▼とある異世界にて ただ、ただ、寂しく。今日も冷たいが雨が降る。 そこは廃墟。打ち捨てられた高層ビルがいくつも並ぶ廃墟。かつては人で賑わっていたであろう場所。良い環境を保つため、巨大な天蓋で都市ひとつが丸ごと覆われていた場所。 今は、そんな天蓋も朽ち果てて。赤茶けた鉄骨だけが、都市を鳥籠みたいに覆っているだけ。 その向こうに見えるのは、いつもの空。灰色の空。晴れることの無い空。青空は見えない。 降りしきる雨は、薬のような臭いがした。工業地区の煙突から排出される煙が、雨を有害にさせてしまった。ドームで暮らせない大抵の人々は、地下で暮らす。毒の雨で体を焼かないために。 ……もっとも。 非合法に片足を突っ込むような者たちであれば、話は別だ。 賞金を掛けられて追われる側としては、毒の雨が降る地上は、絶好の隠れ家になる。 そして。 賞金首を追う側としては、地上はハイリスク・ハイリターンの仕事をこなすための、絶好の狩場になっていた。 † 一人の男が、廃墟の広がる地上にいる。 打ち棄てられたビルの屋上に佇んでいた。一歩踏み出せば、そのまま落ちてしまいそうなほどの危険な位置。 男は、空を覆う灰色の雲よりも濃い色の、黒い長套に身を包んでいる。フードを目深に被っており、顔はよく見えない。 顔の上半分には、ゴーグルような機械が取り付けられている。ゴーグルの下にある双眸が、センサーによって拡大表示された映像をじっと見つめている。長套の男は、毒の雨に身を晒すことなど気にも留めず、ただただビルの屋上に佇んでいた。 そんなとき。 内蔵された通信機器を通じて、ノイズの走る音声が男の耳へと届く。味方からの連絡だった。敵の一団を指定のポイント、すなわち男の眼下へと誘い込んだとの報告だ。 男は僅かに顔を俯かせ、足元の光景を見下ろした。地下へと伸びている階段から、数人の悪漢どもが慌てた様子で飛び出してくる。地下から地上へと逃げてくる。あれが標的だ。 長套の男は攻撃目標を視認すると同時、迷う素振りなど見せず一歩を踏み出し。当たり前のように―― ――ビルから飛び降りた。 何十層にもなるビルの屋上から、宙へと踏み出した。身を投げた。足を下にして落下していく。 風を切る音が長套をはためかせる。ぐんぐんと地上が近づいていく。けれど彼の体が地面に激突して、無残に血肉を飛び散らせることはない。 彼の両手、両膝、両足に光が灯る。青白い光だ。着地の瞬間、輝く部位を地面と接触させる。それだけで、ビルから飛び降りたとは思えないほど、男は静かに着地する。まるで魔法。長套の裾がはためく音は、雨音でかき消されていた。 長套の彼は、懐から得物を取り出す。特殊な機械装置が内蔵されたナイフだ。鉄もバターのように切り裂ける一級品。 長套の彼が、片膝をついた姿勢から弾むように飛び出した。青い光の粉を足元から散らしながら、悪漢どもの間を次々と走り抜ける。 接触の間際、彼のナイフは敵の体を突き刺している。敵の仲間たちが襲撃に気づく。手持ちの銃を乱射する。連続する火線は廃墟の壁を簡単に穿ち、撃ち崩していく。 けれど、無駄だ。 長套の男の体の輪郭が、僅かな青い輝きを放つ。それだけで男の体は吹っ飛ぶように宙を滑り、銃撃を難なく避けてしまう。 跳躍で避けるだとか、身体能力を駆使して回避してるだとか、そういうものとは次元が違っていた。人間離れしていた。 予備動作も何もなく縦横無尽に宙を飛び交い、壁を走り、跳ね、躍る、長套の男。メカニカルゴーグルが放つセンサーの赤い輝きが、怪しい軌跡を刻む。その度に、標的の悪漢どもはひとり、またひとりと駆逐されていく。鮮血を吹き出しながら倒れていく。 長套の男のような〝保持者〟と呼ばれる能力者を相手にするなら、何十人もの人手と無数の銃火器が必要だ。正面から保持者とやり合って勝てる連中は、そういない。そして悪漢どもには、充分な装備も人数も揃っていなかった。 だから、結果は想定どおり。敵全員は地面に倒れ伏せ、血溜まりの中に沈んでいる。 長套の男は、傾ぐように片膝をついた。体に奔る痛みに喘いだ。力の発現による消耗だ。 「掃討、完了……」 男は肩で息をするほどに疲労していたが、それを声音には出さず、ゴーグルの通信機で仲間に報告する。 男の声。戦いの恐怖も高揚もなく、いつも変わらない灰色の空のように、淡々としていて味気ない声。 この声の主の名は、アル・カフ・カディブ。そう遠くない未来に、ロストナンバーとして覚醒する運命が定まっている人物だった。 † 報酬を受け取ったアルは、仕事のメンツと酒場へ向かうことなく、ひとり地下の雑踏街を歩いていた。 向かった先は、そうした人々の喧騒から外れた場所にある住宅通り。法など機能していないこの巨大地下階層都市において、比較的まともな治安を保っている区域だ。 安全とは言っても、夜の道を女や子どもが一人でうろつけば、明日には身元不明の遺体がどこかに廃棄されてしまうだろう。棚に隠しておく銃のひとつも無しに、安心して眠れる夜を過ごすことはできないだろう。 アルはそんな区域にある、ひとつの施設に向かう。看板も何も無いが、孤児院として機能している場所。アルが、賞金稼ぎとして得た報酬の大半を送っている先でもある場所。どうしようもないこの世界で、唯一の光を感じる場所。 アルは専用のカードキーで表口の多層ロックを解除してから、中に入る。すぐさま事務室へと向かい、扉をノック。「入りな、アル」というぶっきらぼうな返事を聞いてから、中に入る。 いくつかの本棚と資料棚、いくかの事務机とその上に詰まれた書類。何の変哲もない事務室だ。 その壁際の席で、散弾銃の銃口をアルに向けて座っている中年女性が、忌々しそうに口元を歪めながらアルを迎えた。銃はすぐに降ろされた。 「ち。なんだい、やっぱりアルかい」 「……強盗の類のほうが良かったか」 「最近はここらも治安が良くなっちまってね。旦那から受け継いだコイツをぶっ放すチャンスもありゃしない」 中年女性は、ここの施設長だった。施設のキャパシティが許す限り、身寄りの無い子どもを引き取っては数名の職員と共に育てている、今時珍しいくらいの善人だった。 善人とはいえ、強盗を相手にすればその口に銃口を突っ込み、躊躇無く引き金を引くくらいの激しさは持ち合わせていたが。 「……いつものだ、使ってくれ」 アルは懐から布袋を取り出すと、施設長へ放り投げた。中には確実に金となるような代物――希少なレアメタルの欠片だとか、宝石だとか、機械を動かす違法チップだとか、そうしたものが満載されている。 アルはそれを渡すと、すぐに翻して部屋を後にしようとする。 「待ちな、アル。少しくらいガキどもの相手をしていきな」 「……子守は専門外だ」 「別に先生やれって言ってるんじゃあないだろうが。顔を見て行くだけでいい、その手で頭でも撫でてやるだけでいい」 施設長はアルからの手土産を、無造作に足元の隠し金庫へ突っ込みながら言った。アルはその言葉を背中で受け止めているだけ。 「アンタは、ココじゃ正義のヒーローなんだからね。ちったぁヒーローらしく、愛想振りまいていきな。こんなクソったれな世界で、アンタのようなのはガキどもの希望なんだよ」 「……だが、俺は違う」 アルは施設長に背中を向けたまま、ぼそぼそと覇気なく答えた。 「……俺は〝あいつ〟のようには、なれない。英雄にはなれない。善意で人を助け、善意で人と接し、誰からも愛されていた〝あいつ〟のようには――」 「アル・カフ・カディブ!」 施設長は、贖罪のように力なく呟くアルを遮って、机を思い切り叩き付け、叫んだ。 アルは言葉を紡ぐことをやめる。しばしの静寂が流れた後、施設長は静かに溜息をついて。 「アル。あの〝名無しの英雄〟は、もういなくなっちまった。アンタはあいつと仲が良かったようだが、だからってアンタがあいつの代わりをしなくたっていいんだ」 「……」 「アル。アンタには今のようなやり方は、向いていないよ。今までどおり、自分のためだけに稼いで、自分のために使ってた方がいい。そりゃ、献金してくれるのはありがたいがね」 施設長は引き出しからくしゃくしゃの煙草を取り出すと、マッチで火をつけて。狭い事務室に、濃厚な紫煙の香りが漂う。 「アル。いなくなった影に、いつまでもとり憑かれてんじゃないよ。アンタ、そのままじゃいつか死ぬよ」 アルはその言葉を黙って受け止めた後、「また来る」とだけを短く言い残し、逃げるように去っていった。 † ――アンタ、このままじゃいつか死ぬよ アルの脳裏に、施設長の言葉が反響した。 アルの目指す人物。一人でも他者を圧倒するほどの強力な力を持ちながら、決して相手の命は奪わず、戦闘力を失わせることのみを狙った戦い方をする人物。揺るがぬ理想を抱えて、人々に救いの御手を差し伸べた人物。時には傷つき、悩みながらも、決して立ち止まることなく自分の信じる道を歩んでいったとされる人物。 名前は、無い。 人々はその男性を、気の狂った〝英雄気取り〟あるいは〝偽善者〟と呼び、蔑んだ。 けれど一方では〝英雄〟と呼ばれ、その強さと行為を称えられ、性格の良さと優しさから愛されてもいた。 幼いアルも、その〝英雄〟に救われたのだ。アルはその〝英雄〟に、力の制御方法を教わったのだ。 そんな〝英雄〟は突如、行方不明となった。 アルは、あくまで保持者として人間離れした力を持つ、ひとりの賞金稼ぎにしか過ぎなかった。だが自分の命の恩人であり、師匠であり、友人でもあった〝英雄〟がいなくなってから、アルは変わった。 その〝英雄〟がしていたことを、なぞるようになったのだ。英雄の真似事を始めたのだ。 けれどアルには、命を奪わない彼のような戦い方はできず、彼のように気さくに人と接することもできない。できること言えば、人を殺して得た報酬を、黙ってこの施設に置いていくことだけ。 (所詮〝英雄〟の真似事だ。分かっている) やらなくとも良いことだ。自分がやる義理はない。義理人情など、この世界では儚いものだ。アルが善行をしてもしなくても、命は今日もどこかで失われ、悪はどこかで弱者の命を啜って生きる。 アルの力も、それなりに荒事では有効であったが、万能というわけではない。いくら逸脱した戦闘能力を発揮できるといっても限界がある。常人より強くはあったが、無敵ではない。たったひとりの英雄が皆を護るなどは、幻想なのだ。 〝英雄〟の真似事なんて、意味が無いはずなのだ。名無しの〝英雄〟のようには、なれない。 (だが――) 〝英雄〟の彼が、まるで灰色の空の向こうにあると言われる、写真でしか見たことのないそれ――〝青空〟と〝太陽〟そのものであるように感じて。彼と共にいれば、彼と同じことをすれば、それに近づけるのではないかと、アルは漠然と思っていて。 だから。 保持者が持つ力の証、青白い光子……それを瞬かせながら、アルは戦った。偽善と罵られ、殺さぬような戦い方ができずとも、ずっとずっと戦い続けて――。 † ――気がつけば。 自分がいた世界とは違うところにたどり着いていた。すなわち、アルはロストナンバーとなっていた。 覚醒のきっかけは、よく覚えていない。爆発に巻き込まれたか、気絶したか、眠りに落ちた時か。 けれど、ひとつだけ確かなことがある。アルは、名無しの〝英雄〟を追って戦い、悩み続けながらも戦って、この異世界に行き着いたのだ。。 ロストナンバーとしての生活。 そこでも、戦いに身を投じる立場は変わらなかった。あるいは、戦うこと以外にできることが、分からなかっただけかもしれない。 (俺は、この力で何をしたかった? 俺は何を目指している?) アルの、自問自答する日々が続く。今でも答えは見つかっていない。 けれど〝英雄〟と呼ばれたあの男の背中を追い続けていれば、何かが見えるような。 灰色に淀む昏い雲を突き抜けて、太陽の光が差し込むような―― ……そんな気がして。 男は、今日も世界図書館へと向かい、異世界での依頼に身を投じる。自分だけの答えを、見つけ出すために。 <アル・カフ・カディブの探求は、続く>
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