ブルーインブルーに現れた海魔を退治せよ。 そんな依頼がある日、サシャ・エルガシャとその友人ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノに持ちこまれた。 承諾した二人に、司書は苦笑しながら「参加者はもう一人いるんだ」と告げた。 しかし先に行きたいというので行かせた――と。 サシャとジュリエッタは顔を見合わせた。単独行動を好む者は珍しくもないが…… とにかく急いだ方がいいらしい。二人はすぐさま手荷物をまとめてロストレイルに乗りこみ、ブルーインブルーへと下り立った。 船が来たよジュリエッタちゃん、とサシャが声を弾ませた。 ブルーインブルーの船着き場からは、活気が消えていた。入ってきた定期船に乗りこもうとする者も数えるほどしかいない。 とある海域に海魔が現れるようになって半月―― その海魔は夜になると現れ、深夜の漁をしていた船をことごとく沈めてきたという。今のところ昼間に目撃されたことはないため、陽の高い内はこうして定期船も出ているのだが、“いつ昼にも現れるようになるか知れない”と海に出る者自体が減りつつあるのだ。 ブルーの輝きを眺めていたジュリエッタはため息をつき、 「行くかの」 サシャと共に定期船に乗りこむ人の列に並んだ。 この船の行先は、もっとも海魔の目撃情報が多い海域の島だ。今日その島に向かう船はこれで終わりだという。 きっと先に行ったあと一人のロストナンバーもその島を目指すに違いない。 「ひょっとしたらこの船に乗っておるのじゃろうか?」 船に乗り、二人は辺りを見渡した。 島民たちはすぐに船室へと入っていく。渡し板は即座に片づけられ、船は出港する。―― 「あっ!」 サシャは口に手を当てた。 目を丸くして甲板を見つめる――ジュリエッタは何事かとその視線をたどった。その先に、 一人の少年が、いた。 少し荒れた青い髪、薄汚れたシャツと短パン。痩せて無数の傷が走る腕を今はズボンのポケットにつっこみ、たった一人、遠く海の向こうを見ている。たしかに見覚えのあるその姿。 「ああ――」 思わずつぶやいた。 「――あと一人とはそなたのことじゃったか……!」 その声が聞こえたらしい。青髪の少年グレイズ・トッドはふっと振り向き――見つめるサシャとジュリエッタの姿を見つけると、心底いやそうに舌打ちした。 それは数か月前、ハロウィンの日のこと。 ゾンビやら何やらの群れに襲われ四苦八苦していたサシャとジュリエッタを、救ってくれた少年がいた。 邪魔なものすべてを凍りつかせ、さっさと姿を消してしまった彼―― おそらく特に他人を助けるつもりもなく、単に彼にとって邪魔だったからそうしたのだろうと、サシャたちも気づいてはいたのだが―― 出港したばかりの船は、緩やかに揺れる。 甲板へ出たサシャたち二人は、少年に歩み寄った。 思いがけない再会に、二人は素直に喜んでいた。できることならもう一度会って礼を言いたかったのだ。 「えっと、ハロウィンのときは、ありがとうね」 「わたくしもサシャも助かったぞい」 満面の笑みとともにそう言い、それぞれ丁寧に名を告げた。それからあらかじめ司書から聞かされていた彼の名前を、確かめるように呼ぶ。 「ええと、グレイズ殿?」 少年は面倒くさそうに二人を一瞥し、 「……うるせぇ、話しかけるな」 ぼそりと拒絶の言葉を吐いて再び視線を海へと転じてしまった。それきり二人を見ようともしない。 けれど、サシャもジュリエッタも笑顔のまま。 「こうして一緒にお仕事できるのも何かの縁かな。がんばろうねグレイズ君」 「うむ。よろしく頼むぞい」 屈託なく笑った二人―― 覚えている。初めて彼を見たときの、彼がまとっていた空気。 “殺気しかなかった”あの瞬間をすでに見ていた彼女たちにとって、どれだけ壁を感じようと『殺気がない』今の彼を怖いと思うことなどできなかったのだ。 水面をかきわけ、船は順調に島へと進んでいく。 予定では、あと3時間ほどで目的地へと到着するという。 甲板で爽やかな風に吹かれながら、サシャとジュリエッタは今後の予定を話し合った。島についたらどうするか。海魔が出るのは夜の海。しかし今は夜に船を出すことはまずない。そうなると借りるしかないだろうか、貸してもらえるだろうか、操舵はどうする―― 会話の内容は全てグレイズに聞こえるように。そして時折彼にも話を振りながら。 少年が返事をすることは一切なかったが、二人が気にすることはない。 やがて一通り話が終わり、会話は自然と雑談へと変わった。 「時にグレイズ殿、先だってのハロウィンの折に、そなたは本を読んでおったのう」 何を読んでおったのじゃ? 尋ねても答えはない。 それでもそこで会話を諦めたりはしない。相手のことを知りたいのに、どうして自分から壁を作れるだろう? 「本が好きなら嬉しいんじゃがの。実はわたくしも小説を書くのじゃ」 「ジュリエッタちゃんの小説はとっても素敵なのよ。グレイズ君も読んでみる?」 グレイズは鼻を鳴らした。 「読まねえよ」 邪魔すんな――毒を含んだ声で言い捨て、背中を向けてさっさと歩いていってしまう。 ここは小さな船の上。追いつこうと思えばいくらでも追いつけたけれど―― 「……あんまり、急いじゃダメ、かなあ」 二人は追わなかった。船室の角を曲がって消えた後ろ姿を見送って、サシャは初めて顔を曇らせた。 少年の言動ひとつひとつを思い返し、小さくため息をこぼす。 「――触れたら溶けちゃう氷、みたいだから……」 ***** 船は順風満帆に進み、水平線の向こうに目的の島がうっすら浮かびあがる。 サシャとジュリエッタは甲板でずっと海を眺めていた。と、 美しい青の中に――ふと、黒い影がよぎった。 「? 今、何か――」 ジュリエッタが海面に視線を投げやった、そのとき、 ――ガクンッ! 「っ!?」 突如、下から突き上げられるような衝撃が襲った。 体が空中へ放り出されそうな浮遊感――咄嗟に二人は互いの腕を掴み、手すりにしがみつく。波飛沫が立ち、水滴が甲板の二人に降りかかる。 「なんじゃ……っ!?」 「ジュ、ジュリエッタちゃん……!」 しっかりと手をつなぎ、身を低くして辺りを見渡す。甲板には他に人はいない。だが船室から、盛大な悲鳴―― ――水だ! 船底に、穴が――! ジュリエッタは厳しい顔つきで周囲を注意深く観察する。 「船底に何かがぶつかったか……っ。しかしここいらには岩などないぞ……!?」 「それ、じゃ、まさか――」 サシャが青ざめる。今はまだ昼間だ。だが、だが、 ――いずれ昼間にも現れるようになるかもしれない―― 「落ちつけサシャ、とにかく船員の指示を」 船室からわらわらと人々が飛びだしてくる。怒号と悲鳴が入り乱れる。 船員が何かを叫んでいる。サシャははっと振り返った。 彼らはどこからか小さな舟を出してきていた。五人ほど乗れるか乗れないかという舟だ。それが三艘。 幸いにも、船員を含めて全員がその舟に乗りこめそうだった。波立つ海に舟を出すのは賭けだが、もうじき沈むこの船に残るわけにはいかない。 船員がサシャたちを呼んでいる。舟に乗せてくれる―― しかし二人はふと視線をはずした。人々とは離れた場所で、 「グレイズ殿!?」 青髪の少年は一人手すりに足をかけていた。 飛びこもうとしているのだ。それに気づいて、二人は走り寄った。 「よすのじゃ!」 「ダメェ、グレイズ君……!」 少年の腕を掴んで叫ぶ二人を、グレイズは振り払おうとした。 「邪魔すんなよ……! 今ヤツは下にいるかもしれねえんだろうが!」 「そうだとしても海の中で戦うつもりか!? 自殺行為じゃぞ!」 「ねえ、今は避難することを第一に考えよう……!?」 「俺に指図すん――」 ガクンッ! 大きな揺れに体勢を崩し、グレイズは手すりを掴む。 船の沈む速度があがった。人々の絶望的な悲鳴と、それを打ち消そうとする船員の声が飛び交う。 サシャとジュリエッタは顔を見合わせてうなずいた。即座に二人で身を翻し、船員たちの方へと駆け出す―― 残ったグレイズは海を見下ろした。 黒い影はすでに消えていた。舌打ちをして手すりを殴りつける。 背後では人々が避難を始めている。今さらそちらに混ざる気にはなれない。視線を上げると、一番近い島影はかろうじて見えている。泳いで辿りつけるだろうか――? 「グレイズ君!」 ふと、海から呼ぶ声が聞こえた。 はっと視線を向けると、揺れる海面の上、小舟に乗ったサシャとジュリエッタがグレイズを見上げて手を振っている。 「こっちじゃ、グレイズ殿!」 「急いで……!」 反射的に―― グレイズは海へ飛びこんだ。あっという間にサシャたちの乗る小舟にたどりつき、舟のへりに手をかける。サシャがその手を掴んで引き上げる――ジュリエッタは手にしたオールが少年に当たらないように苦心する。 身軽なグレイズは、全身ずぶ濡れになりながらも苦もなく舟に乗り上がった。 海が荒れる。オールが波に取られそうだ。ジュリエッタは必死に力をこめる。 少し離れたところに、他の船客の小舟。合流しようとオールを漕いだそのとき、沈みかけた船がぼこりと大きな泡を噴いた。 衝撃で強い波が立った。オールに予想外の力が加わり、不意をつかれたジュリエッタはオールの一本を手放してしまった。 「あっ!」 あっという間に海に呑みこまれていくオール。残った一本を手に呆然とするジュリエッタを見たグレイズは舌打ちする。仕方ない―― 「貸せ」 ジュリエッタから乱暴にオールを奪った彼は、片手でそれを持ち、もう片手に魔法でオールと同じ長さの氷を生み出した。海にそれをくぐらせ、娘二人に鋭く言いつける。 「――舟の縁に捕まってろ」 魔法で作りだした氷は簡単に溶けることもない。力強く即席のオールを操り、グレイズは波を乗り越えていく。 サシャとジュリエッタは言われた通りに舟のへりに捕まり、揺れる舟のバランスを取るように体勢を整える。 波に流され、他の脱出舟と同じ方向にはもはや行けそうにない。けれど今はそれを嘆いている場合ではなかった。三人はそれぞれの役割を暗黙の内に了解し、そのまま一心に陸を目指した。ろくに口も利かないまま、どれほどの時間そうしていただろうか―― やがて彼らがひとつの無人島に流れ着いたころ、日はすでに暮れ始めていた。 舟を海岸へ引っ張り上げた後、怪我の有無と荷物のチェック。大半の手荷物は手放してしまったがパスケースとトラベラーズノートはある。更に“いついかなる時も準備を”の精神でサシャがマッチを隠し持っていた。幸いそのマッチは湿気ることもなく、暖を取ることができそうだ。 トラベラーズノートで司書にSOSを送ると、程なくして返信があった。救助は送るが、一晩はかかる―― 島で夜を明かすことを決め、三人は浜辺に焚火の準備をする。 体は冷え、疲れ切っていたが――救助は来る。希望を胸に元気を失わないサシャとジュリエッタに、グレイズも逆らうことはなかった。 焚火の炎は冷え切った体をやさしく温めてくれる。 三人で囲む焚火。周囲はすでに夜の帳が落ち、星も出ている。 集めた枯れ枝を放りこめば、炎はぱちりと爆ぜて揺れる。 「海魔退治はしきり直しだね。……船のお客さんたち、大丈夫かなあ」 サシャは夜空を見上げてため息をついた。 件の海魔の本領発揮は夜なのだ。今頃どこかで暴れているのだろうか―― 忍び寄ってきた不安を打ち消したくて、サシャは焚火を囲む二人に話しかけた。自分のこと、ジュリエッタのこと、今まで知り合ったロストナンバーのこと、今まで請け負った依頼のこと、それから…… グレイズに聞きたいこと。 何を問いかけても適当に受け流す少年の横顔を見つめていたサシャは――ふと、気づいた。 「ねえ、それって、もしかしてハーモニカ?」 彼のズボンのポケットから頭を出していたもの。闇夜の中でも月光を弾いたその銀色。 途端に少年はますますいやそうな顔をして、目をそらした。 それでもどこか――今までの拒絶とは違う気がして、サシャたちは胸を弾ませた。 「ハーモニカが吹けるの?」 「それはぜひ聴きたいぞい」 吹いてほしい――と。 悪意などまるでない、純粋な期待の目を向ける彼女たちを、グレイズは心底うるさそうに無視しようとする。だが、 「水かぶっちゃったし、音がちゃんと出るかどうか、せめて確かめた方がいいんじゃないかなあ?」 「―――」 サシャの提案は、確かにグレイズの考えを揺らした。 彼女たちから目をそらしながらも、彼はポケットからハーモニカを取りだし焚火にかざした。水は落ちてこなかった――どうやらサシャたちの気づかぬ内に最低限のメンテナンスはしていたらしい。 不承不承といった表情のまま、グレイズは慣れた手つきでハーモニカを唇に当てる。 最初はかすれた音。しかし何度も息を吹きこむ内に、だんだん音が通り始める。 やがて一通りの音が出るようになると、 「―――」 細い生糸を丁寧に紡ぐように、そっと生み出された、旋律。 闇夜に寄り添うような物悲しい音。葬送曲だと、娘二人はすぐに悟る。 けれど。 (この音は――) 二人は目を閉じた。 瞼の裏に自ずと浮かび上がったのは、喪われた大切な人々の面影。 少年の紡ぐハーモニカの音色はその喪失を嘆いているのではない。それでも素直な哀しみと―― 向こうの世界に行く“もう会えぬ人”を永遠に見送っているかのような、そんな情景をもはらんで。 少年が途中で曲を止めるようなことはなかった。 それはきっと、彼にとって大切な曲だからなのだろう、と。 (……ああ、よかった) 二人の口元に、柔らかい笑みが浮かんだ。ようやく彼の心のひとかけらを見つけた―― ***** ふと、波音がざわめいた。 「………!?」 グレイズは反射的に立ち上がり、身構えた。素早く視線を巡らす――夜の帳の中、今起きているのはグレイズ一人きり。サシャとジュリエッタは疲れ果て、眠りこんでしまっている。 絶やさない炎は何事もないかのようにこうこうと燃え上がり、浜辺を照らし出す。 気のせいか? いや―― 暗い海が突然騒ぎ出した。波が立っている。それも、明らかに自然の波ではない―― 波が浜辺を沿うようにして移動していく。 (海魔か……!?) グレイズは眠りから覚めない娘たちを一瞥した。彼女たちは大きな音に揃って身じろぎしたが、覚醒はしない。 ――ひとりでも十分だ。 すぐさま浜辺を蹴り、影を追った。 まるでグレイズを誘うように前を進んで行った影が、ふいに水面に躍り上がった。 飛沫が上がった。空中に散った水滴を、グレイズは咄嗟にすべて氷の粒に変えた。まとめて黒い影に叩きつける―― 刹那の内に影は海の中に身を沈めた。グレイズは舌打ちとともに掌に氷の槍を生み出し、まるで銛を打ちこむように渾身の力で海の中の影へと叩きこむ。 だが水中はまさしくヤツのテリトリーなのだ――あまりにも軽々と氷の槍を海中でかわした影は、その勢いで海面に躍り上がる。 強い波が―― グレイズの頭上から襲いかかった。 逃げるには水量が多すぎる。雨よりもはるかに強い圧力が、押し流すように襲ってくる。彼は奥歯を噛みしめてその場に踏み留まった。しかし、 波が治まったその瞬間、 水面から顔を出した影の口から怒涛のような水流―― 「―――!」 まるで鉄砲水のように襲いかかった水の柱が少年を弾き飛ばした。一瞬の浮遊感の後、浜辺をごろごろと転がったグレイズを、立て続けに吐き出された水流が襲う。人形のように吹き飛ばされ、呼吸ができずに喘いだ喉に泥が飛びこみ、体が痛みを訴えてきしむ―― 海のざわめきが遠く聴こえた。 ぼやける視界の中、再び水面に躍り上がった巨大な影。 高波が生まれる。グレイズ目がけて迫るその水の壁が、ひどくゆっくり見える。 グレイズは冷え切り凍りそうな手を地面に叩きつけ、砂を掴むように力を入れて体を起こそうとする。こんな容易く負けるわけ、には、―― 暗闇の中を雷光がほとばしった。 「行けい!」 突如生まれた雷が、海面を貫き波を打ち砕いた。 「――グレイズ君――!」 声とともに駆けてくる足音。グレイズは思わず二人の姿を凝視する。眠っていたはずのサシャとジュリエッタ―― 「どうして無茶するの!」 叫びながら、サシャは手にした白磁のティーポットをかざした。その先端から飛びだしてきた水が、まともにグレイズの体に降りかかった。ぎょっとしたグレイズはふと気づく――水ではない、ぬるま湯だ。立て続けに水を浴びて冷え切った体を溶かしてくれるような―― 続いて駆け寄ってきたジュリエッタが、手にした銀光りする刀を構えながら、グレイズをかばうように前に立った。 「一人でかっこつけるのは感心せんの」 茶化す言葉に怒りの気配などない。視線は暗い海へ向けたまま。 黒い影は荒れていた。邪魔をされたのが気に食わなかったのかもしれない――ひとしきりその巨体で水面を叩き、激しく水飛沫を上げ、波を起こす。 「サメかマグロのような海魔じゃな――ずい分大きいが」 ジュリエッタは目を細めて、影の形から敵の姿を推測する。 「ジュリエッタちゃんの雷がよく効くんじゃないかなぁ?」 「それは確かじゃが、あれだけ暴れられると」 当てるのが難しい――最後まで言うより先に、海魔が口を大きく開いた。 その奥から再び吐き出される奔流―― グレイズは二人を突き飛ばした。同時に自分は身をかがめる。彼の頭上すれすれを水流が通り過ぎていく。 「――とにかく動きを止めねばのう」 ジュリエッタは刀を頭上にかざし雷を呼んだ。 目を焼くような光とともに海に落ちた雷光――しかし、すんでのところで海魔は海深く体を沈めたようだ。不自然にうねる海面は海魔が無事であることを知らせてくる。 サシャはティーポットを抱く手に力をこめた。 「……魚の一種だと思えばいいかな?」 独り言のように呟き、ポットを空中に躍らせる―― 先端から何かが流れ出した。最初はまるでカップにお湯を注ぐようにささやかだった水量が、サシャの気合とともに激しく噴き出した。 「――行けえっ!!!」 海に届くほどに噴射した水流から湯気が立っていることに気づき、グレイズは驚いた。あれは熱湯なのだ! 水面に海魔が姿を現した。サシャの放つ熱湯は、狙い違わず影に降り注いだ。 海魔が跳ねあがった。飛沫を上げながらのたうつ――冷たい海に棲む魚は高温に弱い。そんな性質をこの海魔も確かに持っているらしい。 おそらく初めて熱湯を浴びるのであろう海魔は、逃げる余裕も攻撃してくる余裕も失い、ただ悶え続ける。今こそこちらから攻めるとき――ジュリエッタは覚悟を決めた。大人しくさせられないとしても、 「数を撃ってしとめるぞい!」 「待て!」 ふいにグレイズが鋭い声をあげた。 思わず動きを止めたジュリエッタの脇を走り抜けた少年――その手に掴んでいたのは、長い長い氷の槍。 「――あああァァアアッ!!!」 掛け声一閃、暴れる海魔に叩きこむ。今度は逃さない――鋭い先端が海魔の皮膚を貫き、その巨体に突き立つ。 「狙え!」 グレイズは吠えた。その意図を察し、ジュリエッタは刀を振りかざした。狙いは暴れる海魔ではなく、一本の氷の槍―― 「雷よ!」 雷鳴が轟いた。 その一瞬、世界が真っ白に光った。 海が激しく震えた。電光は海面を蛇のように走り、そして―― 暴れていた影がぴたりと動きを止めた。 そのまま、静かに海に沈んで行く。 「―――」 三人は息を殺して待った。 光が消え、しんと静まり返った海。 その瞬間は全ての音が消え、 やがてぷかりとその巨体が海面に浮かんだとき、 「――やった……!」 サシャとジュリエッタは感極まって跳び上がり、その勢いのままグレイズに抱きついた。 「やった、グレイズ君……!」 グレイズは二人を跳ね除けなかった。 嬉しかったわけでは決してない。けれど。 どこまでも素直に喜びを表す二人のぬくもりが、何故かいやではなかったのだ―― ***** 朝になり、予定通り救助された彼らはブルーインブルーで着替えを済ませ、そのままそそくさと帰りのロストレイルに乗りこんだ。 体はぐったり疲れている。家に帰ればきっと泥のように眠ってしまうそんなことを呟いたジュリエッタにサシャが風邪の予防の仕方を語って聞かせる。ターミナルまでの時間もやはり賑やかで。 報告を聞いた司書は笑っていた。 「――ちゃんと三人で帰ってきたんだな」 その視線はそっぽを向いていた青髪の少年に向いていて、サシャとジュリエッタは思わず吹き出した。 「ともあれ、無事に任務完了だぞい」 世界図書館を出たところで、ジュリエッタは満足げにうんと伸びをした。 はぐれたあの船の乗客たちも、どうやら無事だったらしい。今回の依頼は大成功――だ。 「グレイズ君はこれからどうするの?」 サシャはぽつりと訊いた。 三人でいる時間が終わってしまうことがひどく寂しい。 それには答えることなくすたすたと二人から離れるように歩いた少年の後ろ姿が、ふと――立ち止まった。 「……世話になった。だが、これで貸し借りはなしだ」 ぼそりと呟いた彼は、半身だけ振り向く。その手が二人に向かって何かを放り投げる―― 「あっ」 受け止めたサシャは、目を丸くした。 彼女の手の中にあったのは、氷で作られた一輪の花。 純度の高い雪が青く見えるのと同じように、その花も青い。水晶よりも美しく透き通った氷細工。 しばし見とれた二人がやがて顔を上げたとき、グレイズは姿を消してしまっていた。 「………」 少年がいなくなったその道に、彼の後ろ姿を思い描いて、ジュリエッタは目を細める。 「……触れると溶けてしまう氷のような、か」 それはサシャの言葉だ。あのときは寂しさも伴った言葉だったけれど―― 「氷というのは繊細で美しい。それにこの花は、溶けることもない……こんな氷もあるぞい」 サシャは微笑んで、うん――とうなずいた。 「――次に会ったときは、もっと“触れて”みようかな」 サシャのつぶやきに呼応するように―― 青い花は陽光を受けて、きらりとやさしく輝いた。
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