サイネリアの口から青色の吐息が漏れては、泡沫のように消されてゆく。 夜の始まりのような深紫色の瞳は憂いを帯び、時折なにかを掴もうとしては失敗する。胸の中にさわさわと冷たい風が吹き荒れる。苛立ちに似た焦燥感についきつく眉間が寄せ、またため息が漏れる。 世界樹旅団の襲撃によって仲間が人質にとられ、モフトピアでの戦争となった。 それはサイネリアの森の奥に存在する澄んだ湖のような精神にいくつもの小石を投げこみ、消えることのない波紋を生みだした。 心休まることのない日々は、透明な水色を穢す濁りのように精神も肉体も、傷つけてしまう。 心を寄り添わせるための樹を求めるサイネリアはふと、自分の寝室の窓に飾られている花を見つめた。 紺碧色の兄を思わせる花。 そうだ。あそこへ行こう。――トゥレーンへ。 なぜ、それに今まで気がつかなかったのか。 あそこは来る者を落ちつかせてくれる空間だ。一人では抱えきれない感情をどこに仕舞うべきか導いてくれるだろう。否、そんなことは望まない。ただ一時でもいいから荒れる狂う心の獣の毛を撫でることが叶うならば。 何より自分は、あそこが嫌いではないのだ。 思いつくとサイネリアはすぐ様に人型へと変身した。以前と姿が変わってはマスターがわからないかもしれないので、若い女性の姿に、肩の出た青いドレス。その上には茶色のコートを羽織ることにした。 店の前までやってきて、サイネリアは愕然とした。 ドアが閉まっている。そしてドアノブに掲げられたカードには「準備中、マスターは不在につき要件のある方は書き置きをお願いします」となっている。これには二重で裏切られた気がした。 トゥレーンは完全予約制の店だ。なんの用意もなく訪れたりしたら他の客がいることがあるだろうし、こうして準備中のこともあるはずだと予想すべきだったが、人間のように店を営んだことのないサイネリアにそこまで気を回して予想しろというのは無理な話だ。 それに、なんとなくだが、この店はいつでも自分を待っていてくれているように思えたのだ。そしてマスターもいつも笑顔で出迎えてくれるとも……それが思いあがりだと容赦なく叩きつけられたような気分になった。 サイネリアは拗ねた子供のように桃色の唇を尖らせて、靴の先で地面を蹴った。 残すべき要件もないが、このまま立ち去るのはなんとなくいやだ。しかし…… 「これは、サイネリア様?」 「む?」 呼ばれて振り返ると、清潔感のある白いシャツに、黒いズボンのマスターが立っていた。 マスターは小首を傾げて微笑んだ。 「こんにちは。サイネリア様、本日はどういったご要件で? 予約でしょうか?」 「いや、本日は客としてきたわけではない。……邪魔か?」 マスターの穏やかな微笑みにサイネリアはつい尋ねる。 「いいえ。どうぞ。せっかく来て下さったのですから、なかにお入りください。最近はドアを少し大きくしたんですよ」 マスターがサイネリアの横を通りすぎて、店のドアを開ける。確かに、サイネリアが以前来たときよりも少しだけ大きい――人間以外の者が出入りしやすくなっている。 マスターは店の電気をつけたあと、慣れたようにサイネリアのコートを受け取り、ハンガーにかけると、ソファに導いた。 「何かお飲みになりますか?」 「飲み物か、そうだな……せっかくもてなしてくれるのならお茶が……以前と同じ紅茶がほしい」 「かしこまりました」 奥へと向かうマスターの背をサイネリアは手持ち無沙汰で見守った。ソファに身を預けて、店全体に漂うほのかな土と、湿った植物独特の匂いと花の甘いかおり。この小さな店には自然が溢れている。それが心を安らかにしてくれるのだ。 サイネリアは己のなかに存在する水に身を預ける。 澄んで、深く、優しく、心をただただ漂わせてくれる、水。 ふと近づいてくる気配に瞼を開けると、マスターが微笑んでいた。音もなく、陶器のカップがテーブルに置かれる。見ると今日はクッキーが二枚、添えられていた。 「胡桃のクッキーですが、いかがでしょうか?」 「うむ。悪くはない」 クッキーを手にとってぽりぽりと齧り、爽やかな紅茶の味に舌鼓をうつ。 それだけであれほどに荒れ狂っていた心が凪いでゆくのがわかる。 「我は客ではない。ただ世間話をしにきたのだが……これは営業妨害か?」 サイネリアはクッキーを一つ食べ終わると、少しだけ迷うように視線を彷徨わせたあとマスターを見た。 「我は人に興味はあるが、知り合いは限られていてな。他の者とも喋りたくは思うが、まずは今ある友好を掘り下げてゆきたいのだ。……もしお前の邪魔をしているとしても許せ」 サイネリアは素直に自分の無知さを詫びた。 「気になさらず。今日は幸いにも店は休みですから」 「休み、なのか?」 瞳を大きく開いて、サイネリアは問いかける。 「ええ。チェロを、たまには休めてやらなくてはいけません」 「人の作りし、命のない道具なのにか?」 「道具でも、手入れをしてやらなくては動きません。下手をすると裏切ることもあります」 「そうか。……無知なことを口にした」 「いえ」 「……だが、休みの日に我がここにいてもいいのか? 迷惑ではないか?」 サイネリアの気遣いにマスターはゆっくりと首を横に振った。 「休みの日は店にある花たちの手入れをするだけです。それももう終わってしまったので、サイネリア様さえよければここにいてください」 「そうか。では甘えよう」 休みだから出ていけ、といわれたらそれこそサイネリアのほうが途方にくれてしまうところだった。 店にはいったときから、しばらくはここにいたいと図々しくも考えていたのだ。 もう一つあるクッキーを手にとって、齧ると甘さと樹の香りが口いっぱいに広がる。 「音楽とは不思議だな。とくにマスターの使うものは……形無きものに花という姿を与え、われわれの目に見えるようにしてしまう……よくあの花をみる。そのたびに思うのだ。我の故郷で、このような術があればよかったのに、と」 もし音を通じて、己の心を花へと変え、相手へと差し出すことができるのならば。 兄はどうしただろうか、きっと興味ひかれただろう、そして、それをやはり人間のために使っただろう。 きっと兄らしい美しくも優しい花をいくつもいくつも咲かせて、人の上へと飽きることもなく恵みの雨のように降らしただろうと考えて、口元が綻ぶ。 では、もし自分が、この術を使うことができたとして、どうするだろうか。 子供が大好きな玩具を手に入れたように、この空想はサイネリアを楽しませてくれた。だが、いざ自分がこの術を使うとしたらなにをするのか考えが浮かばない。 「我はどう使うだろうな、マスターはどう思う?」 「そうですね。サイネリア様は人間に興味があるといいました。きっとそれを知るためにお使いになるのではないですか? 私の使う花術は……音楽という媒介を使い、お客様にしゃべっていただき、その想いによって、花を生むだけです。……トゥレーンは本来、ただ寄り添うためのものですから」 「寄り添いあう?」 マスターはふっと笑った。 「この世には、ときどき、心あるものが生きるのに抱えきれないほどのものがございます。忘れたくても忘れられないなら、せめて何かが支えて、寄り添ってやってもいいと……お節介な話ですが、私はそう思いますし、それがトゥレーンです」 「そうか」 サイネリアは微笑み、自分の紅茶に口つける。舌をくすぐる甘酸っぱさは、今まで悶々と悩んでいたサイネリアのなかにある感情をはっきりとさせる手助けをしてくれた。 「このターミナルには、我のようなものはいくらいるのだろうな」 「といいますと?」 「つまりだ……意思の疎通が出来なかったが故に他者を知る機会を得られなかった者がどれくらい居るのだろうな……詮無いことだが」 サイネリアが覚醒したのは兄の死に嘆いた人間たちの手によってだ。それまで人間を知る機会はあったのにサイネリアは無意識に否定していた。別に見下していたわけでも、避けていたわけでもない――いいや、自分たちよりも人間を下等と見ていたところはあった、そして別種族であるがゆえに関わらなくてもいいのだとも傲慢にも切り捨てていた。それがここにきてそれがどれだけ愚かなことなのかと――儀式に使われて、ターミナルにやって知った。 ターミナルには多くの種がいて、出会い、別れ、理解し、衝突しあっている。まるで洪水のように激しくも愛しい変化はサイネリアの心の泉に小石を投げる。それはちっとも不愉快なものではない。ただ今まで静寂だった泉は急激な変化に対応できずに、深夜にベッドのなかで不用意に起きてしまった子供のように途方にくれて震え続けている。 自分には、言葉がある。理解するための心がある。 もしかしたら、これはチャンスなのかもしれない。 過去の愚かさに気がついて、もう一度やり直すための、今度こそ多くのことを驕りのない心で知るための。 「我には今は膨大な時間がある。進む内に回り道をする事はあれど、道が途切れる事を心配するにはまだ早すぎるな」 窓から差し込む金色の輝きに、瞳を照らし、髪の毛を染めて、サイネリアは嫣然と微笑むと身を乗り出し、空っぽになったカップをテーブルの上へと置いた。 「さて」 手をぱんっと叩いて、サイネリアはマスターを見つめる。 「今日も人を知ろうと思う。まずは目の前のマスター、あなたからだ」 「私ですか?」 マスターが目を丸めて、きょとんとした顔をする。いつもにこにこと穏やかにしている男でも、こういう顔をするのか。また一つ、新しいことを知った。 「うむ。トゥレーンの主よ、そなたの名は何という?」 「名前ですか? ……ウィル・トゥレーンです。……嘆きのウィルと呼ばれております」 「嘆きのウィル? そなたには似合わないな。それにこの店の名前はマスターの名からとったものだったのか」 今度はサイネリアが目を瞬かせる番だった。 「ええ。トゥレーンとは嘆きという意味があるんです。……多くの嘆きのために、私はこの店をやっているのです。……さて、せっかく来ていただいたのですし、少しだけチェロを弾きましょうか? どうぞ。なんでもリクエストしてください」 「……逃げるのか」 サイネリアが意地悪く笑うと、マスターは肩を竦める。 「自分のことを語るのは苦手なんです。どうか、音に託してお答えすることを許してください」 「仕方のない。……いいだろう、今回は美しい調べで勘弁してやろう」 「ありがとうございます、サイネリア様。では、一曲目」 チェロをとってきたマスターが、紡ぐ音は小さな店いっぱいに、広がる、波紋。 優しく、ゆっくり、穏やかに。 それは水のように形なく、手を伸ばしても掴めない、けれど確かに心に届く音だった。
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