ヴォロスの奥地、とうに打ち捨てられた古い城。 そのどこかに竜刻が眠っているという。そして、 「その竜刻の力かどうか、その城にはこんな評判がある」 曰く、“人の願望を叶える夢の城”。 ● 『我、眩惑(ゲンワク)の城にて人の心を待つ』 「――という言葉が導きの書に現れている。人の心に触れている内に人格に近いものを持った竜刻とでもいうか。その回収を頼む」 世界図書館の依頼を受けて、四人はここヴォロスの古城にやってきた。 人の気配はもちろんない。色あせたその壁には、植物がからみついている。周りには大きな森と美しい湖があり、人が住んでいた頃はさぞかし絵になっただろうと思わせる。 城壁を見上げて、サシャ・エルガシャが感嘆のため息をついた。 「こんな建物が無人だなんて……もったいないなあ。ねえシュマイトちゃん」 「そうだな」 隣でシュマイト・ハーケズヤがうなずいた。 「城は巨大な芸術品だ。芸術は計算と密接に関わっている。ふむ、このシンメトリーの造形美はいいな。式にしたらさぞ美しかろう」 「……ごめんシュマイトちゃん、ワタシよく分からない……」 娘たちの会話を後ろで聞き、ほっほとのどかに笑ったのはジョヴァンニ・コルレオーネだ。 「ひとつの物を目にしていながら、どんな感想を持つかは人それぞれ。だから面白いのじゃろう。ハイユ嬢はどう思われるのかの?」 「あたし? あ~」 問われてハイユ・ティップラルはとてもだらけた仕種で城を一瞥した。 「地下に酒蔵とかないかしらねえ」 そう言って、あふ、と眠そうに欠伸。このメイドはどこにいようと大体やる気がない。酒場以外。 他三名もハイユの言動には慣れているので、ここは華麗にスルーした。 「“人の願望を叶える”って、どんなものかなあ?」 サシャが城の入口を見すえ、きゅっと唇を引きしめる。 「さて。ハイユ辺りは大量の酒の幻影でも見るんじゃないのか」 「あっは。そうなったらさすがのあたしも悩むな~」 「心配するなハイユ、そうなったら我々もキミを置いていく。……さあ、これ以上外から見ていても進展するまい。行こうか」 シュマイトの号令に、ジョヴァンニが穏やかに付け足した。 「もしも竜刻の力に惑わされても、わしらは四人じゃ。お互いに助け合うことにしよう娘さんたち」 そうですね、とサシャが嬉しそうに微笑みうなずく。 最後にもう一度見上げた古びた城は、来訪者を何ら拒むことなく、静かにそこに鎮座していた。 ● 城の中は暗かった。外は昼間であるはずなのに、光は射しこんでこない。 よく見れば、窓という窓は城の外壁に這う植物で覆われてしまっているのだ。 幸い、放置された城の廊下には、ところどころに燭台やランプがあった。 ハイユが魔法で火を生み出し、燭台を灯す。 揺らめく小さな炎にぼんやり照らし出される城内。しんと静まり返り、物音ひとつしない。 改めて見ると、やはり広すぎる。このまま四人固まって捜索したのでは、日が暮れても終わりそうにない。せめて二手に分かれた方が効率がいい。 相談の結果、一番部屋の多そうな一階をジョヴァンニとハイユが、二階以上をサシャとシュマイトが調べることに決まった。 竜刻がどのような形でこの城にあるのかも判然としていない。 「普通は“祀られている”か、宝物庫か……」 火が灯った燭台を一人一人手に持ち、シュマイトはサシャと共に慎重に歩を進めていた。 「あるいは竜刻だと全く気づかれずに、そこらの道具と一緒くたにされている可能性もある」 「司書さんは、“見た目は石のようだ”って言ってたよね」 二人で色々推測しながら回廊を進む。 次に入った部屋は、おそらく女性の個人部屋と思えた。埃と蜘蛛の巣にまみれた化粧台らしきものやベッドは、掃除さえすれば大層立派なものだったに違いない。 「見た目が石……宝石類に混ざって宝石箱の中もありえるか」 「服の飾りについてるかもしれないね」 「こういう部屋は掃除が行き届いているだろうから、ただの石として無造作に床に転がっているようなことはないだろうな」 「うん、それはないと思うよ。そんなものが床に転がっていてご主人様がつまずいたら一大事だし、掃除の基本だもの」 パッと見で目につく場所、インテリア等にはそれらしき物はない。 竜刻のある場所としていまいちイメージには合わないが、念のためタンスの中なども確認した。――見つからない。 「簡単には見つからないねえ」 長年放置されたおかげで開きづらいタンスやクローゼットと格闘しながら、サシャは少し笑った。その時、 ――何が見つからないんだい? 「っ!?」 サシャは振り向いた。 部屋の隅に人が立っていた。温和な微笑みを浮かべる、優しげな紳士が。 ――君が捜しているのは私ではないのかい、サシャ。私は、 「私はここにいるよ」 「だ、ん」 不意に大きな音がして、シュマイトははっとサシャを振り返った。 「サシャ?」 友人は燭台を取り落とし、呆然と部屋の一隅を見ていた。その目は大きく見開かれ、震える唇が、かすれた声を紡ぎだす。 「旦那様……っ?」 足元の火が危ないとシュマイトは叫んだ。だがその声は、サシャには届いていないようだ。 やがてサシャは、ふらりと倒れるような足取りで前に踏み出した。そのまま、何かを追うように廊下へと飛びだしていく。 「サシャ! 待て!」 すぐさま追いかけようとしたシュマイトの視界に、落ちた火が見えた。ダメだ、まずは火を消さなくては―― 唇を噛んで部屋の中へ引き返し、ベッドから厚手のシーツを取り上げて炎にかぶせる。水で濡らすことはできなかったが、幸いすぐに鎮火した。ほっと息をついたのもつかの間、弾かれたように彼女は部屋の外へと飛びだした。 「サシャ――!」 広い回廊に友を求める声が響く。 遠くでサシャの足音が聞こえた気がして、そちらに燭台の火を向けた。 ぼんやりと浮かび上がった廊下の奥深く。灯りが届かず闇に沈む道先を見て、シュマイトの背筋にひやりと冷たい汗が伝う。 サシャはあの闇に呑みこまれてしまったのか? 否。そんなバカな。慌てて頭を振り暗い考えを打ち切って、シュマイトは走り出した。闇の方へと。 廊下は長く、永遠に続くかのように思えた。 ――追い続けた闇の奥に、不意に人影が浮かんだ。 「サシャ?」 シュマイトは思わず安堵の響きを乗せて声を上げた。だがすぐに気づく――サシャではない。女性ではない。 それでいて見覚えのある姿。あれは、あれは、 男がゆっくりと顔を上げてシュマイトを見る。 彼女の名を、呼ぶ。 服の中に隠すように持っているトラベルギア――拳銃『ラス11型』が、急に重くなったような気がした。 ● サシャちゃんが心配だ、とハイユは言った。 「あの子は感情をおさえることがあまりできない。もちろんその素直さが美徳なんだけど、こういうところでは弱点かな」 数多くの一階の部屋を、豪快かつ的確な動きで探索していく万能メイドは、適当な口調でありながら確かに友人たちを心配しているようだ。 それはおそらく独り言に近かったろうが、ジョヴァンニはあえて反応した。 「シュマイト嬢はどうなのかの。あの子も心優しい子だとわしは思うが」 あははっ、とハイユは愉快そうに笑う。 「シュマイトお嬢は大丈夫でしょ。そう簡単にはやられないわよ」 タフなんだから……っ! 言いながら、ハイユは台所にあった壺を逆さまにして振る。そして、「ないねー」とけらけらと笑った。 ジョヴァンニは目を細める。 ――彼女のシュマイトに対する信頼は、どうやら“確信”であるらしい。 「ハイユ嬢が彼女を信頼するのは、やはり仕える主人であるからなのかね」 「おあいにくさま」 ハイユは適当に壺を置き、ふと優しげな顔をした。 「シュマイト嬢じゃないよ、あたしのご主人様は」 「………?」 「その孫だよ、シュマイト嬢は。それだけ。それだけだけど――ジョヴァンニさんなら分かるんじゃないかな」 そう言って彼女は不敵に笑う。 ――孫。 「なるほど」 ジョヴァンニはうなずいた。 愛しくてたまらない者の血を引くというだけで、その子孫もまた愛おしい。ジョヴァンニが娘や孫を溺愛しているのは、自分の子孫だという以上に『妻の子孫だから』という部分が大きいのだ。 台所の奥にさらに扉を見つけたハイユは、ジョヴァンニに台所の捜索を任せて、自分は扉の先へと消えた。 一人残り、ジョヴァンニは台所を改めて見渡した。 竜刻は力あるもの。目に見えなくとも、力の波動のようなものが伝わってくることも多い。もちろん二十四時間常に力を放っている竜刻ばかりではないのだが、それでも探索のときは一番の目安になる。 少なくとも今この台所に、なにがしかの“力”の気配はなかった。 ふと見ると、探索に力を借りていたオウルフォームのセクタンは、台所の道具を止まり木にして休んでいる。 「ルクレツィア」 優しく名を呼んで、セクタンを撫でた。 それは最愛の妻の名。 ……本人に向かってその名を呼びかけることができなくなってから、もう何年経っただろう? 今でも彼は、心の中で何度も彼女を呼んでいる。呼ぶ度に、心の中で懐かしい光景が蘇る。彼女と過ごした日々。彼女の愛した薔薇園。棘のある花をまるで厭わずに愛でながら、薔薇より美しい妻は幸せそうに笑っている。 それが白昼夢だと知っていた。 呼べば応えてくれるなんて、全ては幻想。生まれるのは過去の記憶ばかりで、新しく生まれる未来はない。 (君との未来がなくなった。新しい君を見つけることはもうできん。呼べば“いつも通りに”君が応える。……それが哀しいんじゃよ、ルクレツィア) ――それでも、何度でも呼んで下さいな、あなた。 「………!?」 目の前の空気が変わった。 瞬きをする一瞬の間に、そこに一人の女性の姿が現れていた。すぐには到底信じることのできないほど、ジョヴァンニにとっては重すぎる存在が今、前触れもなくそこにいる。 白い頬をほんのりと幸福そうに染めて。 ――あなたの声はいつも聞こえています。私を想って下さってありがとう…… ジョヴァンニは声を詰まらせた。 あれほど焦がれた相手を目の前にして、何を言っていいか分からなくなる。 視線の先で、美しい妻は花のように笑った。 「今なら、もっとあなたとお話できるかしら。私の愛しいあなた……」 耳を、頭を、心を、じわじわと侵していく、甘い甘い毒。 彼を導くように身を翻し、部屋を出て行こうとする妻の姿を、我知らず体が追っていた。 「ルクレツィア、待っておくれ」 どうかもう一度その声で応えておくれ。この呼び声が、虚しく散ることのないように。 「こっちにもないみたい――って、ジョヴァンニさん?」 ハイユが扉の奥から戻ってきたのは、丁度ジョヴァンニが台所から廊下へ出て行った瞬間だった。 後ろ姿を見ただけで、様子がおかしいことにすぐ気づいた。ハイユは眼差しを鋭くして台所全体に異変がないことを確かめ、それからジョヴァンニの後を追った。 回廊は一段と濃い闇に沈んでいる。 その闇に溶けたかのように、すでにジョヴァンニの姿は見えない。しかし足音が聞こえる――その音を頼りに、ハイユは自ら闇へと向かっていく。 駆ける彼女の足取りに乱れはなかった。 それなのに追いつけない。彼女の心にわずかな焦燥が生まれる。ジョヴァンニが出て行ったタイミングを考えても、それほど距離があったはずはないのだ。となれば、 ――すでに、術中か? 「っ」 ハイユは立ち止まった。耳に聞こえていたジョヴァンニの足音が、いつまで経っても「変わらない距離から」聞こえることに気づいたのだ。 危険だ。罠にはまったときは、下手に動き回らない方がいい。状況を確かめなければ―― ――察しがよいのは相変わらずだ、ハイユ。 それはまるで、耳元で囁かれたかのように近く。 反射的に振り向く。目の前にいた存在が、見上げるほどに大きな男だと思った刹那に、記憶が津波のように舞い戻ってきた。 初めて出会ったあのとき。彼女には本当に彼が大きく見えたのだ。大きくて大きくて――命を失いかけていた自分に差し伸べられた手さえも、とても大きくて。 今目の前にいる大男も、優しく手を差し出してくる。強い手、ぬくもりある手―― 「おやかた、さま」 これは夢だ。 だって目の前の人がとうの昔に亡くなっていることを、ハイユはよく知っているのだ。 ● 「御館様」 ハイユはその幻に向かって呼びかけた。 “願望を叶える夢の城”とは、こういうことだったか……頭のどこかが冷静にそう判断する。 だが、それが何だというのだろう? 夢も現実も、どちらも同じじゃないか? それが自分にとって真実なら。 「御館様」 ハイユに全てを教えてくれた優しく強い瞳は、今もまっすぐとハイユを見つめて微笑んでいる。 ハイユ、と呼ぶ声。その心地よさ。 もう二度と聞くことができないと思っていた。それが辛くて、哀しくて。 ――私の言いつけを、ちゃんと守れているようだな……? 笑った主は、少し悪戯っぽく。 はい、とハイユはうなずいた。決して忘れない。あなたのくれた言葉は、全て。 次の言葉は、到底夢とは思えないほどリアルな響きをはらんで。 「そうか。ではこれからも私と共にいてくれるな? ハイユ」 夢でもいい。幻でもいい。このまま溺れてしまいたい。 消えてしまわないで、どうか―― 『夢は所詮夢でしかない』 不意に声が蘇った。 今目の前にいる男のものではない、記憶に刻まれた主の声。 夢も現実も同じだと、今と同じことを言った過去のハイユを、たしなめたあの人。 『違うのさ。全く別の物だと認めなくてはならない。夢の方が時には美しく優しいだろうが……それでも、だ』 納得できなくて不満丸出しの顔をしたハイユに、最後には笑って。 『――今ここに君と私が共にいる。それは紛れもない現実だよ、ハイユ』 夢を認めてしまっては、現実が消えていく。 「―――」 覚えている。あなたの言葉は全て。 心が凪いでいく。たったひとつの答を残して。 ハイユは目の前に佇む男の影をまっすぐに見すえた。 「夢も幻もあたしには必要ない」 そう、必要ない。 夢を認めては消えてしまうから。一番美しかった“現実”の、その意味が。 「御館様のことはあたしが覚えてる。それで十分。あんたは」 所詮はニセモノなんだよ。 鋭いナイフのように向けた言葉が、幻影を一瞬で消滅させた。 残滓さえない夢の終わり。幻は何も残さない。ただこの胸だけに、震えるような寂しさが寄り添って。 誰もいなくなった空間を見つめ、彼女は小さく苦笑した。 「“夢の城”か……」 そして彼女は思考を切り替えた。あとの三人はどうしただろう? 同じように幻と出会ったとしたら、トラベラーズノートに連絡するだけでは、気づかない可能性がある。 ハイユは回廊から中庭に飛び出し、都合よく吹き抜けになっているそこから上に向かって風を生んだ。 「シュマイトお嬢! サシャちゃん! ジョヴァンニさん……!」 声を乗せ、飛ばす。城内のどこへでも、風の行く限り届くように―― ● シュマイトのトラベルギアは拳銃を模している。 レトロな装飾の施されたそれの性能は、魔法力を弾丸とする種類としては、シュマイトの知る限り世界最高峰だ。 彼女はこれ以上の銃を生み出せなかった。常日頃天才と自称する自分がついに超えられなかった壁、その象徴がこの拳銃なのだ。 否。超えられなかったのは、この銃ではなく。 その造り主―― 職人気質だった彼は、あまり表情が豊かな方ではなかった。 おまけに滅多に喋らないから、彼の声が聞けた日には、異常気象になるのではないかと思ったものだ。職人は言葉より技術で語れと、おそらくそう考えていたのだろうと思う。議論が大好物のシュマイトにしてみれば「無口でつまらない男」という印象がどうにも拭えなかったのだが。 しかし不思議なもので、彼の声はよく覚えている。滅多に聞けないからこそ、記憶に残ったのかもしれない。 今まで考えたこともなかったが、ひょっとすると自分は少し、 ――少し、彼の声が好きだったのかもしれない。 闇の中から現れた男は、シュマイトの名前を呼んだきり沈黙していた。 ただじっと見つめてくる。シュマイトの視線を捕えたまま、動かない。 「………」 シュマイトは少し笑った。 愉快なことだ。今さら、この男と目が合うことがあるとは。 どれだけシュマイトがライバル心を燃やしても、意に介さずにただひたすら創作に打ち込んでいた。彼の世界には自分はいないのではないかと思うことさえあった。それなのに。 「……何の気まぐれだ?」 彼は無言で、手を差し出した。 こっちに来い、とでも言うような仕種だ。 シュマイトはその手を見つめ、それから彼の顔を見つめた。寡黙すぎる男はそれ以上何も言うことはない。その沈黙っぷりは、辺りの暗闇には相応しかったが。 そっと服の上から『ラス11型』に触れる。 それから目を閉じ、自分の内側に問いかけた。――もしもあの男が本当に『来い』というのなら、わたしはどうする? 「シュマイトお嬢!」 風が吹き抜け、ハイユのいつになく強い声が鼓膜を震わせた。 シュマイトは目を見開いた。咄嗟に声の出所を探す――メイドの声は吹き抜けの下、中庭の方から聞こえるようだ。 すぐに回廊の手すりから下を見下ろすと、そこに燭台の火とともにハイユの姿があった。暗い世界に、ぽっかりと生まれた光のように。 シュマイトに気づいたハイユは下でトラベラーズノートを振る。慌ててノートを確かめると、エアメールにはジョヴァンニとはぐれたこと、合流して捜しに行きたいとの旨が書かれていた。 そうだった、自分もサシャを捜しに行かなくては。シュマイトは改めて男に向き直る。 ハイユの声にもシュマイトの様子にも、全く動じるでもなく男はそこに佇んでいる。一途にこちらを見つめる目が、段々と虚ろな玉へと変わっていく。 ――違う。最初から空虚だったのだ。 「わたしは中身のないものには興味はない。例えキミが本物だったとしても……な」 出した答に迷いなく。 虚無の幻は、一瞬で霧散した。 何とあっけないことだろう。吐息とともに彼女は苦笑した。 けれどそんなものなのだろう。“夢”などというものは。 それでも――。 シュマイトは幻が消えた空間を見つめて、つぶやいた。 「だがな。キミと本当にまた戦えるというのなら、わたしも……喜んで囚われたかも、しれないな」 合流したシュマイトとハイユは、サシャとジョヴァンニを捜して広い城内を駆ける。 城の造りというのは案外単純であることも多い。闇に心さえ負けなければ、迷うこともないのだ。 長い間無人だった場所に人が入れば、どうしても気配が残る。灯を強くして辺りを観察すれば、埃が舞った跡を見つけられる。 それは地下室へと向かっていた。 階下に下りると、まずはサシャが見つかった。 友人の姿を見つけた瞬間、シュマイトは詰まった。サシャはとても嬉しそうに笑っている―― ● 取り戻したい過去があった。 孤児になり、幸福になるための方法も見失ったサシャに、全てをくれた旦那様。 その恩に報いたいとずっと思いながら、思うようにいかなかった日々。結局何もできないまま、主の死を看取ることになってしまったあの日。 「旦那様、ごめんなさい……」 思い返せばつんと胸が痛くなる。 でももう後悔しなくていい。サシャは満面の笑みを浮かべる。だって今目の前に旦那様がいる、ああほらあれは懐かしいお屋敷、周りに溢れる瑞々しい自然の植物たち。 失われた時間はこれからいくらでも取り返せる。 「ワタシ、旦那様のおそばにいます」 優しい旦那様は、嬉しそうに微笑んでくれた。 目の前にいる主は、独りぼっちなのだ。 このまま置いてなんかいけない。全ての幸福をくれた旦那様と、今度こそ共に―― 「ダメだよサシャちゃん!」 澄んだ天空が、音を立ててひび割れた。 誰かがいる。振り向けない。放っておいて、旦那様との時間を邪魔しないで、 「あたしたちは、後悔と一緒に生きていくしかないんだよ。儚い夢の中で過去を取り返す、そのためにサシャちゃんは現実を捨てられる? その程度の現実だったのかッ!」 世界はガラスのようにもろく弾け飛び、落ち行く破片の中に美しい夢の光景を見て、サシャは悲鳴を上げてうずくまる。 ――あの声はハイユ様? 違う、違うの、皆を捨てたいわけじゃないの、 「サシャ。頼む、行かないでくれ。キミの……旦那様への愛情の全てを知っているわけではないわたしに、こんなことを言う権利はないんだろうが」 喘ぐ心を撫でるように紡がれた言葉は、 不器用で、愛おしくさえ思えるサシャの友人の、 「……行かないでほしいんだ。サシャ」 シュマイトちゃん。 ああ、放っておけない人はここにもいた。 彼女だけじゃない、ハイユもジョヴァンニもターミナルの友人たちも、そして彼も――みんなみんな、このまま別れてしまえるはずがない。 だって自分はよく知っている。大切な人と別れるその哀しみを! 「……旦那様も、それを教えて下さった一人、ですよね……」 静かに流れる涙の雫が、サシャの褐色の頬を伝う。 「……旦那様、ごめんなさい。ワタシ、やっぱりまだ恩返しできません」 でも、いつか。 自分も天国へ召されるときが来たら、そのときは。 ごめんなさい、と囁く声と共に、幻影は消えた。 最後の最後まで詫びしか出来なかった。サシャは寂しく微笑んだ。 ● 愛しい妻が導いてくれた先には、広々とした庭園があった。 そこには薔薇だけでなく、様々な花があった。大きな花も小さな花も、全てが活き活きと華やいでいる。 そしてその中央に立つ妻の何と清らかなことか―― 「素晴らしい庭だ、ルクレツィア」 心からそう告げると、妻は嬉しそうに頬を染めて微笑む。 一番にあなたに見せたくて、と彼女は言った。ずっとひとりで育てていたの、と。 それは胸の奥を薔薇の棘で刺すような、切なく蠱惑的な痛み。 「……独りにしていてすまなかった」 詫びることさえ心地よいのだ。話しかければ必ず何かが返ってくる。そんなささいなことが気が遠くなりそうなほどに尊く、消えない妻の微笑が蜜のように甘い。 若かりし頃には仕事に忙殺され、彼女と共にいる時間が思うように取れなかった。いずれ仕事が落ちついたなら全ての埋め合わせをしたいと――そう思っていた矢先、静かに逝ってしまった妻。 「今なら君のために全ての時間を捧げられる。ルクレツィア」 そう告げられることがこの上なく幸福だ。 このままこの庭園で過ごしたい。それは過去ではなく、未来に紡ぐ新しい二人の時間。 白昼夢には慣れている。 これは夢だと分かっていながら、抗うことができず。 ジョヴァンニさん、誰かが呼んでいる。 その声はあまりにも遠い。妻との世界を壊すには弱すぎる声だ。 ―――…… 「ジョヴァンニさんが奥様を一番大切になさってる気持ち、ワタシにも分かります……! でもワタシ、呼ばずにはいられません……っ!」 「優先順位では負けるのかもしれない。でも、このまま黙って見送ることはできそうにないんだ」 「あたしら束になっても敵いっこなかったとしてもさ。この子らにまだ、教えることがあるんじゃない?」 行かないで。 それは弱すぎる声だ。そのはずだ。 けれどどうして無視できなかったのか―― ――あなた、と妻が怪訝な顔をする。 ジョヴァンニはその表情をじっくりと見つめ、それから切なく微笑んだ。 「……すまんな、ルクレツィア。わしはまだまだ男として修行が足りぬようじゃよ」 “一番大切”だの“優先順位”だの“敵いっこない”だのという言葉を友人たちに使わせてしまった。それは騎士道を重んじる男として、決してあってはならないこと。 老紳士は恭しく、最愛の妻に礼をする。その片手を取り、そっと口づけて。 「もうしばらく友人たちと経験を積むことを、どうか許してほしい。この心を磨きに磨いて、いずれ必ず君の元へ還ろう」 ――最後に辿りつくのは君の隣だからと。 彼の言葉に、満足そうに微笑みながら、愛しき影は消え去った。 ● 四人が辿りついたのは、地下の一室だ。中央に台座があり、それ以外何もない。 台座にあるのは、灰色の石だった。一見少し大きいだけの普通の石でしかない。本当にこれが目指す竜刻なのかと、四人が疑ったそのとき、 ――我、人の子の心を待つ 脳に直接響くような声に、彼らは顔を見合わせる。 「……導きの書の通り、か?」 ――我を見つけ出した強き者たちよ ――たったひとつだけ、願いを幻ではなく真実で叶えよう 「ひとつ、とは……。幻ではないとなると、力も莫大に使うということのようじゃな」 ジョヴァンニがふむと顎を撫でる。そして、 「どうするかね、お嬢さん方」 「え、ジョヴァンニさんは?」 尋ねたサシャに、ジョヴァンニは微笑む。 「わしにはこれといってないのじゃよ。そもそも、わしは夢に流されかけたのじゃからな」 「……じゃあ、ワタシもご褒美なんてもらえないです」 気を落としたサシャはすぐに気を取り直し、シュマイトとハイユを促した。 「二人は夢に勝つのが早かったんだよねっ? 二人のどっちかがいいんじゃないかな」 「いや、そんな理屈で決めることでは」 「いいんじゃない? シュマイトお嬢、何か願っときなよ」 拒否しようとするシュマイトを、ハイユがにやにやと見る。「ほら、お胸のこととか、ちょーどいーんじゃない?」 「ハイユ。家に帰ったら一か月間酒を禁止する」 「ごめんお嬢それ殺生すぎるから無理」 「謝っても無駄だ。いや、まあそれはともかく」 こほん、と赤くなって咳払いをしたシュマイトは、ふと思いついたように友人たちの顔を見渡し、 「……分かった、私が願いを言う」 台座の竜刻に向き直った。 その力をアテにしているわけじゃない。それでももしも叶うのならば。 「この先、わたしたち四人が独りぼっちになることが、永遠にないよう」 サシャが、ジョヴァンニが、ハイユが、思わず目を丸くした。 ――何とも大きな願いだ。だが、人の子らしいな―― 竜刻の最後の言葉は、まるで笑っているかのようで。 呆気に取られている友人たちに向かって、シュマイトは振り向き、片目をつぶった。 「四人で助け合おうと言ったのはジョヴァンニだろう? サシャ、わたしがいつか夢に呑まれたら今度はキミが呼び戻してくれたまえよ。ああそれからハイユ。……まあキミがいれば、色々気になっておちおち幻に惑わされていられんだろうな」 例えこの先、何度甘美な夢に惑わされても。 独りぼっちでさえなければ――その夢に負けることはないから。 誰からともなく、その顔がほころんでいく。 竜刻にその願いを叶える力が、例えなかったとしても、彼らは。 台座から竜刻を取り上げる。 人の心に触れ続けた石は、まるで人のぬくもりのように、温かかった。 ―了―
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