かばんの中には世界をえがくためのクレヨンと、 とっても甘くてまあるいキャンディ。 転んだときにはばんそうこう、 ハンカチは、そう、女の子の身だしなみ。 そして何より大切な、 ママのお写真、パパのにがおえ―― ● まっしろな紙に描くのはいつだって、“もう知っている”世界だけ。 「みどりのクレヨン、森のいろ。あおのクレヨン、お空のいろ。あかのクレヨン、お花のいろ」 歌うようにつぶやきながら、ゼシカは画用紙に色をのせていく。 真っ白だった世界が、幼い彼女の大好きな風景に変わっていく。 「しろのクレヨン、おうちのいろ。ちゃいろのクレヨン、ドアのいろ」 青い空の下、緑の木々を背景にして建っているのは白い教会―― そしてその傍らにはゼシカの住む孤児院。赤い花に囲まれたその建物は、とても静かでやさしい色だ。 ゼシカはその“おうち”の前に、人を描きこむ。 「きいろのクレヨン、ゼシのかみの毛、あおのクレヨン、おめめのいろ……」 そこにいるのは自分。大好きなおうちの前で笑ってる。 それから、その隣にもうひとり。 (きょうは、先生) 並んで立った先生のローブの色を塗る。最後に目を描き入れて、ようやく完成。 クレヨンを置いたゼシカは、両手で画用紙を持ちあげた。 大好きな世界がそこにあった。少女の透けるような青い瞳が、満足そうに輝いた。 それは毎日目にしている外の風景。 彼女は自分が見たものを絵に描くのが好きだ。とはいえまだ五歳の彼女はなかなか遠出ができないから、描く景色は自然といつも教会の周辺になる。 それでも、ゼシカは満足だった。 教会の周りは毎日おさんぽするけれど、毎日新しいことを見つけられる。 幼い彼女にとって、その世界はじゅうぶん大きい。 彼女はいつも、その大きな世界を紙の中に閉じこめる。クレヨンで一心に描いているうちに、きれいな景色はもっと強く自分の心に広がっていく。あざやかな世界の中に自分がいる。お空と森と、お花と虫さん、白い建物、町の人々…… 昨日画用紙に描いたのは、よく教会にくる町のおばさんだった。 ゼシカを見つけるといつも頭をなでてくれるそのおばさんのことを、ゼシカは大好きだったけれど、恥ずかしくてなかなかお話できない。 今日はお話できなくてごめんなさい。そう思いながら、おばさんを絵に描き入れた。せめて絵の中で、おばさんとおしゃべりしたくて。 そうやって、やさしい町の人たちは、ゼシカの絵に何度も訪れる。 今日のお客さまは先生だ。 遊ぶのもいいけれど、それよりやりたいことがある。 (きょうは、先生のお手伝いをするの) 心の中でそっとつぶやいた。 先生の顔がふんわりと微笑んだ気がした。まるでマシュマロのような笑み。 ――ありがとう、ゼシカ。 きこえてくる。毎日、ゼシカが教会や孤児院のお手伝いをするたびにもらえる言葉だ。 ゼシカは“がんばりや”だった。先生や町の人たちのお手伝いは一生懸命やるし、教えられたことはできるまで何度でもくり返す。 先生も町の人もみんな“いい子ね”と褒めてくれる。けれど、ゼシカは褒められたくてそうしているわけではなかった。 「ゼシカ。ゼシカ。朝のお祈りに行く時間よ」 ドアの外からシスターの声がした。 ゼシカはあわてて、散らかっていたクレヨンをかき集めた。ちゃんとお片づけをしてから、パタパタと自分の服をはたいて整える。 きょうもしっかりお祈りをして、たくさんお手伝いをしよう。そう決めて、少女は部屋を飛び出した。 ゼシカの住む孤児院は、元は教会の人が作った施設だ。 だから孤児院のこどもたちは、朝と夜に必ず教会を訪れお祈りをする。 ゼシカが教会についたころには、すでに聖堂の人かげはまばらになっていた。ゼシカは聖母像のすぐ前に立ち、お祈りをした。 (……マリアさま) 聖母像は毎日磨かれ、にび色に輝いている。いつ見てもそっと微笑んでいる聖母さま。 (マリアさま、ゼシはきょうもがんばります) だから、きょうもみんなが笑ってくれますように。 きょうもいい日でありますように。 それから…… 顔をあげて、聖母さまのお顔をじっと見つめる。お祈りの最後に、そっとつけたした。 ――ねえ、マリアさま。 (ゼシのパパとママは、どこにいるの?) 物心ついたころから、そばにいるのはシスターたちばかりだった。 孤児院にいる全員、両親がいない。それは教えられていても、“どうしていないのか”までは誰も教えてくれない。 周りのみんなそうだから、自分も親がいないことをおかしなことだとは思わない。 けれど。 (ゼシ、パパとママとも遊びたいの) 毎日画用紙に描く絵。 その世界に両親が“遊びに”来てくれたことは、一度もない。 ゼシカは両親の顔を知らない。一生懸命“想像”してみても、何も浮かんでこない。クレヨンで線を描いてはすぐにぐちゃぐちゃにして消してしまう。 ――ちがうの、パパとママはきっとこんなじゃない。 そう思うたびに泣きそうになる。胸が、きゅうっとつぶれそうになる。誰かに聞きたいけれど、なかなか自分から人に話しかけることができなかったから、自分でいっぱい考えて。 『パパとママは、かくれんぼしてるんだ』 ある日、そう思った。 『ゼシはまだちっちゃいから、見つけられないのね』 教会の周りをおさんぽするのが好きなのは、いつもパパとママをさがしているから。 でも、パパもママも見つからない。遠くまで行っちゃだめよと先生が言うから、遠くまではさがしにいけない。 『だから、パパとママが帰ってくるのをまってるの』 教会でお祈りとお手伝いをしながら、ゼシカはひたすら両親を待った。 『ねえパパ、ママ。ゼシはいろんなおしごとができるのよ。お掃除もお片づけもとくいなの。クッキーも作れるんだから。いっぱい作って、パパとママに食べさせてあげるね』 二人が帰ってきてくれるなら、『自分はもうちっちゃくないのよ』と言いたかった。 二人を自分で見つけることはできなくても、こんなに“成長”したのよと、胸をはりたかった。そうすれば―― (ねえ、マリアさま。パパもママももう、勝手にかくれんぼ始めたりなんて、しないわよね?) もう置いていかないで、パパ。ママ。 まだ五歳のゼシカにとって、それは泣きたいくらい真剣な≪祈り≫だったのだ。 「ゼシカ。今日もありがとう」 お掃除のお手伝いを終えると、先生はにっこり笑ってゼシカの頭をなでてくれた。 「今日はもう自由時間よ。遊んでいらっしゃいな。――ああ、そういえば朝のお祈りのときに、サキくんたちがお外で遊ぶつもりだと言っていたわ。あなたも行ってくる?」 毎朝親にくっついてお祈りにくる町の子供の名前を出され、ゼシカはうつむいた。何も言えない代わりに、スカートのすそをもじもじといじる。 遊びたい。でも、サキくんたちはいつもしゃべり方が強くて、ゼシはこわいの。 先生は困ったように微笑んで、もう一度ゼシカの頭をなでた。 「そう。でも、行きたくなったらいつでもお出かけしていいのよ?」 ゼシカはこくんとうなずいた。 それからたくさん悩んだけれど、結局ゼシカはサキくんたちのところへ行かなかった。 自分のおへやにいると、外のみんなの声が聞こえてきて悲しくなってしまう。だから、今日は屋根裏べやで遊ぶことにした。屋根裏べやは窓がないから、お外の声もあまり聞こえない。 暗い部屋の中には、たくさんのものが丁寧に布や箱でしまわれていた。まるで宝探しのような探検ごっこ。 ゼシカは夢中で奥まで進んだ。 時間がたつのも忘れどんどん物の中にもぐりこんでいった彼女の目に、ふと、小さな木箱が映った。 屋根裏べやの隅の隅。 ゼシカにも持ちあげられそうなサイズの古ぼけた箱は、風景になじんでひっそりとそこにある。 なにが入っているのだろう……? そっと触ってみると、埃が舞った。 鍵はかかっていなかった。ゼシカはちょっとためらってから、ふたを開けた。 中に、入っていたものは―― 「先生、これだあれ?」 ゼシカが差しだしたものを見た先生は、大きく目をみはった。 「まあ、これは……ゼシカ、どこで見つけてきたの?」 屋根裏べやで、と小さな声で答えると、 「そう……屋根裏にあったのね」 とても懐かしそうにそう言って、先生はゼシカの手からそっとそれを――古い一枚の写真を受けとった。 写真を眺める先生の目がうるんでいる。 ――その写真に写っていたのは、男の人と女の人だった。 眼鏡をかけたとてもまじめで誠実そうな男性と、 白い花嫁衣装に身を包んだ、若く美しい女性―― ゼシカもよく知っているこの教会の前に立ち、二人は微笑んでいた。まぶしい日ざしの中、とてもやさしく、とてもおだやかに。 そして、とてもとても幸福そうに。 結婚式のときね、と先生は言った。 「けっこん、しき?」 先生はゼシカを見つめた。何かを、迷っているような顔で。 ゼシカはどうしても聞きたかった。写真の中の二人が、青いお空のような顔をしていたからかもしれない。 「先生、それはだぁれ?」 もう一度たずねたその瞬間に。 先生の目の奥にあった固い何かが、溶けるように消えた。 先生はゼシカの前でかがみ、目線の高さを一緒にした。やさしい先生の瞳は、まるでマリアさまのように微笑んで。 「ゼシカ。これはあなたのお父さんとお母さんよ」 お父さんとお母さん……? 先生は教えてくれた。 ママはこの町の人、パパは外から来た牧師さんだと。 この教会で知りあった二人は、やがて結ばれて子を授かったのだと。 けれど。 「……あなたのお母さんは病弱だったの。でもね、ゼシカ。お母さんはどうしてもあなたを産みたいと願った」 願いは聞き届けられた。 彼女は新しい命をこの世に生み落とし、そして力つきた。 そのときお父さんは―― 「あなたのお父さんは、あなたのお母さんを深く愛していたわ。だからとても、とてもショックを受けて」 ――そのまま姿を消してしまった。 「……お父さん」 ゼシカの口から、こぼれるようなつぶやき。 ママは――お母さんは、死んでしまった。 でも、お父さんは。 「ゼシカ。お父さんを恨まないであげてね」 先生は言った。片手に写真を大切そうに持ったまま、もう片方の手をそっとゼシカの肩に置く。 「彼はお母さんも……生まれたあなたも、死んでしまったと思ったの。二人とも喪ってしまったと思った。彼は自分のことが許せなかったのよ」 牧師だったお父さん。 とてもまじめで、とてもやさしくて、そして少し――弱い人だった、と。 「でも、あなたのお母さんはお父さんが大好きだった。ゼシカ……あなたは、お母さんにそっくりよ」 彼の愛したあの美しい女性に。 世界が広がり始めたきっかけは、古ぼけた一枚の写真…… ママはもういない。それでも先生は言ってくれた。 ――そっくりよ、と。 鏡をのぞきこめば、そこにはきっとママもいる。 「……お母さん」 そっと目を閉じ、「またね」とママにひととき別れを告げて、 「……お父さん」 そしてゼシカはいつものように、白い紙を前にする。 パパがどこにいるかは分からない。 でも、どこかにかならずいるのだ。 広い広い、教会や町よりずっと広い、この世のどこかに、きっと。 「……ゼシ、お父さんに会いたい」 いつかパパを見つけられたら。 パパの前でお掃除やお片づけをしてみせて。 こんなに大きくなったのよ、とせいくらべをして。 そして、言ってあげたい。もうかくれんぼはおしまいだよ……と。 その日、夜通し絵を描いた。 結婚式の写真を何度も見かえしながら、パパのにがおえを。 それは初めて風景のない世界。 ――今はたった一人、お父さんだけを。 ● お父さんは、今どこにいるのだろう。 “自分の知らないこの世のどこかに” 白い紙に描く世界は、どんどん広がっていく。父を求め、世界を求め、 ≪世界の広さ≫を受け入れた。それは未来へ続く糸。 そして糸は、やがて光る道へと変わった。 幼子はひとり、旅立つ決心をする。 両親の写真とにがおえを、大切に胸に抱きながら。 まっしろの紙に、こんどは父とともに見る世界を描くために。 ――ねえ、パパ。 ゼシはパパをさがしにいくからね。 ぜったいに見つけるから、それまでゼシをまっててね、パパ――
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