月の瞳、と呼ばれる街がある。 月の黄金色した砂に埋まる砂の丘を数百と越え、照り付ける灼熱の太陽の昼と吐息も凍る極寒の星月夜を何十日と過ごし、漸く辿り着くことの出来る小さな街は、けれど命賭して砂漠を越えてさえ向かう価値があると砂漠行く隊商の人々は言う。 街に育つ樹の翠はどこまでも濃く、色鮮やかに咲き乱れる花は可憐に瑞々しい。樹に咲く花々は散って後、花の蜜を凝縮させたような果実を付ける。街路に実る果は旅人たちの疲れを癒すため自由に振舞われる。 街の央たる神殿の泉より湧き出でる水は、どこまでも澄み切って冷たく甘く、街全体に巡らされた石造りの水路を優しい水音たてて流れる。訪れた旅人を、街の住人を、分け隔てなく潤す。 極寒の砂漠の夜にも、石造りの壁に囲まれたその街は凍えない。水路に沿うて設けられた篝火が街の夜を照らし出す。街とその周辺にだけ育つ果樹で作られた薪は、火が入れば果実とよく似た甘い匂いを放つ。 不思議の火は街を温かく包み込み、砂漠の夜に凍らぬよう、街を水を、護る。 黄金砂漠の央、漆黒の夜に緋色の街が浮かび上がる。 月の瞳が月の瞳たるを守護するは、ふたりの精霊。 片方は、水より碧い長い銀髪と深い泉の翠色の眼持つ女のかたちした精霊。 片方は、火より明い短い金髪と地底這う火の紅色の眼持つ男のかたちした精霊。 片方は水を司り、片方は火を司る、同じ大地より生まれし兄妹精霊。 同じものから生まれたふたりは、なればこそ仲睦まじく土地を潤した。砂漠を彷徨う旅人達が土地に迷い込めば優しく護り、旅人達が街作ろうとすれば惜しまず力を与えた。 人と精霊が手を取り合い、闇夜の月の如く輝けるその街は、けれど今、光を失おうとしている。 砂漠の街の空に浮かぶ白銀の満月の央に、深紅の穴が穿たれる。開くと同時、深紅が膨れ上がる。月を呑みこみ、街の空を紅に覆う。 炎熱の紅が空に波打つ。火の海が渦を巻く。天から地に、炎の竜巻が落ちる。 炎を引き連れ、緋金の髪持つ精霊が降る。 周囲に爆ぜる炎の如く、緋金の髪を、溶岩の瞳を燃え上がらせ、火の精霊は精悍な男のかたちした腕で空を薙ぐ。 火の精霊の身を炎が包む。「帰って来い」 轟々とその身を巻く炎の音にも似た声を、街全体に響かせる。精霊の怒号に反応し、街のあちこちに焚かれる篝火の炎が音立てて爆発する。 空の異変に、街の守護精霊であったはずの火の精霊の怒りに、驚きひれ伏す街の人々が、旅の人々が、爆発の炎に焼かれる。爆ぜた炭に撃たれる。火に巻かれた人々が石畳や砂の上を転げ回る。 悲鳴が、悲痛な祈りが大地に満ちる。 街路脇の水路に飛び込む人々を、水が包む。水が跳ね上がる。互いに結びつき、小さな魚の姿となる。 街に広がる水路から生まれた幾千の水魚は、火の精霊の炎に巻かれる人々を、街路に燃え上がる篝火を、延焼する露店の天幕を、水で出来た身を投げ打つことで消火する。「お前を閉じ込め、奪い続ける人々を何故護ろうとする」 炎に焼かれ、水魚達が大量の蒸気となって空に舞う。揺らぎ、縒り合い、碧銀の長髪垂らす女の精霊のかたちとなる。水底の翠色した眼を必死の形相に歪め、蒸気で形作った脆い両手を広げる。兄である火の精霊と対峙する。「疲弊したその身では誰も、何も、護れまい」 兄が片手を一閃させる。炎が奔る。水の粒で出来た妹の胸を炎が貫く。炎熱に焼かれ、水の精霊の化身は砕け散る。 水の精霊の胸を刺し貫いた炎の剣は、街の空で数十の火の矢となる。火の精霊に操られ、火の矢は街の中央に建つ白煉瓦造りの神殿に放たれる。「街が死に絶えれば、お前に祈り捧げ奪う神殿の奴らが焼け死ねば、残るのは己とお前だけ」 火矢が吠える。 水魚達が啼く。 街が悲鳴を上げた、その時。「おぉおッらァア!」 炎を身に巻き、渦巻く風を踏み台に、深紅の女が地から空へ駆け登る。しなやかな細身の体に刻まれた炎の刺青が、身を巻く炎とも見紛う鮮やかな炎朱の長髪が、女の――ホタル・カムイの肢体が俊敏に動く毎、夜に踊る。「何やってんだ、コラァ!」 悪戯坊主を叱り付ける口調で、ホタルは素手の拳を大きく振りかぶる。ささやかな胸を覆う僅かな布が、炎と風に危うげに膨らむ。 思いがけぬ大地からの乱入者に、火の精霊がたじろぐ。 火の精霊が生み出す炎に全く構わず、旧き太陽神は拳に炎纏わせ、火の精霊の頭に拳骨を喰らわせる。火の精霊の衣装の襟首を掴み、引き摺り倒す。旧き太陽神のあんまりな力押しに圧され、火の精霊はホタルと共に空を滑り落ちる。 街の空に広がる火の海が四散する。「ホタル・カムイ!」 街を外れ、月に黄金色に輝く砂漠へと紅の光の尾を引いて落ち行くホタルと火の精霊を追うて、白銀の光が風を抱いて空へ舞い上がる。 月よりも白い髪を覆う頭布の端が風になびく。月よりも白い雪花石膏の肌の腕が、金色の砂漠に落ちるホタルを追うて闇に伸びる。「イルファーンさんは神殿を!」 火の精霊と共に墜ちて行くホタルの身に、イルファーンの操る風が繭のように巻きつく。墜落の速度を出来うる限り緩めると同時、イルファーンは鳩の血色の眸を神殿へと巡らせる。 華奢な手首を飾る銀の腕輪が夜風に叫ぶ。腕輪彩る夜の色したラピスラズリの内に閉じ込められた金銀の星が瞬く。 イルファーンの意志を受け、神殿を風の結界が取り巻く。渦巻く風に翻弄され、火の精霊の放った火矢が掻き消える。 短い息を吐き、イルファーンは上空から街を見下ろす。 日干し煉瓦で作られた低い屋根の家々、整えられた街路に沿うて生える瑞々しい果実の樹々、――砂漠に在りながら美しく潤うはずの街は、今、あちこちに火の手が上がっている。火傷負うた人々が方々に蹲っている。 街を守護する水の精霊の化身である水でできた魚達の姿はもうない。水の精霊はまさか死んではいないだろうが、火の精霊の言葉通りならば、神殿の奥に疲弊した身を閉ざされている。幽閉されながらも、神殿の神官達の祈りを受け、街の人々の願いを受け、街を護ろうとしている。 街を守護する炎の精霊は片割れである水の精霊を神殿より助け出す為街を破壊しようとし、旧い太陽神と共に街の外の黄金砂漠に墜ちた。精霊である身は傷付きはしないだろう。旧き太陽神の言葉が耳に届かねば、間を置かずに再度街を破壊せんが為、炎と共に襲い来るだろう。 白銀の月に照らされる街の暗さに鮮血色の眸を瞬かせ、イルファーンは気付く。街を明るく照らし出していた篝火が全て消えている。唯一の火は、家や木々を焼き、黒煙をあげている。 白銀の月輝く夜空から、人を凍えさせる冷気が降り注ぐ。 月の瞳に煌く炎は、消えた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>イルファーン(ccvn5011)ホタル・カムイ(cdbn4553)=========
人を護る火の絶えた街の空を、流星の如く白き精霊が翔る。 火傷を負うた人々が煤だらけの煉瓦の道に這いつくばり、水の精霊の名を呼ばわる。大地に身を投げ出して祈りを捧げる。 黒煙上げて燃える石の家から飛び出した人々が、呆然と己の家を仰ぐ。家焼く炎を生み出した火の精霊に許しを乞うて泣き叫ぶ。 旅装の人々が水路から水を汲み、燃え盛る炎に掛けて回る。祈るばかりの街の住人を己の力尽くせと叱咤する。 轟々と哄笑し、炎熱と黒煙の腕を空に伸ばし来る炎を冷涼たる風で切り裂き、イルファーンは街の央に建つ白石造りの神殿に向かう。 火の回る周囲の街よりも水の精霊の力が大きく作用しているのか、――或は作用させられているのか、神殿に炎は延びて来ていない。悲鳴と怒号入り混じる街とは違い、石造りの壁に囲まれたささやかな神殿は奇妙な静寂に閉ざされている。 壁の向こうに視線を投げて、イルファーンは鮮血色の双眸を僅かに細める。水の精霊が閉ざされている神殿の前庭に大勢の住人達が地に伏している。緑の果樹が規則的に植えられ、祈りの紋様刻まれた石の水路が縦横に走る前庭で、人々は両手を祈りのかたちに合わせ、低く高く、精霊讃える歌を声揃えて唄い続けている。 壁の外の騒乱に対し、壁の内側に満ちる祈りの歌はどこまでも静寂に近い。 祈りに陶酔する人々の頭上を、イルファーンは風と共に飛び越える。炎渦巻く街の空から白き精霊の供をしてきた熱風が、地に伏せただ祈るだけの人々の背中を叩く。果樹の梢が激しく揺れる。水路の水が白く波打つ。冷たい雫が舞い踊る。瑞々しく甘い香りの暴風が前庭に満ちる。 背を殴り、髪を弄る激しい風に、夢見るように祈り捧げていた人々が顔を上げる。そうして、数十段の階の上の神殿入り口に風纏うて降り立つ、美しい青年の姿した白き精霊の後ろ姿を見る。 水の精霊への賛歌が途切れる。神殿の前庭が驚嘆の静寂に包まれる。静寂は間を置かずざわめきに変わる。 「祈りを妨げし魔物め!」 ざわめく人々の声を遮り、扉の前に立つ神官達が各々の銀の錫杖を手に立ち上がる。イルファーンの前を塞ぐ。鋭く尖った錫杖の先を白き精霊に突きつける。 剥き出しの敵意を向けられ、魔物と誹られ、けれどイルファーンは僅かも恐れずたじろがず、進まんとする道を塞ぐ神官達に真摯な眼差しを向ける。 「水の精霊に急ぎ謁見したい」 「許さぬ」 揃いの薄青の官服纏った神官達に囲まれ護られ、神官の長らしき老いた男が声を張り上げる。長の声に合わせ、十数名の神官達がイルファーンの華奢な身体を打ち据えるべく錫杖を構える。 「水の精霊さまには、水の如く澄みし我々の祈りのみ届けなくてはならぬ」 「彼女を虜囚の如く封じてかい?」 張り詰めた弦を弾くかのような玲瓏と澄んだイルファーンの声が、神官長の言葉を破る。 イルファーンは身の回りに渦巻く熱風を胸に吸い込む。炎の精霊の火の力帯びた風が、イルファーンを中心にして弾け飛ぶ。 白き精霊に敵意向けた神官の長が、神官達が、凄まじい旋風に巻かれ、圧され、薙ぎ払われる。神殿の石壁に打ち付けられ、階を転がり落ち、前庭の芝の上に叩き付けられ、神官達が昏倒する。 神殿の前庭で水の精霊に祈り捧げていた人々が蜘蛛の子を散らすように神殿の外へ、燃え盛る街へ、逃げて行く。 己の背後に怯える人々の気配を感じながら、イルファーンは水の精霊を閉ざす神殿の扉に手を掛ける。 「さあ」 イルファーンの風が重い扉を押し開く。 「僕の前に本当の姿を見せてくれ」 扉の向こうには、水の精霊と火の精霊の石像が祀られている。白い石柱に挟まれた通路の右手には、碧く澄んだ水が滔々と流れる水路。左手には、等間隔に設けられた篝。けれど、そこに灯るはずの火は無い。 水を明るく輝かせる火が絶え、闇に閉ざされた神殿の通路に、イルファーンは踏み込む。 「君の本当の気持ちを聞かせてくれ」 元の世界で、その万能性の故に神格さえ与えられた白き精霊は穏かな声で水の精霊に呼びかける。 「僕もかつては人を愛し人に尽くすのが生き甲斐だった」 人の姿の無い神殿に、白き精霊の声が響き渡る。 「しかし今は違う、――世界中一番大事だと思える女性に巡り逢ってしまったから」 愛する唯一人を想うた途端、白皙の美貌に甘やかな笑みが滲む。 「もし他の誰かが彼女を傷付け殺そうとするなら、僕は自分の手を汚すのも辞さない」 静かな笑みのまま、全ての人を愛し尽くそうとした『愚者の霊』は深い決意を唇に乗せる。でも、と続ける。己を削って街の人々を護ろうとする水の精霊に語りかける。 「君の在り様を否定するつもりはない」 人を愛し人を護りたいと望む、その志は尊いもの。白き精霊はそう固く信じる。 愛する唯一人をどうあっても護ろうと決めた、今でも。 愛する唯一人を護る為ならば全てを破壊することを是とする者の気持ちを理解した、今でも。 「君は……君達は今一度話し合うべきだ」 真摯な呼びかけが、水の精霊が頑なな沈黙を破る。しゃらしゃらと涼しげな音立てて水の流れる水路から、水雫で出来た魚が跳ねる。 白き精霊を導き、水の魚は水路を遡る。水の精霊象った石像の台座に体当たりし、水の身体を砕け散らせる。 「此処に居るんだね」 台座に触れようと伸ばした白い指先に、蒼白い火花が爆ぜる。鮮血色の瞳が痛みに震えるも、雷に赤黒く焼かれた指先は瞬きの間に癒える。 「結界か」 人ならぬ者の周囲に、風と炎が生まれる。暗闇と静寂に沈む神殿に、風が唸る。炎が踊る。白き精霊の鮮血色の瞳に力が籠もる。静かに、けれど力強く言霊を紡ぐ。 「人が組んだ結界を人を超える存在が解けぬ道理はない」 風に打たれ、炎に撃たれ、水の精霊を閉ざす不可視の結界が揺らぐ。蒼白い雷が宙を走るも、紅蓮の炎に呑まれ四散する。 人の祈りを力とした強固な結界が、白き精霊の膨大な力の前に崩壊する。 結界と共に崩れた台座の下、地下への階が現れる。暗闇に沈む石の階のその下、清らな水の中から、冷涼たる泉の中から、蒼白い顔の女が長い髪を水のように引き摺り昇り現れる。 イルファーンは柔らかく微笑む。水の精霊は笑み返そうとして、その場に膝を折った。くずおれる細く冷たい身体を抱き止め、イルファーンは囁く。 「行こう、君の同胞の元へ」 月の光を跳ね返し、金色に淡く光る砂漠が眼下に広がる。 風の繭に包まれ、火の精霊と旧き太陽神は共に空を落ちる。 人と街を焼く炎が、夜の闇を禍々しい緋色に染め上げる。立ち昇る黒煙が夜空に輝く星月を灰色に濁らせる。 イルファーンの風に護られ、空から墜ちるにしては緩い速度で地上へと降りながら、ホタルは視界の隅に燃え上がる街を捉える。 流れる景色に重なるのは、己の過去。あの時、己の怒りと炎で燃やし尽くした己の世界。人も獣も樹も虫も、大地に命営むもの全てを己の烈火に包み込んだ。灰塵に帰した。全てを炎の色に染め上げた。 ちくしょう、と唇をきつく噛む。 強靭な意志表すような瞳が歪む。両手で襟首掴み、片膝で鳩尾を抑え込んで動き封じた火の精霊を哀しく顰めた紫眼で見据える。 (こいつは昔の私だ) 「離せ!」 火の精霊が喚く。己の襟首掴むホタルの手を掴み返す。風の繭に包まれた二人の周囲に炎の弾が幾つも生まれる。炎弾は紅い尾を引き、風の繭を撃つ。 視界が火焔の色に染まる。ホタルを護る風が炎熱を孕む。 炎の只中にあって、うちと逆か、ふとホタルは場違いに思う。 ホタルが元居た世界で、水司る神は兄だった。火司る神はホタルだった。――兄は死んで、妹は残った。兄妹は五人も居たのに、ホタル一人だけを残して、皆みんな死んでしまった。 (一人は、嫌なもんだよな) 火の精霊と旧き太陽神は黄金色の砂漠に墜ちる。 炎と風に巻き上げられ、大量の砂が舞い上がる。 ホタルに組み敷かれるかたちで砂の上に背を叩き付けられ、火の精霊が低く罵声を吐き捨てる。精霊の言葉に反応し、空中に火花が音立てて跳ね回る。 (向こうはイルファーンさんに任せた方がいいか) 砂に身を押さえつけられ、火の精霊が怒り狂う。冷えた月の空に炎で出来た竜が生まれ、大地に頭から突っ込む。一帯を轟音と炎に巻く。 (このまんまじゃ、うかうかと街に帰れない) 「街を破壊しに行きたいんなら、私を倒してからにしな、」 睨み上げてくる火の精霊の眼を真っ向から受け止め、ホタルは囁く。一瞬、怪訝な顔をする火の精霊の襟首を離し、鳩尾を押さえ込んでいた膝を退かせる。火の精霊の身に力が籠もる。陽に焼けた男の腕が、炎の意匠の刺青刻み込んだ女の身体を薙ぎ払うべく横に振るわれる。 「――ってな?」 男の腕を軽く身を反らして避け、ホタルは砂地の上に両足踏みしめ仁王立つ。炎色の長い髪が炎熱の風に翻る。唇の端を引き上げ、強気に笑う。 「どつき合おうぜ?」 ホタルと火の精霊を護っていた風の繭が解ける。風に巻き上げられた砂が降る。砂に混じり、旧き太陽神の力に当てられた空の高くに雲が湧く。俄か雨がバラリと降る。砂漠を焼く炎に注ぎ、白い蒸気となって空に戻る。冷え切った夜の砂漠が熱を帯びる。 火の精霊は雨雫のついた金髪の頭を苛々と掻き毟る。額から流れ落ちる、熱を孕んだ雨雫を拳で拭う。冷め遣らぬ怒りを火紅色の眼に燃え上がらせ、 「退け!」 手の届く間近に立つホタルに向け最初の拳を放つ。怒りに任せた闇雲な一撃を、ホタルは重ねた両手で受け止める。 「あんた言ってたな」 男の拳を受け止めたホタルの両掌に白金色の炎が宿る。異世界の旧き太陽神の炎が、ヴォロスに産まれた火の精霊の拳を伝い腕を伝う。 「『残るのは俺とお前だけ』って」 己の炎とは異質な焔に腕を焼かれ、火の精霊は顔を顰める。それでも、ホタルの両掌に捩じ込んだ拳を引くことはしない。 「それがどうした」 踵を砂に埋め、拳を、己の意志をホタルに捩じ込もうとする。旧き太陽神の焔に包まれた火の精霊の拳にも朱の炎が生まれる。 「元々二人きりだった! 元に戻るだけだ!」 白金の焔を撥ね退けようと朱の炎が膨らむ。片手だけでは押し切れぬと判断し、火の精霊はもう片方の手を伸ばす。ホタルの片腕を掴もうとする。 「ああ、そうだろうさ」 ホタルは低く唸る。掴まれ掛けた腕で、火の精霊の片手を捉える。互いの指と指を絡ませ、全身全霊を懸けた力任せの押し合いとなる。 「そうなるだろうさ」 ホタルは熱い息を吐き出す。 「で、そうなって妹さんの方がどうなるのか――」 柔らかな筋肉の浮き出していた刺青の腕が、瞬きの間、脱力する。押し合う力が思いがけず緩まり、火の精霊が驚いた顔のままホタルの胸元にがくりとつんのめる。男に押し倒される格好でホタルは背中から砂の上に倒れこみ、 「考えてんのかコラァ!」 その勢いのまま、片足を火の精霊の腹に叩き込む。力負けした振りをした両腕を力強く撥ね上げる。火の精霊の身体が宙に舞う。 男を投げ飛ばした両腕で砂を掴み、ホタルは間髪入れず跳ね起きる。黒く焼けた砂の上に仰向けで倒れる火の精霊を引き摺り起こす。 「何故だ! 何故あれを返してくれないんだ!」 泣き喚き過ぎて訳のわからなくなった子供の仕種で、手足を暴れさせる火の精霊の横っ面を張る。 「身を削ってまで街を護ろうとした妹さんの姿を見ただろうが!」 往生際悪く身の周りに炎の幕を巡らせようとする男の額に、渾身の力籠めた頭突きを見舞う。火の精霊が一瞬白目を剥く。虚空に咲きかけた紅の炎がしょんぼりと燻り、黒煙吐いて消える。 「護りたい人々を亡くした妹さんがどうなるかまで考えて行動してんだろうな?」 お互いの息が触れ合う間近で睨み合いながら、ホタルは火の精霊を叱り付ける。 火の精霊が何か喚きかけて口を閉ざす。ただ、最後の抵抗のように襟首を掴むホタルの両手を片手で掴む。 「わかってんだろうな、破壊しつくしたら、あんたが好きな妹さんはいなくなるんだ。心に大きな傷を負ってな」 その手から力が抜ける。旧き太陽神に半ば縋る格好で、火の精霊は砂漠の上にへたり込んだ。 「頭に血が上ってると、そこら辺まで頭回らなくなるもんだ」 結い上げた紅の髪を風に流し、ホタルは息を吐く。火の精霊の隣にどかりと腰を下ろして胡坐をかく。ひどくしょぼくれて見える火の精霊の背中を片手で叩く。 (……なんか不器用な兄貴見てる気分にもなる) 「あんた、神官たちに直談判してみたり、妹さんの意思を確認したことあんのか」 火の精霊はどつき合った女を見、首を横に振る。同じように胡坐をかき、膝に片腕で頬杖を突く。考えに沈んだ眼差しで、月光の闇と冷気に沈もうとする己の街を眺める。 街を焼き尽くそうとした炎は、いつの間にか鎮まろうとしている。 「私は破壊しつくした事があるんだよ」 小さく、旧き太陽神は呟いた。火の精霊が静かな眼差しをホタルに向ける。ホタルは視線を横顔で受け止めようとして受け止め切れず、両掌で顔を覆い隠す。 「で、残ったのは後悔だ」 「……すまん」 「何であんたが謝るんだ」 乾いた声で笑い、ホタルは夜空を仰ぐ。 そうして、空高く飛翔する白き精霊と、その腕に抱かれた水の精霊の姿を眼にする。 「ほら、ちゃんと話し合え」 火の精霊の腕を引いて立ち上がりながら、ホタルは旅の連れに向け元気よく片手を振る。 空に舞う水の精霊の長い髪から水が散る。イルファーンの操る風に水が霧となり、月光に白虹にも似た光を放つ。光の尾を引き、水の精霊を腕に抱いて、白き精霊が火の精霊の元へ舞い降りる。 旧き太陽神が火の精霊の背中を勢いよく叩く。 白き精霊が水の精霊の肩を柔らかく押す。 火の精霊がたたらを踏んで水の精霊の前に立つ。水の精霊が両手を握り締め火の精霊を見詰める。 「さあ、互いの気持ちを話すんだ」 イルファーンの声に、水の精霊の青の双眸に決意が灯る。 「あにさま、……私は皆の役に立ちたい」 「己が身を閉ざされ搾取され続けてもか」 兄は妹に手を伸ばす。兄の熱い手に捕えられ、妹は冷え切った手を強張らせる。 「人の祈りに殺められるぞ」 炎のような怒声をあげる兄の身を炎が包む。手を振り解こうともがく妹と、その両手を掴もうとする兄との間に、イルファーンはその身を割り込ませる。 「その炎で僕の身を灼けばいい」 身を挺して水の精霊を護ろうとする鳩の血色の瞳に射抜かれ、火の精霊は身に纏わせた炎を解く。頭を掻き毟り、すまん、と小さく詫びる。 イルファーンは優しく微笑む。再び兄妹を相対させる。 「半身たる彼女を救いたいと願う君の気持ちは痛い程わかる。だがそれは閉ざされてなお人の求めに殉じたいと望む、崇高なる彼女の意志を踏み躙る事だ」 白き精霊は月色の髪の下、血の色が透けるほどに白い瞼を伏せ、 「それが見殺しと同義でも……」 もう一度火の精霊を真直ぐに見る。 「彼女の幸せは彼女自身が決める事」 白き精霊の後を、旧き太陽神が継ぐ。 「が、実はあんたも街にはいるんだよな」 ホタルは凍った月の光に沈む街を指し示す。 「でないと、凍えちまう」 街へと視線移した火の精霊の瞳が複雑そうに惑う。 「あんたを怒らせるとどうなるかっていうのは、今回ので街の人にも身に沁みたはずさ」 ちっとは変わると思うけれどね、とホタルは明るく笑う。 「なんか、街の人は人で、依存しすぎてる気がするし」 あんたも、と拳交わした火の精霊を見る。 「本当は街の人が好きなんだろ?」 あっけらかんと言われ、火の精霊は言葉に詰まる。少し困った顔で、けれど水の精霊の手を今度は優しくしっかりと握り締める。 「街の人々には僕が理を説こう」 イルファーンが謡うように水の精霊に笑いかける。水の精霊は安堵の息を吐き出し、火の精霊の手を両手で包む。 二柱の精霊は顔を見合わせ、笑み交わす。 月の瞳、と呼ばれる街がある。 死の黄金砂漠の只中にあって唯一、清らかな水と緑を湛え、温かな火に護られた美しい街は、けれど一度、大火に焼かれた。 火が鎮まり、街の水路に穏かな水が戻り、焼け落ちた家々が住人達の手によって再建された頃、ひとつの唄が人々に広がる。 それは、火の精霊と水の精霊の物語。 精霊に頼り尽し、精霊の力を、精霊の命を使い尽くそうとした人の愚かさを諌める物語。 忘れることなかれ、と唄は言う。 過ちを二度と繰り返すことなかれ、と唄に言う。 その唄には、街を人を、精霊を救うたとして二柱の神が謳われている。 街の深奥に幽閉された水の精霊を解き放ちし蒼き月の神。 街を劫火に焼かんとした火の精霊の憤怒鎮めし紅き陽の女神。 その姿をその業を、多くの人々が眼にし耳にしたはずの街の救い主を、けれど覚えている者は人の内には一人としていない。 ただ、人々の間に伝わる唄でのみ物語られる、不思議の旅人。 唄に於いて旅人は言う。 過ち繰り返されんとする時には再びこの地を訪れんと。 忘れることなかれ、と人々は歌う。 過ちを二度と繰り返すことなかれ、と人々は誓う。 終
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