密林、と呼ばれる場所は生命のゆりかごだ。 適度な気温に十分な水分、よく熟れた土に恵まれたそこでは、数多くの命が生まれ、死んでいく。 そして死んだその亡骸がまた他の命の糧となり、連鎖は続いていく―― それは世界の理。 この限りなく無限に近い世界群の中には、あるいはその理からはずれた世界もあるのだろう。それでも多数の世界において、これは絶対的な“ルール”である。 少なくとも。 ――竜刻の地ヴォロスの、その密林においては、たしかにそんな連鎖が存在していた。「だが≪竜刻≫ってのは、時にそんな当たり前のルールさえねじまげるわけだ。力がありすぎるってぇのは怖いよなあ」 そんなことを言ってケタケタと奇妙な笑い声をあげるのは、まだ若い青年――に見える男だった。 彼もロストナンバーである以上、実年齢は外見では分からない。ただ、少なくとも世界司書になってから日は浅いらしい。「っつってもな、ヴォロス自体まだ未開の場所が多いってことで……まあ、あそこだけでもそんな食物連鎖から外れた場所がある可能性はあるんだが」 ンなことはどーでもいいんだ、と彼は楽しそうに『導きの書』をめくる。「今回の仕事はシンプルだ。ものすごくシンプルだ。密林にある竜刻を回収してこい。それだけ」 ……それだけ? では最初の食物連鎖うんぬんはなんだったのだ。不審気に見るロストナンバーたちに、若き世界司書はへらへらと笑ってみせる。「まあ、気分? あんまり簡単でもお前らつまんねーだろ? 雰囲気を作りたかったっつーか。気持ちを盛り上げてやろうっていうおれさまのやさしさっつーか?」 どこがやさしさだ。この男はもともと遠回しな言い方が好きなのだ。完全なる愉快犯だ。いっぺんその口に唐辛子大量につっこんだろか。「ま、でも無関係なわけでもねえよ」 と変人は話を続けた。『導きの書』の開いていたページをぽんと掌で叩き、「今言ったとおり、今回の目的たる竜刻は密林の中にある。元々はどこにでもあるような密林だった。だがどうやら長く竜刻が置かれていたことで、影響を受けたらしいな――まず、密林全体に年がら年中霧がかかってる」 霧。それはどれほどの霧?「中に入れば世界が白く見える。ぼんやりと木々の位置は把握できるし、目が慣れりゃ細かい動植物も見えんだろ。とはいえ、視界がいいとは言いがたい。未開の密林だからな。道なんかありゃしねえし、行動するのに不利なのは間違いねえな」 なるほど。それで他には? 変人司書はにいっと唇の端をあげた。「――食人花がいる」 は?「正しくいえば、元はラフレシアだ。壱番世界のそれとほぼ同じだ。つっても本来ラフレシアに害はないから、これもやっぱり竜刻の影響を受けたんだろ。全長二メートルほどある。しかも中央の≪口≫に見えるあの部分から、カメレオンみたいな舌……まあ触手の一種か? それがのびて動物を襲う」 は???「あれは“動くもの”を感知するのさ。そして獲物をカメレオンの舌みたいな動きをする触手で捕らえて≪口≫の中に引きずりこむ。ゾウも難なく引っ張りこむパワーだ。で、≪口≫の奥の袋には、酸と同種の液体が詰まってる。花自体は全長二メートルだからな――人間ほどのサイズは一気に飲み込めねえだろうが、ま、たとえ片足だけでも飲まれたら無事でいられるわけがねえな」 消化したらその栄養分はその花に、あるいは周囲の土や木々に送られるのだろう。そして彼らはますます力を蓄える。 そうやって強化されたのかどうか、「その≪舌≫は、一度切ってもまた復活する。多少の時間差はあるがな」 それが『三体』だ、と彼は言った。「三体。ちょうど竜刻を囲むようにいる。一体一体の間の距離は約五メートルか」 囲むように――?「そうさ。つまりそのラフレシアもどきは、竜刻を護っているかのように、そこにいる」 そう言って、彼は目を細める。まるで遠くの地に思いを馳せるような視線で。「密林を覆う霧もだ。結局のところ、その密林に近づくものの邪魔をするように発生している。そもそも竜刻のある場所自体、脈絡なくぽっかり開いた空間で、そこだけ木々がない。まるで竜刻の居場所のように」 ……それは。「竜刻自体が自分を守るために周囲の生態系に力を送ったのか。あるいは自然のほうが竜刻を護りたいと願ったのか――ま、それはおれには分からんね。だが興味深い。そう思わねえか?」 くつくつと楽しそうに笑い、彼は続ける。「そんな竜刻の研究ができたら面白いだろうさ。だから、回収するってこった。それに」 そのラフレシアもどきが存在するがために、その密林から“動くものたち”が消えた。 小動物も、虫さえもだ。 近場にいた“動くもの”は喰われ――やがて“動くもの”たちは身の危険を感じたのか、自ら密林から逃げ出したのだ。「その密林の元々の生態系は確実に狂った。それでも存続してはいるが、これ以上妙な方向にねじまげられたら問題なんだよ」 言いながら彼が見ているのは『導きの書』だ。 そこにどんな未来が語られているのか? そこまで彼は口にしなかったけれど。「――そうそう、竜刻自体はそのラフレシアもどきのちょうど中央あたりの地面に埋まってる。掘り出すのはそれほど苦じゃねえだろ。道具忘れんなよ? それから周囲の木々まで類焼しちゃー困るから、火は避けたほうがいいかもな。まあ絶対他に被害出さねえっつー自信があるなら別だけどよ」 どうだシンプルだろ。そう言って彼は再び楽しそうに笑った。「あの花もどきも実際のラフレシアと同じで腐った肉の匂いを放ってるみたいだぞ。しかも本物よりずっと強烈な! ま、だから場所を探すのもたやすいだろうが、匂いにやられねえようにな!」 せいぜい飲みこまれないように気をつけな、と最後に付け足した一言がちょっとだけやさしげだったのは――きっと気のせいに違いない。
霧のかかった密林は全貌が分からず、まるで人々を夢の世界に誘うかのようだ。 密林の中の竜刻回収に乗り出した四人のロストナンバーは、霧に飲まれる一歩手前でまずは互いの顔を確認した。 「氏家ッス。シャス!」 これ以上ない体育会系のノリで、氏家ミチルがはきはきと挨拶をした。 トレードマークのセーラー服に鉢巻。今はさらにその上に長ランをはおっている。寒さ対策らしい。 「すごい霧ッスね~。お互い見失わないようにしましょうッス。あ、スイートちゃん顔色悪いけど大丈夫ッスか?」 ミチルの心配そうな視線を受けて、ピンク色の髪の娘スイート・ピーはにこっと微笑む。 小刻みに震えている彼女の服装は、ミニスカートとキャミソール。今この状況では、正直見ている方が寒い。 しかし悪びれる様子もなく、スイートはその場にいる面子を順ぐりに見つめた後、一番暖かそうな存在にぴとっとくっついた。 「スイート寒いの。あっためて」 「……上着をきたらよいのではなかろうか?」 迷惑がるというよりは不思議そうにスイートを見下ろしたのは、頭巾のない山伏姿の玖郎だ。最も高身長に猛禽類の翼や足を持つ精悍な彼は、スイート基準で一番くっつきやすかったのかもしれない。 その場にいるもう一人も触れれば暖かそうではあったが……いかんせん豹藤 空牙の体躯はほぼ黒豹で、基本的に四足歩行である。二足で立ちあがれば玖郎に負けない長身ではあったが。 スイートは玖郎の言葉にふるふると首を振り、かわいらしく小首をかしげた。 「この服装でいいの。スイート、人のぬくもりの方が好き」 「……そうか」 甘い香りのする少女の甘い囁きだったが、あいにく玖郎はそういったものに興味がない。 しかしスイートも特に誘惑する気があったわけでもなく、「あったかーい」と玖郎に抱きついてぬくぬくしていた。 ミチルはスイートの言動に慣れているため、スルーして自分の持ってきた荷物を確認している。 空牙は密林の気配を慎重に探っていた。 「霧で前が見えんな」 つぶやき、それから同行者たちを見やる。 ターゲットの竜刻の傍には、臭気を放つラフレシアがいるという。空牙はその臭いを辿れる。玖郎も視界が悪いことを気にしなさそうだが、残りの少女二人はそうもいかないだろう。 「風で霧を吹き飛ばした方がよいでござろうか?」 意見を求めるつもりで金の瞳を向けると、 「おれはさしてこまらぬが……」 玖郎はチラと少女たちを一瞥した。「おまえたちは?」 「自分はちょーっと困るッスねえ。や、視界の利かないサバイバルもあったッスけど、できればゴメンッス!」 ミチルが頭の後ろをかきながら豪快に笑った。サバイバルとは何の話だ。 「スイートはねぇ、くっついて歩くから大丈夫よ?」 「おれにか? おれは空をゆくつもりだぞ。……まあおまえぐらいなら運べるが、どうする」 スイートはちょっと思案して、 「目的地に着いたら、下ろしてくれる?」 「鎖でおろすことになる」 「じゃあ、目的地までね。んん、でも霧はもっと薄くなってくれると助かるかなぁ? ねぇミチルちゃん」 そうッスねえ、とミチルが同意する。 「承知したでござる。風でどれだけ吹き飛ばせるか……」 術を使うために二足で立とうとした空牙を、「まて、それなら」と玖郎が制した。 「まずはおれが」 玖郎が印を切る。 辺りの大気が、大きく震えた。 木々が激しくざわめく。密林の上部に上昇気流が発生し、霧を上へと押し上げていく。水の分子はずっと上空で集まり雲と化した。 「おー。すごいッスね!」 ミチルが顔を輝かせて拍手した。全てとは言えないが、視界はそれなりに開かれた。これなら少女たちでも歩くのに困難はない。 「林が霧をうみだしているのだろう。だったら、いまはよくてもまたうまれるかもしれん。そのときは」 「承知。拙者がなんとかいたそう」 玖郎の意図を察して空牙がうなずいた。 密林の中を空牙とミチルが。 空からは玖郎とスイートが。 何かあったらトラベラーズノートで連絡することを約束し、彼らは分かれてそれぞれに密林攻略を開始した。 ● うっすらと霧の残る密林の内部は、やはりどこか現実味がない。 ――奇妙だ。 空牙は慎重に歩を進めながら、内心警戒心を強めていた。 (竜刻を探すだけの依頼。奇怪植物もいるがなんとかなるでござろうと……そう思っていたが) 今でも、その植物以上に危険な何かを感じるわけではない。 空牙は生命を脅かすような危機には敏い自信があった。だが、そう言った意味で違和感を覚えるわけではなく。 ――肌に触れる“何か”が違う。 「本当に虫もいないッスねー」 空牙の後ろをミチルがついてくる。 その声はくぐもっていた。 「………」 空牙はつっこみたい気持ちをなだめすかした。――ミチルはガスマスクをしているのだ。 彼女が呼吸をするたび、奇妙な空気音が空牙の耳に届く。 用意がいいのは確かだが。 セーラー服に長ラン、鉢巻に竹刀、ガスマスク。さらに何やら道具袋も抱えている。何というか……異様だ。 密林の道なき道を、道具と刀を背負った黒豹と、ガスマスクセーラー服が歩く。 傍から見たら何に見えるのだろうか? 空牙はつい考えた。 ツーリストはその出身世界がばらばらであるため、連れ立って歩くとどうしてもちぐはぐだ。まあ今さら気にすることではないのだろうが。 「豹藤さん。ラフレシアの場所分かるッスか?」 空牙の胸の内などまるで気づくことなく、呼吸音をさせながらミチルが訊いた。 「……うむ。こちらの道で間違いない。かなり……強烈でござる」 腐った肉の臭い。はっきり言って、そうそう嗅ぎたい臭いではない。嗅覚が鋭いことを恨みたくなる類だ。 ミチルはガスマスク顔で首をかしげて、 「自分、食虫植物は色々知ってるッスけど。臭いって確か、虫を寄せるためッスよね?」 「普通はそうでござるな。だがここの奇怪植物は、むしろ近づく者を排除するために活動しているとのこと」 空中に鼻を突きだしてクンクンと嗅ぎ、進む方向を微妙に修正する。 「――全長二mにも巨大化していれば、臭いもきつくなるのは必定。あるいは臭気の役割さえ、他を排する方向へと変わっていったのかもしれんでござる」 「………」 ガスマスクの奥で、ミチルが表情を曇らせる。 改めて辺りを見渡し、薄く霧をかぶった木々を見る瞳がやるせない影を帯びる。 「……なんで、こーなっちゃったんッスかねえ?」 「さて。竜刻と木々の心が読めれば、分かるやもしれんが」 背の高い植物をガサガサとかき分け、時おり跳ね返ってくる小枝や茎を避けながら二人は進む。 霧で水気が多いせいなのか、足元の土は泥に近い。歩きやすいとは言いがたいが、二人にとってはさほど気になることではなかった。 「静かッスねー……」 竹刀で目の前の植物を避けながら、ミチルが何気なくつぶやいた。 空牙は立ち止まった。 「……今、何と言ったでござるか」 「え? 静かッスね、って」 合わせて立ち止まり、ミチルは傍らの樹を振り仰いだ。 「自分、正直怖いッス。昔ここによく似た森とかで長く生活したッスけど……全然気配が違う。静かすぎて、怖い」 そう言って、太い幹に手を当てる。拳で軽く叩いてみたりした彼女は、納得いかなそうに首をかしげた。 「………」 それだ。空牙は唐突に理解した。 この密林は静かすぎる。生きている植物ならあるはずの“呼吸”が、全く感じられない―― ● 「ねぇ玖郎さん」 玖郎の片腕に抱きかかえられたスイートは、ぽつりとつぶやいた。 「ここにいるラフレシアさんは……“悪”って思う?」 どことなく寂しい声音。 問題の奇怪花に何かを感じているらしい。それは分かったが、玖郎はそれに頓着しなかった。 あるいはスイートも、玖郎のそういうところに気づいたからこそ話しかけたのかもしれない。 「“正”も“悪”もなかろう。すくなくとも、おれたちが判断することではない」 「……うん。そうだよねぇ」 スイートは安心したように微笑み、玖郎の体にさらにしがみつく。 密林の上空を、彼らは飛んでいた。 玖郎の赤褐色の翼が強くはためく。その度に起こる風圧に、スイートの華奢な体があおられる。抱きついているのも楽ではなかったが、スイートは弱音を吐かなかった。 もしも手を放してしまっても、玖郎の逞しい腕は彼女を落とさなかったに違いないが。 玖郎は風に乗った奇怪花の臭いを探っていた。 林の中と違い、上空は臭いが拡散している。それでも、鋭敏な彼の嗅覚が目標を違うことはない。 竜刻の周囲は開けているとも司書は言った。見た目にも分かりやすいはずだ。 (木は、土と水だけでながらえるのではない。子孫をのこすため、虫や鳥や獣のちからをかりるものもいる) 玖郎は眼下の木々を見下ろし、その異様さに眉をしかめる。 (“いきている気配”がない) 動物や虫がいない、というだけではない。 植物も呼吸をする。彼はそれを知っている。 植物の吐き出したものは大気に散るのだ。だが、この密林にはそれを感じない。 かと言って、“死んでいる”のともまた違う。 例えていうならば、“刻が止まっている”――というところだろうか。 (……ここもいずれ、ゆきづまるは必定) かつて山中に棲んでいた者として、それは容易く予想できる未来だ。自然の営みとはそういうもの。 無言で空を飛び続けた玖郎は、やがてとある地点で滞空した。 目を閉じていたスイートが瞼を上げ、ゆっくりとした仕種で眼下を見下ろす。 「……ここ?」 「ああ」 「本当にここだけ木がないのね――すごく高い」 「鎖でおろす。つたっていけば問題はなかろう」 「うん」 不安がる様子は全く見せない小柄な少女は、密林を見下ろす目をすっと細める。 切なげな表情のまま、彼女は玖郎に再び話しかけた。 「……ねぇ、ラフレシアさんは絶対退治しなきゃダメかな?」 「………」 玖郎は淡々とした口調で応える。 「なにものもちかづかねば、その花の怪も果てそうなものだ」 返答というよりは、一人思考するような言葉で。 「しかしそれを待つ気はない。ことわりの綻びは伝播する――未然に防げるならば、たださねばなるまい」 「……そう、だね」 スイートはそれだけつぶやいた。 玖郎はそれ以上何も言わず、ただ腰につけていた長い鎖を一本取り外す。 「下りるなら、下のものがついてからだ。……きをつけてゆけ」 スイートは静かにうなずいた。 ● 「もうすぐでござる」 空牙は顔を上げ、鼻でミチルにその方向を示した。 「分かったッス! 気合入れるッスよ!」 ミチルは活き活きとしていた。竹刀を近場の地面に突き立て、つい腕まくりをして、 「寒っ!」 慌てて袖を戻す。どうやら気合では寒さに勝てなかったらしい。 「……大丈夫でござるか」 身をすくめたミチルに、半ば呆れて空牙は尋ねる。 「大丈夫ッス! 自分、これがあるッスから!」 彼女はポケットから一枚のハンカチを取りだした。 「うちの先生のハンカチッス。これがあれば何とかなるッス!」 わざわざガスマスクをはずして顔を寄せ、「ん~いい匂いv」とかやっている。 立派な変態である。 何となく調子をはずされて、空牙はため息をついた。と、 異変を感じ、鋭く周囲に視線を走らせた。辺りの水気が一気に増した―― しばらく変化のなかった密林に、再び濃い霧が発生し始めた。 「わっ!? わわ、また霧がっ!?」 ミチルが慌ててハンカチをポケットに戻し、ガスマスクをかぶって身構える。 「動いてはならん。拙者が今」 後ろ脚で立ち上がった空牙は、獣の形ながら器用な前脚で印を組む。忍法、 (つむじ風の術ッ!) 大風が起こり、たまらずミチルは目をつぶった。マスクがあるのだが反射的な動作だった。聴覚を無数の葉が哭くような音が埋め尽し、まるで巨大な何かが襲ってくるかのような圧迫感にみまわれる。 落ちた木の葉が体を乱打していく。 何とか両足で踏ん張り、大気が落ちつくのを待つ。 ――風が治まり、おそるおそる目を開けると、そこには再び姿を現した密林があった。 ついでに風で臭気も拡散され、薄まったようだ。 「よかったッス……!」 ミチルは安堵で顔を輝かせた。これならラフレシアもどきと戦える―― ちょうど彼女の前には邪魔になる木がなかった。背の高い植物も、今の空牙の術でなぎ倒されてしまっている。 「早く行くッス! スイートちゃんたちはきっともう上にいるッスよ!」 空で行けば当然早い。待たせているに違いないとミチルは心配していたらしい、勢いに乗って走り出した。 「いや、待たれいミチル殿、慎重に――!」 かつて森で過ごしていた娘は、驚くほど苦もなく進んで行ってしまう。 一気に近づくことより一人で行かせることのほうが危険―― 空牙は咄嗟に後を追った。 前方でミチルの悲鳴が上がった。 「うわあっ!?」 風を切る音。次いで何かが――おそらくミチルの体が、地面を転がる音。 「ミチル殿!」 「――ぶ、ねえッス!」 返事がある。無事だ。空牙の目が起き上がったミチルを捉える。ガスマスクがはずれ泥まみれになったミチルは手の甲で口元を拭い、ぺっとわずかな泥を吐きだした。竹刀はしっかり握っていたが、荷物袋は離れたところに転がっている。 「何があっ――」 訊くまでもなかった。認識するより前に空牙の体が動いた。しなやかに跳躍し、彼は猛然と襲いかかってきたものを避けた。 ビシイッ! その先にあった木の幹に巻きつく。まさしくカメレオンの“舌”のように飛んできたのは、毒々しい緑色をした長いもの―― 茎か触手だとでも呼んだ方がよいのだろうか。いや、やはり“舌”か――結論など出している暇はなく、先の一本が本体へと戻るより先に別の一本が二人を襲う。 再び跳躍してかわしながら、空牙は本体を確認する。巨大ラフレシアもどき三体。情報通り。 中央にぽっかりと空いた≪口≫から飛び出る“舌”。動きが速い。木に巻きついたところからして、純粋に捕縛のために動くらしい。だが、当たり所が悪ければ十分に殺傷能力があるスピードだ。 三本の“舌”が次々と襲い来る。 かわすのが精一杯の速さ。この場所には、とうに“動くもの”は近づかなくなっているという。奇怪花はどれほどのエネルギーを蓄えていたのか―― 不意に、三本全部が空牙を狙った。 「!!」 それぞれに絶妙な時間差。逃げ場がない。かろうじて二本を避けた空牙は、三本目の“舌”をかわしきれなかった。 “舌”は空牙の長い尻尾に巻きついた。 「ぐぉおおおおうっ!!」 空牙は咆哮を上げた。 (不覚……っ!) まるで巨人に引っ張られるような力が全身にかかった。 引きずりこまれまいと地面に爪を立て踏ん張る。尾が根元からちぎれそうな痛みを感じて、空牙は全身の毛を逆立てた。 「……っ、尻尾、を、引っ張るでない……っ!!」 体が引きずられ、爪が地面をえぐっていく。 空牙はゾウほど重くはない。だが、体勢を低くすることと微妙な力加減をもって、一気に引きずりこまれることだけは避けることができた。 「豹藤さんっ!」 ミチルが残り二本をかわしながら空牙に駆け寄った。 流れるような動きで竹刀を“舌”に打ち下ろす。二度三度と、とても人間業とは思えない速さで。 “舌”から力がぬけた。その隙を逃さず、空牙は尾を引きぬいた。 ひらりと体を翻す。早く反撃に転じなければ。三本相手は中々厄介だ―― 「………?」 気づけば、二人を襲うのは二本になっていた。 二人から見て一番奥にある奇怪花は、その“舌”を上空へと伸ばしていた。驚くほどよく伸びる“舌”。空。ということは。 「スイートちゃんたちがいるっ! 空牙さん、自分、“応援”するッス!」 ミチルが後方に跳躍する。常に低くしていた体勢を持ち上げ、彼女は胸を張り大きく息を吸いこんだ。 ―――!!! 大気を“音”が震わせる。万物を鼓舞する≪応援歌≫。 空牙の魂を揺さぶり、さらには音の届くところ、上空にまで駆けのぼる声は―― 「ミチルちゃんの歌だわ」 スイートが嬉しそうに微笑んだ。胸の奥が熱くなる。活き活きとした活力が湧いてくる。 「したは乱戦だ」 鎖を垂らし、奇怪花の“舌”を誘いながら玖郎は言った。 歌い終えたミチルは激しく咳きこんだ。どうやら歌った拍子に臭気まじりの空気を思い切り吸いこんだらしい。 玖郎は指先で簡易の印を切り、軽く風を起こした。 少しでも臭いを薄めた方がいい。花の近くにいる限り、何度拡散したところで臭気はあり続けるだろう。だが、やらないよりはマシだ。 臭気をとりあえず散らし、再び鎖を操ることに専念する。 人はこれを釣りと呼ぶのだったか。そんなことを思いながら、 「あの一体のうごきはおれがとめよう。その間におりろ」 「うん」 滞空したまま玖郎は垂らした鎖を揺らす。密林の上部ぎりぎりまで近づき、慎重に“舌”との距離をはかりながら。 やがて、“舌”が鎖にからみついた。 その瞬間、玖郎は指先だけで印を切った。 雷撃。金属である鎖を伝い、“舌”を直撃する。印は簡易式だったが、ミチルの≪応援≫による増幅でそこそこの威力が出た。しょせんは植物の一部だ――黒焦げになった“舌”はボロリと砕け、落ちていく。 しかし、花本体は燃えることはなかった。ビリビリと痺れるように震えながらも、そこに残っている。 「……ダメージがひくいか。おなじ木行ゆえか?……もしくはことわりがゆがんでいるか」 淡々と考える。 今は“舌”を一時消滅させることができただけでもいい。まずはスイートを下ろさなければ。 新たな鎖を取り出し、雷を伝わらせた鎖には触れぬように垂らして、 「触手がふっかつするまえにゆけ」 「お願い、玖郎さん」 スイートは真剣な顔で玖郎を見上げた。「――花の近くに行けるように下ろして?」 玖郎は何も訊かずに従った。 ミチルの≪応援≫のおかげで体が軽い。ずっと避けやすくなった“舌”の動きをつぶさに見ながら、空牙は考える。 (やつは動くものを捕捉するのであったか) 司書はそう言っていた。実際に目にしてもその情報に間違いはない。 (今は空にも仲間がいる。一本は復活まで時間がある。しからば……) 忍法・透明化の術。 空牙の姿が空気に溶けこんだ。身に着けた道具の気配ごと消えた彼は、後ろ脚で立ちあがり、二足歩行でゆっくりと奇怪花のひとつに近づいた。 気配をより確実に消すために、呼吸を止めた。おかげで、奇怪花の臭気も薄らいだ。 案の定“舌”が狙ってくることはない。空牙を見失った“舌”はミチルを狙ってはかわされ追い払われ、上空の鎖を狙っては雷撃を落とされて朽ち果てる。 だが、時間が経てば復活するのだ。それよりも先に。 背負った刀――トラベルギアである忍刀『月読』を抜く。 発達した前脚で器用に刀を構え、空牙は気合一閃、奇怪花に振り下ろした。 「―――ッ!」 息もつかせぬ連撃。斬って斬って斬りまくる。≪口≫が真っ二つに裂かれ、中からどろりとした液体が溢れだす。 周囲の地面に垂れ落ちた液体は、しゅうしゅうと煙を上げた。 (この花を放置するのは危険。焼きつくす!) 忍法・業火炎の術! 前脚で印を結んだ瞬間、花が炎に包まれ燃え上がった。 ――霧は空で雲となっている。雨をふらすこともできるゆえ、火をもちいてもよいぞ。 二手に分かれる前に玖郎がそう言った。元より空牙も水術を心得ているから心配はない。 ――花はすぐには燃え尽きなかった。 炎の威力が低いのではない。力が花の内側まで伝わるのが遅いように思える。 (ずい分と耐久性に優れているような?) 追い討ちにもう一発炎術を叩きこみながら、空牙は考える。 (……長年竜刻の力にさらされたゆえでござるか、それとも……) 脳裏にとある思いつきがよぎる。焼かれていく花を見つめながら、彼は目を細めた。 (――死ぬまい、と、己の限界を高めている、か……) “舌”は現在一本きり。 遠方から≪応援≫しながら、近場の石を竹刀で打ち飛ばし花本体を攻撃していたミチルは、状況が変わるとともに手段を変えた。 (立ち向かうッスよ!) 地面を蹴り、“舌”の本体へと猛然と駆ける。足元で泥が跳ねても、少女の勢いは止まらない。 「ってぁぁぁい!!!」 真正面から“舌”が襲い来る。それを竹刀で打ち払い、至近距離に飛びこむ。 勢いを乗せた一撃。狙ったのは花本体ではなく、花が接している地面だ。 土が弾けるように飛び散った。 (力を得ているならきっと土からのはず――これで少しは弱まるッスか!?) “足場”を攻撃され、ひるんだように“舌”の動きが乱れた。獲物を捕らえるのを忘れ空中でくねる。悶えているかのように。 (切断面を≪口≫の中の酸につけたらどうかと思っていたッスけど――) よく考えたら≪口≫から生えた“舌”は元からこの酸に強いのではないか。しかもこの“舌”、思ったより丈夫で切断するのも困難だ。刃物なら別だが。 頑丈な花。一体どうしたものか。 数歩退き手段を考えていたミチルは、ふと頭上に気配を感じて反射的に上を見た。 「ミチルちゃんっ」 玖郎の鎖を伝って、スイートが小柄な体を空中で揺らしている。 ミチルはとっさに竹刀を捨てて両手を構えた。 スイートが鎖から手を放す。軽い少女の体が、ミチルの腕の中に落ちる。 「――大丈夫ッスか!?」 「うん、ありがとうミチルちゃん」 ミチルはスイートを地に立たせて竹刀を拾い、構えた。悶えていた“舌”が復活しつつある。 スイートはミチルを制するように立った。 「スイートがやるよ」 そう告げた少女の目に真剣な光を見たミチルは、即座に自分は援護に回ることを決める。そしてスイートを狙って動いた“舌”を、竹刀で力一杯打ち払った。 「スイートの体液は毒なの。ラフレシアさんとどっちが強烈かな?」 スイートはミチルを信じ、花本体へ近づく。 懐からナイフを取り出し、彼女は自分の細い腕を傷つけた。 「――毒をもって毒を制す原理だよ」 血が腕を伝い落ちる。 ぽたり、と奇怪花の≪口≫へと。 「スイートの血は致死量の猛毒なの。人間なら一舐めで死んじゃうけど、植物はどうかな?」 酸に赤い血がまじる。 花が、“舌”が――痙攣するように震える。 突如、乱れ狂った“舌”が翻りスイートを背後から襲った。 スイートは振り返らなかった。 ミチルの竹刀が、渾身の力で“舌”を跳ね飛ばす。 「させないッスよ!」 背後の友人の声を頼もしく思って、スイートはわずかに微笑んだ。 その微笑みが、悲しげな色を帯びる。花は自分を捕縛しようとしたけれど。 「……スイートを食べたら、食中毒起こしちゃうよ」 目の前にあるのは悶え震える花―― その姿に、もがき苦しみながら死んでいく人の影が重なる。 花が力尽きるまで、スイートは決して目をそらさなかった。 「あと一体」 玖郎は攻撃用の鎖をさらに下へと垂らす。 眼下に見える≪口≫の中から、生えるように“舌”が復活し始めている。 しかし玖郎の鎖が本体に巻きつく方が早い。 スイートを下ろしたことで片手が空いた。印の威力は、先ほどよりも強く。 鎖に流す雷は目に見えず、ただ花本体だけがショックを受けたように震え、 「いちげきでたりぬなら」 二度、三度。立て続けに流れる雷。 やがて火が起こり、花を包みこんだ。 「おわりだ」 もう一撃。炎の中の花に雷を叩きこみ、熱を遮断するため鎖を引いた。 最期に強く燃え上がった花は、火花を散らしながら朽ちてゆく。 それはまるで魂の色を示すように、美しい朱の色だった。 ● 「もう大丈夫ッスかねえ」 ミチルが何度もスイートの倒した奇怪花を見直した。 炎に焼かれて尽きた他二体と違い、これは形が残っているだけに、心配だった。 「大丈夫だよ」 スイートは、動かなくなった花を優しく撫でた。 「……スイートね、昔お客さんに食虫花みたいって言われたことがあるの。あの時は意味がわからなかったけど……今ならわかるよ」 ミチルが怪訝な顔をする。 気にせず、スイートは花を撫で続けた。 離れた場所では玖郎が空から降り立ち、透明化を解いた空牙とともに少女たちを呼んでいる。 思い出したように彼らを振り返ったミチルは、 「あっ! 自分、スコップ持ってきてるッスよ! 竜刻暴走防止用のお札も!」 「……あの荷物はそれでござるか……」 地面に放り出されたままだった荷物に駆け寄り、中身をあさりだすミチルを見て、空牙が苦笑する。どこまでも用意がいい。 彼らは三体の花の中央へと集まった。 「この辺りでござるか」 非力なスイート以外の三人で、かわるがわるスコップを振るう。 竜刻は容易く見つかった。淡く発光したそれは、骨の一部分と見える形をしていた。 「ていっ」 ミチルがぺしっとお札を張りつける。刹那、 密林が いななくように震えて ――どこかで、鼓動のような音が聞こえた、気がした。 「……竜刻というものは、色んなことが起こるでござる」 “呼吸”を取り戻した密林を仰いで、空牙が感慨深げにつぶやいた。 「プチ暴走みたいだし、竜刻に意思があるみたいッスね。こえー」 ミチルが恐ろしそうに自分の体を抱くふりをして、ハハっと困ったように笑う。 スイートはもう一度自分が倒した奇怪花を振り返る。 竜刻を掘り出しても、まだ花はそこにあった。 「ごめんね、竜刻はもらってくよ」 スイートは花の中に心を見る。自分たちと変わらない心を。 「スイートちゃん?」 友人の呼ぶ声に、スイートはつぶやいた。 「あのお花さんもね、きっとなりたくてこんな風になったんじゃないと思うの」 「………」 「竜刻って、元々この地に生きていた竜の力の残りだよね? この密林と一緒に生きてた竜の」 護りたかったのかな ピンク色の少女は小さく、吐息のような声で。 「―――」 行くぞ、と空牙と玖郎が帰り道へと少女たちを促そうとする。 ミチルは密林の木々を見上げた。 止まっていたような時間は動きだした。けれど、足りないままのものもある。――動物の息吹。 「帰る前に、ちょっとだけ森を“応援”していいッスか?」 「応援?」 男たちがミチルに顔を向ける。 ミチルは、照れたように笑った。 「獣や鳥が居ないと森そのものが弱っちゃうし……場所は違うけど、ヴォロスの森には鍛えてもらったんで。早く元に戻れるように元気をお裾分けしたいんス」 誰も反対することはない。 「ミチルちゃん、がんばれ」 スイートの声援が、ミチルに力を添える。 セーラー服の少女は柔らかい土の上に仁王立ちした。両手を広げ、体いっぱい息を吸いこんで。 彼女の声は 全てを慰め励ます響きを宿し 伝う空気ある限り 広がっていく 「――さ、帰ろうッス」 ありったけの想いをこめて歌い終えたミチルは、満足げな顔をしていた。 感嘆と労いをこめた拍手が、優しく木々を撫でていく。 元気になったこの密林を、いつか見に来ることもあるだろうか。 その頃には、朽ちたラフレシアも土へ還り、再びこの密林の一部となって蘇っているに違いない。 何年かかるか分からない。あるいは気の遠くなるほどの時間が必要なのかもしれない。それでも、 いつの日か、きっと―― -Fin-
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