その店の名前はトゥレーン。 樫の木のドアを押しあけて、中にはいると、静かな店内には椅子が二つ。真ん中のテーブルには紅茶と鉢植えが。 そして、自分の席の前にある椅子に腰掛けているのはチェロを抱えた目隠しの男がにこやかに出迎える。「いらっしゃい、お客様、それで、あなたはどんな花を咲かせますか?」 ここでは、チェロ弾きの主人があなたの話を聞きながらそれに合わせて一曲チェロを弾いてくれる。 きっかり三分間だけの曲を。 そして話終えると、二人の真ん中に置いた小さな植木鉢からひとつ、花が咲く。 どんな花かは、あなたの話し次第。 悲しい話は暗い色を、優しい話しは淡い色を、怒りの話は激しい色を、 ただし花にする話を語れるのは主人が弾くチェロの演奏時間だけ。 トゥレーンはきっかり三分間だけの曲。 その思い出の奥底にある感情を封じた花が出来あがる。 その花を受け取るのも、店主に預けてしまうのも、または破棄してしまうのも、あなた次第。 決して長くはない時間に語れることはほんのわずかなこと。 トゥレーンが始まる。――きっかり三分間。 さぁ、花にしたい記憶の断片を音楽に乗せて口にしよう。
水のように透ける青い手が、木のドアを押し開ける。 店の入り口は人間を基本として作っているためか、サイネリアがくぐるにはやや狭く感じられ、身体をひねって入らねばならなかった。 紅茶の用意をしていたマスターは首だけ動かしてその様子を見ると申し訳なさそうに目を伏せた。 「これは、サイネリアさま……! これは、申し訳ありません」 「いや、気にせずともよい」 サイネリアはゆっくりと落ち着いた声で言い返すと、緑溢れる室内に目を向けた。 「うむ……よい店だ、音も色も煩わしくない。しかし、この姿では落ち着いて椅子に腰かけることもできぬな……しばし、待ってほしい」 ちらりと見ると、大きなソファはふわふわのクッションが用意され、サイネリアでも腰を落ち着けようという気遣いがみえる。だが、あえてサイネリアは竜から人の姿へと変わった。 蒼の髪、色白の肌、紫のくるくるとよくまわる瞳を持つ二十代の娘の姿。服装はあえて肩が露出しているが品の良い空色のドレスを身に着け、女王のように優雅にソファに腰を降ろすと、肘置きに手を乗せて微笑んだ。 「これならよいだろう」 「お気遣い、ありがとうございます」 サイネリアは手をひらひらと蝶のように振ってみせると、マスターはさっそく椅子に腰かけて、チェロを持つ。 「では、早速、はじめさせていただきます」 「ああ……話、そうだな。こういう静かな場なら話してもみるのも良いかもしれない」 サイネリアはソファの横に置かれている白い陶器を満たす赤茶色の紅茶に口をつけると、目を細めた。 過去を、思いだすように。 「死んだ兄の話をしよう。我々の世界ではドラゴンが人間に変ずることが出来る。先ほどのようにな。……だが種として人間が居ない訳ではない。少数だが各地に暮らしているのを確認した……我は不用意に交流は持たなかったが」 なぜ、交流を持たなかったのか。静かに響く音は森の奥にある泉に石を投げたわうな波紋を心に生んで問いかける。 その問いはとても簡単なものだ。 興味がなかった。 その日の雨が降ることを、太陽の日差しを、風の歌声を聴くことのほうが楽しかった。なによりも地上に生きる彼らは自分たちと違う。それに関わる理由がない。 食べることと、眠ること、あとは仲間について。それ以外に知性ある本能が心惹かれることなどサイネリアにはなかった。 強い風が吹くように、チェロは鳴く。ひぅああああん。それは恋い焦がれる竜の声に似ている。 それは純粋な、天から降る雨粒が大地を打ちつけたときのような透明な喜びの陽気さで、好き、と告げる。 「兄は人間という種が好きでたまらないようだった……竜が人になれるのにも、浅からぬ縁があるのではと、よく語っていた」 サイネリアは懐かしむように目を細めた。 兄の無邪気な興味は、サイネリアには理解はできない類のものだった。何が楽しいのか、自分たちと違う種に対して心を砕いて。 また愚かなことを……その程度の気持ちだった。 人間というものを邪険にはしなかったが、ことさらかかわろうとは思わなかった。だから兄の気まぐれを咎めないかわりに、共に人間たちを見に行くことはあった。 交わされる言葉はないが、もっと明白なものが差し出された。 羨望の眼差し、迎えの拍手、足踏みでの喜び、謳われる信頼……静寂の泉に石が投げられる。ぽちゃん。いくつも、いくつも、ぽちゃん、ぽちゃん、ぽちゃん。波紋が生まれ、青い泉を歪める。 小さな音が世界を震わせる。 決して穢れることのない空の青に白い雲が漂うように。 水を溜めて生まれる透明の蒼に輝く魚たちが集まるように。 太陽が暮れゆく一瞬の黄昏のなかに、輝く星があらわれるように。 それは小さな音。なんの力もない、ただ風が過ぎるようなもの。けれどそれはサイネリア本人も気が付かないうちに、染み込む水のように心を変化させていった。 「その兄が原因の分からぬまま死に、兄を慕っていた人間は我を生贄にし、兄を蘇らせようとした」 音が、咆哮をあげる。 それは嵐。 風は狂う馬のように嘶き、怒声は火を爆ぜたように耳につく。 不愉快ともいえるほどの強烈な雄たけび。 人の悲しみと憎悪を孕んだ瞳は強烈な輝きとなってサイネリアの心臓を深くえぐった。 今まで見えないシミだった、それらが今度こそ叛旗を翻すように、サイネリアの朝と夜の間を孕んだ瞳にあらわれたのだ。 過去のことを思い出して、サイネリアは目を伏せる。自分のなかに住まう空腹な獣のように猛る記憶の頭を撫でて落ちつける。それにあわせて、音が再び色を変えた。水の奥、見上げれば透明な青。風の音は止み、怒声も静まり、すすり泣くような祈りの囁き。 彼らは、望んでいた。 危険を厭わずに、どれほどの犠牲も惜しまずに……ただ、ただ……兄が、生き返ることを。もう一度、その至高の青をその目にすることを願っていた。 溢れるほどの勢いを増した川が、唸り声をあげる。あああああああ。 兄が行った理解できない利他行為。それが生み出したのが、これなのか。ああ、これはなんて恐ろしいほどの奔流となって我を、 「まぁ結果は見ての通り失敗し、我は覚醒して巡り巡ってここに来た訳だが……」 淡々とした口調でサイネリアは話をしながら、ふと眉を寄せて言葉を切った。思案深く、手のなかにある陶器を弄び、花びらのような唇をかたく結ぶが――ふっと諦めたように綻ばせる。 「それまで人間に対して無関心だった我は、兄のために必死になる人間を見て、人間というもの種に興味がわいてな……おかしいか? 己が犠牲になろうとしているというのに、人を見ていたら、いいかもしれぬと思ったのだ。生贄となっても」 投げやりともいえる言葉は何年もかけて地上に落ちた雨が、再び、大地から湧きだすような落ち着きをもってサイネリアの口から零れ落ちる。 風は唄う。 大地は囁く。 チェロが、鳴く。 すべてのめぐりめぐる世界を祝福するように。ひゃああああん。 「……人は面白いものだ。兄は人間の邪なる面も好きだと言っていた。喜び愛し守り蔑み害し恨み妬む人間が」 そこでサイネリアは考えるように首を軽く傾げた。 「……うむ。今は、我も、好きだ」 告げたとき、再び風を裂くような鳴き声が聞こえた。竜が恋い焦がれる声だ。 サイネリアが目を閉じたのは一瞬。再び目を開けてみると、彼女の目の前には夜と昼の境目のような紺碧色の大きな花弁をつけた一輪の花があった。 兄の色に少し似ている。 サイネリアは目を眇めて、紅茶に口つけた。 「……どうぞ。これはお持ち帰り、愛でてやってください。サイネリア様」 「うむ。そうしよう……トゥレーンの主よ、我は先ほどもいったように人に興味がある」 まるでとびっきりの悪戯を考えついたように口角を吊り上げてサイネリアはにやりと笑った。 「今度、機会があればそなた自身の話も披露してくれると嬉しいな」 サイネリアの言葉にマスターは微笑んで、では、紅茶を飲んでいる間だけ、何かお話をしましょうかとチェロを傍らに置くと口を開いた。
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