セダン・イームズが休暇に付き合ってくれることになったとき、志野菫は行先は壱番世界にしよう――と即決した。 「今日はお天気がいいですね! ねえセダンさん」 壱番世界に下り立った菫は、上機嫌で隣に立つセダンに話しかけた。 彼女の言葉通り、今日は抜けるような青空だ。ぽかぽかとした小春日和の陽気は目にも心にも優しく、楽しい気持ちを包んでくれる。 本当に、とセダンは微笑み、辺りを見渡した。 「休日には最高の陽気だね。ほっとする」 そこは都心には遠く、かといって田舎というほどでもない、ほどほどに人の気配のする地域だ。今日の二人の目的は主に買い物だったが――人ごみに流されるような疲れる休日は送りたくない。 (せっかくセダンさんがOKしてくれたんだもの) 心の中で思って、菫は満面の笑みを浮かべる。 まるでデートでもするかのような高揚感だ。実際セダンは、女性にしておくには惜しい男装の麗人だったりする。こうして二人並んで歩けば、カップルと間違われたとしてもおかしくはない。 もっともセダンは“男性扱い”をあまり好まなかったし、菫にとっても彼女はあくまで『女性』だった。 (かっこよくて美人な憧れのお姉さん) それで十分。仲よくなりたい気持ちに変わりはない。 「セダンさん。今日はのんびりしましょうね!」 晴れやかな顔をセダンに向けると、ああ、とうなずいたセダンはふと心配そうな顔をした。 「本当に壱番世界で良かったのか?」 誘い主は菫で、その菫はツーリストである。 セダンとしては、どこが行先でも構わなかったのだが、菫が『壱番世界で』と即断したときは少し驚いた。――壱番世界はセダンの故郷だ。 だが別に“セダンに案内してもらおう”という魂胆でもないらしい。その証拠に行先は日本だったし、菫はセダンに何も尋ねず、自力で行きたい店を調べてきた。 「セダンさんはいつも人のお世話をしていて大変だし、今日は私がリードしますから! 任せて下さい」 張り切る菫に、セダンは微笑ましげに目を細めた。 「ああ。頼んだ」 では、早速―― 行きましょう! と声を弾ませ、菫はセダンの腕を取る。 セダンは笑いながら菫に引っ張られるに任せる。 「焦らなくても、一日は始まったばかりだよ?」 二人の足取りは軽い。普段はロストナンバーとして数々の苦難に立ち向かう彼らも、今だけはただの年若い娘としての明るい笑顔を、その顔に浮かべていた。 まず最初に入ったのは小物屋だ。 洋物も和物も雑多に置いてある、こじんまりとした店には、二人以外に客がいなかった。 おかげで気楽に店内を歩ける――菫はセダンに、 「何か必要なものありますか?」 と訊いた。 「うん? ……そうだね、ロストレイルでの旅は身軽が基本だから、あまり物は持たないようにしているんだけど」 そこまで答えたセダンは、残念そうな気配を見せた菫に笑って、 「でも物を見るのは嫌いじゃないから。旅に持っていける雑貨にはついつい目が行くよ。菫は何が欲しい?」 「私は」 菫は前日に散々考えたことを思い返す。 少女らしくこまごまとした物に心が惹かれる菫ではあったが、今日に限っては『セダンに合わせた何か』が欲しかったのだ。 セダンは普段は使用人のようなことをやっている。だから、地味でも実用的なものが好きだろうと思う。ストラップやキーホルダーより…… 「――ハンカチ。私ハンカチを買い足そうと思ってたんです。セダンさんもどうですか?」 「ああ、それはいいね」 案の定、セダンは親しみ深げにうなずいた。やった! 菫は心の中で柄にもなくガッツポーズをした。 クールな振る舞いのセダンの胸ポケットからのぞく白いハンカチ……絵になりすぎる! それでいて、女性の大切なエチケット用品。地味かとも思ったけれど、とても都合がいい。 二人でハンカチのあるコーナーに向かいながら、あれこれと好みを語り合う。 「セダンさんはどんな柄がお好きですか?」 「柄? あまり気にはしないが……清潔感があるもの、かな?」 「ですよね。白い生地に涼しげな柄の刺繍とかすごく似合いそう――あ、丁度いいのがある!」 菫の目に留まったのはレースのハンカチ。透けるような白生地、しかも四隅のひとつは薔薇の刺繍に合わせてカットされている。 銀糸とピンク糸による華やかな一輪の薔薇刺繍がとても上品で、こんな小さな小物店にあることが不思議に思えるほどだ。 「ね、セダンさん! これどうですか?」 「ああ、綺麗だね」 セダンが目を細めて微笑む。その涼やかな態度が、ますますそのハンカチに似合っている。 菫は迷うことなく、それをセダンにプレゼントすることに決めた。 セダンは貰うのを遠慮するようなことはなかった。代わりに、 「代わりにあなたにはボクが贈ろう。どれがいい?」 「え? そんなつもりじゃ」 「遠慮しない。ああ、これなんかどうだろう。とても手触りがよさそうだ」 とセダンが取り上げたのは、どうやら花柄のガーゼハンカチのようだ。彼女の言葉通りとても柔らかい。 セダンは菫の顔を軽くのぞき込み、少しだけ悪戯っぽく笑む。 「女の子の肌に悪いものは贈りたくないから。これでいい?」 菫が力一杯うなずいたのは、言うまでもない。 次に訪れたのは洋服屋だ。菫が今日一番行きたかった場所である。 彼女は企んでいた。 ズバリ、『セダンに女性らしい服を着せる!』 何もスカートに限っているわけでもない。 「チュニックとかも似合います! 下がパンツなら、上はすっきりとしたブラウスで――スカートだったらツイード? ロングスカート? 上はどれがいいだろう――」 次から次へと服を持ってきてはセダンに合わせようとする菫。セダンは苦笑して、されるがままになっていた。 セダンは髪が艶やかでまっすぐな銀髪だ。それが褪せない色を合わせたい。普段は黒で決めているのだけれど、他には何色がいいだろう? 選んだ服を、試着にかこつけてセダンに着せようとする。 「女性ものは長く着ていないから自信がないんだけど」 服を押しつけられて戸惑った反応をするセダンに、 「大丈夫」 菫は確信を持って請け負った。「セダンさん、美人なんだもん!」 チャンスを逃してはいけない。時には強く押さなくては! 試着室へと促そうとする菫に、セダンは苦笑して、結局菫の選んだ服を受けとった。 試着室の外でセダンを待っている間、菫はそわそわと落ちつかなかった。見ている人が目を回しそうな落ちつかなさだ。 自分の見立ては合っていただろうか? セダンの美しさを損ねていないだろうか? セダンは優しいから、もしヘンなことになっても許してくれるかもしれない。でも自分は自分を許せないだろう。ああ、人に何かをオススメするのがこんなに不安なものとは知らなかった―― 「お待たせ」 カーテンが開いた。 菫ははっと顔を向け――そして、 「わあ……!」 その顔にこれ以上ない喜色を浮かべた。 白いタートルネックのトップに、下は赤や白の薔薇の花びらが散った、黒地のシフォンロングスカート。大人の女性の出で立ちに、ベルトは金のチェーンを合わせて彼女の元からのかっこよさも保つ。 背の高い彼女に、ロングスカートはよく映えた。 似合います! と菫は声を上げた。 「後は後は、マフラーかストールがあるといいですね……! あ、フリンジスヌードもいい! 暖かい日なら、こう、濃い目の色のビーズかパールのネックレス……長いのを二重三重にしてっ」 胸の前で両手を合わせ、女性服を着たセダンをじっくりと眺める菫の頬がほんのり上気している。 セダンはくすぐったげに微笑んだ。着慣れないタイプの服は、やっぱり落ち着かないけれど。 「――菫が嬉しいなら、それでいいよ」 菫は満面の笑みを浮かべて、ありがとうセダンさん――と言った。 せっかくの菫のおすすめだったが、セダンはその服を買うのを固辞した。 正しく言うのなら、菫がその服を買ってセダンに贈ろうとするのを固辞したのだ。さすがにそんなにお金を使わせるわけにはいかない。 かと言って何も買わないのでは店に対する冷やかしになるので、菫は自分用にマフラーを買っていた。 セダンに女性服を試着させただけでとりあえず満足らしい。固辞したことを申し訳なく思うセダンの前で、彼女はまるで気分を害した様子もない。 (不思議だな) 店を出る菫の横顔を盗み見て、セダンは思う。 彼女は本当に楽しそうだ。普段はもっと大人びたきつい表情を浮かべていることが多い気がするのだが、今の彼女は歳相応の少女にしか見えない。 どうしてそこまで菫が自分を慕ってくれているのかは、正直分からない。 でも。 セダンは目を細める。――胸にふと忍び寄る、懐かしい思い。 (……あなたが楽しいなら) 「セダンさん? どうかしました?」 視線に気づいてこちらを見た菫に、セダンは笑って「何でもないよ」と首を振った。 「さあ、次はどこへ?」 アクセサリー屋さんですよ、と答える菫の声の明るさが、耳に心地よかった。 アクセサリー屋では、菫は自分用にシルバーのブレスレットを購入した。 銀と言えば力あるもの。とは言え、今回彼女が選んだものはほとんどおもちゃだ。 それでも、 「似合うよ」 とセダンが言ってくれたから、菫は安物であろうとなんであろうと構わなかった。 アクセサリー屋を出ると、二人はどちらからともなく休憩することに決めた。 喫茶店を探してのんびり歩く。 昼下がりの道は、とても平和で心地よい。 やがて入った店は、店のところどころに置かれた花が愛らしく、二人の心を和ませてくれる。 飲み物を待つ間、とにかく何か話したくて菫はあれこれ話題を持ち出した。 セダンは普段、『歯に衣着せぬ』という言葉がぴったりの物言いをする。それでも不思議と今日は、彼女の言葉も穏やかだ。 ――こんなお姉さんがいてくれたらいい、と、菫は心から思う。 根が優しくて、気配りの達人だ。家事も得意だと言っていたし、頭もいい。 彼女が傍にいてくれたら、きっと学ぶことがたくさんある。 教わることが多すぎて、追いつくのに必死すぎて、いつものように卑屈になっている暇なんかなくなるかもしれない。 けれど気持ちを貰ってばかりでは、本当の友達とは言えない。 そのバランスを、うまく生み出せるだろうか? 菫が紅茶を、セダンが珈琲をそれぞれ飲み干し一息つくころ。菫は何とはなしに先ほど買ったばかりのブレスレットを取り出して、自分の手首にかけてみた。手首に感じる違和感がくすぐったくて少し笑い、それから菫はセダンに顔を向けた。 「セダンさんは、さっき何を買ったの?」 菫がよそを向いている隙にセダンが何かをレジに持っていっていたことに、彼女は気づいていたのだ。 ん……とセダンは言いにくそうに視線を泳がせ、 「……まあ、自分用に、ちょっと」 と照れたようにそう言った。 菫はそれをとても嬉しく思う。自分用――飾り物には興味がなさそうな彼女が、自分用にアクセサリーを買ったのだ! オシャレをしている人の傍にいればオシャレがしたくなる。 それと同じような作用が今のセダンに働いたのだろうか? ついつい笑みを深くした菫に、セダンが苦笑した。 「何でそんなに嬉しそうなの?」 「え? あ、ごめんなさい。でも」 菫はテーブルに軽く身を乗り出して、はにかみ笑う。 「――何だか、私が初めてセダンさんに影響を与えたみたいで、嬉しいです」 セダンが虚を突かれたような顔をした。 ――あ、あまり見られない顔。 しっかり者のセダンが油断を見せたかのような。 素の彼女を見られたかのような。 嬉しい。あれもこれも、全部嬉しい。さっきから“嬉しい”ばかりだ。 (セダンさんと長く一緒にいたら、私笑いじわがすごく増えるかもしれない) そんなことを思って自分で吹き出した。 ちょっと滑稽にも思えるそんな未来の想像が、とても幸せで愛おしかった。 ――初めて影響を。 (“初めて”なんて、そんなことはないんだけれど) セダンは心の中で思って小さく苦笑する。 ほんの少しでも人同士が付き合えば、何かしらの影響があるもの。 壁を、作っていたら別だけれど。少なくとも菫相手に、そこまで分厚い壁は必要ない。 少なくとも、今。 ――セダンの荷物の中に大切にしまわれた、買ったばかりのネックレス。 『濃い目の色のビーズネックレス、長いのを――』 女性服を試着したときに菫が口走った、あの言葉の通りのものを店で見かけて、つい買ってしまった。あの服自体は買っていないというのに、だ。 (何をやっているんだろう、私は) 自分でそう思い、くす、と笑う。 菫はこのことを知ることはない。だから本当に自分だけの秘密――こんな、くすぐったくも優しい気持ちを、あなたがくれたなんて。 ● 喫茶店を出ると、二人はしばらく適当に辺りを散策した。 少し歩けば他にもぽつぽつと店がある。もう十分に買い物はしたので中には入らないが、見かける度にそれをネタにして新しい話題が持ち上がる。それが楽しいのだ。 それを続ける内に、太陽は西に傾いた。 今日は夕焼けが出るかもしれない――二人は空を眺めて、移り変わる時間にしばし身を浸す。 「――私、最後に行きたい場所があるんです」 「いいよ。どこへ行く?」 「神社。セダンさん行ったことありますか?」 「そう言えばないかな。興味深いね」 「良かった! じゃあ行きましょう、少し歩きますけど――」 店や民家が点在していた場所から、より山に近い方向へと。 その麓に神社があると菫は説明した。 その言葉の通り、山と森に抱かれるようにして小さな神社があった。 鳥居をくぐり、砂利道をまっすぐ歩く。青々と茂る木々が陽光を遮って、道は少し暗く、とても静かだ。 水で手と口を清めた後、二人は参拝を済ませた。 「……正しい様式でできているかな?」 「大丈夫、だと思いますけど、でも間違ってても大丈夫かなって」 「はは、神様に大目に見てもらうことにしようか」 賽銭箱の前で二人は顔を見合わせ、笑い合った。 神社建築は二人にとって物珍しい。ああだこうだと言いながらそれを観察している内に、ふと社殿に赤い陽射しがかかる。 導かれるように空を見上げる。 森の木々から鳥が飛び立っていく。 「もう夕方だね」 「はい」 予想通りの美しい夕焼け。 空を横切っていく鳥の群れは、優雅に翼を広げている。 遠くに見える太陽のぼやけた輪郭は、いっそう世界をぬくもりのある光景にしていた。 「帰る前にあそこで――」 と菫は、神社の入口のすぐ傍にあった建物を指さした。 「お守りを買いましょうよ、セダンさん」 「お守り?」 小屋では各種お札やお守りがたくさん売っている。店の奥にはちんまりした小母さんが座っていて、二人を見てその顔を和らげると、 「おや。カップルでお参りかい?」 二人は咄嗟に目を見合わせ、吹き出した。 そんな二人を、小母さんは不思議そうに見ている。 「おばさん、お守り下さい――あ、ええと」 菫は数あるお守りの見つめて、困ったように唸る。 「どれにしようかな……」 ≪病気平癒≫……違う。≪交通安全≫……違う。≪家内安全≫……何か違う。 「≪心願成就≫≪商売繁盛≫≪厄除祈願≫……ずい分色んな種類があるね」 横からのぞきこんだセダンがつぶやく。こんな小さな神社ならご利益は決まっているものかと思ったら、そうでもないらしい。 「神様は万能だからねえ」 と店番の小母さんは、本気か冗談か分からないことを言って、ほっほと笑う。 長く首をひねって考えた菫は、やがて決断した。 「――≪旅行安全≫! これ二つ下さい!」 そして菫は、小母さんから受け取ったお守り袋をひとつ、セダンに差し出した。 「セダンさんの色です。って、本当は白かもしれませんけど……よかったらもらってくださいね」 セダンはそっと微笑して、それを受けとった。 掌に載せ、じっくりと眺める。 お揃いの白いお守り。 ――光を当てると、その繊細な模様はきっと銀色に見える。セダンの髪の色のように―― 「エキゾチックでいい感じだ。……ありがとう、菫」 菫は、花がほころぶように笑った。 「こちらこそ、ありがとうございます! セダンさん――」 鮮やかな西日は、彼女たちの照れた表情を柔らかく包んでいく。 「そのお守りが、セダンさんを護ってくれますように」 「このお守りが、菫を護ってくれるように」 そしてこのお守りを見る度に、二人は今日の日を思い出すのだろう。こんな、優しい気持ちと笑顔に満ちた一日を。 「いつか、セダンさんの故郷の話を聞きたいです」 「そのときは、菫の故郷の話も聞きたいな」 「また服見に行きませんか?」 「……考えておくよ」 「期待してますね。でも今日のことも、ずっと忘れません」 遥か遠く、赤く沈む夕陽を望みながら、囁く声はただ隣に立つ人にだけに届くようにと願う。 朗らかな喜びの記憶がまたひとつ、西日に照らされて優しい色に輝く。 それは心を繋ぎ始めたとある二人の、消えない思い出の一欠けら…… ―了―
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