「空の神秘を見に行こうか」 と、相沢優が誘ったとき、日和坂綾はきょとんとした顔をした。 「どしたのユウ、突然?」 「0番世界に慣れると“変化のある空”が恋しくなるときがあるだろ?」 んー、と綾は虚空を見ながら首をかしげる。 「そうかなあ……あんまり思わなかったかも? でも言われてみればそうかも」 そう言って、綾はてへへと頭に手をやり照れ笑った。 「ごめん、あんまり空のこと気にしてなかった」 ――それは多分、最近風景を気にするような余裕がなかったからなんだろう? 「で、空の神秘ってナニ?」 期待をこめて目を輝かせる彼女に、優は笑いかけた。 「オーロラだよ」 ――壱番世界フィンランドのサーリセルカでオーロラが見られるらしい―― ● オーロラ。 空を舞台にした、光の神秘。 日本では滅多に見られないその光景は、時には夢物語のように神秘的に語られる。けれどたしかに同じ地球上に生まれるのだ。 「太陽が起こす現象なんだ。南極方面でも見られるけど、南には人が滞在できる場所がないってことで、どうしても北が有名になるらしい」 あらかじめ調べた情報を、飛行機から降りる準備をしながら優は綾に披露していた。 荷物を持ち上げる度に厚い防寒着が音を立てる。――冬のこの時期に北極圏へ来るとなると、どうしてもこういう服装になる。 綾もしかり。元々身軽さを好む彼女には、この厚着は中々堪えるようだ。 だが、それでも彼女は気合一杯にきびきびと行動する。 「いざ、北の大地に下り立つベシ!」 それが本物の元気なのか空元気なのかは、優にはまだ分からない。 今回の旅行の計画を立てたのは優だ。個人旅行はさすがに値が張るため、迷いながらもツアーを利用することにした。 ――何となく、見知らぬ人たちの群れの中に今の綾を連れて行くのはいやだったのだが―― 実際に参加してみれば、綾は相変わらずの明るさでツアー仲間たちと接していた。そのことにほっとしたような、どこか引っかかるような曖昧な気持ちが優を落ちつかなくさせる。 先日ブルーインブルーへ赴いて以来、綾の態度が少しだけおかしいと優は気づいていた。普段はいつも通り活発で、元気に友人たちと日々を楽しんでいるように見えるのだが、ふとした瞬間にどこか遠くを眺めてぼんやりしていることがある。 一体何を考えているのだろう―― 無理に聞きだしたいとは思わない。けれど無視したくもない。 せめて新しい刺激を、気晴らしを何かあげたくて、こうして旅行に誘ってみたのだ。 フィンランドの北方サーリセルカ町までは、エアポートバスで数十分。 空は晴れていたが、期待を裏切らずに雪が積もっている。路面も凍結しているのを見た綾が「地面大丈夫かなあ」とつぶやくのを聞きながらバスに乗りこむ。 ……大丈夫とは言い難かった。 ツアー客を乗せ発進したバスは、猛スピードで飛ばしてくれた。おそらく日本の高速道路ほどのスピードなのだろうが、地面が滑りやすくなっているのでとんでもなくスリルがある。 「そ、そういえば外国って車が速いって聞いたな……」 身をすくめながら冷や汗をかきつつつぶやいた優は、ふと腕に重みを感じて横を向いた。 隣の座席に座っていた綾は、しっかと優の腕を片手で掴んでいた。彼と目が合うと、泣きそうな顔でふるふると顔を横に振る――“怖い”、とその顔が如実に訴えている。 「大丈夫だよ、綾」 なだめるように優は微笑んでみせる。 そして心の中で、(そう言い聞かせてないと俺も怖いな)と思った。 綾も自分も、遊園地のジェットコースターには大喜びで乗るのだが……それとこれとはスリルの質が違う。“遊びではないスリル”は、慣れていない身にはつらい。 やがてバスがホテル前で停まったとき、綾が盛大に安堵のため息をついたのが分かった。 よろよろと座席から立ち上がり、荷物を両手で抱えるように持つ。優はその背中をやさしく撫でて、彼女の体調を気づかった。 ありがと、と綾は疲れ切った声でつぶやいた。 「……耐えるしかないスリルってあんまり好きじゃない……」 ぼそりとこぼれた言葉に、優は「たしかにな」と苦笑した。 バスから降りると、ひんやりとした外気が頬に触れる。 「痛っ」 綾が慌てて、ずれていた耳あてをつけ直す。 氷点下の空気は刺すように冷たい。露出しているわずかな肌がひりひりと痛みを訴える。 風向きをたしかめた優は、さりげなく綾を風からかばう位置に回ると、綾をホテルへと促した。 「チェックインした後、注意事項の説明があって、それから自由時間だって。大丈夫か、綾?」 「うん、ダイジョーブ」 言いながら、綾は辺りを見渡した。 時刻は夜の8時。北極圏であるこの地方、すでに数時間前に日は落ち、夜空を背景にした光景が広がっている。 目の前には雪積もる木々に抱かれた、異国情緒あふれるホテル。こうこうと光る街灯が照らしだすのは、白く染まった屋根に、丸太を重ねたような木造の壁の建物だ。 視線を巡らすと、広々とした土地にぽつぽつと建物があり――その合間合間には背の高い木々が雪化粧をして立っている。 民家からこぼれる光がほんのりと優しい。 ロストナンバーである二人は、これまでにもあらゆる文化を見てきた。だからこうした建物を見たことも皆無ではない。 それでも、飛行機やバスを乗り継いだ先にこうした風景が広がると、何だか夢の世界に迷いこんだような気分になる。 すごいなあ、と綾はつぶやいた。 その目が生き返ったように輝きを取り戻した。 「やっぱり外はいーね、寒いときは空気がおいしいと相場が決まってるし!」 大きく息を吸う――そして、 「空気冷たっ!」 と真っ赤になった顔をくしゃくしゃにした。 それはいつも通りの彼女の様子で、優は安心して、心から笑み崩れた。 ツアーガイドから注意事項の説明があった後、優と綾は部屋に入って今後の予定を確認した。 第一目的はオーロラだが、滞在期間は2泊3日だ。オーロラを探しにいくのは夜だから、午前中は町を散策するつもりでいる。 「犬ぞりも楽しみ!」 マップを手にした綾が、ベッドの上に座って上機嫌に体を揺らす。 新しい土地に来たという興奮が、会話を終わらせない。つきることなく喋り続けていた綾がふと――視線を窓の外へと投げやった。 暗い、と彼女は独りごちた。 「……昼過ぎにはもう日が落ちてたよねえ。早いなあ」 「まだ日が上がるだけましなんだけどな。年末辺りはこの辺りは極夜だから」 「きょくや? あ、白夜の反対の?」 「そう。一日中日が昇らない」 ふうん――と興味深そうに唸り、綾はベッドから移動して窓に両手をつき、空を覗きこむようにした。 優はそっとその隣に立ち、一緒に空を見るふりをしながら、ひそかに彼女の横顔を見る。 星がまたたく空を見る目は、どこか不思議そうだ。 「……ここも壱番世界、か」 吐息とともにつぶやく言葉に、奇妙な響きがある。 「ロストナンバーになってから、『別世界に来た』みたいな感覚には慣れたつもりだったんだけど」 「―――」 「ね、ユウ。外出てみよう」 隣に立つ優に顔を向けて、綾は言った。「オーロラは町外れに行かないと見られないんだよね? じゃあそこまで歩いてみよう!」 「……ああ」 優は取り繕ったように微笑み、うなずいた。 ――何でそんな目をしてるんだ、綾? 喉まで出かかった問いを、ひりつくような思いで飲みこんで。 町外れには灯りがなく、暗い。だからこそのオーロラスポット―― ほんのわずかな風が体感温度を急激に下げる。身をしばるような冷たい空気の中、二人は長い間、広大すぎる夜空を見上げていた。あまり大きく口を動かすと口の中が痛むので、自然とくぐもった声になる。それでも会話をせずにいられない。 『きれいすぎて、このまま吸いこまれそうな空だよね』 と、綾は笑った。 吸いこまれてしまえばいいね――と聞こえて、凍えた優の体が、さらに冷水をかぶったように震えた。 少しは気晴らしになっているみたいだ、というのは自分の思いこみだったろうか? (いや……まだ分からない) その日の夜は、オーロラを見つけることはできなかった。 ● 二日目は終日自由行動だ。 朝食を終えた後、二人は早速外に出た。午前中でもまだ暗い。この時期、日の出は11時過ぎだという。 それでも昨夜よりは明るい町中を散策する。特に何があるわけでもない町だったが、相変わらず雪で白く染まり、氷も張った世界は美しい。 昼食はホテルで。 そして午後、ようやく見えた陽射しの中、犬ぞり体験へ向かう。 四頭の犬が牽く二人乗りのソリは速かった。犬たちは雪を蹴り飛ばしながら静かな森の中を疾走する。雪化粧した世界の中を駆ける爽快さは、寒ささえ忘れさせてくれる。 まるで風のようにあっという間に終わってしまった時間。 そりから降りると、綾は犬たちへと駆け寄った。 「この犬人懐っこい~!」 抱きついても逃げずにくぅ~んと甘えた声で鳴く。綾は嬉しそうな顔で頬をすり寄せる。 周りを見れば近くには柵があり、その中で未来の犬ぞりの牽き手たる小犬たちがころころと遊んでいる。 綾はそちらにも駆け寄り、柵ごしに小犬たちと戯れた。 傍らでそれを見守っていた優に、ふと親犬が一頭近づいてきた。気づいた優と目が合うと、犬はわおんと一声鳴いた。そのつぶらな瞳は何かを訴えかけるようだ。 「あれ? ユウ、その犬に何かしたの?」 「いや」 優は笑って、その犬の頭を撫でた。「――励ましてくれたのかもしれない」 不思議そうに首をひねった綾には何も言わず、優は「ありがとうな」と犬に語りかけ、そして空を見上げた。今日は少し雲があることが気にかかる。 オーロラを見るチャンスは今夜で最後―― もっと滞在期間を長くすればよかったのだが、あいにくフィンランド旅行にかかる費用は伊達ではない。二人が大学生であることを考えれば、楽な計画ではなかったのだ。 つるべ落としのようにあっさりと日が落ちると、綾も空を見上げることが多くなった。あれこれ買い物をしたり写真を取ったりする合間にも、どうしても空が気にかかる。 二人は夕食を早めに取り、再びオーロラを探して町外れへ移動した。 ガイドブックを改めて確認しながら、優は綾を案内していく。 「やっぱり昨日と同じところ行ってみるか、綾?」 綾は呻いて、はふ、と白い息を吐いた。 そして急に、ぎゅうっと両腕で優の腕に抱きついた。 「綾?」 驚いて彼女の顔を見下ろすと、綾は赤く染まった頬をぷうと膨らませ、 「だって超寒いんだもん」 上目づかいで優を見上げる。 優は微笑んだ。 いつも全力の彼女を、たまには甘えさせてあげたい。 ――町外れは静かな闇の世界だ。 懐中電灯の灯りだけでは心もとなくて、互いの気配が恋しくなる。 綾は優の腕を放さなかった。 囁くような声でも聞こえるくらい近い距離、お互いの呼吸が分かるような気がする。 「オーロラはほぼ一年中、昼夜問わず発生するんだ。ただ、昼間は周りが明るすぎて見えないし、雲があっても見えない」 気がつくと、星が姿を現していた。雲が晴れた、どうかこのまま――祈るような気持ちで空を見上げる。 「町中だと生活で出た煙とかが上空に滞留して邪魔になったりもするとか――」 ふと感じた綾の息遣いは、不思議なくらい落ちついている。 一通りの説明を終えた優は、視線を揺らして次の話題を探す。沈黙に支配されるのが、怖い。 「……夜空に向かって口笛を吹くと、オーロラを呼べるらしい」 聞いただけの言い伝えを口にして、すうと息を吸いこむ。 ――彼の奏でる口笛の音が、ひんやりとした空気の中に細く流れていく。 空まで届くだろうか。そんなことを考えた優の隣で、ふと綾が口を開いた。 「ユウってさ」 彼女は相変わらず夜空を見上げたまま。 つぶやくような声は、独り言のようにも聞こえて。 「どうして、人の気持ちが分かるの?」 「え?」 思いがけないことを言われて、彼は思わず綾に目を向けた。 綾はこちらを見ない。ただ言葉だけを向けてくる。 「だってさ、この旅行だって私が喜ぶように計画してくれたよね? 犬ぞりとか」 何も言わなくても、優にはバレてるみたいだよね――と、彼女は笑う。 「………」 優は目を伏せた。 そして、苦笑した。 「分かるわけじゃない。想像してみるだけだ――綾ならこんなことが好きなんじゃないかって、全部想像。当たってるかどうかなんて分からない」 人の気持ちなんて分かるもんじゃない。 例えば今この瞬間、優が“きっと綾は寒いに違いない”と考えたとしても、本当に彼女が寒いと感じているかさえ本当のところは不確定なのだ。 それでも。 「――それでも、試してみるさ。間違っていてもいい。それは綾の新しい何かを知ることができたってことだから」 「………」 綾の呼吸が聞こえた。 「ユウって」 そのとき、「あ!」と突然綾は大声を上げて上空を指さした。 優は咄嗟にその指先をたどった――そして、目を見開いた。 一瞬、呼吸が止まったような気がした。 「――オーロラだ!」 天に降りたゆるやかなシュプール。 柔らかい布のように揺れる、緑色の光のカーテン。窓際でさやさやと風に揺られる布のように、ゆっくりとした動きで流れていく。 二人は顔を見合わせ、歓声を上げた。綾は優の手を掴んでぶんぶんと振った。興奮が止まらない、そんな気持ちを表すように。 「やった! 口笛が届いたんだよ、ユウ!」 もう一度上空を見やり、ああ――と感嘆のため息をつく。 「ナンか想像してたのより、ずっとキレイ――」 感極まった彼女の声は、泣きそうにも聞こえる。 それからしばらく、二人並んで空の神秘を眺めた。 言葉はいらなかった。この瞬間だけはきっと――きっと二人、同じことを考えている。 ひょっとしたら数分となかったのかもしれない時間が、とても長く思えて。 やがて緑の光が溶けるように夜空に消えたとき、綾はつぶやいた。 「ありがと、ユウ。誘ってくれて」 優は笑みを浮かべた。 「どういたしまして」 悪戯っぽく言いながら視線を綾へと移し、ふと口をつぐむ。 綾はまだ空を見上げている。消えてしまった何かを惜しむように、求めるようにその視線は遠くを見つめたまま。 ――ねえ、ユウ。彼女は囁いた。 「私が逃げ出したいって言ったら、どうする?」 それが一体どういう意味なのか、優にはっきりと分かったわけではない。 ブルーインブルーで何があったのか、優はまだ綾の口から聞いていない。 それでも、答えは決まっている。 そうだな、と彼は穏やかな口調で。 「綾のために出来る限りのことをするけど、最後は綾の選択に委ねると思う」 綾は応えない。 優は思う。君は今、何を考えているのだろう? ほら、俺も君の心なんかちっとも分かっちゃいない。 それでも俺は、君に話しかけるのを止めたくはない。 「ほら、綾。これ」 服の中からおもむろに取り出したものを、綾に差し出す。 ようやくこちらを向いた綾は、優の手にあるものを見て目を丸くした。 「それって」 「懐かしいだろ。この携帯のストラップ……綾や皆と出かけたときに買ったやつ」 思い出すのは、仲のいい友人たちと繰り出した遊園地。あの騒がしい時間。皆のはしゃぐ声が、今も耳元で聞こえる気がする。 「すごく楽しかったな」 綾は切なげに顔をゆがめた。 辺りは夜の闇。けれどそんな中でも、はっきりと見える気がして。 逃げたいと思うその気持ちを、完全に理解できたわけじゃない。 でも、彼は覚えている。 『耐えるしかないスリルって、あんまり好きじゃない』 そうつぶやいた彼女。 多分そんな風に、自分ではどうしようもない何かに――流れに――彼女は今、呑まれようとしていて。 どうしたらいいのか、きっと苦悩していて。 目標が見えずに途方に暮れるような、あるいは激流の中で掴みたい藁さえ見失ったかのような、 それは優の妄想かもしれない それでも 彼女の目を、まっすぐに見つめた。 「なぁ、綾。逃げるのも選択だ。でも逃げたらこういう大事なもの全部捨てなきゃいけない。俺はさ……大事なものがなくなるのが、すごく怖い」 「―――」 「だからさ、もう逃げない、逃げたくないって思うんだ」 心からの言葉を告げたい。 それが彼女にとってどう響くか分からない言葉だからこそ、真剣に。 彼女は目を細めた。まぶしい何かを見るように。 それからそっと――微笑んだ。 「スゴイね、ユウは……ウン、やっぱりユウはそうでなくちゃ」 すごいよ、ともう一度言って、優の腕を両腕で強く抱きこむ。 そして彼女は囁いた。 「私、ユウのそういうトコ好きだな……ウン、凄く好き」 それはとても、とても嬉しそうな顔で。 ――言えない言葉は全部飲みこんで―― ● なあ、綾。 時々君のことが分からなくなることがあるんだ。 知らないことが多すぎる。全部知りたい、なんて不可能なこと。 ……知らないことが、君へのこの気持ちを弱めるわけでは決してないけれど、 怖いんだ。何も知らなかったがために、君がどこか遠くへ行ってしまうことが。 どれだけ君の気持ちを考えても、全部的外れかもしれない。それが怖いんだ。 なあ、綾。 それでも俺は、 <了>
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