ヒトの帝国にて、皇帝の寵姫シルフィーラと接触した、ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノと相沢優の報告は、あるひとつの結論を導いた。 トリの王国の女王オディールは、ヴァイエン侯爵が《迷鳥》にこころ奪われたことを嘆くあまり、《迷鳥》を憎み、糾弾していた。しかし、無意識のうちに、《迷鳥》という神秘的な存在に憧憬も生まれていたのだ。 もしも―― もしも、わらわが《迷鳥》であったなら。 ヴァイエン候に保護された双子の片割れが、シルフィーラではなく、わらわであったなら。 ずっとあのかたのそばに、いられたかも知れぬものを。 それは女王として抱いてはならぬ禁忌ゆえ、オディール自身さえも気づかぬままに抑圧してきた感情だった。 だが、世界計の欠片が、その封印を解いてしまった。女王の想いは、歪み、ねじれて、《迷卵》を呼び覚ます。 そして、春のヴァイエン侯爵領に、眠ったままであった《迷卵》が、次々に孵化することとなったのだ。 ……今もまた。 緊迫した表情の無名の司書が、ロック・ラカンを呼び止める。「ロックさん。オディール女王が行方不明です」「何だと」「単身、ヒトの帝国に行ったものと思われますが、その足取りは掴めません。ただ……」「ただ、何だ?」「ヒトの帝国内に《迷宮》がいくつも発生しています。もしかしたら」「その原因が、オディール陛下かも知れぬと? よもや、女王が《迷鳥》に変貌したとは言うまいな?」「それはまだ、何とも言えません。今のところ、『導きの書』は、どの《迷宮》の中にも女王はいない可能性を示唆していますので」「だが、現地へ行けば、何らかの手がかりは掴めるでしょうね」 ラファエル・フロイトが進み出る。ロックはじろりと、彼を睨んだ。「候は無関係であろう。それがしが行こう。女王陛下を守護するのが、それがしのつとめ」「いや、私も行かなければ」「おれも行くよ」 シオン・ユングが走りよってくる。「全員、お願いいたします。むしろ、あなたがただけでは人手が足りませんので、他にも――」 司書は冷静に、図書館ホールを見回した。 * * ヴェルダ河沿いには、この地固有の、色彩変化を行う向日葵が群生しており、河畔を鮮やかに彩っている。 朝は白、昼はオレンジから赤へ、夕方には淡い黄色に、夜がふければ青みを帯び、深夜には群青となり、夜明けが近づくにつれ、水色から白へと変わっていく。 メディオラーヌムの夏を象徴するような、みごとな景観のなかに、ぽっかりと――悪夢の入口は開いていた。 その迷宮は、《造反》と《決別》の苦しみを与えるという。 たとえば、守護せねばならぬ相手、命を賭しても守り抜くべき愛しいもの、絶対の忠誠を誓った主君、そういった至高の存在が、おおいなる敵となり、自分に殺意を向けてくる。 倒さなければ、その幻影に呑み込まれる。「造作もない」 ロックはきっぱりと言った。「それがしの前に現れるのは、おそらくは女王陛下の幻影であろう。そうとわかっている限り、おそれながら、成敗申し上げる。それが忠誠というものぞ」 一歩進むごとに、しゃり、と、氷が砕ける音がする。鋭い冷気が肌を刺す。 迷宮の壁や通路は、すべて、色とりどりの向日葵、それも、凍りついた向日葵で構成されているのだ。 シオンは無言だった。顔は青ざめていて、足取りは重い。「……シオン? 大丈夫か?」 ロストナンバーのひとりが、声をかける。「大丈夫……、じゃないかも」 弱々しいいらえに、ラファエルがその肩に手を置く。「ここで待っていなさい。これ以上、先に進んではいけない」「足手まといの同行者などいらぬ」 振り向きもせず、ロックは先頭に立って進んでいたが―― 突然、息を呑んで立ち止まり、膝を折った。「……なんということだ」「どうした、ロック。……何が見える?」「候には預かりしらぬこと」「……案外、そうではないかも知れないよ。何が見える?」「言えぬ」「ロック?」「これ以上は進めぬ。それがしも足手まといゆえ、シラサギとともに、ここで待とうぞ」 ロックのおもても蒼白になっている。この武人が、これほど動揺するということは……。 迷宮の主は、向日葵いろの羽根を持つ、小さなセキセイインコであるらしい。 紅い瞳に黄色の翼のその小鳥は、幻影を見せる以外、さしたる力があるわけではない。 素手で簡単にひねりつぶせる程度の、か弱い鳥だ。(どうしたものか) ラファエルは、同行者たちを振り返る。!お願い!オリジナルワールドシナリオ群『夏の迷宮』は、同じ時系列の出来事となります。同一のキャラクターでの、複数のシナリオへのエントリーはご遠慮下さい。抽選後のご参加については、重複しなければ問題ありません
ACT.0■片恋 海竜王の娘クリュティエは、太陽神アポロンに恋い焦がれていた。 だが、アポロンは彼女に興味を示さなかった。 クリュティエは絶望に嘆き悲しみ、ただ、立ち尽くす。 日輪車を駆って空をめぐる太陽神を、目で追うばかり。 やがて、彼女の足は地面に根づく。美しい顔は花そのものになる。 そして、太陽に向かって首を巡らし続ける。 向日葵の花言葉:私はあなただけを見つめる―― ACT.1■幻影 膚にしみ込むような、冷たい静けさに支配された迷宮だった。 七色に変化するメディオラーヌムの向日葵は、夏の花であるはずなのに。 しゃり、ぱりん。 歩を進める理星の足元で、階層をなす氷の向日葵が砕けていく。 薄手のクリスタルがあっけなく割れるように、儚い音を立てながら。 (幻って判っているのに、二人はどうしてあんなにショックを受けたんだろう) 彼らは何を見たのだろう。何がロックを蒼白にさせたのか。何がシオンを怯えさせ、足を竦ませたというのか。 立ち止まり、振り返る。周囲に目を凝らしても、まだ自分には何も見えない。 その幻影は、そんなにも本物に近しいのか。 そんなにも、魂に食い込んでくるというのか。 ――考えることは、得意ではない。 それでも、少しずつ思案を重ねながら前に進む。一歩ずつ、着実に。 迷鳥が苦しんでいるのなら助けたい、とも思う。 たとえそれが、命を救うことではないにしても。 理星の純白の翼に、氷の粒が絡みつく。 冷ややかな愛撫にも似た冷気が、喉を締めつける。 誰だろう。 もし、自分の前に幻影が現れるとしたら。 ……いや。 それは、わかっている。 あのひとだ。自分を掬い上げてくれた『あの人』。 もし彼が、自分に殺意を持って向かってきたとしたら。 果たして、刀を向けられるだろうか。 例え幻と判っていても、魂に食い込む、そのすがたに。 * * サシャ・エルガシャは、向日葵の花びらを拾い上げる。 ちくり、と、冷たさが指を刺すのも構わずに。 手のひらのうえで、花びらはすうと溶ける。ころがる水滴となった花びらは、サシャの手からこぼれ落ち、迷宮の一部へと戻って行く。 (きっとこれが、最後の冒険旅行) 息を吸い込む。 凍りついた迷宮の空気は、しずかな覚悟に似た痛みを、サシャの胸深くに与えた。 サシャは、もう、決めている。 ロストメモリーとなり、0世界に永住することを。 マルチェロ・キルシュの妻として、ずっと一緒に暮らすことを。 その決断に、悔いのあろうはずもない。 ――そして。 (今のワタシの一番はロキ様――旦那様――どっち?) それは迷いではなく、逡巡ですらないけれど。 それがゆるぎない選択であったことを、確かめるだけになるけれど。 * * 吉備サクラに、幻は見えない。見えないものに翻弄されようはずもない。 よしんば見えたとしても、幻覚を引き裂く武器の幻覚を被せて、相殺するだけだ。 「シオン君……!」 だからサクラは駆け戻る。 しゃがみこんだまま微動だにしない肩に、手を置く。 「シオン君、ここにひとりで居るのは危ないの。だから一緒に行こう?」 そして、提案をする。 「鳥のすがたに、なってくれる?」 「……?」 「大丈夫、私が抱いていくから。目を瞑ったままでいいから、私が抱けるように鳥になってくれる?」 「……うん」 シオンは素直に頷き、シラサギに変化した。 「でも、サクラ……。駄目なんだ」 「何が?」 「目を閉じても見えるんだ。あのひとがおれを、おれと姉貴を、殺そうとしてる……!」 「大丈夫、ひとりじゃないよ、一緒に居るよ」 震えるシラサギを、サクラは強く抱きしめた。 ACT.2■忠誠 「今から酷いことを言います」 サクラはきっぱりとそう宣言し、ロックに向き直る。 「ロックさんに見えているのは先の国王ですか」 「……違う」 強ばった声で、ロックは否定する。 「では、誰なんですか?」 「言えぬ」 「サクラさま。国王の幻が見えているのは、私のほうです」 感情のこもらぬ声でいうラファエルに、サクラは、え、と、驚きの声を上げる。 ラファエルには、自分と同様に、幻覚が見えていないと思っていたのだ。 「私にとっては想定内でした。ですから、動揺はしていないというだけのことです。だからといって、《造反》と《決別》の苦しみが軽減するというものでもありませんけれども」 サクラは頷き、言う。 「私は、ここにいるのが女王だと思っています」 「あり得ぬ。司書の予言を聞いたであろう?」 「あり得ません。この迷宮の主は孔雀ではない。おそらくオディールさまは霊峰ブロッケンへ……」 ロックとラファエルは声を揃える。 だが、サクラは首を横に振る。 「ここにいるのが女王なら、ラファエルさんが女王の夫になるのも解決策のひとつです」 「……。それは、また、ずいぶんと」 ラファエルは、大きくため息をつく。 「酷いことを仰る。あの誇り高いかたに、形だけの夫をあてがうことが解決策とは」 「……!」 サクラはシオンを抱きしめたまま、ラファエルを毅然と見据える。 「では、貴方はシオン君と女王、絶対にどちらかひとりしか助けられないならどちらを選びます? できれば私はシオン君であって欲しいけれど」 「今の状況で、その二者択一にはまったく意味がありません」 サクラがはっとするほどの厳しい声音で、ラファエルは言った。 ロックもまた、強い口調で言い添える。 「ヒトの娘御よ。おぬしは今、オディール陛下と侯爵をともに貶めていることに気づかぬか?」 「いいえロックさん、私は、ここにいるのが女王なら、という前提で言っています」 なおも、サクラは続けた。 「貴方は女王の夫にはなれないかもしれないけれど、女王を全てから守る第一の騎士、女王の盾になれる人です。貴方だけが女王の心を護れます。今その絆が試されています。ここで女王を諦めますか? それなら私は絶望したままの女王を殺します」 「それがしに、どうせよと言うのだ」 「貴方の嫌いなヴァイエン候の手に縋ってでも、貴方は進むべきだと思います」 「サクラさまの最後の言葉にだけは、同意しましょう」 ロック・ラカン、と、ラファエルは呼びかける。 「きみが今見ている幻影は、人狼公リオードルなのではないか?」 ロックは無言で、ぎり、と口元を噛み締めた。 やはりそうか、と、ラファエルは痛ましげに目を伏せる。 「きみのオディール陛下への忠誠を私は良く知っている。二君にまみえずという、というその気性も。転移後、リオードル公に仕えることになったのは、あくまでも恩義ある公への感謝に基づいてのことで、決して主君を変えたつもりではないことも」 「……候よ。それ以上は」 「だが、きみは自分でも気づかぬうちに、公を第一の主君とさだめていたのだ」 ロックは大きく息を吸う。 「それがしは、自分を許せぬ」 「肩を貸そう」 手を差し伸べ、ラファエルはロックを立ち上がらせる。 「自分を責めることなどは、いつでもできるのだから」 * * 突如、向日葵の壁が揺れてきしんだ。 ゆらりと現れ、道を塞いた幻影に、しかし理星は驚かない。 ――ああ、やはり。 やはり、あんただったか。 (俺は、あなたを憎む。あなたを否定する) (あなたになど、会いたくはなかった) 一切の情の籠らぬ声と、全身で理星を拒む、その佇まい。 それすらも慕わしく愛おしいと、理星は微笑む。 「憎しみや怒りは別に怖くねぇ。俺にとってそれは当然のことでもあったから」 ……だから。 「あんたに憎まれても怒られても、俺はごめんなさいありがとうって言うしかねぇし、否定も拒絶もする気はねーんだ」 (あなたを殺す) 幻の『あの人』が、理星の首に手を伸ばす。 なおも理星は微笑む。泣きそうになりながら。 「ありがとう、それでも俺は、あんたのことがだいすきだ」 首を締めようとするその手を握りしめ――捻り上げる。 「向日葵の花言葉を、あんたはいくつ、しってる?」 苦悶に満ちた表情の幻影に、やさしく話しかける。 俺だってそんなに、詳しいわけじゃないけど、と。 「熱愛、愛慕、敬慕、情熱、あなたを見つめる」 幻影は、何も答えない。 「か弱い迷鳥が苦しい幻で身を守るのは、自分が倒されることを望んでいるからだろうか? 迷鳥にも、もしかしたら、それだけ愛した誰かがいたのかな? ……いや、まだ雛鳥だっけ」 ならば、それだけ誰かを、愛したかったのか。 幻影の脇腹に、拳を打ち込む。とうてい、刀は向けられない。 「ありがとう、それでも俺は、本当のあんたのことがだいすきだ」 * * (何という恩知らずだ) (何という不幸娘だ) (私を忘れるのか) (何もかも捨てるというのか。幸せだった思い出を、すべて) 「……旦那様。ごめんなさい。……ごめんなさい」 行く手を阻む幻に、サシャはすでに泣いていた。 責め立てられるのは辛くない。 だが、『旦那様』の寂しそうな瞳と諦めきった表情が、胸を苛む。 「旦那様はずっとワタシの一番でした。一番大事な大好きな、世界で一人だけの旦那様でした」 でも……。ごめんなさい。 ワタシはもう旦那様だけのサシャじゃないの。 ロキ様と出会ってしまったから。 ぬぐってもぬぐっても涙がこぼれる。 幻に立ち向かいたくとも、しかしサシャのギアは、お茶を淹れることしかできない。 楽しかったお茶の時間を思い出し、首を横に振り、幻に平手打ちをした。 「……う」 ぐしゃぐしゃに泣きながら、ぶって、叩いて、殴って―― 「いやだよ、いやだよ、こんなの」 これは旦那様じゃない。 わかっていても、手と心が痛い。 ――サシャ。 どこからか、声がした。 旦那様に似ているけれども、少し違う――それは。 ――私が、きみを祝福する。いつまでも、きみの幸せを祈っている。結婚、おめでとう。 「お父様。お父様……!」 顔も知らぬ父の声を、たしかにサシャは聞いた。 自分を護るように抱きしめてくれた、あたたかな胸の中で。 ACT.3■決断 「ラファエル様……!? えっとあの、すみません!」 父の腕の中だと思いきや、サシャを庇ってくれたのはラファエルだった。 うろたえて、ぱっと離れる。 「ワタシてっきりお父様だと……。いえ、もっとすみません!」 「こちらこそ。ご婚礼前のお嬢さんに大変失礼いたしました――大丈夫ですか?」 「はい」 涙のあとをぬぐい、サシャは顔を上げる。 「……奥へ進みましょう。ワタシが迷鳥を殺します」 * * 「サクラ。ありがとう。もういいよ、降ろしてくれ」 「でも、シオンくん。……まだ」 シラサギは小刻みに震え続けている。ヴァイエン候が保護し、愛して育てたはずの迷鳥の双子を、無惨に切り捨てる幻に苛まれているのだ。 「いいんだ。ここから先は、自分で行かなきゃならない」 サクラは、そっとシラサギを床に置いた。 シラサギは羽ばたきながら、叫ぶ。 「どこだ、侯爵。おれの養親はどこにいる。ラファエル・フォン・フロイト=ヴァイエン!」 「私はここにいる。おいで、シオン」 ラファエルが伸ばした腕に、シラサギはばさりと留る。 「――いい子だ」 * * 迷宮の再奥、巨大な氷の向日葵がぽつん、と、咲いている。 そのうえに、向日葵いろのセキセイインコはいた。 小さな翼をだらりと広げ、紅い瞳をうつろに見開いて。 「あの幻を見せたのは、アナタ?」 サシャが問うても、小鳥は黙ったままだ。 ただ、わずかな思念が、伝わってくる。 (たのしそうに向日葵を摘む、親子がいたの) (そしたら、そしたら、悔しくてねたましくて、どうしていいか、わからなくなって) (誰もいない。誰もいない。どうしてわたしは、ひとりぼっちなの?) (どうして誰も、そばにいてくれないの?) (みんなみんな、死んでしまえばいい) (裏切って裏切られて、殺し合えばいい) (こんな世界、滅びてしまえばいい) (せめて誰かが、わたしを殺してくれればいい) 「それであんたが楽になるんなら、俺が」 「ううん」 進みでた理星を、サシャはそっと制した。 「貴方たちには希望があるわ。幻じゃない本物の主君や愛するひとと、もう一度、出会うことができる。そして、貴方達の忠誠は命ある生身の相手に捧げたものだけど、ワタシの忠誠は過去の記憶に捧げたものなの」 でも、ワタシの旦那様はもういない。 だからこれは、ワタシがやらなきゃいけないこと。 ロストメモリーになると決めた、これがけじめなの―― サシャは、小さな小鳥を、両手に握りしめた。 ぐっと、力を込める。 ――瞬間。 セキセイインコは、七色の花びらに変わった。 サシャの手の中から、はらはらと散っていく。 ありがとう。 謝意の念とともに、迷宮は消えた。 メディオラーヌムの夏は、もうすぐ終わる。 ――Fin.
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