ターミナルの一画に、『ジ・グローブ』という小さな看板のかかった店がある。 気まぐれに開いたり閉まったりしていて営業時間は判然としない。いつ行っても店には誰もおらず、ただ机の上に白黒のまだらの猫が眠っているだけだ。 猫を起こさぬように呼び鈴を鳴らせば、ようやく奥から店の女主人が姿を見せるだろう。 彼女がリリイ・ハムレット――「仕立屋リリイ」と呼ばれる女だ。 彼女はターミナルの住人の注文を受けて望みの服を仕立てる。驚異的な仕事の速さで、あっという間につくってしまうし、デザインを彼女に任せても必ず趣味のいい、着るものにふさわしいものを仕上げてくれる。ターミナルに暮らす人々にとって、なつかしい故郷の世界を思わせる服や、世界図書館の依頼で赴く異世界に溶け込むための服をつくってくれるリリイの店は、今やなくてはならないものになっていた。 そして、その日も、リリイの店に新たな客が訪れる。 * * サシャ・エルガシャの申し出は、リリイにとっては意外なものだった。「リリイ様にはご迷惑かもしれないけど……、でも、ずっと憧れていたんです。リリイ様と実際にお話して、そのお人柄や仕事への姿勢に感銘を受けて……、ますます意志が固まりました」 サシャは言う。『ジ・グローブ』で働きたいのだと。 ずっとずっと、思い詰めていたのだろう。その瞳は真摯で、いじらしい。 しかしリリイは、困惑気味に、だが、毅然と、その首を横に振る。「私は、ずっとひとりでこの店を切り盛りしてきたの。誰かを雇うなんて、考えたこともないのよ」「お針子でも小間使いでも何でもいいんです」「お気持ちは嬉しいのだけれど」「その、ワタシのお話を聞いてくれませんか……? ワタシもリリイ様のことや、このお店ができるまでの経緯、もっと知りたいんです。――このお店も、リリイ様も、大好きだから」「誤解しないでね。貴女の熱意の問題ではないの。貴女は少しも悪くない。……問題は、私がただ『仕立屋』であるということなのよ」=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>サシャ・エルガシャ(chsz4170)リリイ・ハムレット(cphx9812)=========
貴女のお気持ちと熱意は、とてもうれしいわ。 戦禍のおり、手を差し伸べてくださったこと、私が心配だと言ってくれたこと、今でも感謝しています。 けれども私は、誰も雇うつもりはないの。 不便なことはあっても。何かあったとき、心細い思いをするとしても。それでも。 ご希望に添えなくて、ごめんなさい。 リリイの声音はやわらかだが、つよい矜持が感じ取れる。わずかなりとも譲歩の余地はなさそうだった。 断言されて、サシャはうつむく。黒いアーモンドのひとみに、抑制しようとしながらもしきれない、失意のいろを浮かべて。 少女というには大人びて、女性というには可憐であどけない。さらりとした金髪と褐色の肌の組み合わせは、彼女の過ごした時代背景を考えれば、複雑な生い立ちによるものといえよう。 だが、混血によってしか生まれない美というものは、たしかにある。どんな数奇な運命を歩もうと、サシャは両親から、その美点のみを受け継いできたのだ。 「……そう、ですか」 そして。 所作の品の良さは後天的なものだろう。教育と、本人の努力により、身につけたもの――。 「せっかくいらしてくださったのだから、少しお話しましょうか」 ふっ、と、この仕立屋にしては珍しいほどの親しげな笑みを浮かべ、リリイは立ち上がる。 「今、お茶を淹れるわね」 「ワタシが」 「いいえ。お客様なのだから、座っていらして」 いったん後方に引いたリリイは、トレイのうえに、ガラスのティーポットと、愛らしい小ぶりのティーカップをのせて戻って来た。ティーポットの中では、小さな薔薇のつぼみがゆっくりと開き、花びらがゆらゆら踊っている。 薔薇茶だった。 「貴女ほど、上手には淹れられないかもしれないけれど」 そう言いながら注がれた薔薇茶は、ゆたかに甘く、気品のあるフレーバーを有している。 「いい香り」 「赤の城のメイドさんたちが、薔薇園で摘んだ花から手作りしたのですって。カリスさまからいただいたの」 「美味しいです……」 サシャは静かに息をついた。その口元をリリイは見つめる。 「なぜ――と、聞いてもいいかしら?」 なぜ、サシャ・エルガシャは、『ジ・グローブ』に勤めようと思ったのか。 なぜ、リリイ・ハムレットを選択したのか。 ターミナルにはさまざまな世界のひとびとが集う。被服専門の店舗はたくさんあるし、人手を求めているものもいる。サシャのような人材ならば引く手あまただろう。 リリイよりもずっと面倒見の良い美しい女性技術者も、細やかに相談に乗ってくれる職人肌の店主も、いくらでもいるものを。 「ずっと憧れてたんです。貴女のような大人の女性になるのが、夢だった」 ずっと――考えてたんです。 リリイ様の言葉の意味。 「私の、言葉?」 「似合う服と、着たい服は違うって」 サシャは改めて自分の服を見る。ホワイトプリム。濃紺のエプロンドレス。伝統的なメイド服である。 これはお屋敷から支給されたお仕着せというわけではなかった。サシャの生きた時代、メイドの「制服」は自分のお給金で用意する必要があった。既製服などなかったから、布地を買い求め、サシャも依頼した。当時の「仕立屋」に。 「メイドは天職だと思います。ワタシに一番似合うのは、きっとこの服」 「そうね。そう思うわ」 「でも、最近思うんです。二百年、ワタシの時は動かなかった。根無し草のロストナンバーのまま、皆、死んで……、取り残された」 独りぼっちで寂しかった。 でも友達や愛する人ができて、わかったの。 ターミナルが好き。 ここを第二の故郷……、ホームにしたい。 透徹した表情で、淡々と、サシャは言う。 彼女はおそらく、 そう、おそらく、 選びつつある。 0世界への帰属を。 すなわち、ロストメモリーとなることを。 ……いや。 すでに選んでいるのかも知れない。 そしてとうに、覚悟も気持ちの整理もついているのかもしれない。 なぜならばサシャは、出身世界でのすべての記憶を失うことを受け入れたうえで、今後の人生を見据えているからだ。 そんなサシャを気遣うようにリリイは言った。 「0世界だけは、自然に『帰属の兆候』があらわれることはないわ。だからこそ、帰属は本人の意志と覚悟次第。不定期の募集に応募して認められたうえで、チャイ=ブレのもとに赴いての儀式に臨まなくてはならないのよ。そのとき少しでも迷いがあれば、そのままチャイ=ブレの餌食となってしまうこともあるわ」 「正直、とても怖い。旦那様を忘れちゃうのは嫌。でも旦那様なら、自分の意志と情熱で未来を切り拓けって言うと思うの」 記憶から消えても、心と体は覚えてる。 今のワタシが在るのは、出会った人達のおかげだから。 「リリイ様」 サシャはリリイに向き直る。 「ワタシ、仕立屋になりたい。貴女のように、服を仕立てたい」 きっぱりと、言う。 「突然覚醒して、右も左もわからなくて、誰も頼れるひとがいなくって心細い……、そんな女の子が元気が出るような服を仕立てたいんです」 「サシャさん」 「そう思わせてくれたのは、貴女なんです」 「よくわかったわ、サシャさん」 リリイは大きく頷いた。 「それならばなおのこと、貴女はここで働くべきではないし、私を見習おうなんて思ってもいけない。なぜならその覚悟は、自立した女性のものであって、誰かに属し補助する立場とは違うから」 ――その言葉が出た時点で、貴女はもう、独立した仕立屋なのよ。 「なぜ、と、ワタシもお聞きしていいですか? リリイ様はどうして、仕立屋になられたの?」 「これしか、できなかったからよ」 リリイは、自分のティーカップをそっと置いた。湯気がふわりと流れる。 「『覚悟』とか『自立』なんてことを言ったばかりで、恥ずかしいのだけど」 以前の世界でも仕立屋だったのかどうか、そもそも仕立屋という職業が成立する世界だったのかどうか、それすらわからない。 だが、リリイは「出来た」のだ。対象の身体の寸法を目測だけで正確に計り、あらゆる素材を駆使し、あらゆる被服をデザインし、驚異的な早さで縫製することが。 言い換えれば、それしかできない。リリイの持つスキルはそれだけだった。異様なほど専門的に特化し過ぎていることを考えるに、もしかしたら、あまり綺麗ではない裏の仕事に従事していて、それが被服縫製技術を必要とするものだった、ということなのかもしれない。 「貴女の言うとおり『記憶から消えても、心と体は覚えてる』ものなのね」 リリイは覚醒したとき、インヤンガイにいたという。服をずたずたに切り裂かれ、白黒まだらの猫を抱きしめていた。その猫もまた、彼女とともにロストナンバーになっていた。 リリイの保護におもむいたのが、前館長エドモンド・エルトダウンであったらしい。 「あの、前館長とは、それがきっかけで出逢って、そのあと、その」 「愛人であり、情人でもあったわね」 あっさりと言われて、サシャは顔を真っ赤にした。 「『恋人』じゃないんですか? それに前館長は独身だし、結婚に障害があったわけじゃ」 「私は、愛人や情人にはなれるけれど、『恋人』にはなれないし、まして伴侶を持つつもりもなかったから。誰かに属するつもりはないし、誰かに属させるつもりもないの」 「でも、それって、淋しくないですか……?」 「愛するひとがいる貴女からは、そう見えるかもしれないけれど。こういう言い方で伝わるかどうかも、わからないけれど」 気負いもなければ、意地を張っているわけでもなくて、価値観が違うだけなの。 私は、こんなふうにしか、生きられないのよ。 古ぼけたスケッチブックを、リリイは広げる。 二百年前の、デザイン画だった。 「……これ、カリス様の」 大輪の薔薇のような華やぎのある衣装が、いくつも描かれている。 はっと目を奪う、鮮やかな赤のドレス。女王然とした彼女に、これほど似合う服もなかろうと思わせるデザインの数々。 「私がターミナルに来た当初、カリス様は似合わない服ばかり着てらしたの。いつも、黒か紺かグレーの質素なドレスばかり」 「カリス様が……? 信じられない」 「ええ。赤の城の女主人でありながら、あれほど美しいかたでありながら、そうだったの。きっちり結い上げた髪にも、花ひとつ、宝石ひとつ、飾るでもなかった」 ――まるで修道女のようですね。どなたかの喪に服されていらっしゃる? あるいは、喪った恋の? ――だったら、どうだというの? ――申し訳ありません。そのドレス、あまりにも似合ってらっしゃらないので。貴女は本来、もっと華やかで活動的な女性なのでは? 赤を、お召しになってみませんか。 デザイナーのイメージを具現化し、世間に周知するイメージモデルのことをミューズ(女神)と呼ぶ。 それ以降、レディ・カリスは、仕立屋リリイのミューズとなった。 「ミューズ……」 「すぐに貴女にも現れるわ。貴女のデザインを体現するにふさわしいミューズが」 「はい……!」 サシャのひとみに、きらきらした輝きが戻る。 「故郷に帰る親友に贈りたい服があるんです」 「そう。それはとても素敵ね」 「あの、ここで働くのが無理なのは、よくわかりました。でも――勉強に来ても、いいですか? リリイ様の仕事ぶりをおそばで見学して、技術を磨きたいです」 「ダメよ」 「ええっ!?」 目を見開くサシャに、リリイはくすくす笑う。 「貴女が仕立屋になるのなら、私のライバルでしょう?」 「ライバル?」 「そうよ。カリスさまやアリッサ館長はおろか、ターミナルでご贔屓にしてくださってる皆さんを根こそぎ奪われるかもしれないというのに。そこまでお人好しではないのよ」 「えー、リリイ様、ひどーい」 サシャはむうと唇をとがらせたが、すぐに茶目っ気たっぷりの表情になる。 「わかった、こうしましょう。しょっちゅう敵情視察に来ますので、受けて立ってください」 「敵情視察ね。……いいわ、そういうことなら」 「ワタシが好きになったのは今の、そのお洋服のリリイ様です」 サシャは指先を、ぴしっとリリイに向ける。 「ワタシはターミナルの仕立屋リリイしか知りません。けど、今のリリイ様が在るのだって、過去の……、出会いと別れの集大成ですよね?」 大きく息を吸う。そして吐き出す。 「いつか貴女に追いつきたい。リリイ・ハムレットの友達になりたい。それが今のワタシの夢――いえ、ささやかに大それた目標です」 「目標だなんて。私たち、もうお友達でしょうに」 「ええっ?」 「ライバルというのは、最高の友人になりうる存在でもあるわ」 しばらく笑い続けたリリイは、再度、席を立った。 しばらく待たされたサシャの前に、やがて――、 たった今、仕立てられた、一着の服が広げられる。 「これを、貴女に」 「リリイ様……!」 「私が今着ているような服は、貴女には似合わない。だから、貴女に似合う『仕立屋』の衣装を、私からのはなむけとして贈るわ」 世界は流転し変容していて、サシャの生きたヴィクトリア時代は、すでにセピアいろの霧のなかだ。現代の壱番世界出身の旅人が求める服は、多岐に渡る。 「大丈夫よ、貴女なら。貴女が『動く』のならば、時代になんて簡単に追いつける」 慎ましく清楚で、若く溌剌とした、プロ意識を持つドレスメイカー。 ターミナルに、新しい仕立屋が誕生したのだった。 ――Fin.
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