▼あらすじ それは、メルヒオールの勘違いから始まったものだった。 メルヒオールは同じロストナンバーである死の魔女を、己の宿敵であり石化の呪いをかけた張本人でもある〝石の魔女〟と違え、刃を向けてしまったのだ。 すぐに、メルヒオールの一方的な誤解(死の魔女も、新手のナンパかと誤解はしていたけれど)ということが判明し、その場は収まったものの。「乙女に恥をかかせたのですから、私に焼肉を奢るのですわ!」 なぜ焼肉なのかは、よく分からない。しかも奢ることになってるし。 メルヒオールはのらりくらりと、その約束を流そうとしたけれど。一件のあとに、死の魔女から何度も何度も言い寄られたことで、「確かに、俺が勘違いしたのも原因のひとつか……?」と思うようになってしまい、とりあえず一度は詫びを入れるという思考に切り替えた。(謝罪にもなるし、けじめにもなるし、そうすれば後腐れもなくいつもどおりの生活に戻れるはずだ。そう、別に言い負かされたわけじゃない。これは俺自身のためだ……) そもそも、因縁のある〝魔女〟という存在も、〝女性〟という存在も、メルヒオールは苦手だった。両方の特性を備える彼女、死の魔女とのしつこい付き合いを終わらせるには、これしかない。 ――そう信じて。メルヒオールは、死の魔女を詫びの食事へと誘う。彼女からの希望で、旅先はなぜかインヤンガイが指定され。二人はチケットを手に、そこへ向かったのだった。チケット代は無論、メルヒオールもちだ。▼インヤンガイ、貸切った大部屋にて「あらあら。店の外は雑多としていて汚らしいのに、中はそれなりに洒落ているのですわね。気に入ったのですわ」 無駄口を叩かない静かな店員に案内された部屋は、豪奢な内装が施された大部屋。壁には墨で描かれた力強いタッチの絵画が広げられ、あるいは動物の剥製が飾られている。質の良い絨毯の上には熊のような動物の毛皮が敷かれている。毛皮には剥製にされた頭がしっかりと残っており、黙って壁を見つめていた。 甘いような煙たいような香が焚かれ、妖しげな匂いが立ち込めている。死の魔女は気持ちよさそうにその空気を吸い込み、大きな丸テーブルのひとつへ、優雅な仕草で腰掛けた。 メルヒオールはいつも以上に疲れたような面持ちで、魔女とはやや離れた席へつく。彼が顔をしかめているのは、むせ返るような香の匂いに慣れないこともあるが、予想以上の出費で財布が軽くなってしまったことも影響していた。「なんでこんなに高い店……くそ、足元見やがって……」「あら、何か?」「何でもねぇよ、ちくしょう……ほら、早くさっさと注文しろ」「あなたは何も召し上がらないの?」「……そんな気分じゃない」「けれど、私ひとりが食事をしていても、申し訳なくて息が詰まるだけですわ。適当に何か注文しますから、あなたも召し上がるのですわ」 ひとり、メニューを眺めながら魔女が一方的に言う。呼び鈴で店員を呼び、注文をする。しばらくすると、荷台に乗せられた豪華な料理の数々が厳かに運ばれてきて、だだっ広いテーブルの上を瞬く間に占拠した。「……そんなに喰うのかよ」「乙女にそのような言葉を向けるのは、失礼と侮辱にあたるのですわ。ご心配なさらずとも、どのような量であろうと、私には何ら問題はありませんのですわ。そもそも私は、食事などしないのですから」「……何言ってんだアンタ」 ひとり、もそもそと料理を食べ始める魔女へ、メルヒオールは怪訝そうな視線を向ける。「今、普通に食べてるだろうが。いったい何言って――」「食事、とは――」 ぴしゃり。 メルヒオールの言葉を、強い声で遮って。魔女は食べながら話し出す。食器同士がカチャカチャとぶつかる硬い音、料理がクチャクチャと咥内で噛み砕かれる生々しい音が、魔女の言葉と重なり合う。「食事とは、生きていくのに必要な、食物を食べること。食べるとは、食物を口に入れ、噛んで飲み込むこと。……私はこうして料理を口に運び、咀嚼し、飲み込んでいますわ。それは食事と言えますわね。……けれどこれは、生きていくのに必要なことではないのですわ。なので食事とは言えないのですわ」「何を言ってるかよく分からんが……」 あきれたように溜息をつき、メルヒオールはグラスの水を口にしようとする。 それを止めるかのように、そっと誰かの指がメルヒオールの手へ添えられた。 すぐに分かる。その指は、いつの間にかメルヒオールの席の後ろに立っていた、死の魔女のもの。皮も肉もない白い骨がむき出しになっているその指が、メルヒオールのグラスを静かに奪い取る。 メルヒオールはぎょっとする。彼女はさっきまであそこに座っていて、食事をしていたはずなのに。立ち上がってこちらへ近づくにも数秒はかかるはずだ。なのに一瞬で、自分の背後に立っていた。気配もなかった。気がつけばいつの間にか。 驚いて目を見張り、警戒から身動きひとつしないメルヒオールを、死の魔女はくすくすとあざ笑う。ぬくもりも柔らかさもない骨の指を、背後から彼の頬へ愛しげに這わせる。その指先に触れただけで、メルヒオールの頬には赤い線が走り、芥子粒ほどの血が玉となって浮かび上がった。「言葉で理解できないのあれば、目にすれば早いのですわ。食事をしていても食事をしていない、その意味を」 魔女は異性を甘くいざなうような手つきで、彼の顎先を横へ向けた。魔女はその視線の先へ、軽い足取りで身を滑らせる。 そして、鎌のように鋭く口元を歪めて。邪悪に笑んで。片手でグラスを口に傾けながら、もう片手で自分の衣服を引きちぎった。 胸元がはだけて露になる。そこには、女性特有のふたつの膨らみや、つんと自己主張する胸の先端もなかった。 ――見えたのは肋骨と黒い空洞。 糸を引きながらこびりついている、白か灰色かのぶよぶよとした塊は、腐肉だろうか。吸い付くように骨へ付着する無数の腐肉は、まるで肥えた蟲のようにも見えて。 空洞の中を、水がぼたぼたと流れた。それは口に運んだはずの水。魔女がメルヒオールから奪ったグラスに入っていた水。生気の抜けた唇を通り、石像のように白くて味気ない喉を抜けて、がらんどうの空洞を通って。水は足元の絨毯へぶちまけられて、黒い染みをつくった。 その一連の様子を、メルヒオールは黙って目で追うだけしかできない。「命を失ったものは、〝生〟を感じられないのですわ。それはすなわち、すべてを感じないということ。すべてが薄く、すべてが淡く、すべてが味気なく、意味を成さないのですわ。美味しい食事もすべて、ご覧の通り」 生命を感じさせない、暗い昏い声が響く。 もぞり。這いずるように、死の魔女の帽子が力無く落下した。メルヒオールはそれを目で追った。なぜか、びちゃりと湿った音がした。 帽子には毛髪が絡んでいた。一本や二本ではない。毛髪がまるごと、帽子と一緒にすべてそぎ落ちていて。 メルヒオールは、再び魔女へと視線を上げる。恐る恐る上げていく。本能はそれを拒絶している、見てはいけないと言っている。けれど自然と引き寄せられて、視線は上がっていって。 ぼとり、ぼとり。 魔女の頬肉が、筋の糸を引きながら腐り落ちていた。顔の骨があらわになる。むき出しになった歯は、ニヤリと不適に笑むように並んでいる。頭は、毛髪と一緒に皮膚まで剥がれていて、頭蓋骨の白がよく見えた。 眼球は腐った果実のように潰れてひしゃげ、どろりと溶けて滴って。真っ暗な空洞だけをたたえる眼窩が、メルヒオールをただ見つめていて。「私は死の魔女。命あるものの宿命から外れた、生きる屍。死にながらも生きているもの。生きながらも死んでいるもの――」 恐怖が、メルヒオールを支配していた。 椅子の上から動けない。指先も脚も、歯ですらも。全身が、目の前の〝何か〟に恐怖している。このヒトのカタチをした、暗くておぞましい何かに。 肉や骨が怖いわけではない。あの存在そのものが、心に恐怖を呼び起こすのだ。見るだけで心が触れてしまいそうな、それは深淵の禁忌。 魔女の冷ややかな声を耳にするたび、呼吸が苦しくなる。息が吸えない、吐き出せない。それでも体は貪るように空気を求めてくる。必然と、呼吸は荒くなる。 思考が混乱する。何もかもを放棄して、叫びたくなるような衝動に駆られる。けれどメルヒオールは努めて冷静になるよう、テーブルの上に置いていた拳を、強く握り締める。心が屈してしまわぬように。「……おまえ、俺に何をする気だ?」 べっとりと衣服が肌に付着するくらいに、大量の冷や汗を滴らせながら。目の前の魔女から視線はそらさずに、震える声で、けれど怯えは見せずに。問いかける。「……まさかその朽ち果てた体の変わりに、俺の体をよこせだなんて言うつもりじゃ、ないだろうな」「それも面白いかもしれませんが生憎、殿方のカラダに興味はございませんの」 引きつったように肩や首を弾ませながら哂う魔女の挙動は、まるで壊れた玩具のようで。「この眼球は淀み、何も映さず。手足は腐り落ちて骨だけになり。歯は朽ち果て、咀嚼をして食べることは叶わず、味わいを堪能することはできず。例え飲み込んだとしても、崩れ落ちた内臓の空洞と骨の隙間から、食べ物も飲み物もすべてが垂れ流れてしまうだけ……。焼肉に限らず、料理を堪能できるのは生きているからこそ……そう、生きる屍の私には、何もないのですわ。だから――」 魔女を形作っていた肉は、すべて絨毯の上に腐って落ちた。服を着ただけの白骨になった魔女は、けれど笑むように声を弾ませる。傲慢に、嘲笑うように。両手を広げ、天井を仰ぎ、大仰に語る。「メルヒオールというあなた。私はあなたにこう言うのですわ――」 ――命を失い、生を失った私に、私が楽しめるような命と生の魅力を、魅せなさい。「……なんだよ、そりゃ」 呆れる色を見せながら、メルヒオールが呟く。相変わらず全身は戦慄に染まって、いじわるく苦笑することもままならないけれど。「俺たちが貰えるナレッジキューブは、願いを叶えたりするんだろ。それで何とかすりゃいいだろうが」「まぁ、なんて無粋な考え方なのでしょう。おなかに入れば何でも一緒、とでもおっしゃるつもり? あなたは珈琲や紅茶を湯呑みに注いでも、何とも思わないタイプなのですわね」 くかか、と。魔女は空気が抜けるような音で哂う。 ナレッジキューブでこの体質を改善したとしても、それはあまりに味気ないものだから、と魔女は言った。結果のための過程で抗い、苦労してこそ意味がある、だからナレッジキューブには安易に頼らない、と。(じゃあ味も分からないくせに、こんな高い店で奢らされたのかよ) メルヒオールの苦笑いは、どこか緊張と恐怖でぎこちなく。それでも軽い口調で返す。「……で、なんで生の魅力を語る舞台が、インヤンガイなんだよ。他の世界のほうが綺麗なものは山ほどあるし、0世界の連中ならおまえの望みくらい、何とかしてくれるんじゃないのか」「重くて息苦しいこのインヤンガイでは、そうして誰かや何かの助けを借りることはできないのですわ。つまり、あなた自身が何かを工夫する必要が出てくるでしょう? 苦労があるからこそ、ひとは生を実感できるのですわ」 つまり、わざとか。 メルヒオールにとって、ここには頼れる仲間も道具もない。そんな環境ですらないのだと。そういうこと。心意気だけで何とかしろとでも言うつもりなのか。「ったく、面倒な課題だぜ……」「私を楽しませることができれば、あなたの勝ち。あなたには今後、例の一件を言い訳にした接触は一切しないと、誓うのですわ」 けれど、と魔女は言葉を続ける。 愛らしく小首を傾げるが、骨をむき出しにしたそのおぞましい姿では、見るに耐えられるものではなくて。「しかし私が楽しめなかったのなら、あなたの負け。またお遊びに付き合ってもらうのですわ」「……ふざけんな」「あら、尾びれ背びれに鱗もつけて、身も蓋もない噂を流してしまおうかですわ。ロストナンバーじゅうで除け者教師になるといいですわ。そう例えば……ちっちゃい生徒に手を出した、とか」「それこそふざけんな! ――えぇい分かったよ、ったく!」 もはや半ば自暴自棄。吐き捨てるように言い、メルヒオールは忌々しげに己の頭をわしわしと掻いた。「……だがとりあえず、ひとつだけ頼みがある」「何ですの?」「おまえ〝元に戻る〟ことはできないのか? その姿、正直なところ見てて気持ち悪くて、何するにも集中できやしねぇ」「いいですわよ。だってわざとですもの」「わざとかよ!」 思わずつっこみを飛ばす。同時に顔と視線をばっと向けてしまい、思考の片隅で後悔するも、次に魔女の姿が目に映ったときには、もとの薄気味悪い少女に戻っていて。見るだけで心を慄かせる姿ではなくなっていた。「さ、先生。課外授業を始めるのですわ」 骨の指先を、物欲しそうに咥えながら。魔女は上目遣いに、ぎょろりと男を見つめる。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>メルヒオール(cadf8794)死の魔女(cfvb1404)=========
▼インヤンガイ、貸切った大部屋にて 呪われ教師と魔女の二人は、大きなテーブルを挟んで向き合っていた。 生気がなく青白い肌をした少女は、死の魔女だ。皮も肉もない白い骨が露になっている腕を伸ばして、豪華な料理を次々に口へと運んでいる。 ぴちゃぴちゃ。くちゅ。ぐちゃり。じゅる。 肉の咀嚼される音が生々しく響く。それは、まるで臓物でも喰らっているかのよう。 この魔女から出された課題が、メルヒオールの頭の中で何度も反芻される。 (……くそ、面倒だ) メルヒオールは隠すことなく、心底うんざりしたような溜息をついて。 しかし逃げるわけにもいかない。頭をわしわしと掻きながら、面倒くさそうにぶつぶつと語り出す。 「命と生の魅力、か。でも大抵の人間は、そんなの気にして生きてないぞ。別に、命や生について考えてなくたって生きてはいけるし……」 彼女の問いが、どこまで本気か分からない。メルヒオールはとりあえずいつもの調子で、のらりくらりとした態度をしながら曖昧に流してみた。 死の魔女の、食事の手がぴたりと止んだ。その顔に闇のような黒い影が差し、暗くて表情が見えなくなる。 「何故、私が料理店を選んだのか。本当の理由を教えて差し上げましょうか」 死の魔女の目が、暗がりの奥で燃える血のように赤く輝いた。死の魔法が発動する。豚の丸焼き、七面鳥の姿焼き、蠍の唐揚げ……皿の上に並ばれた料理の数々が、怪しく蠢き、喚き出した。まるで生き返ったかのように。 「料理は言い換えれば、食べやすく加工された死骸。そして私の能力は、死者に偽りの命を与えて操ること。ここには私の役に立つ〝お友達〟が大勢いるのですわ」 「……恐れ入ったよ、分かった分かった。次はきちんと話す……」 メルヒオールは目をそらし、観念した様子で言った。 すると料理どもは動くのをぴたりとやめ、本来の状態に戻る。魔法を解いた死の魔女は、再びぬちゃぬちゃと音を立てながら、食事を再開した。 メルヒオールは吹っ切るようにコップの水を飲み干すと、今度こそ真面目になって言葉を紡ぎだす。 「あー……生きるってことの最大の特徴は、物事は不可逆的であることだ。それと出来事の連続性によってだな――」 「もっと分かりやすく教えるのですわ。それでは何が何だか分からないのですわ」 口端にソースを付けながら、魔女はすました声音で言う。 メルヒオールは力任せに頭をかきむしり、舌打ちする。でも食いかかることはせず、諦めたように溜息をひとつして。それから話を続けた。 「以前に〝老人の若き日の、想い人の記憶を探す〟なんて依頼を受けたことがあってな。……思い出ってのは、まぁ生きた記憶だな。良いものも悪いものも心に残るし、ひとは昔に想いを馳せて悔やんだりもするんだ。けど時間は巻き戻すことができない。どんなに後悔しようとも、やっちまったことを無かったことにはできないんだ」 「それをやり直せたら、素敵でしょうにね」 「確かに、一度は誰しも考えるだろうな。けど、戻ってやり直せないからこそ〝今〟って時間が価値を持つんだよ」 「……そういうものですの?」 魔女が食事の手を止めた。メルヒオールは「また地雷を踏んだか」と思い、つい警戒してしまう。 だけど、どうやら違ったようだ。魔女は顔を上げて、メルヒオールへ真っ直ぐに視線を向けてきた。どこかいぶかしむような目だ。 「誰しも、自由に失敗をやり直せたらと思うものでしょう? それはきっと、あらゆる者に望まれているはずですわ」 「けどもし、誰もが本当に失敗をやり直せて、自由に人生の過去を改変できてたら……それが当たり前になっていたら?」 「……素敵ではないですの?」 「ああ、そうだな。素敵過ぎて、皆こう思うようになる――〝失敗しても、どうせまた変えてしまえばいい〟ってな。自由を与え過ぎると、ひとっていうのは怠けちまうものなんだよ。……だから、俺は思うんだ」 メルヒオールが溜息をつきながら、ぽつぽつと語る。自分の言葉の正しさに酔っている様子もなく、魔女へ必死に訴えかけるわけでもなく。寝ぼけているような呆けた雰囲気のまま、ただ淡々と語るだけ。 「この世界は、やり直しが簡単にできないような、不自由なくらいで丁度いい……ってな。不自由だからこそ、今を精一杯に生きようと真面目になる奴らも出てくる。貴重なものだったら、大切にしたいって思うだろ。……聞いてるのか?」 いつの間にか、また食事を始めている魔女に声をかけてみた。魔女は高慢な態度で「続きをどうぞ」と促すだけだ。 (まだ話すのかよ、くそ) メルヒオールは顔をしかめながら、首元をばりばりと掻き。小さく唸り、次の言葉を何とかひねり出そうとした。 † それから後、教師の男はいくつも話を転がした。 少しは面白い。食事の肴くらいには、なっただろう。 でも、真の意味で心を打つ話などなかった。一部を除いて、話の内容はほとんど聞き流していた。 つまらない、つまらない。 魔女はわざとらしく大きな溜息をついた。 やはり普通に生きているだけの者から得られるものなど、何もなかった。戯れに殺し合うならば別としても、話だけで自分が満足するなど、到底は無理だったのだ。臓物の無い胸の空洞と同じく、心は満たされず空っぽのままだ。 「もう結構ですわ」 魔女は失望の色を態度ににじませながら、教師の言葉を遮った。 「たくさんのお話を有難う。しかしながら、どの考えも私の心には届かなかったのですわ」 魔女の言葉に、教師は態度を荒げたり泣き崩れるようなこともなく。ただ疲れきった様子で「そうか」と返すだけだった。 「命や生に、期待していたような魅力などありませんでしたわ。やはり今のように〝死んで〟いたほうが良いみたいですわね。腕をちぎられ頭をつぶされようとも復活できますし、痛みも苦しみもありませんもの」 「確かに不老不死を求めて云々、なんて伝承はどの世界にもあるようだし、ひとによっては魅力的に映るんだろうな――」 けど、と。 教師は言葉を挟む。ふとした思い付きを口にしてみた、という雰囲気。 「いつも思うんだよな。不老不死になれば、痛みも苦しみもないって……逆じゃないか?」 「……何を言っていますの?」 魔女はすました様子で問い返す。 けれど内心では、ずきんとした痛みを感じた。何も無い空洞のはず胸の中が、はっきりと疼いた。 その動揺を隠すので精一杯だった。教師はそんなことも気づかず、マイペースな調子で言葉を続ける。 「いや、だってずっと〝生きて〟いられるんだろ。いや、まぁもう〝死んで〟るんだろうが……あー、ややこしいな」 眉間にしわを寄せながら頭を掻き、教師は別の言葉を探して。 「うんと……活動。そう、死なないんだからずっと活動していられるだろ。寿命がないんだろ。けどずっと生きてるって、寂しいし孤独になるってことだぞ」 「さびしい……こどく……?」 魔女は密かに胸元へ手をそえた。呼吸など必要としないはずの胸の奥が、軋むような痛みに襲われていた。 「だって、周りの皆は先に死んで、自分だけ残るんだぞ。親も兄弟も先に逝き、同年代だったクラスメイトや友人、近隣の知り合い……皆、先に死んじまう。自分だけを残してな。それはきっと、物凄く寂しいことのはずなんだ」 教師はその後も、何か言葉を続けているようだった。 でも魔女の耳には入ってこない。魔女の中で、何かが大きく変わろうとしていたからだ。 分かったのだ。理由が分かった。自分が分かった。 (私は、寂しかったのですわ) 魔法によって生きる屍を従えるときも、それらを〝お友達〟とわざとらしく呼称するのも。寂しいからだ。 言うなれば、友達が欲しかったのだ。 本当は、命だの生の魅力だの、そんなものはどうでも良かったのだろう。ただの口実なのだ。 自分は、誰かと一緒に遊びたかった。相手にどう思われてもいい、自分だけを見て欲しかった、自分と時間を共有して欲しかったのだ。 (けれど……この本心を露にするわけには、いかないのですわ。私は死の魔女。誇り高き魔女。このような弱みを見せては、ただの道化になってしまう) これ以上、この教師の言葉に耳を傾けるわけにはいかなかった。不意にがたんと席を立ち、「私の負けですわ!」と言い放つので精一杯だった。自分の深淵から、何かが溢れてしまいそうだった。 弾むように席を立った魔女が立ち尽くす前で。肝心の教師は「……へ?」と素っ頓狂な声をもらし、ぱちくりと瞬きをしていた。 「……よく分からんが、俺は助かったんだな?」 「そうですわよ。……ふぅ。危なかったのですわ。つい、違う魔女に変じてしまうところだったのですわ」 「……なっちまえば?」 「何を言うのこの破廉恥教師!」 自分が変わってしまう、ということの重要性と恐怖と不安を、目の前の男は理解していない。魔女は声を荒げて、手元にあったナイフを素早く投げつけた。ぼんやりしていて鈍間に見えていた教師は、転がるようにして咄嗟に椅子から落ちて避けた。 「あぶねっ……いや、そこでキレる意味がまったく分からん」 「私は〝死〟の魔女なのですわよ? 〝死〟の名を捨ててしまったら、私という個が保てなくなってしまうではないですの!」 「名前を変えて、何か困ることでもあるのか? 別に名前くらい、幸せでも蜘蛛でも最後でも黄金でも何でもいいだろ……名前が、おまえそのものを決めるわけじゃないんだ」 教師は適当に思いつく単語を並べながら、よろよろと立ち上がる。 「それに、死を司るって言うなら、新しく〝命〟や〝生〟を司ってもおかしくはないと思うがな」 「な、なぜですの?」 「なぜって……。だってそりゃおまえ――」 ――死ぬのも、命とか生きることの一部だろ。 ――! その場に、一陣の強い風が吹き付けた。 風はすべてを吹き飛ばす。前にある大きなテーブルも、その上にある食器皿も、壁にかけられた調度品も。それだけではなく床も天井も壁面も、剥がれ落ちるように吹き飛んで。 周りにあったインヤンガイの風景が、風に躍らされる紙片のように、めくれて剥がれて飛んでいく。 二人はいつの間にか、広大な草原の真ん中に立っていた。眩い夕暮れの太陽が輝く、黄金色の草原に。 メルヒオールは目を疑った。周囲の風景にではない。目の前に立つ魔女の姿にだ。 彼女の姿は変貌していた。青白かったはずの肌には生気が宿っていた。骨だったはずの腕は、白くて綺麗な腕に。枯れたようにやつれていた金髪には、絹のように艶やかな色と瑞々しさが戻り、風を受けて柔らかくなびいていた。 驚きで目を見開く魔女の顔つきも、可憐な乙女のそれになっていた。ほんのりと朱が差した頬は柔らかそうで、唇は雨露に濡れた花びらのように膨らんでいて。 魔女の、少女の潤んだ瞳から。宝石のように輝くひと粒の涙、ぽろりと零れて風に飛ばされ――。 ……。 気がつけば、二人は元の場所に戻っていた。インヤンガイにある高級料理店の一室にいた。部屋の何もかもが、元通りになっていた。 けれど。 「お、おまえ……その姿……」 メルヒオールの前にいる魔女は、あの姿のままだった。まるで、死を冠する魔女になる前のような姿と雰囲気。 魔女自身も己の体の変化に戸惑い、驚愕しているようだった。骨がむき出しになっていない、きちんとした腕を見下ろしている。 「骨が……きちんと、肉と皮が……あぁ、感触がある……!」 それから魔女は、確かめるように指を閉じたり開いたりした。自分の顔や腕を、手で恐る恐る触った。体を腕で抱いた。 驚きと不安に満ちていた表情が、ほろりと崩れて。涙交じりの笑顔になっていく。 そして。食事を平らげた後の皿の上に残っているソースを、思い立ったように指ですくって舐め取った。 びっくりしたように、魔女の肩が弾んだ。背筋がぴんと伸びた。 「味が! 分かるのですわ!」 興奮で頬を赤らめながら。ぽかんとしたままのメルヒオールに向けて、嬉しそうにそう叫んだ。 魔女は慌てた様子で再び席に着くと、呼び鈴を鳴らして新たな料理を注文した。 寡黙な店員が姿を見せ、食事の済んだ食器を片付け、やがてたくさんの豪勢な料理が運んでくる。 それに、魔女は喰らい付いた。今までの気取ったような仕草ではなく、おなかが空いて仕方の無い、行儀などまだ知らぬ子どものように。 「おいしい……ああ、おいしい、おいしい、おいしい!」 頬をいっぱいに膨らませて。口についたソースを気にすることもなく。目の前の魔女――いや、ただの少女か――は、涙を零しながらおいしそうに食べ続ける。 メルヒオールはその光景を、呆気に取られた様子で眺めているしかできなかった。 けれど、観念したように溜息をつくと。彼女の席の傍にのろのろと歩み寄ってきて、席に着いた。料理のひとつに手を伸ばして、もそもそと食べ始めた。 それに気づいた魔女は、おかしそうに笑って。 「……食べないのではなかったですの?」 「気が変わったんだよ。それに、食事は一人より二人だろ」 「何ですの、それ」 「……うるせえ」 そうして、二人。互いに言葉は交わすことなく、ひたすらに食事を続けた。 むしゃむしゃ。もそもそ。 がつがつ。もそもそ。 「そういや、さっきの話の続きだが……」 「むぐ? はえへいうほへ、あほいいへいははへあふ?」 「……食べているので後にして頂けます? じゃあ別に聞き流して構わん」 疲れたように息をつきながら、メルヒオールは話し出した。 「連続性ってのは、ひととのつながりや心とか気遣いとかも含むものなんだ。誰かと誰か……それが互いに影響し合って、変化が生まれることもあるんだ。例えば、今の俺が実際にそうだ。変化した」 「んぐ、ごくっ……何がですの?」 「なんだ、聞いてたのか」 「いいから続きを早くですの」 言いながらも、魔女は料理に手を伸ばし続ける。 その様子が、まるで腹を空かした子犬が餌にありついているような、そんな風に見えて。メルヒオールは横目にくすりと微笑む。 「……最初は食う気なんて無くて、さっさと帰りたいって気持ちだけだったんだが……美味そうにガツガツ食ってるおまえを見てると、俺も腹が減った。これが〝変化〟ってこと。生きるってことだ」 「ところで先生」 「何だよ。禍害……課外授業はきちんと済ませただろ。まだ何か……」 急に言葉を挟んできた魔女にメルヒオールは少し警戒し、野菜をつつくフォークの手をぴたりと止めた。また何か気まぐれに難題でも吹っかけるつもりなのかと、隠しもせず苦そうに表情を歪める。 肝心の魔女は食事の手を休めている。教師から顔をそらし、うかがうような視線をちらちらと向けてきている。 魔女は口をぱくぱくとさせ、恥ずかしそうに、遠慮がちに。たっぷりと間をおいてから、やがてこう口にした。 「あ……あーん、するのですわ」 ……。 ……。 ……。 二人の間には、沈黙と戸惑いの空気が漂う。 教師は、瞳ぱちくり。引きつった笑みを浮かべた。 「……う?」 「だから、その……」 「あ、なんだ。え? あーん、って……今……?」 「ににに、二度も言わせる気ですか乙女に恥をかかせるのですかこの淫乱教師!」 「ちょ、ちょっと待てよ……」 真っ赤にした顔から蒸気を吹き出しつつ、魔女は唾を飛ばす勢いで必死に抗議した。そして顔をぷいと背けてしまう。 メルヒオールは一筋の汗を滴らせつつ、気まずそうに顔をそらして。 ……。 ……。 ……。 こすぐったい沈黙が続く。 けれど。 やがて二人はそれぞれ、意を決した。 二人は同じタイミングで、弾むように顔を相手に向けた。そして互いに、口を開けて差し出すようにした。 ……。 ……。 ……。 おかしな沈黙が続く。 二人は決定的なミスに気がついた。二人は顔を真っ赤にしながら、勢い良く席を立って罵声を浴びせ合った。 「なんで先生が口を開けていますですの!」 「それはこっちの台詞だ! おまえがするんじゃないのかよ!」 「違いますわよ! 先生が! 私に! 食べさせるのですわよ!」 「それならそうと、はっきり言えよ! あーんしろだけじゃ勘違いするだろ! だー、くそ。いらん恥かいちまった……」 恥と悔しさが胸の中で荒れ狂う。メルヒオールはいつもより乱暴に頭をがりがりと掻いた。 そして憤慨した足取りで部屋を立ち去ろうとする。今までのぼうっとした雰囲気の彼が、あからさまに怒っていた。 魔女は慌てて手を伸ばしたが、それは払いのけられて。 「ちょ、ちょっとどこへ行きますの?」 「帰る」 「ま、まだ授業は終わっていませんわよ」 「うるせぇ、補習なら一人でやってろよもう!」 「あああ、お待ちなさい! 待って! 待ってよ! ちょっと私、手持ちがあまりないのですわ、このままじゃ支払えなくて皿洗いに……」 「引っ付くな! 引っ張るな!」 駄々をこねる子どもみたいに、魔女は彼の足にしがみつく。ぷんぷんと不機嫌さを露にしたメルヒオールは、魔女を引きずるのも構わずに、ずるずると歩いていって。 † その後。 結局、二人の持ち合わせでも微妙に足らず。不足分は皿洗いの仕事で還元することに。 ……魔女の姿はいつの間にか、気がつけば元に戻っていたそうな。 こうして、課外授業は終わりを迎えたのであった。 <おしまい>
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