サシャ・エルガシャがその後ろ姿を見かけたのは、もうお昼もすぎたのどかな昼下がりのことだった。 「……お仲間さんっ?」 思わず振り向いた。彼女の動きにつられて、肩で揃えた金髪がさらりと跳ねる。 視界に映ったのは、黒のゴシックメイド服――そしてゆるく結ばれた紫の長い髪。 どことなくのったりとした雰囲気のその後ろ姿は、やがて角の店へと消えた。 「あそこは……」 サシャは眉をひそめた。 あそこはたしか、酒場だったような。 (メイドさんが? こんな時間から?) 使用人の身分でほいほいと入っていい類の店ではない。少なくともサシャ基準では。 メイドじゃないのだろうか? (……もしや、アレ? こすちゅーむぷれい、っていうやつ?) むむぅ、と難しい顔で彼女は考えこんだ。コスプレ。制服フェチな人々による崇高な儀式。憧れの職業の服を着ることで一時的になりきってみたり、男性が女性に着せてあれやこれやそれや云々。 「って、い、いかがわしいわよぅっ!」 勝手に想像して勝手に赤くなり勝手に叫んだサシャ、現在そんな話題にも敏感な恋する乙女。 いやいやいや。いくらなんでも真昼間からそれはない。ない。きっとない多分ないお願い誰かないって言って! ぶんぶんと頭を振ってそんな考えを振りきり、たった今ゴシックメイドさんが消えた店の方向を見すえる。 もしも本物のメイドさんなら、ひょっとしたらお仕事で酒場に行ったのかも。うん、きっとそうよね! (――って、ああもう落ちつかないわよぅっ!) 情けない気分で小さく唸り、サシャは意を決して歩き出した。足早に、例の酒場へと。 たしかめなくちゃずっと気になる。せっかくの午後が楽しめない! メイドたるもの、即行動なり。彼女は迷わず酒場の戸をくぐる。 ――サシャの百面相をずっと見ていた通りすがりのおっちゃんが、困惑顔で首をかしげていたことを、幸か不幸か彼女は知らない。 酒場は昼間から盛況だった。 「ほらほらあ、男ならぐいっといきなぐいっとぉ!」 軽快に笑う女の声にあおられ、男たちの歓声があがる。 「よっしゃあねえちゃん、俺がこれ全部飲んだらこの後つき合えよぅ!?」 「却下。あんたがもっといいオトコだったら考えてやってもよかったわね」 「なにい俺のどこが悪いと!? 見ろ、この鍛え上げられた筋肉を――!」 「暑苦しい」 すぱっと斬り捨て、にへりと笑ったのは、メイド服を着崩した紫の髪の女だ。 その手にはジョッキ。豊かな髪を邪魔そうに後ろに払い、彼女はそれを一気にあおった。 「――うまいっ。あたしの恋人はやっぱり昼寝と酒だ!」 高らかにそう言い、ぐてーっとテーブルに突っ伏す。実に幸福そうな表情で。 ぐうたらだ。非の打ちどころのないぐうたらだ。 それがメイド服なんか着ちゃってるもんだから、怠けイメージも三倍。こんな時間から酒盛りに興じている男たちでさえ「俺たちってひょっとしてマシかも」とヘンな勘違いをし始めた。 「ねーちゃん」 近場の男が、ぽんと女の肩を叩く。「あんたはぐうたら伝道師だな……その服装はあれか、最も効果的なコスチュームとして数えきれない衣装の中から選んだとかか?」 「失礼ねえあたしはメイドよ。れっきとした正真正銘嘘偽りなくメイド」 「嘘だろ」 「嘘かも」 うそぶき、女は唇に不敵な笑みを浮かべる。 「この際メイド卒業しちゃってもいいわね。そうしたら一日中飲んで寝て。ああ至福!」 「見事なぐうたら宣言だなねーちゃん! しかし金はあるのか?」 「じゃあパトロン募集。お金持ってて退屈しなくて束縛しないいいオトコ、はい立候補どうぞ!」 「いるかそんなやつ!」 つっこみとともに、ギャラリーがどっと湧いた。そこから一気に酒場は騒がしくなった。 何が楽しいのかさっぱり分からないが、酔っ払いというものに理屈は存在しない。グラスは楽器だそれ歌えやれ踊れ今日は無礼講だ―― 「…………」 その騒ぎを、サシャは戸口で呆気にとられて見ていた。 ――何だろうここは。真昼間から完全に出来上がっている。 しばらく呆然と止まっていた思考がよみがえると、今度は体がわなわなと震え始めた。 別に、世の中の酔っ払いを否定する気はないのだ。人間、時にはハメをはずすことも大切だ――お酒が好きなこと自体は別に悪ではない。 真昼間、とは言っても、ここはターミナル。変化のないこの不可思議な世界では、時間などあまり意味がないのも分かってる。 そうではなくて。 (め、メイドがこの騒ぎの中心……っ!) そこが。 その一点が、どうしても。 ――にらみつけるように見ていた相手が、ふとサシャを見た。 ふふ、と紫の髪の女は微笑んだ。眠たげな目は愉快そうで、でもどこか穏やかで。 どうぞ。そう言われたような気がした。 そう思った瞬間、弾けるようにサシャは怒鳴った。 「な、何してるんですか……っ!? そ、そんな格好で、こんな場所でっ!」 笑い声が止んだ。かわいらしいサシャの声は、この場ではあまりに異質だ。 一斉に戸口を振り返り、男たちはメイド服その2をしげしげと見た。 ハイユと違い、いかにも“まともなメイド”サシャは完全に浮いていた。が、まあ……様々なツーリストが滞在するこの0世界では、今さら誰もつっこむ気が起きないらしい。 サシャは全身に刺さる視線を完全に無視し、ただもう一人のメイドを見つめていた。 (こ、この人、本当にメイドだわ……) むしろ「メイドじゃないよコスプレだよ」というオチであってほしかった気もするが。……同族の匂いというものは、やはりあるのだ。 (しかも、お屋敷の先輩たちと同じ雰囲気……べ、ベテランさんっ?) 「まあまあ」 視線の先の紫髪の女性は、いかにも適当そうに手をひらひらさせた。「何だか知らないけど、あんたも飲んだら? ここはお屋敷じゃないんだから」 「だ、ダメですわっ!」 思わずお屋敷での喋り口調になる。細い肩をいからせ、サシャはまくしたてた。 「メイドたるもの! 内でも外でも品行方正に……っ! どこで誰に見られているかも分からないのに、お家の品性を損ねるようなことは、断じてっ!」 握り拳をかため、精魂こめて力説する。視線が酒場内を見渡し、もはやテーブルの位置も滅茶苦茶になっているのを改めて見た彼女は、嘆きの表情を浮かべた。 「真昼間から酒場でどんちゃん騒ぎなんて……旦那様に恥をかかせてしまいます!」 「あたしんとこはお嬢様だけどねえ」 「揚げ足を取らないでくださいましっ!」 地団駄を踏みたかったが、それこそメイドの行動ではない。ぎりぎりでこらえたサシャは、何とか自分をなだめすかそうと深呼吸をした。 サシャの来訪を面白がっている男たちは、わざわざ二人のメイドの間に道を開けてくれる。 サシャはその道を進んだ。 そして目的の女性の前に立ち、ぴんと背筋を伸ばした。 「……ワタシはサシャ・エルガシャです。お名前をうかがっても?」 「あたしはハイユ。ハイユ・ティップラル」 「ハイユ様、少しお尋ねしたいのですが」 「店員さーん、この子にホットミルクあげてー」 「ワタシはもう成人です!……あ、いえ、お酒は飲みませんけどっ!」 にっくき童顔。でも今はそれどころじゃないっ。 ハイユはだるそうに頬杖をついた。 「あんまり興奮すると体に悪いよー?」 「おっ、お酒の方が体に悪いですわっ!」 「アルコールは適度ならむしろ体にいいんだけど」 「明らかに“適度”を超えていらっしゃいます! あなたはご自分の旦那様――お嬢様やそのご家族に、その酒量をおすすめできますかっ!?」 「んー? ああ、うちのお嬢に飲ませたら面白そうだねえ。っと、どれだけの酒量が限界かは人それぞれだし、まあてきとーに」 「て、適当なんて……っ」 再びわなわなと肩を震わせ、「ご主人様の健康管理も立派なメイドのお仕事ですっ! 日々何をどれだけ口になさっているか把握できなければ! 適当なんてありえません!」 「めんどくさいじゃないそれ。まあ自分が作って出した料理の分量なら把握してるけどね――お嬢が外で勝手に食べた分は知らない」 「それじゃいざという時、原因が分からずに困るじゃありませんか!」 「だってお嬢ももう十分な歳だしねえ。自己管理させなきゃね?」 「………っ」 サシャは詰まった。 主の自立を促す――それはたしかに、立派なひとつのメイドの主義だ。 「で、では、ハイユ様はそうやって、お嬢様の成長を第一にお考えになると仰るのですね?」 真面目にそう尋ねる。 ハイユはアハハと愉快そうに笑った。 「そんな固いことは考えてないわよ。てきとーにやればいいんだから」 「………っ!」 一瞬でも見直した自分に腹が立った。 「ハイユ様!」 サシャは胸を張り、改めてハイユをにらみつけた。 「大変失礼ながら、試させて頂きます。そうですね、やはり基本のテーブルセットからでしょうか? ハイユ様! テーブルセッティングをするときの心得は!?」 「んー? てきとーでいいんじゃない?」 「……っ、で、ですからっ、テーブルセッティングはまず何を中心に飾るかを考えて――雰囲気を、大切にするのです! 素晴らしい食事には素晴らしい食卓が必要です……!」 「こだわりすぎると格式ばって疲れると思うんだけど」 「き、基本は大事ですわっ。では、ナプキンのたたみ方の基本はどうですか? ディナーとティーでは、どう違うか、もちろんご存じですわよね?」 「知ってる気がするけど、めんどくさいからやってない」 ハイユがとろんとした目つきのまま肩をすくめる。サシャは内心、キーッと歯噛みした。 しかしハイユは、思い出したように続けた。 「そもそもナプキンなんてどう折ったっていいじゃない? あたしナプキンで動物作るの得意よ? 花も得意。これはけっこうお屋敷でもウケたわねー」 「………っ」 “テーブルの雰囲気のために”ナプキンを様々な形に折る。……これもメイドの仕事だ。 サシャは咳払いをする。 「さ、さすがですわね。では、テーブルに飾る花を選ぶ際の注意は?」 「んー。まあ適当」 あっさりとそう答え、ハイユは愉快そうに笑う。「いっそ花でテーブルをいっぱいにして、向かいに座る相手の顔が見えないくらいでもいいわよねえ。声だけで会話。あっは、お嬢にやらせたいかも」 サシャは一瞬口をつぐんだ。いかにもハイユらしい気がするが、……実はそこまで大量の花で飾ることは、それほど珍しいことではなかったりもする。自分はやったことはないけれど。 話を進めよう。サシャはめげなかった。 「ディナー皿の位置は手前から3センチほど、脇にバターナイフを縦向きに、スプーンは表を向かせて置くこと。これは基本ですね?」 「どうだったかしらねえ」 「……グラスの並び順は?」 「適当?」 「………」 何だか色々虚しくなってきた。 サシャは目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。落ちつけ。負けるな。同じメイドとして、譲れないものがあるッ――! カッ! と目を見開き、 「では質問を変えます! ハイユ様、メイドたるもの主を信頼すること! これはお分かりですよね?」 「信頼ねえ。まあうちのお嬢、頭はいいからね。特に『信じらんなーい!』ってなったことはないけど?」 「……でも主が誤った道に進みそうならば、それとなく意見することも、時には必要だとワタシは考えます。それについては?」 これについては賛否両論だろうと、サシャ自身思っている。主人には絶対服従、召使が意見するなどトンデモナイ――そう考える者も当然いる。 では、目の前のメイドは? ハイユは面倒くさそうに眉間に軽くしわを寄せた。 「……いーんじゃないの? お嬢が考えて選んだ道ならねえ……あたしはまあ、反対しない」 「ハイユ様――」 「反対してお嬢と口論になった日には面倒くさいことこの上ないし? ああもう適当にやってくださいお嬢サマってこと」 「………っ」 サシャは真っ赤になってぶるぶると震えた。 ぐるぐると胸の奥で何かが渦巻いている。怒りのような、呆れのような――ああ、悔しさかもしれない。 だって悔しい。この目の前の女性、きっと“やればできる”人なのだ。 自分のようにドジッ娘だったりしないに違いない。まとう雰囲気がそういう人間のものなのだ。 (それなのに、それなのに――) ちょうどハイユの前に新しい酒が運ばれた。 またもやジョッキ。 にわかにギャラリーの熱気が増した。暑苦しい期待のこもった視線の中央で、ハイユはくいーっときれいに酒を飲み干した。 歓声とはやし立てる口笛が、サシャの聴覚に襲いかかる。 「くーっ」 だるそうなハイユも、この時ばかりは至福の表情を浮かべた。 「いいわねえ、暇なお昼に好きなだけお酒! ああ、適当万歳!」 「ハイユ様っ!!!」 サシャは爆発した。 ● ターミナルの片隅、とあるセルフサービスカフェで、午後のティータイムを過ごす男女が一組。 男女とは言っても、片方は小柄な若い娘で、もう片方は銀髪の老紳士だ。 「――では、壱番世界では蒸気機関は衰退しているのだな?」 ややつり目がかった青い目を興味深げに輝かせながら、娘――シュマイト・ハーケズヤが老紳士に尋ねる。相変わらずかぶっている大きな帽子が、少し重たそうだ。 彼女の視線を受けて、老紳士ジョヴァンニ・コルレオーネは柔らかく微笑んだ。 「衰退、という言葉は好きではない。だが、電気機関に席巻されたのはたしかなことじゃな」 シュマイトはふしぎそうに、小首をかしげた。 「それは衰退というのではないのか?」 「一般的には。しかし今でも蒸気エネルギーは利用可能な資源じゃて。デメリットも多いエネルギーと言えど、この先必要になる可能性はゼロではない」 エネルギー資源は、あらゆる種類が揃っている方が安心だ。ひとつのエネルギーに頼っていては、この先何が起こるか分からない。 穏やかにそう言って、ジョヴァンニは一口、紅茶を口に含む。 今日の茶葉はアッサムティーだ。まるで果実のような甘さと芳醇な香り、それでいてクセがない爽やかさ。 一方のシュマイトは、今日はジョヴァンニの勧めでレモンティーを頼んでいた。しかし、ジョヴァンニが話してくれる壱番世界の話が面白くて、つい飲み進めるのを忘れてしまう。 ふむ、と真剣な顔で、シュマイトは腕を組んだ。 「わたしの故郷は蒸気機関と魔法技術が並び立っていた。エネルギーとしては、それで十分に補えたわけだが」 虚空に視線を投げやり、思案する。 「たしかに蒸気と魔法、どちらかでも欠けたら一気に世界が崩れた……かもしれん。規模が大きすぎて確定的には言えんな。無論、他のエネルギーについて研究している者がいなかったわけではないが。……壱番世界は、そういった危険性についての先見の明に優れていたか」 「それは何とも言えぬよ。古人の考えを完全に覗くことはできないのじゃからな。だが電気に関して言えば、そもそもは――」 老紳士はそこで一息入れて、ティーカップをまた口元に運んだ。 空気がゆったりと流れている。それでいて、濃密だ。 シュマイトはわくわくしながらジョヴァンニの次の言葉を待った。 「――そもそもは、紀元前六百年ごろにすでに『摩擦電気』についての記述があった。ギリシャでのことじゃ。……琥珀と布を擦りあわせると生まれる摩擦電気が彼らにとって興味深かったのであって、それを役立てようというところにまで思い至っていたかは分からん」 「それはそうかもしれんが……」 「それよりももっと古くには、電気を発生させる魚についての記述もある。これを古人は雷神と考えた。人の手に負えるエネルギーとは思っていなかったのかもしれんな」 「今でも人の手に負えると言えるか?」 シュマイトは首をかしげた。 ジョヴァンニは口元に柔らかく笑みを浮かべる。 「そこはこの先、電気研究において念頭に入れるべきじゃな。そうそう、古代ギリシャではその電気を発する魚を頭痛患者などに触れさせて治療するということもやっておったそうじゃよ」 「……そうなのか。人間、身近にある力はすぐに利用するものだな」 苦笑気味に笑い、シュマイトは「では」と気になることを尋ねる。 「その電気の利用……そうだな、道具として利用を始めたのは、いつだろうか?」 「道具としてかね。現在分かる範囲の話であれば、おそらく羅針盤じゃろうな」 「羅針盤……」 「正しく言えば磁気の利用じゃ。11世紀頃に船乗りの間で広まったという。あくまで電気を扱う道具ということであれば……ライデン瓶が18世紀頃に発明されておる」 ライデン瓶―― 聞いたことはある。静電気をたくわえておく装置だ。生活に使ったというよりは、主に電気実験に使われたらしいが。 「ちなみに雷が電気であることが証明されたのは、それよりも後……18世紀半ばのことじゃよ」 面白いことに、とジョヴァンニは温和な表情のまま滑らかに語り続ける。 「その頃にはまだ電気の強さを測る方法がなかった。自身の体に電気を流して、そのしびれ具合で電気の強さを測っておった」 「……それはまた不確実な……」 「まあある程度の目安があれば研究はできたということじゃ」 「それは分かるがな」 自身発明家であるシュマイトには分かる。 『未知』のものに挑むためには、ある程度の見切り発車――あるいは不確定要素を信じて突き進まなくてはいけないことも、しばしばあるのだ。 「いわゆる学者と呼ばれる人々にも色々おるのじゃよ。かのアリストテレスは生物学において紛れもなく偉大な学者じゃった。だが物理学に関しては間違いも多かったと言われておる。壱番世界において天動説が絶対的に信じられていたこともあった。医学においては、動物の体内構造を研究しそれを人体にまるっと当てはめ考えていたこともある……」 「動物を? それはまたどうして?」 目をしばたいたシュマイトに、ジョヴァンニはゆっくりうなずいて見せた。 「簡単なことじゃよ。人体解剖が許されない時代の医学者が出した解剖図が、長く後の世にまで残ってしまった」 「ああ……」 「その学者が偉大であったことは間違いない。しかし後の世の者が、先駆者を過信しすぎたんじゃな。まったく疑いなくそれが正しいと思いこむことで、学問の発展が妨げられたことも多い。反した論を唱えれば排除されてしまうのじゃから、安全圏から出られぬ者もいたのじゃろう」 そんなことを言いながら老紳士は涼しい顔でふと空を見た。 「……今日は、一段とのどかな日じゃの、シュマイト嬢」 「そうだな」 何だか唐突だ。おそらくシュマイトを休ませようとしたに違いない。 シュマイトの顔が笑み崩れる。 気遣いが嬉しい。同時に、そんな気遣いは無用だと示してあげたくなる。 シュマイトは機械いじりと同じくらいに、新しい知を得て思考するのが大好きなのだ。 だから彼女は、テーブルに身を乗り出した。 「もっと教えてくれジョヴァンニ。例えば……そうだな、壱番世界では、なぜ『魔法』は発展しなかった?」 ジョヴァンニは、ふむ、とあごをなでた。 「……コンダクターの過去を聞くに、魔法に近い能力者が壱番世界にも元々いるのはたしかなんじゃろうが。たしかに壱番世界でそういった力は、むしろ排斥される力じゃな。……わしの推測でよいのかな?」 「もちろん」 「『魔法』は存在する、と、証明するのが難しかった――からじゃろうな」 ゆっくりと紡がれた言葉に、シュマイトは再び目をしばたいた。 証明すること。 例えば今二人の目の前に『テーブルがある』ことが、誰もが納得し信じられる事実であるように、全員が確信できる“何か”を提示すること。 「そして伝統的に、“魔法は存在する”と信じるような土壌が出来てはおらん。例えばシュマイト嬢、貴女の世界の人々は物心つくころには魔法の存在を“受け入れて”いたのじゃろう。あって当たり前で、誰もその力が嘘か幻だなどと考えもしない。壱番世界にも、昔はそういった“受け継がれた価値観”があった。今でも地域によっては残っているのじゃろうが」 “世界的な一般常識”とはどうしても言い難い。 ゆえに、そこから広がることがない。 「………」 そうだっただろうか。シュマイトは腕を組んで考えこんだ。 ……そうだったかもしれない。 “魔法とは何だろう”と考えたことならばある。しかし、“魔法なんて嘘に違いない”と考えたことは、なかったように思う。 『その力は確実に存在している』と、すでに確信していた。そして今この瞬間も、全く疑っていない。 「……生まれながらに刷りこまれているいる価値観、ということか」 「わしはそう考えるんじゃよ。……科学が発展したのは、誰が見てもうなずける結果を出すのがルールだからじゃ。それでも異論は出る。何かを証明するのは、それほど難しい」 ジョヴァンニはティーカップに手をかける。 「しかしそれなら」 シュマイトは顔を上げて、まっすぐジョヴァンニを見つめた。 「……大昔には、酸素さえも人々は存在を知らなかった。それが、今では教育さえ受ければ全ての人間が知っているし、疑わない。……魔法も、ひょっとしたらそうなるのかもしれん」 ジョヴァンニは軽く目をみはった。 その柔和な顔に、ゆっくりと深い笑みを刻む。 「――それには長い長い年月が必要じゃがな。可能性がゼロではない。そしてこんな言葉もある――『十分に発達した科学は、魔法と見分けがつかない』」 若き女発明家を称えるように、老紳士はそっとティーカップを持ち上げた。 シュマイトはくすぐったい思いで微笑んだ。 知的好奇心旺盛な娘は、博学の老紳士に様々な質問を浴びせる。 午後のティータイムはこれ以上なく実のある時間となった。 ● 白熱したティータイムを終え、シュマイトとジョヴァンニは連れ立って店を出た。 「これからどうしたものかな……」 つぶやくも、特に答えを出すつもりもなく。 二人並んでのんびりと道を歩く。 行く先は決まっていないが、それで困るわけでもない。お互いの歩調をとらえてお互いに気遣いながらのやさしい散歩。 やがて、二人は交差点に差しかかった。 「……うん?」 行き交うまばらな人々の中に見知った顔を見つけて、シュマイトは眉をひそめた。 「ハイユ?」 それは彼女の使用人の姿。相変わらず着崩しただらしがないメイド服に、ゆったりと結んだ豊かな紫髪。いつも通りだらんとした風情でそこにいる。 その彼女の隣に金髪で褐色の肌の、これまたメイド姿の少女がいた。シュマイトの友人サシャである。 サシャはしきりにハイユに何かを訴えかけているが、ハイユはどこ吹く風だ。 「何をしてるのだ……?」 気になったシュマイトはジョヴァンニをつついて「ちょっとアレの様子を見に行きたい」と言った。 「あのメイド服のお嬢さんたちかね。ふむ……片方は、わしも知っている顔だ」 「そうなのか?」 それならなおのこと、挨拶に行こう。二人は連れ立ってメイドたちに近づいた。 「――ですからハイユ様っ! もっとしゃきっとなさってください! ここは外なんですから……どこで誰がご覧になっているか知れないのですからっ!!!」 金髪メイド、サシャは相変わらず必死に訴えていた。 「だからあ、別にいーじゃないのてきとーで。見られたところで死にゃしないわよ」 ぐうたらメイド、ハイユはやっぱりてきとーに手をひらひらさせた。 サシャがぐったりと肩を落とす。 その姿があまりに哀れで、シュマイトは同情してしまった。 「ハイユ、何をしてる。真面目なサシャをからかうな」 「あら、シュマイトお嬢」 「シュマイトちゃんっ!? それにジョヴァンニさんっ!?」 ハイユよりもサシャの反応の方が大きかった。金髪のメイドはハイユとシュマイトの顔を何度も交互に見て、「え、もしかして二人が……?」 心底驚いた様子でつぶやく。 「違う。……と言いたいところだが、残念ながらこのハイユはわたしのところのメイドだ。サシャ、がっかりさせてすまないな」 「それどういう意味? お嬢」 「今さらフォローが欲しいのかハイユ? 酒くさいな、飲んでいただろう……仕方のないやつめ」 すまなかった、サシャ――とシュマイトは謝った。 サシャはみるみる泣きそうに表情を崩した。 「シュマイトちゃん……っ。ハイユ様は、ハイユ様は……本気になればできそうなのに、どうして、どうしてっ……!」 「わたしもそう思うが、ハイユはこれがアイデンティティらしい。わたしもたまに殴ってやりたくなるがな。仕事はちゃんとやるんだぞ、これでも」 「これでもって何よお嬢」 「だから、フォローが欲しいのかハイユ」 「うんいらない」 ケラケラとハイユは楽しそうに笑った。 その様子を、サシャがうらめしそうに見ている。 「落ちつきなさい、サシャ嬢」 ジョヴァンニが若いメイドの肩を優しく撫でた。「貴女がそう深く悩むことではない」 「でもでもでもジョヴァンニさんっ」 顔見知りの老紳士を見上げて、サシャは目を潤ませる。分かってはいるのだ。考え方もやり方も人それぞれ、メイドの形もひとつではない―― 「サシャ嬢、仕事熱心は素晴らしいこととわしは思う。だが、もっと肩の力をぬきたまえ」 「ジョヴァンニさん……」 「そーそー、肩の力ぬいて気楽にやりなよ、てきとーに」 即座に横から口をつっこむハイユには、シュマイトが鋭い声を放った。 「君はもっと肩肘を張って仕事したまえ、ハイユ」 ハイユは肩をすくめて、「はいはい」と答えた。だが、だれた態度は全く直らない。 困ったメイドだ。シュマイトはサシャと一緒にため息をつく。 ハイユと一緒にいると、何だか真面目でいるのが馬鹿らしくなってくることがある。 (『適当』とは、本来『適度』という意味なんだがな……) 結局のところ、ハイユは誰より『適当』に仕事をこなしているのかもしれない……と、長年彼女を見てきたシュマイトは思わなくもない。 が、まあ。 ……自分はこれからもハイユに苦言を呈し続けるだろうし、サシャもつっこまずにいられないに違いない。 「まあまあ、その話はそれくらいにしたまえ」 ジョヴァンニがすべてを包みこむかのような穏やかさで、娘たちに片手をすっと差し出した。 「こうして会ったのも何かの縁。どうじゃねお嬢さんがた、わしと一緒にターミナルを歩かんかね?」 優しげで物柔らかな彼の青い瞳は、まるで空のように、憂鬱さもすべて飲みこんでくれる。 三人の娘は、互いに顔を見合わせた。 「……行くか」 「うん」 「ま、断る理由もないかな」 それぞれにうなずき、娘たちはくすっと笑った。 それはとても朗らかで平和な笑み。 「では行こうかなお嬢さんがた。改めて最高のティータイムを」 老紳士は差し出した手を、今度は道先へと向けた。 その先に、明確な目的地があるわけではないけれど。 ――ティータイムとは、安らぎと団欒の時間。 道を進む四つの足音は、てんでばらばらのリズムを互いにぶつけ合う。まるでケンカをしているようで、しかしそれを聞いた通りすがりの人々はこんな言葉を思い出すに違いない。 『ケンカするほど仲がいい』 彼らは進む。 変化のないターミナルの町を、晴れやかな表情とにぎやかな足音とともに―― -Fin-
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