ドアノブを引いたとたん、すがすがしい緑の匂いと、花の香が漂ってきた。 見上げるほどに高い吹き抜けを持つ店内に、観葉植物の林が連なる。ヤシ、オリーブ、ブーゲンビリア、イングリッシュアイビー、ベンジャミン、アローカリア。広大な植物園にでも迷い込んだようだ。 緑の中を飛び交う色とりどりの鳥は、来客を歓迎し、口々にさえずった。 バードカフェ『クリスタル・パレス』は、鉄骨とガラス、そして豊かな緑で構成されている。かつて壱番世界のロンドンに存在した、同じ名前の建物がそうであったように。 ストレリチアオーガスタ——別名トラベラーズパームの葉に止まっていたシラサギが、ドアの開く音に、飾り羽を揺らして舞い上がる。朝霧のように、白い鳥のすがたはかき消えた。 靴音が——かつん、と、石張りの床を打つ。 そこに立っているのは、純白の翼を持つギャルソンだ。 「久しぶりだなぁ、おい。何でもっとしょっちゅう、おれに逢いにこねぇんだよ。……怒るぞ?」 ギャルソンは、親しげに片手を差し伸べる。言葉づかいは乱暴だが、語調は陽気で、口元は笑っている。 「あぁ? 別におれ目当てじゃないって? ……それは失礼しました。では、お席にご案内いたしましょう」 軽口を叩いていたかと思うと、うって変わって丁重になる。いささか芝居がかった仕草は、どうやら彼特有の接客姿勢であるらしい。 うやうやしく案内されたのは、明るく差し込む外光を緑の日傘がやわらかくさえぎる、居心地のよい席だ。 椅子を引き、ギャルソンは一礼する。 「さて。本日のオーダーは、いかがなさいますか?」
「……おっ!」 燃えさかる炎のような赤い髪。肢体を彩る鮮やかな炎の意匠。ホタル・カムイを出迎えたシオンは、一瞬、眩しげに目を細める。 旧き太陽神の来訪は、植物の緑が溢れる店内を、真夏の日射しのような爽快さと輝きで満たした。 席に案内してようやく、シオンはいつもの調子を取り戻す。 「ホタル姉さんじゃーん! ひっさしぶりー! なんだよー、ここんとこずっとお見限りだったじゃん」 「あっはは。悪い悪い。ほんっとご無沙汰だよなー」 「おれ、こう見えて傷つきやすいんだぞー。ホタル姉さんに忘れられたのかと思って毎日泣き暮らしてたんだぜ。……はいメニュー。本日のおすすめスイーツは『ラム酒入りプリンと2色のぶどうのヴァリエ』でございます」 「相変わらずだな、シオンさんは。元気そうで安心したよ。……じゃあそれを」 「お飲物は如何なさいますか?」 「紅茶にしようかな。ダージリンで」 「かしこまりました」 シオンが差し出したメニューをホタルは笑いながら受け取り、同時にオーダーを済ませた。 頃や良しと、隅っこの席にいた無名の司書が立ち上がる。 「うわーーーい。ホタルさんはっけーーーん!」 椅子を蹴倒す勢いでだだだーーと駆け寄り、ホタルの隣席にちゃっかり腰掛けた。 「お久しぶりでーす。あなたのむめっちです。セカンドディアスポラのときは大変だったね……! 無事で良かった」 「ああ、なんとかね。むめっちさんも元気だったか?」 「うん元気。リベル先輩に『貴方は血の気が多すぎますから献血でもしてきたらどうですか』とか言われるほど元気よ」 「店内では他のお客様のご迷惑にならぬよう、お静かに願います。……貴方は血の気が多すぎますから、献血でもしてきたらどうですか?」 カフェのエレガンスとお客様の優雅なひとときを守るため、ラファエルが無名の司書に釘を刺す。 「うわっ、店長にまで言われた」 「てんちょー。無名の姉さんのテンションは多少献血したって変わんないって。どんだけ鼻血出してもすぐ復活するじゃん?」 「……シオン。君も少しは、店の品位というものをだな……」 嘆息するラファエルもなんのその、無名の司書は自分もオーダーをした。 「店長〜。あたしにも、ダージリンのプレミアムセカンドフラッシュをぷりーず」 「どうぞ。入れたての水道水でございます」 「ちょっと、なにッ、この仕打ち! 店長をウォッチしてるロストナンバーの女の子に言いつけるよ!」 「ぷっ。あはははは……!」 カンダータ兵の「タグブレイク」によって、異世界へ転移する現象に巻き込まれた12人のロストナンバー。 ホタル・カムイは、そのひとりだった。 ホタルが飛ばされたのは、大半が砂漠で覆われた世界。不毛の熱砂・ナイアーラト。 昼間は酷暑、夜は極寒。そして、巨大樹のうえに築かれた街―― 「砂漠の昼の暑さ……『熱さ』は、本当に平気だったさ。夜はちょっと、きつかったかな」 太陽神は異世界の情景を、少しだけ、語った。焼けつく砂漠の熱風をいとおしむように。 「お、お待たせしました」 危なっかしい足取りで、ミシェルがオーダーを運んできた。 「こ、こちら、ラム……? だっけ? ラム酒入りプリンと2色のぶどうのヴァリ、ヴァリリ……? エ?」 「ヴァリエ」 ラファエルが見かねて耳打ちをする。 「そ、そう、ヴァリエ。2色のぶどうは、葡萄の女王といわれるマスカット・オヴ、えーと」 「マスカット・オヴ・アレキサンドリア」 「そ、それと、幻のぶどう『紫苑』」……でいいの?」 「よし、合ってる」 「を、使用しました。よろしければ、皮ごとお召し上がりください」 言い終えて、ミシェルはふぅーと息をつく。 「……ご苦労さん。ミシェルさんも元気そうでよかった。もう、0世界やこの店には慣れたのかな?」 壱番世界の無人島に転移し、巨大怪獣と化して大暴れしていたミシェルに、炎の特攻隊長は拳で語り、そして保護したのだった。 身の振り方を決めかねていたミシェルを、ラファエルが面倒を見ることになり、現在に至っている。 「うーん……。どうかな……。まだ、わからないことばかりで」 ずっと厨房で皿洗い修業をしていたミシェルは、フロアデビューして間もない。ギャルソンすがたも身に付いておらず、落ち着かなさそうだ。 「ゆっくり馴染めばいいよ。私も、慣れるのに結構時間かかった。機械ってどうやって使うんだー、って感じだったよ」 「うん……。あのとき、ぼくが起こした山火事が広範囲で、もとに戻るまでに時間がかかるだろうなって思うとすごく辛くて。だけど、この前、無人島に行ってみたら、かなり復旧されてて、少しほっとした」 「山火事にもよるんだろうけど、あの島の場合は、焼け残りの樹木から萌芽再生が期待できたんだとさ」 ミシェルの肩を、シオンがぽんと叩く。 「自然回復力による植生回復ってやつだな。某財閥の全面協力もあったし、あの島はもう大丈夫だよ」 「――そうか。それは良かった」 ホタルはふと、自分の出身世界を想う。 彼女が一度焼き払ってしまい、そしてひどく後悔したあの世界。 時を経て復興してからも、相変わらず争いが絶えないのだけれど。 作物が豊かに育つ土地は狭くて数が少なくて、だから、それの争奪戦となってしまうのだけれど。 ――だが、神の怒りで燃された世界さえも、復興する。 それは自然の、そして人々の回復力であり、強さだ。 生きとし生けるものたちのしたたかさは、苦い後悔を少しだけ、癒してくれる。 「実は、今でも、ひとりでいるのが怖いんだ。たまーに、こういうところでくつろいだりもしないとな。それにここのメニュー、何食べても美味しいし」 ホタルの孤独は、深い。 彼女は六人兄妹の次女であったのだが、長兄、大地のヒジリも、次兄、水のミナトも、姉、風のカザネも、弟、雷のアズマも、妹、氷のヒサメも、皆――きょうだい全員、死亡したのだ。 ホタルだけを、残して。 最後に亡くなったのは、すぐ上の兄、ミナトだった。ホタルの目の前で『剣』は破壊され、ミナトは水となって消えた。 「私も消えてもいいや、って思ったこともある。でも、そうしたら他の五人のことを覚えているものがいなくなるから、パスホルダーを持つことしたんだ」 「……ホタル姉さん」 「んでな、シオンさん。最初に姉さん呼ばわりされたとき、とっても嬉しかったんだぜ」 「え?」 「よく男と間違われるからな」 目を伏せたシオンに、ホタルはつとめて明るく振る舞った。無理をしているわけではなく、それが生来の性格なのだ。 それを受けて、シオンもまた、いつもの調子で応酬する。 「そうかぁ? ホタル姉さんは魅力的だし女らしいじゃん」 「そう思うか?」 「おう。どんなに胸がささやかでも、おれは気にしないぞ?」 「シオンくん! セクハラセクハラ!」 「あっはははは。私も気にしないことにするよ」 口の中で、ぷちんと、ぶどうの実がはじける。上品な甘さと程よい酸味。 驚いたことにこのぶどうは、皮までもが美味しかった。 ラファエルがテーブルにティーカップを置き、紅茶を注ぐ。 「あれ? 花みたいな匂いがする。これ、紅茶だよね?」 「はい。壱番世界の茶園から入荷した、限定生産のダージリンです。茶葉の状態でも、花のような甘い芳香が漂うのが特徴です」 「うん、これも美味しい」 太陽神の炎はひととき、あたたかな安らぎに揺らぐ。 ――Fin.
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