ブルーインブルーの海には、海上都市とまで呼べる規模ではないものの、少数の人々が生活している小さな島々や海上建造物が点在している。それらは海上拠点などと呼ばれ、おもに船舶の補給所と灯台としての役割をになっていた。 海上都市から海上都市まで、遠く旅する商船団にとって、これらの寄港地はなくてはらない存在だ。 しかしこうした人間の住処は、海魔にとってもひじょうに都合の良い狩場だった。規模が規模であるために、たやすく襲うことができるからだ。 もちろん人間たちも対策はこうじている。ジャンクヘブンなどの巨大海上都市からは、定期的に警備船が派遣されており、海上拠点自体にもそれなりの防衛設備がととのえられていた。 ところがそういった対抗策もむなしく、海魔によってほろぼされてしまう拠点が数多く存在するというのが現実だ。 ダルトンはそういった海上拠点のひとつであるサンタクレイ島の責任者だった。「チクショウ! 俺はなにもできなかった!」 はげしい自己嫌悪に、ちかくにあった椅子を蹴りとばす。「これで何人目だ?!」 ダルトンの見下ろすさきには、もとは人間だった無惨なカケラがころがっていた。食料管理を担当していた部下の、手首と胴体の一部だ。彼はダルトンの目の前で喰い殺されたのだ。 ここ数日の海魔の襲撃によって、20名いたスタッフは、いまや14名にまで減っていた。ひと晩に1~2名の割合で殺されていることになる。 それは毎夜、住民たちが寝静まったころに起こった。 最初はいつもはげしい物音からはじまる。 それが、手のひらサイズのトビウオのような海魔が、そのするどい牙を建物の壁につきたてる音だとわかったのは、初襲撃の晩が明けてからのことだ。そいつらは、海から島上の建物にむかって特攻してくるのだ。何匹も、何匹も。 その突進力たるやはげしく、木材はもちろん、ときに鉄板さえもつらぬいて襲いかかってきた。 トビウオモドキに気を取られていると、今度は文字どおり足元をすくわれる。 ぬらぬらと波打ちぎわから上陸してくる姿はウミウシに似ていた。そいつらは床や壁や天井から、じわじわと人間に近寄り、一気にとびかかる。それに触れられてしまうと、数十分の間、その部分がしびれて動かなくなった。そういう毒を持っているのだろう。 そうして、そいつらをやりすごしているうちに、本命が音もなく忍び寄ってくるのだ。 トビウオやウミウシにやられた者たちを、ずるずると海にひきずりこみ、むさぼり喰うところからして、そいつは他の小海魔をなんらかの力であやつり利用しているようだった。そして、獲物たちがトビウオやウミウシではしとめられなくなってくると、ついにみずから捕食にのりだした。 ダルトンは昨夜、まさにこの食料庫で、そいつに出くわしたのだ。人間の頭だけを魚類にすげかえたような海魔で、全身は青緑の鱗でおおわれており、両の目は白くにごっていた。 そいつが間近まで迫ってきたとき、ダルトンは死への恐怖にからめとられた。同じ倉庫内では食料管理担当の部下が、トビウオに足をやられて動けないでいた。自分が闘わなければならない。それなのに、体が金縛りにあったように動かないのだ。 殺される。そう覚悟したときに、奇妙な現象が起こった。そいつはくるりとダルトンに背をむけると、怪我をした部下のほうに牙をむいたのだ。まるで、負傷したほうを優先させたかのように。その白濁した眼球にはダルトンがうつっていないかのように。 ダルトンは部下の悲鳴に耳をふさぎながら、必死に逃げのびた。その結果が、眼前の死体だった。奴はここで殺し、喰い残していったのだ。「今夜こそはあいつを……」 決意も新たに唇をかみしめるものの、ダルトンはこの島にあるすべての防衛設備をすべて使いつくしていた。罠もしかけたし、武器を取って応戦もした。それでも被害は食い止められなかった。 緊急時のための脱出船はすでに破壊されている。サンタクレイ島は大人の足で10分もかからずにひとまわりできてしまう小さな島だ。建物も、島の中央にたっている倉庫兼住居と、島の東端にたっている灯台のみ。逃げ場はどこにもない。「ジャンクヘブンからの警備艇を待つしかないのか……」 ダルトンの連絡をうけた警備隊が、日が暮れるまえには到着することになっていた。奴らの襲撃はなぜかいつも真夜中だ。つぎの闘いには間に合うだろう。今晩は彼らにも海魔の撃退を手伝ってもらわねばなるまい。 今宵この島にどれだけの血が流れることか―― ダルトンは不吉な予感に震える体をおさえることができなかった。「半魚人の海魔――」 世界司書であるリベル・セヴァンがロストナンバーたちに告げる。「それが『導きの書』により予知された今回の危機です。貴方たちにはこれからブルーインブルーにむかい、サンタクレイ島の人たちを救ってもらいます。ジャンクヘブン側の人手不足もあり、派遣される警備隊は貴方たち4名だけです。ひじょうに危険な任務となるでしょう。もしかしたら大怪我を負うことになるかもしれません。覚悟して臨んでください」 彼女がすっと身を引く。 そのうしろには、ロストレイルの乗降口につながる通路がまっすぐにのびていた。
<1> サンタクレイ島の責任者であるダルトンは、ちっぽけな警備船から降りてきた貧相な装備の四人組を、あからさまに落胆した態度で出迎えた。期待していた増援が、まさかたったの四人ぽっちだとは思いもしなかったからだ。 「ジャンクヘブンもそうとう人手が足りてないってことか?」 挨拶もなしにそう訊いてしまったのは、悪意のない皮肉だった。 一番最後に上陸した若者が代表して答える。 「ま、そういうこったな」 そのくったくのない返事に、ダルトンは少々毒気を抜かれる思いがした。 左頬に奇妙な文様の刺青を彫っている、その鋭い目つきの男は、つづけてダルトンに挨拶した。 「俺は祇十(ぎじゅう)ってモンだ。この警備船の船長ってぇことになってる。おめぇさんがこの島の責任者ってぇやつかい?」 ダルトンは「ああ」と生返事をかえしつつ、あらためてロストナンバーたちを観察した。 とにかく全員が若い。この祇十と名乗った男が最年長であろうが、それでも二十代半ばといったところだ。彼のうしろで、無愛想に唇をひきむすんでいる若者など十代にちがいない。 さらには―― 「予想していた以上に狭い島だね」 サングラスを額におしあげ、まぶしそうに周囲を見渡している警備兵など、なんと女性だった。 もちろん女性の兵士がめずらしいわけではない。海魔は相手をえらばずに襲ってくるのだから、この世界では女性といえど武器を取って戦わなければ生きていけない。 「うふふ、海魔の毒ってどんなものかしら。今から楽しみだわ」 ひときわ背丈の低い人物がくすくす笑った。コートのフードからのぞく童顔は、これまたどうひいき目に見ても十代にしか思えない女の子だ。 ダルトンはただ、なにも四名しかいない増援のうち、二名までもが女でなくともよいのでは、と思ってしまっただけなのだ。 「まぁ、こんなとこで立ち話もなんだ。こっちに居住区がある」 さっさと背を向けたのは、おさえきれずに出たため息を四人に悟らせないためだった。 居住区に到着した四名とダルトンは、丸テーブルを囲むように椅子にすわった。まずはダルトンが状況を子細にわたって説明した。 「ダルトンさんの話だとよ、海魔ってやつぁとっぷりと陽が暮れちまってからじゃねぇと現れねぇらしいな。で、宵の口までまだ間があるが……どうするね?」 まずは祇十が発議する。 祇十は、ただたんにもっとも年長であるという理由でリーダーに選ばれた。年齢の数え方などそれぞれの出身世界によっても違うだろうし、これはあまり意味のないことだといえる。だからというわけではないが、地元民との窓口役はひきうけたものの、なにもかもを自分だけで決めようなどとは考えていなかった。 「備えあれば憂いなしって言うし、いろいろと準備するのが妥当だろうね」 ディーナ・ティモネンがお茶の入ったカップをテーブルにもどしながら言った。サングラスのせいでなかなか表情はうかがえないが、への字に曲げられた口元から、彼女が二度とカップに口をつけないだろうと想像できた。 「具体的になんかあるかい?」 「わたし――」 アコナイト・アルカロイドがすっと手を挙げた。 「ダルトンさんの話に出てきた、ええっと、ウミウシモドキだったかしら? その対抗策だったら準備できることがあるわ」 それから彼女は自分の専門分野をいかしてウミウシを無力化する策を告げた。 「なるほどねぇ、本当にそいつができるってんだったら、ウミウシのやつぁ問題ねぇな」 祇十のなにげないひと言に、アコナイトが少々むっとして言い継ぐ。 「『できるんだったら』なんて無意味な前提だわ。わたしの知識と力なら確実に可能よ」 彼女は毒に関してはかなりの矜持をもちあわせている。それを傷つけられたと感じたのだ。 「おっと、すまねぇ。そんなつもりで言ったんじゃねぇんだ。勘弁してくれ」 祇十は今度もまた、くったくなく謝罪した。 こうも素直に頭をさげられると、抗議したほうもきまりが悪くなる。「わ、わたしこそ言い過ぎたわ」とかすかに頬をあからめた。 実際こういうカラリとした部分で、祇十という若者はまとめ役にむいているようにも思われた。なにせ彼らはさまざまな世界からやってきた、あくの強いメンバーの集まりだ。 「あ、それから、この島の人たちには倉庫か灯台に隠れてもらったらどうかしら? 一カ所に集まってもらったほうが護るのも楽よね?」 アコナイトの提案に、祇十もディーナも賛意をしめす。 ところがダルトンだけがさっと顔色を変えた。 「おいおい、まさかたったの四人で海魔を退治しようってのか?!」 「ん? 四人じゃないよ。ダルトンさんにも手伝ってもらうよ」 ディーナが船のほうを指さす。 「あっちにバリスタを準備してるから、灯台に設置してもらって、ダルトンさんには援護射撃を――」 「馬鹿な! 二十名でもふせぎきれなかったんだぞ!? それをどうやって四人で!」 ダルトンが激高して立ち上がる。この警備兵たちは、事の重大さをわかっていない。彼らはなにせ、あの恐ろしい夜を体験していないのだ。 「だいたい、女子供が派遣されるなんざ、こっちは聞いてないんだ!」 しんと静寂がおとずれた。 ここにきて四人目――ファレル・アップルジャックが島に来てはじめて口を開いた。 「貴方はなにか勘違いをしていらっしゃるようだ」 それまで空気のように存在感のなかったファレルが、突如として底冷えのするオーラをはなちはじめる。 「私たちはプロですよ。それなりの覚悟をもってここに来ています。少ない味方に大勢の敵、おまけに文字通り背水の陣です。私も、祇十もディーナもアコナイトも……全員が最後まで戦い抜く意志をもってここにいるのです」 それは正しくはロストナンバーとして螺旋特急に乗車したことを指しているのだろうが、ダルトンにはジャンクヘブンから警備兵として派兵されたことだと認識された。 「貴方がたが命を落とすよりあとに、私たちが生きていることはないでしょう」 ファレルの無機質な眼差しをうけ、ダルトンは意図せず椅子にへたりこんでしまった。そのままむっつりと黙りこむ。 ファレルが急に皮肉げな笑みをうかべた。 「まぁ、いまさらジタバタしてもしかたありませんよ。それより、もっとこの状況を楽しみましょうよ、ねぇ?」 問いかけられ、祇十は微苦笑し、アコナイトは返答をひかえた。 「まぁ、彼の発言の、すくなくとも最初のほうは本当だよ。私たちのこと、信用してくれないかな?」 ディーナににっこり微笑まれると、ダルトンもしぶしぶながら首肯せざるをえなかった。 「では、この島のみなさんには灯台に避難してもらって、窓はふさいで、周囲の壁に油を塗ってウミウシがのぼれないようにしよう」 今度こそディーナの提案に異を唱える者はいない。 「あとはトビウオだね。じつはジャンクヘブンからいろいろもってきたんだ」 彼女はトビウオの身体がちょうどはまるくらいの目合いの網を警備船に積み込んでいた。それを、灯台と住居兼倉庫のまわりに適度な間隔をおいて何枚も張り、トビウオを絡め取ろうという考えだ。 「だけど、トビウオって鉄だってやぶっちゃうくらいなんでしょう? それだけで大丈夫かしら?」 アコナイトが小首をかしげると、ファレルがそれに応えた。 「その点は私の能力が役に立つと思いますよ」 彼はツーリストだ。この世界には存在しえない超能力を有している。あえてぼかした物言いをしたのは、この場にはなにも知らないダルトンもおり、ことを大げさにしたくなかったからだ。 「おっと、防御に関しちゃあ、俺にもひとつ考えがある。大船に乗ったつもりで、まかしときな」 祇十もまた書道師としての技が大いに役立つものと考えていた。 「なんにしろ親玉さえ倒しちまえばこっちの勝ちは決まったも同然ってぇもんだ。今夜のうちにケリつけちまおうぜ」 みんな力強くうなずいた。 「本命にお出ましいただくにはまず、トビウオやウミウシの襲撃を犠牲なくふせがなくてはなりませんね」 ファレルの言うとおりだ。雑魚にやられてしまっては、親玉である半人半魚の海魔は彼らの前に姿をあらわさないだろう。 「それなんだけどな――」 「そのことなんだけど――」 「そのことについてんですが――」 三人の発言がかぶり、祇十とディーナとファレルはおもわず互いの顔を見くらべることになった。このあと、つづく内容までもが三人ほぼおなじだとわかったときには、自然と笑いがもれた。 「これでボス対策も完璧ね」 アコナイトがあかるく宣言する。 それでもまだ不安をぬぐい去れないでいるダルトンの心中を察し、ディーナが言った。 「夜の海はヤツらのものかもしれないけど、夜の陸は私たちのものよ。一緒に勝ちましょう、海魔に」 ダルトンはしばらく考えこんだのち、「やれることをやるしかねぇな」と弱気と決別するように勢いよく立ち上がった。 <2> 夜の闇に沈んだ海ほど恐ろしいものはない―― 海に沈んだこの世界に住む者たちが、共通してもつ認識だ。 砂浜に腰を下ろし、じっと水平線を監視するディーナは、腹の底に暗澹たる気持ちが生まれつつあるのを感じていた。暗い海は、ただそこにあるだけで不安をかきたてる。 出身世界が光のない世界だったため、彼女は夜目が利いた。むしろ昼間の陽光はまぶしすぎるので、つねにサングラスをかけているほどだ。見張り役に立候補したのは当然のなりゆきだったが、すこしだけそのことを後悔しだしたころ、祇十が現れた。 「なんでぇ。おめぇさん、珍妙な格好してやがるじゃねぇか」 祇十が言ったのはディーナの服装のことだ。彼女はウミウシの毒から身を守るため、スキューバダイビングなどの際につかわれるドライスーツを着込んでいた。 ディーナは冷静に「そう? キミこそいつもの服装じゃないじゃない」とかえした。 祇十もまたウミウシが肌に触れるのを警戒して、洋服にスニーカーに手袋という、彼にしてはめずらしい格好だった。しかも万全を期して目から下を布でおおってもいた。 「ちげぇねぇ!」 祇十が大笑する。 「ま、アコナイトが成功すりゃあ、こんな格好も意味がねぇんだけどな。って、おっと。アコナイトに聞かれちまったら、また怒られっちまうな」 さらに楽しそうに笑う。 「そんなに大声をあげたら、こっそり見張ってる意味がないよ?」 「大声あげたらヤツらが寄ってこねぇってんなら、楽なもんだぜ。一晩中どんちゃん騒ぎすりゃあいいってことだからな」 ディーナは自分の心配がまったくの見当違いだったとすぐに気づき、おかしくなって吹き出してしまった。 ふたりがひとしきり笑いおえたころ、ディーナの紫の瞳が、打ち寄せる波を縦に切り裂いて走るなにかを映した。 「――来たみたいだよ」 祇十もディーナも真顔になり、敵襲をしらせるべく居住区へと走った。 「すこし落ち着いたらどうです?」 ファレルはついに、トラベルギアである銃の手入れを中断して顔をあげた。 「あら? わたしはいつも落ち着いてるわよ」 それに対し、アコナイトはいかにも心外なといった調子で口をとがらせる。 このやりとりはもうこれで三度目だった。 彼女は元来のんびりしているほうなのだが、先ほどから気もそぞろといった様子で部屋の中をうろうろしていた。ダルトンを含めた島民たちはすでに灯台に避難しているので、旅人の外套があっても普段のままじゃあまりに悪目立ちするからといった理由で着用していた、フード付きのコートは脱いでいる。 「いったいなにをそわそわしているのです?」 あまり他人に興味をしめさないファレルも、さすがに気になる。 アコナイトは「うふふ」と手のひらを口にあてると、「なんでもないわ」とまた徘徊を再開した。 ファレルは深いため息をついて、彼もまた銃の整備を再開する。 アコナイトは今夜の戦闘をとても楽しみにしていた。とにかく自分自身の力がどれほどのものなのか確かめたいという思いが大きい。出身世界では彼女の敵となるような相手がいなかったため、全力を出して戦うということ自体はじめてのことだった。初めての挑戦というものは、だれしもの心に高揚をもたらす。 さらには―― 「うふふ、先日の冒険でできなかった他の世界の生物毒の実験」 それもまた毒マニアとでもいえる彼女の期待感をおおきくあおっていた。 「なにか言いましたか?」 ファレルが耳ざとく聞きつける。 「いえ、なーんにも」 アコナイトはいまにもスキップし出しそうな勢いだ。まぁ、植物の身体でスキップができるとも思えないが。 さらにファレルがなにかを言い募ろうとしたとき、ディーナと祇十が建物にもどってきた。 ぱすん。ぱすん。ぱすん―― 不規則にひびく乾いた音は、トビウオモドキが網の目をつきやぶる音。 「すこしでも……って、思ったんだけどね」 居住用建物のなかでディーナが肩をすくめた。彼女のしかけた罠はあまり効果がなかったようだ。 しかし、そばにいる仲間たちは彼女を責めたりはしない。 「でしたら、私の出番ですね」 代わりに、ファレルがすっと目を閉じる。 彼は特殊能力として超能力をそなえていた。故郷の世界ではさほど珍しいものではなかったが、この世界には存在しえない力だ。あらゆる分子を操る技は、この世界でも有効らしい。ファレルが念じると、建物の周囲に空気分子でつくった見えざる壁が出現した。 ここではじめて硬質の音が鳴った。空気の壁がトビウオをはじきかえしたのだろう。 窓から外をのぞいた祇十の「やるねぇ」という一言が、防御作戦の成功をあらわしていた。 「ただし、永遠に、というわけにはいきませんよ」 若き超能力者の発言は冗談でもなんでもなかった。実際、元の世界にいたころより、力がうまく制御できないのだ。これがトラベルギアによる制約なのかもしれない。 今度は、家壁のすぐそばで音がはじけた。数匹が空気の壁の隙間をとおり、もしくは破壊して突貫してきたのだ。 しかし、鉄をも貫通するという海魔のダイブが、なにゆえただの木壁にはばまれたのだろう。 「上出来上出来ってね」 祇十が満足げに目をほそめた。 彼は書道師だ。文字が力を持つ世界において、書によりさまざまな現象を起こす者。書をほどこせば文字の意味が現実に作用をおよぼす。 彼はあらかじめ住居の壁に『硬』という文字を大書し、建物全体の強度をあげておいたのだ。じつは自分をふくめ、全員の衣服にも『防』の文字を記しておいた。海魔の攻撃に対する防御力を上げる効果をねらってのことだ。 もはや木材といえど、鋼鉄以上の堅固さをもちあわせている壁が、つぎつぎとトビウオたちを打ち破る。ファレルはファレルで、壊れるたびに空気分子の障壁をつくりなおしていた。 「あら?」 アコナイトがすっと半身になる。彼女がもといた空間を通過して、トビウオ海魔の口先が床に突き立った。 「魚なのに本当に羽根があるのね」 あわてずさわがず、妙なところに感心しているアコナイト。 「おっと、やっぱり入ってきちまったか」 祇十がパスホルダーを開き、長さ60センチほどの大筆を取り出す。とんと駆け寄り、さらりと振ると、両手でもてるほどの大きさの海魔はまっぷたつに裂けた。彼のトラベルギアである大筆は、線を刃と化す。墨を引いた部分が斬れるのだ。 「あいかわらず、情緒もへったくれもねぇ得物だぜ」 「予想の範囲だったけど、思っていたより数が多いね」 ディーナもまたパスホルダーからトラベルギア――サバイバルナイフを呼び出す。 そもそもいかに壁を補強しようと、海魔の侵入を完璧にふせぐことは最初から無理だったのだ。連日連夜の襲撃により、すでに壁には無数の穴があいていた。昼間のうちに大部分はふさいだものの、材料も人手も足りず、隙間は数多く存在した。 「ファレルは障壁に集中してて。予定どおり私たちで対処しよう」 ディーナがナイフを閃かせる。 「じゃあ、わたしも……」 同じくトラベルギアを出そうとしたアコナイトに、ディーナが「キミはあっち」と指ししめした。 ついっとそちらへ顔を向けた植物娘の、笑顔が冴えわたる。待ちに待ったこの瞬間の到来だ。 これも隙間から入ってきたのだろう。ぬらぬらと気色の悪いウミウシモドキが数匹、床を這っていた。 ざわざわとアコナイトの蔓がうごめく。目にもとまらぬ速さで、蔓の一本がウミウシをからめとった。紫の眉がひそめられる。 「どうしました? 難しいですか?」 額の汗をぬぐいながらファレルが訊ねた。 毒の専門家であるアコナイトが事前の会議で発案したのは、ウミウシの毒の対抗毒をつくりあげることだった。万が一、海魔の毒にやられて身体の一部が麻痺するようなことがあっても、彼女が体内で精製した解毒剤で中和する手はずだ。 ファレルの発言の意味は、その精製が困難であるか否かということだ。 「会議のときにも言ったけど、わたしの知識と力なら解毒剤なんて簡単につくれるわ。とっても期待してたのに、海魔の神経毒があまりに簡単な組成だったんで、ぎゃくにがっかりしたわけ」 言うなりアコナイトはがっくりと肩を落とした。 「それでは、ウミウシに触れてもアコナイトさんが治療してくれるのですね」 「治療どころか――」 アコナイトがふたたび蔓を伸ばした。今度の蔓先は、ファレル、ディーナ、祇十の三名のロストナンバーに矛先をむけた。ちょんちょんちょんと緑の植物が首筋に触れると、かすかな痛みがはしった。 「なんでぇ、いまのは? ちくっとしたけどよ」 刺されたあたりをしきにりさすっている祇十に、アコナイトは「予防措置よ」とこともなげに答えた。 「これから1時間くらいなら、海魔の毒を無効化できるようにしておいたわ」 「そいつぁありがてぇ!」 祇十が筆をふるい、ディーナが刃をふるう。このころになると、それなりの数のトビウオとウミウシが、隙間をぬって彼らの領域を侵しつつあった。 <3> 一番最初に敵影に感づいたのは、やはりディーナだった。 もはや何匹目かわからない海魔を斬り捨て、ひと息つこうと壁に背を預けた。ちょうど真正面に壊れかけた出入口があり、ななめにかしいだ扉と壁の合間から外の景色がのぞいていた。 彼女ははっきりと目にすることができた。人影らしきものが横切ったのだ。 ダルトンたちは灯台に立てこもっている。特に連絡もないのでうまくやっているのだろう。ダルトンが射手となって放つバリスタの矢が、まれに激しい炸裂音をたてていた。 となれば、人影の正体はひとつしかない。 「本命のお出ましだよ」 祇十たちにも緊張がながれる。 「ようやくですか」 ファレルは空気分子の壁を解いた。トビウオの数はかなり減っていたが、まだゼロではない。しかし障壁をなくさなければ、ヤツがここへやってこれない。 そう、ここまでは海魔の首魁をおびき出すため耐えしのぶ戦いだった。だが、ここからは攻勢に転じなければならないのだった。 「ったく、じらしてくれるねぇ」 祇十はとんとんと自分の肩を叩いた。 「で、まっすぐこっちに来てるってぇことだよな?」 ディーナがうなずく。 「だと思うよ。やっぱりあれが効いてるんじゃない?」 あれとは部屋の中央に鎮座している魚の死骸だった。死骸といっても夕刻に海からひきあげた新鮮なものだ。 ――海魔がダルトンさんを狙わなかったのは、彼が怪我をしていなかったから。彼より大きな物音を立てる血の匂いのする餌があったから。 ディーナは半人半魚の海魔について話し合う際そう切り出した。 ――半魚人ですが、怪我をした人間を優先的に食らったというところから、恐らくは血の匂いに反応しているのでしょう。 ファレルもまたダルトンの話からそう推測していた。 これには祇十もまったく同意見で、その性質を利用して相手をおびき寄せようという発想もまた三人同じだった。 そこで準備されたのが、血をしたたらせた大量の魚だ。 もちろん同じ血液は血液でも、海魔が魚類の匂いに惹かれてくるとは考えにくい。祇十は、あまり気が進まなかったが、死んでしまった島民たちの衣服を借用し、人間の血臭も混ぜることを決定した。これならば、半魚の海魔は餌に食いついてくれるだろう。餌に食いついてくれさえすれば…… 思考を中断するように、扉が吹き飛んだ。 真正面にいたディーナに木片がおそいかかる。よけきれないと悟り、顔を両腕でおおう。 不意に足元をすくわれた。 床に引きたおされて、したたかに腰を打ったが、足首に巻き付いているのがアコナイトの蔓だとわかり、救われたことを知った。彼女の背後の壁は、木片が突き刺さりぼろぼろになっていた。 「ありがと」 「どういたしまして」 みじかく交わし、ディーナは右へ、アコナイトは左へと移動した。 月光を背にあらわれた海魔は、話に聞いていたとおりの容姿で、全身を青緑の鱗で光らせており、眼球が白くにごっていた。頭は魚で、身体は人間。ガラスを鉄でひっかいたような不快な声で鳴いた。 「醜悪ですね」 ファレルは鼻の頭にしわをよせて吐き捨てた。彼はすでに敵の背後にまわり、脱出の準備をととのえている。実際のところ、無理に矛先をまじえる必要はない。あらかじめ仕掛けておいた罠を発動させれば大きなダメージをあたえられるのだ。対象を建物内におびきよせたら、すぐさま逃げ出すのがつぎの行動指針だった。 海魔が急に振り返った。 匂いに敏感―― それは、視覚に頼らずに生物の居場所を特定できるということではないか。 気づいたときにはおそかった。無造作に、後ろ手でふられた一撃を、左腕でうけとめる。海魔の手の甲は鋼鉄のごとく硬い。とっさに超能力で身の回りに障壁をはったものの、彼の身体は数メートル宙を舞っていた。 「そうは問屋が卸さねぇ――ってか!」 祇十の斬撃は背後からの一閃であったが、緑の鱗に墨の黒線はわずかにしか色をのこさなかった。海魔の体捌きが異様に速いのだ。 今度は敵のかぎ爪が反撃する。 祇十は書道師としての自分の弱点を熟知している。それは防御だ。トラベルギアであるといっても筆は筆。刃物を受け止めるようにはできていない。よけるしかないのだ。 洋服の胸元をばっさり斬られる。肌に朱色の線がにじむ。『防』の文字で武装していなければ、深手を負っていた。 「さがって! 私がやる!」 ディーナだ。彼女のトラベルギアなら、かぎ爪とわたりあえる。 「独りでさがれるかってんだ! おめぇは守りに集中しやがれ!」 祇十の意図を察して、ディーナはサバイバルナイフを持つ手首から力を抜いた。右から左から、空気を焼いてせまる半魚人の爪をはじき、いなすことにだけ専念する。スピードもパワーも相手のほうが数段上だったが、これならばなんとかなりそうだった。 そして、後退しなかった祇十は、合いの手を入れるように大筆での攻撃をくりかえしていた。致命傷にはならないものの、確実に切り傷をきざんでいく。 ただし問題は状況が膠着してしまったところにあった。この場をはなれなければ、自分たちで仕掛けた罠の巻き添えになってしまう。ディーナが逃げ出せば祇十がやられる。祇十が逃げ出せばディーナがやられる。海魔の戦闘力にくわえて、忘れたころにトビウオやウミウシがひょっこり攻撃をしかけてくるので、ふたり同時に撤退することは不可能のようだった。 ファレルは脳しんとうでも起こしたのか、頭をふりつつようやく立ち上がるところだ。 祇十が背後をちらりと気にかけると、 「うふふ、目に毒だから振り返らないほうがいいと思うわよ」 アコナイトが忠告した。 彼女の周囲に紫色をした霧状のものがたゆたっている。その名のとおり『目に見える毒』だ。近くにいたウミウシが痙攣したのち動かなくなっているところから察するに、致死性の毒のようだ。半魚人に専念するためにバリア代わりにしているのだ。 「さぁ、いくわよ」 アコナイトの腰のあたりから十数本の蔓が飛び散った。 それまではふたつのトラベルギアにだけ気をつけていればよかったが、一瞬にして攻撃の数が何倍にもふえた。この後衛からの援護は、海魔からすればたまったものではない。 しかも、アコナイトは蔓に『肌を刺す毒』を仕込んでいる。神経に直接作用する毒のため、斬り傷よりも激しい痛みをあたえることができた。 半狂乱になった半魚人が、祇十もディーナも無視して、蔓をつかんで引きちぎる。 「あらら、ごめんなさい。わたし、痛くもかゆくもないわ」 これによって隙ができた。祇十とディーナが、海魔の開けた出入口から外にまろび出る。 アコナイトも海魔を牽制しつつ、まわりこもうとしたが、いかんせん移動手段が蔓のため速度が出ない。痛覚を刺激され怒り狂った海魔が背後からおそいかかる。『目に見える毒』の防壁など気にもとめない様子だ。 そのとき、ぴたりと半人半魚の動きが止まった。 アコナイトが祇十たちのもとにたどりつく。 「ファレル!!」 海魔の白濁した瞳が――いや、ぽっかり空いた鼻の穴がとらえているのは、囮である魚の死体にみずからの血潮をしたたらせているファレルだった。彼は自分で手の甲をかみちぎり、血臭をふりまいていた。 「美味しそうな匂いでしょう?」 人間の言葉が理解できたかのように、海魔が大口を開けてとびかかった。その瞬間、手の傷口を超能力でふさぐと、ファレルは逃げながら小銃をかまえた。 「先ほどのお返しです。遠慮なく受け取ってください」 大量の魚の死骸にかぶりついた化け物の、その脇腹に雷をはらんだ銃弾がめりこむ。苦悶しながら敵はそこに釘付けになった。 「今よ!」 ディーナが戸口にわたしておいたロープを切る。すると、天井の梁に隠しておいた樽が海魔の頭上に落下する。これには彼女がジャンクヘブンで仕入れていた油がたっぷり満たされていた。 「よっしゃ!」 待ってましたとばかりに、祇十が筆をふるう。 目の不自由な海魔には気づきようもなかった。ファレルの血がまぶされた魚たち、その下に『爆』と書かれた大きめの石が置いてあったことなど。 書道師の文字はそれ自体が力をもっている。今や石ころは、強力な爆弾と化している。 「喰らいやがれっ!!」 祇十が気を吐く。 爆発は炎を巻き上げ、人々をおびやかしていた存在を跡形もなく焼き尽くした。 <4> 「仲間を喪ったのは悲しいけれど。キミは敵を討った。キミの情報が皆を救った。私たちは感謝してる。それを忘れないで」 ディーナはダルトンと抱きかわし、背中をたたきつつそう言った。ダルトンは「ああ、こっちこそありがとよ」と背中をたたきかえした。 アコナイトは「やっぱりわたしって強いわね」「今度の世界にはもっとおもしろい毒があるといいわ」などと独りごちながら、警備船に乗り込もうとしている。 ファレルは来たときとおなじように、無言のまますでに甲板のうえの人だ。 「また海魔におそわれちまったときは呼んでおくんな」 最後に祇十がそう告げて、船に駆け上がった。 サンタクレイ島をはなれていく船舶に、ダルトンをはじめとした島民たちは感謝の意をこめて手を振った。
このライターへメールを送る