーデンテーブルとそれにあった椅子、そしてテーブルの上に積まれんばかりに並べられたチョコレート菓子だった。カサハラが、ぴくんと両耳をたてる。 「お茶会って言葉に誘われて来てみたけれど……この量は尋常じゃないわね」 勧められた席に着きながら、目を見開いて彼女は呟いた。 「積み上げたらお菓子の家が作れそうだもの」 「いやぁ、勢いでこんなことになっちゃって……」 あはは、と司書……鹿取燎が笑いつつ、さらにまだケーキか何かを隣のテーブルに置いている。その様子に、ホタルがはじけるようにぱっと笑った。 「あっはっはっは! 勢いで買ったのかぁ。うん、まあ、わかるけれどな、その気持ち」 ああそうだ、自己紹介してなかったっけと彼女はにこにこしたままに名乗った。 「私はホタルだよ。――バレンタインを一人で過ごす予定だった、女さ」 彼女に続いてめいめいが自己紹介する。カサハラは名乗った後、その赤い瞳いっぱいに好奇心を浮かべて続けた。自分の故郷では、あまり製造されないものだったので、なんというか……そう、試合を間近に控えた格闘家のような気分なのだ。どきどきと期待の入り混じった高揚感。 「『ちょこれぇと』って、こんなにいろいろあったのね」 「そうね、幅広いチョコレートが楽しめそう」 ホワイトガーデンもふわりと微笑む。ホタルがそうだと言って包みをテーブルに置いた。 「折角だしと思って、トリュフを作って来たんだ。程よく苦め。……で、こっちは紅茶を持って来たんだけど、飲み物の持ち込みも良いかなって」 「そりゃあ大歓迎だよ」 早速開かれた包みを覗きこんで、皆が歓声をあげる。ころりとしたトリュフが丁寧に並べられていた。折角だから、とそれぞれのカップにその紅茶をサーブして、燎が微笑んだ。 「それでは、お好きなものをどうぞ。あと、ケーキの類は言ってくれれば取り分けるよ」 こうして和やかなお茶会が、甘い香りとともに始まった。 * ビロードのような気高さを持つダークブラウンを纏ったオペラに丁寧にフォークを入れ、ホワイトガーデンは口元をほころばせた。綺麗な層をなすチョコレート・ケーキを、そっとフォークを使って口に運ぶ。シロップを贅沢に使ったほろりととろけるような上品なビスキュイに、しつこすぎないガナッシュ。かざられた金箔が誇らしげにちらりと輝く。 「とても丁寧に作ってあるのね……美味しい」 幸せそうに瞳を細めて、彼女は二口目を切り分けた。 「どれか、お勧めはあるのかしら?」 ちょこんと首をかしげたカサハラに、ケーキも良いけど、そうだなぁと燎が顎に手をやった。 「この生チョコは、すごく美味しいって評判らしいよ」 適当に選んで開けられていた包みの中から一つを選び出し、手渡してくる。そっと指先で一つつまむと、一思いに口に放り込んだ。 とろりでも、するりでもない。何とも言えない幸福な感覚でチョコレートが熔けて消える。口の中に広がる甘さと熔けていく感覚に声にならない歓声をあげて彼女はもう一つ、と手を伸ばした。気になるので自分も一つ貰いつつ、ホタルがチョコレートの山をながめてちょっとだけ考え込んだ。 「うん、ここへきて二年になるけどさ、年々増えて行ってないか? 種類」 「そうだね、こんなのとか、こういうのも増えた気がするし」 いわゆるネタ系の類のチョコレートを示しつつ、燎もチョコチップクッキーを齧る。 「……ロシアンルーレットチョコ」 でも見た目は普通に美味しそうだな、とホタルがそのパッケージを開けながらふぅんと呟く。四角いチョコレートが四つ、並んでいた。彼女はパッケージを裏返した。 「味は……イチゴとオレンジとブドウか」 「あれ、普通だね」 「――と、ワサビだ」 「おおぅ」 「そのちょこれぇとは? なんだか好奇心をやわやわと刺激するわ……」 「折角だから、一つずつとらないか?」 「私こういうの、はじめてかも」 ふふ、と微笑んでホワイトガーデンがどれにしようかしら、と視線を彷徨わせる。 「じゃあ、私はこれで」 カサハラが一つをつまみ、それに続いてホワイトガーデンがこれにしようかしら、と一つをつまみあげる。燎が一つを選んだのを見てホタルが最後の一つをつまみあげた。 「それじゃあ、せーの」 ぱくりと四人が一斉にチョコレートを口に入れる。二口ほど噛んだところで、それぞれの結果が分かった。 「ああ、ブドウだね」 「オレンジの香りがすごくさわやかだわ」 「こっちはイチゴだったな」 「んんっ?!」 静電気が走ったかのようにぴくんっと耳を立ててカサハラが口を押さえた。 「アタリだったみたい。……大丈夫か?」 もぐもぐと何とか咀嚼して飲み込むが、半分涙目になった瞳で茫然とテーブルの端を見つめて一言。 「からい……」 が、しかし、彼女は数度深呼吸するとくすくすと笑い始めた。 「辛いけど……でも、ふふっ、面白い。ちょこれぇとってこんなに楽しかったのね」 機嫌良く風に耳が揺れる。ふう、と深呼吸して落ち着くと、お代りの紅茶をサーブした燎にありがとうを言って一口飲んだ。こんなチョコレートを買ってきてしまった彼も面白い人なのだろうな、と思う。そう言えばあの前髪、前が見えているのかしら。 「お、こっちのこれは何だ?」 ホタルがまるで宝石箱みたいなラッピングを開ける。出てきたのはテディ・ベアなどぬいぐるみを模した小さなチョコレート達。 「可愛い!」 早くも復活して覗き込んだカサハラが歓声をあげる。ホワイトガーデンも一つを手に取ったがちょっと困ったように小首を傾げた。 「なんだか食べるのを躊躇ってしまうわね」 チョコレートのクマと目を合わせ、片手を頬に当てる。 ごめんなさい、いただきますとクマに告げてぱくり。べたべたせず、どこかさわやかなミントの香りが鼻をくすぐる。断面はきれいなミントグリーンだ。なんとはなしにチョコレートの山を見渡して、その量に彼女は小さな溜息をついた。 「壱番世界のある地域だと恋人に渡したりするんだったかしら。――これだけあると、惚れ薬入りのチョコレートなんていうものもあったりしそうね」 「流石に惚れ薬入りまで謳ったものはなかったかな。……でも、チョコレート自体が、昔から惚れ薬だと信じられてきたから似たようなものだろうね」 くすりと微笑んで燎もパッケージの山を見やった。クマの残りを食べて、ホワイトガーデンは微笑む。 「それなら、恋人への贈り物へはぴったりなのね」 「贈り物……か」 トリュフをひとつつまんで、ホタルがふと周りの木々を見やった。チョコレートを本当にあげたい人たちは、もう眠ってしまったのだ。だから、この世界には、居ない。――チョコレートを口で溶かしてその味に目を細め、これおいしいなとテーブルに視線を戻す。 「チョコレート菓子のレシピが増やせそうだ」 「作るの、上手なのね。トリュフもすごく美味しいわ」 カサハラが、両手でカップを包むようにして言った。流石にチョコレートばかり口にしてすこししんどくなってきたのだ。紅茶の香りを吸いこんで、幸せそうに瞳を細める。美味しかったのなら嬉しいよ、と応え、ホタルも紅茶を手にした。アイスクリームにそっとチョコレート・ソースをかけて、ホワイトガーデンが器用にくるくるとクレープを巻く。 「クレープ、好きなものが巻けるのね」 「お、じゃあ私も何か……それはムース?」 「ええ、そうみたい。カサハラさんもどうかしら」 「……あなたのは、何を巻いたの?」 「私のは、アイスにソースをかけたものよ」 「じゃあ私も――」 皆で好きなものを乗せて巻く。生地も、アイスクリームも、もちろんソースもチョコレート色。口に広がるのは優美で華やかなカカオの香りと、するんとほどけるような甘さ。穏やかで贅沢な時間は過ぎてゆく。はらりと一枚、風に乗って葉が宙に踊った。 * 「今日は遊びに来てくれてありがとう」 そろそろお茶会もお開き。お土産にと勧められたまだいくらかあるチョコレートの内から、ポケットに入る小さめなものを選んで詰め、カサハラはとろりと相好を崩した。ポケットに詰まった、見た目も可愛いちょこれぇと達は幸せそのものだ。 「ありがとう。すごく楽しかったわ」 「私も、お陰で楽しい時間が過ごせたよ」 ホタルが紫の瞳を煌めかせて笑う。と、ホワイトガーデンが包みを取り出してちょっと微笑んだ。 「これだけチョコづくしの後だとしばらくチョコレートの類は見たくないかもしれないけれど」 そこまで言って、はいとその包みを燎に渡した。 「はい、これは鹿取さんへの今日のお礼。チョコレートブラウニーを焼いてみたの」 「わあ、ありがとう」 手作りらしいその包みを大事そうに受け取って、燎は顔をほころばせた。 「今日は素敵な一日だったわ。ありがとう」 「うん、楽しかったよ」 「じゃあ、失礼するわね」 めいめいが手を振ったりして、穏やかな小道を帰って行く。モザイクのように散らばった光が、傾いた陽光の色に染まって金火の色に華やいでいた。
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