視界を、モフトピアののどかな風景が流れて行く。 「世の中色々起こるものじゃのう。のうアリオ」 ジュリエッタ・凛・アヴェルリーノは、並んで歩く飛田アリオにそう声をかけた。 「そうだなあ」 呑気にそう返してきたアリオは両手を頭の後ろで組み、機嫌よさそうに周囲を眺めている。 彼の視線は空中を浮かぶ柔らかそうな雲の動きを追っていた。その表情が和んでいるのは、モフトピアでは誰もがかかる魔法のようなものだ。 ――二人は今、ここモフトピアで行われた運動会競技『レインボースライダー』を終えたところだった。 世界樹旅団との戦い、あるいは親睦? を目的として開催された『大陸横断運動会』。 その中でも、とても戦いとは思えない競技『レインボースライダー』。くじ引きで決めた組み分けで、ジュリエッタとアリオはたまたま同じ第一レースとなった。 レースを思い返していた二人は、自然と笑みを深くした。 「面白かったよなあ、あの綺麗な滑り台を滑ってくの」 「そうじゃのう。アニモフたちも愛らしかった。……曲芸師のような素晴らしい動きを見せてくれた者もいたしの」 洪水のように押し寄せるアニモフや、選手たちの悲喜こもごもの絶叫。よく考えたらシャレにならない事態だったような気もするが、今となっては微笑ましい思い出だ。 レインボースライダーが終わった後、帰りのロストレイルまでに時間があると知ったジュリエッタは、同じく手持無沙汰にしていたアリオに声をかけた。 「アリオ、暇なら帰りの時間までお茶でもせんかの?」 まるで逆ナンパのような誘い文句だったが、他意はない。アリオも時間を潰せるということで、喜んでうなずいてくれた。 アリオは親しみやすい溌剌とした少年だ。同じコンダクターでもあり、気安く話すことができる。 ジュリエッタの一大目標『婿探し』の対象になるかどうかは今のところ不明だが、少なくとももっと親しい友人にはなりたいと、素直にそう思っていたのだ。 彼らは近場を歩き回って、目についた茶屋らしき店に入った。 スポンジのようなものでできている建物で、テーブルは木だが椅子は白くふわふわした塊だ。これは座ることができるのだろうか――恐る恐る腰かけると、ほわんとした感触と共に腰は落ちついた。 どうやらこのモフトピアの空中を漂う雲と同じような物質らしい。アリオが両手でふかふかとその手触りをたしかめて、 「いいよなこの世界。世界群の一角にこんなところが存在するってだけで、何か心が洗われるよなあ」 ジュリエッタは微笑んだ。彼の素直な言葉は、ジュリエッタの心にも優しく響く。 微笑みながら、彼女は背負っていたリュックを足元に下ろした。トラベルギアの脇差は今まで腰にあったのだが、モフトピアで休むのにはやっぱり必要ないだろうと、それもリュックにしまいこむことにする。 「ジュリエッタは何飲む? お茶? じゃあ俺も――マスター!」 アリオの軽快な注文を聞いて、大きめのテディベアのようなマスターは緩慢な仕種でうなずいた。 (婿は力強い男性がよいかと思っておったが、アリオのように一緒にいて安心する殿方もよいかもしれんな) まあ時々見ていてはらはらするような部分もあるが……それも一興かもしれない。男を立てる内助の功を求められるのもやり甲斐がありそうだ。 (アリオならデートも楽しそうだしのぅ。ちょっとムードに欠けるやもしれぬが。いやいや、今後大人の男になってゆくかもしれんし) 「来たぞジュリエッタ。喉渇いた!」 「待て待てそう焦るな。一緒に乾杯しようぞ」 マスターからグラスを受け取り、ジュリエッタはアリオに向かってにこりと笑いかけた。 「アリオ。今日はお疲れ様――乾杯!」 「おう!」 チンとグラスを鳴らし、二人同時に液体を喉に流しこむ。 「―――?」 ジュリエッタはすぐに違和感を覚えた。この味、妙に爽やかだ。お茶というよりはフルーツジュースのような…… (しかしここはモフトピアじゃしのう) ここではお茶はこうなのかもしれない。アリオも平気で飲んでいるし、何より美味しい! ごくごくと一気に半分ほど飲み干し、ぷはっと爽快な気分で残りをテーブルに置いた彼女は、不意に急激な眠気を感じた。 「………?」 ぐらりと視界が揺れる、それはほんの一瞬のこと。 次の瞬間には目が覚めたように現実感が舞い戻り、ジュリエッタはぱちぱちと目をしばたいた。 「なんじゃ……?」 何だかすっきりしない。体の収まりが悪いような、むず痒い違和感がある。 「おかしいぞいアリオ。……アリオ?」 真っ先に同伴者の名を呼び、ようやく目の前をしっかりと見たジュリエッタは、 そこに自分を見た。 ……… 「え?」 自分。たしかに自分だ。テーブルを挟んだ向こう側に、自分が座っている。細かく三つ編みにした淡い茶髪、色白の肌、澄んだブルーの瞳。どれもこれも見慣れた自分の姿だ。ハテ、いつの間に前に鏡が置かれたのだろうか? 呆けた気分でそんなことを考えたジュリエッタの目の前で、“ジュリエッタ”が顔色を変えて勢いよく立ち上がった。その拍子に―― 足元に置いてあった彼女自身のリュックを蹴とばし、中から脇差が飛びだした。勢いよく床を滑って鞘からはずれた刀身がきらめき、 「あっ――!」 慌てて立ち上がる、その刹那に雷光が閃いた。 ピカッ ドオオオォンッ メルヘンな店内に、これまた漫画のような雷が落ちる。いつもなら耳を裂く轟音も何だかポップなアニメ音だ。しかし生まれた光は眩しく、立ち上がろうとしていたジュリエッタは咄嗟に腕で目をかばった――床がわずかに揺れたような気がして、足元がよろける。アリオ、と連れの無事を確認しようと体をひねった拍子に、手がテーブルの上にあったグラスを弾き飛ばした。 「冷たっ!」 声を上げたのは――自分? いや、自分の声だけど自分じゃない、じゃあ誰の声――? 光が晴れ、店内が静まり返った。 さすがモフトピアでは、雷光も大した威力を発揮しないようだ。店に被害はまるでなく、床の上にぽつんとある抜身の脇差が、何もなかったかのようにつんと澄ました銀色を見せている。 そろそろと視線を巡らす。 目の前には胸元を濡らした“ジュリエッタ”がいた。鏡……では、ない。 「アリオ……?」 確かめるために呟く自分の声が、妙に低い。 まさか。 ジュリエッタは自分の掌を見た。体を見た。顔を手で触り、それから目の前で立ちすくんでいる『自分』に、慎重に尋ねる…… 「……ワタクシはジュリエッタじゃが、そなたはアリオか?」 「……あ、あはは」 ジュリエッタはその日初めて知った。自分が魂の抜けたような顔で笑うと、こんな表情になるんじゃな―― ● 『異性と中身が入れ替わっちゃったら、どうしよう?』 「――と、まあ。小説を書く者として一度は考えることなんじゃが」 マスターから借りた手鏡を、ジュリエッタは興味深く覗きこんでいた。 映るのは『アリオ』だ。少なくとも、顔の造りはアリオだ。外見アリオ中身ジュリエッタ――しかし今までに見てきたアリオとは、少し表情が違うようにも思う。 マスターが“うっかり”出してしまったのは、モフトピアの秘薬らしい。一人で飲むなら全く害のない美味しい飲料だが、それを複数の人間が同時に飲むと精神が入れ替わってしまうという、何ともお約束な薬だ。 手鏡から顔をあげると、アリオは――外見ジュリエッタ中身アリオは――疲れ切った様子でテーブルに突っ伏していた。 「しんどい……」 くぐもった声で彼はぼやく。 中身が入れ替わったと分かったとき、多分思考回路がショートしたのだろう、アリオはひとしきりわけのわからない言葉で呻いた後、 「あ――風邪引くかも、服替えねえと――」 急に思い出したように服を脱ごうとしたのだ。 ジュリエッタはらしくもなく大声を上げた。 重ねてアリオも悲鳴を上げて跳び上がった。服から手をはなしてあわあわと暴れる――ジュリエッタはテーブルに両手をついて、真っ赤な顔で怒鳴りつけた。 「悲鳴とは失敬じゃぞい! ワタクシの体が不満か!?」 「いや違、そーゆーことじゃなくって――ああいやごめんマジごめん! ごめんなさいっ!」 床に飛びつくように這い、土下座をする。 土下座をしてはいても体はジュリエッタのままなのだが。 ジュリエッタは赤くなった顔をごまかすかのように、ごほんと咳払いをした。 「……慌てるでない。騒いでも始まらんぞい」 諭す口調で言いながらふと考える。――アリオの姿でこの口調、傍からはどう見えるのだろう? 土下座をしていたアリオがそろそろと顔を上げ、 「服は……替えた方がよくないか? 俺はいいけど、これ体はジュリエッタのなんだし……」 意外に細かいところに気を遣ってくれる。ジュリエッタは少し感心した。 「気持ちはありがたいがアリオ、どの道着替えなんぞないぞい。すまぬがそのままでいてくれぬか」 そっか、とアリオはため息をついた。弱々しい所作で立ち上がり、椅子に座り直す。肩をすぼめて、らしくなく縮こまってもじもじする――まさしく可憐な女の子の仕種だ。中身は男だが。 そしてアリオは、途方に暮れたように呟いたのだった。 「……女の子の体って、どうすりゃいいんだよ……」 「そこを考えるでない。今は自分の体だと思うしかなかろう」 ジュリエッタは断言した。 本当のところは、さすがのジュリエッタも大いに狼狽したいところなのだが。幸か不幸か目の前でアリオが非常に頼りない顔を――しかも今はか弱そうな女の子の風情で――しているおかげで却って冷静になった。そう、自分は小説家なのだ。全ての経験は無駄にはならない。起こってしまったものは仕方がない。ここはプロとして受け入れるべし。 強がりではない。決して! 薬の効き目は数時間だという。次のロストレイルには間に合いそうにない――帰り時間を遅らす旨を司書に報告し、二人は残り時間をモフトピアで過ごすことに決めた。このまま0世界に帰ったら周囲が混乱するに違いない(面白がる友人も多いような気がするのは置いておく)。 そんなこんなでぎこちなさすぎる時間が過ぎて行った。 無意味に意識したアリオが女の子の仕種研究を始め、「却って気持ちが悪い。違う、もっと、女子はこう!」とやめさせるつもりがますます力が入って指導してしまったり、緊張のあまりトイレに行きたいと言い出したアリオを「我慢せい!」と真っ赤になって怒鳴ってみたり(我ながら無茶だと思った)、ささやかなトラブルは山のように積みあがっていく。 ちなみにアリオの尿意は、寡黙なマスターが出してくれた怪しい薬のおかげでなぜかおさまったらしい。今の二人にとって神のような薬だった。いくらモフトピアとは言え、体にいい薬なのかどうかは甚だ疑問だが。 ――ジュリエッタのノートに司書からのメールが入る。 何気なくそれを確認したジュリエッタは、顔つきを鋭くした。 「どうした?」 「仕事じゃ、アリオ」 立ち上がりながら、内容を読み上げる。 『モフトピアに覚醒直後のロストナンバーが転移した。保護を依頼したい』 やることがあった方が気がまぎれる。二人は勢いこんで店から飛びだした。 「……? 何じゃアリオ、その歩き方は?」 「いや、やっぱこう女の子は内股の方がいいのかと……歩きにくいな内股」 「やめい、気色悪い!」 ● めきぃ、と太い樹木に拳がめり込む。 丁度腹に一撃を喰らうような形で、樹は半分に折れて倒れていく。モフトピアの樹は遠目に見るとまるでフェルトででもできているかのような雰囲気をまとっていたが、力で破壊される様はさすがに痛々しい。 「乱暴はよさぬか……!」 男に向かって駆けながら、ジュリエッタは力の限り叫んだ。 苛立ち紛れに樹を殴り倒した男は、血走った目でジュリエッタ達を見やる。呼吸は荒く、隆々とした筋肉にははち切れそうな血管が浮かんでいる。 うっわ、とジュリエッタの後ろを走っていたアリオが呟いた。 「あんな男が住んでた世界ってどんなだ? で、転移先がモフトピア? 違いすぎるだろ」 暴力が物を言う世界にいたのに、気がついたら周りがメルヘンでした。……うん、笑い話じゃない。 「だが同情してらんねーな! おいコラてめえ、それ以上暴れるんじゃねえ!」 『元々力で上下関係を決める世界にいた男だから、力でねじ伏せた方が言うことを聞く確率は高い』 そう司書は言っていた。実際目の前にいる男の目を見れば、説得など意味がなさそうだ。 二人のトラベルギアはすでに交換してあった。特殊能力に不安はあるが、物理的な武器にはなる。 ジュリエッタは脇差を、アリオはグローブをはめた拳を構え、迷わず男に向かって突進した。迎える男はひるむことなく、石のような拳を固めて振り上げる―― 「―――っ!」 ジュリエッタが鞘ごと振り上げた脇差が、男の手首を絶妙な角度で打ち据え受け流した。その勢いのまま彼女は流れるように体を回転させ、回し蹴りを放つ。男はもう片方の腕でそれを受けとめた。 その隙にアリオが男の背後に回り込み、固めた拳を大きな背中の中心に叩きこんだ。そして、 「った!」 逆に拳に痛みを感じ、慌てて腕を引っこめた。 「あ~駄目だ、ジュリエッタの体だしギアのパワーもないし――」 「仕方がない――のう!」 ジュリエッタの腕を掴もうとする男の手を避けながら、彼女は脇差を下から突き上げる。 ヒット! 脇差の先端が男の顎を痛打して、男が大きくのけぞった。「しめた!」叫んだアリオが男の首に両手を絡め、そのまま地面に引き倒した。 「大人しくしろ……!」 抑え込もうとしたが、暴れる男は容易く捕まらない。だがアリオも諦めずに男に組みついた。男の足を抑え込む方に回っていたジュリエッタは、ふとアリオの方を見てぎょっとした。 「ア、アリオ、その体勢は」 「へ?」 いつの間にやらアリオは両手で男の手を掴みながら、両足で男の首を抱え込むように絞めていた。寝技的な意味で珍しくもない。ないが―― “自分”が大の男の頭を、両の足(註:ハーフパンツ)でがっちり抱え込んでいる様というのは。 (む、無駄にはしたなく見えるぞい……っ!) 思わず赤くなって顔をそらしたジュリエッタに、アリオはようやく自分がしていることの意味に気づいたらしい。 「あっ――」 アリオの(でも見た目はジュリエッタの)顔がぼんと火を噴いたように赤くなった。 咄嗟に彼は足を解いた。同時に男の腕を掴んでいた両手からも力が抜けた。 と、その隙を逃さず男が腕を振り回し、アリオを弾き飛ばした。 「ぐっ!」 「アリオ!」 男が跳ね上がるように上半身を起こす。おおおおと唸りながらジュリエッタに向けて繰り出される拳―― ジュリエッタは足を抑え込むのを諦め、跳ねるように男から離れる。 「アリオ、大丈夫か!?」 「へ、平気、悪い」 「無事なら構わんが――」 男が振り回す拳からやっとの思いで逃げ出しているアリオを見て、ジュリエッタは宣言する。 「攻撃はわたくしがする! アリオ、逃げそうになったら頼むぞい!」 「へ? でも」 「でくのぼうめ、来い!」 挑発すれば、男は案の定ジュリエッタだけに攻撃の狙いを定める。牙のような歯をむき出しにして猛然とジュリエッタに突撃してくる。 ジュリエッタは真正面からそれを迎える。 男は両手を組み合わせ、ジュリエッタの頭上に振り上げた。 まともにくらえば岩ぐらい粉砕できそうな圧力――しかしジュリエッタはひるまず、男を正面から見据えて呼吸を合わせる。 す、と。 男の呼吸のリズムを捉えて。 彼女は男の拳が触れるすれすれのところで、半身を傾け、かわした。 勢いのついた男の体はそのまま前かがみになり、次の一歩で男の横に回りこんだジュリエッタに無防備な脇腹をさらす。 「――はあっ!」 呼吸に乗せて、拳を一撃。 力を受け流す武術の応用。男の勢いを利用し、自分の力を加えて返す。 元々ジュリエッタの学んでいる武術は攻撃的ではない。だが、効果的な一撃を加える方法ならよく分かっていた。急所の位置、拳の打ちこみ方―― ボディーにまともに入り、男は悶絶した。思った以上の威力が出た――すかさずジュリエッタは脇差で、男の首の後ろを容赦なく打ち据えた。 うっ、と一声呻いて男がそのまま地面に崩れ落ちる。 ――急に静まり返る空気の中で、ジュリエッタはすうと呼吸を整えた。 あっという間の出来事に、アリオがぽかんと口を開けた。 「うーむ」 ジュリエッタは自分の拳と脇差を見下ろし、感慨深げに呟いた。 「やはり力は殿方の方が上じゃのう……おやアリオ、どうした妙な顔をして? 先ほどは本当に大丈夫じゃったかのう?」 「………」 アリオはへたりとその場に座り込んだ。 「……すげえよ、ほんと」 ぽつりと呟く、あらゆる気持ちがこもった声を―― モフトピアの呑気な風が、遊ぶようにさらっていった。 ● 数時間後、彼らは無事に元の体に戻り、保護対象を連れてロストレイルで帰還することができた。 後にアリオは真顔でジュリエッタに言ったという。 『俺は心から思った。ジュリエッタ……師匠と呼ばせてくれ!』 ここに一人、ジュリエッタを漢と崇める少年が誕生した。 ――彼女が婿殿を見つけられる日は、まだまだ遠いのかもしれない……
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