じき満月を迎える、ある夜のこと。 少しばかり乱暴な生暖かい風に、桜並木がざわざわ騒ぎ出す。 そんな林道を、ふたりの若者がほろ酔い加減で歩いていた。――円とならぬ宵の月 見上げりゃ花も波打って「ん? ……いでっ!?」 片割れが何事かに気付き、振り向いた拍子にしりもちをつく。「ふんじゃまねな」「さしねじゃよ! ……ちょ。なんが聞こえね?」「あ?」――殿は何処か天守は暗い 此処は何処か誰ぞ云え 転んだままの相棒に言われて、もうひとりの若者も気がついた。 花弁、そして微かな調べが、風に乗って届く。――我は花守気取るもの くたばり損ないにて候 遠いのか、はっきりと聞き取れないが、染み渡る、透き通る、美しい歌声。「あっちだな」 若者は林道を外れた隅の方に目をやり、歩き出した。行く手に早咲きの桜でもあるのか。風の悪戯で散る花弁が近付くほどに増してゆく。「ちょ、待で! まいねって!」 腰が抜けたままの片割れは本能的に寒気がして止めたが、相棒は無視して林の奥へと姿を消して。数秒後、引き返して来た。 全力疾走で息を切らせて半べそをかきながら。――人も獣も愛でては喰らう 嫌なら避けて通りゃんせ 相変わらず腰を降ろしていた若者は当初、相棒の姿をぼんやり眺めていた。 その背後に迫るのは――鉈を振りかぶった白装束。「……!! わああああああああああ!?」 四つん這いでもたつきながらやがて立ち上がり、奇しくも二人が肩を並べるぴったりの間で、供に駆け出した。「だはんでまいねっつったっきゃ!」「いいはんで走れ! 喰われてんずな!?」「おめ後でぜってえ殴るはんで!」「後でな!」――この唄 避けて 通りゃんせ●声掛けたとて聞く耳持たず「きみ達。桜、好きですか?」 チェンバーでの盛大な花見を終えてひと段落したある日のこと、ガラが発した最初の台詞である。相も変わらず貼り付けた笑顔。だが、平素見られる大仰な仕草も、能天気な調子も、後には続かない。 ガラは導きの書を開き、皆の注目を確かめてから、やっと切り出した。「実は、ロストナンバーの保護を、お願いしたいんです。けど」 抑揚が無く、歯切れも悪い。言い難いことでもあるのだろうか。「場所は壱番世界の日本。北国で、開花の遅い桜の名所です」 かつて、城であったそこは、広大な敷地がまるごと公園として開放されており、今尚残る天守を背景に咲き乱れる数多の桜は、美しくも壮観。「彼女――あ、女の人なんですけど。ロストナンバーは、公園の隅っこに居ます」 人目に付き難い、早咲きの桜林。そこで日がな一日、穏やかに佇んでいる。 では、無害な存在なのか? 答えは否だ。 既に偶然通りかかった現地人が若干名襲われかけている。彼らは命からがら逃げて事無きを得たが、今後接触した者が等しく逃げ果せる保障はどこにも無い。「この人、虎みたいに強いです。ほっそりしてるのに」 発達した骨格と柔軟な筋肉、瞬発力に裏打ちされた膂力と敏捷性。極めて反射的な動作で繰り出される鉈の一撃は、見てから反応するのでは手遅れだ。また、仮に得物を失ったとて文字通り虎の如く獲物に襲い掛かるだろう。「先ず、本気で戦って叩き伏せて下さい。じゃないと、きみ達が危ないから」 ガラは面白くなさそうに「もうしょうがないですよう」と付け足した。「今は未だ、幽霊か何かだと思われてるみたいだけど」 通報などは為されていない。しかし、怪談じみた噂にでもなれば、怖いもの見たさに訪れる者も出るだろう。そうでなくとも、遠からず大勢の花見客が来る。何れにせよ時間の問題だ。「直ぐ行ける人、お願いします。被害が出てからじゃ駄目なんですよう」 ターミナルにはコンダクターも大勢居る。保護対象が壱番世界人を手にかけたとなれば、今後0世界で双方がうまく付き合えるとは考え難い。 だから「駄目」と、ガラは眉をハの字にして、辛そうに言った。●さりとて去る者追いもせず 吹き荒ぶ桜吹雪に翳む、白無垢の無残な為れの果てが在った。 朱が滲んだ腹をさする、髪の長い女だ。 先程暫し、逃げ去る若者共を眺めていたが、戻って来ぬと確かめて後、踵を返し、今また奥の桜の中で、己が在るべき地のことを、竹槍で腹を刺した民のことを、想い馳せ、あの若者ふたりに重ねていた。 ――にんげんは、わしをころすのか。 山の神だのと持ち上げておきながら。――たったのいっぺん、くろうたことを、ねぶかくうらんで。 生贄など見繕って寄越しておきながら。――わしは、ただ、しのびなかった。 都合の良い時は媚び諂っておきながら。――まだきられとうないと、ないておった、あやつのことが。 邪魔になったら退かすのか。――だから、とめたにすぎぬのに。 用が済んだら殺すのか。――わしをころすのか!「させるものかよ。もう、二度と……」 女は己を囲む桜を見上げ、独り語散た。その眼は、慈しみで満ちていた。
●鬼哭 誰を頂くこともなくなって久しい天守を、大きな月が真白く照らす。 生暖かい。少し乱暴な、風。 慌しい雲が、時折空を霞めては、またすぐ何処かへ追い立てられて。 辺りには誰も居ない。なのに、ざわついている。 まるで、並木が、見慣れぬ者の噂を風に尋ねているようだ。 旅人達のことを? それとも、 ――今宵望月十六夜まだか そろそろ春も来る頃か それとも、この地に突如現れた、彼の異邦人について? 木々を見上げたアゲハの元に、ひとひら、薄紅色の花弁が届いた。 辺りは、未だ仄暗い枝につぼみがちらつくのみだというのに。 思い出されるのは世界司書の、桜は好きかと問うた声。 (ええ、好きですよ) 美しくも妖しく、禍々しい。総てを秘めた、儚い花を。 たとえば、今、風が運んだ歌声は、そんな桜によく似ている。 ――うぬらの糧は足りてるか 花開くには充分か 「むこうから聞こえます……!」 ドナ・ルシェ、メテオ・ミーティア、そして祇十にも、確り聞こえた。 ドナが示した一角は、桜の林。奥の奥まで窺えぬが、暗がりの中でさえ、遠目にも木々の狭間に早咲きの花が溢れて見える。 ――我の血肉は足りねども 果てまで花守たらんとす 「それにしても」 風の精霊が届けてくれた声音は美しく、調べも穏やかだ。 けれど、幼いドナにさえ、同時に薄ら寒い印象をも抱かせた。 「怖い、唄なのです……」 「あぁ。何があったのか知らねぇが」 ――なんぴと来ようと憚らぬ 喰い散らかして仕る 「かっ! 『喰い散らかして仕る』ときたもんだ。穏やかじゃねぇな、ええ? おい」 祇十は大袈裟な調子で、さもぞっとしないと言わんばかりに首筋を叩く。 メテオにも僅かに感じられた。 確かに、春先特有の湿り気を帯びて弛んだ空気の只中でさえ、この場所だけが張り詰めていて、胸の奥を突き刺す、いやに冷たいなにか。 戦場特有の――死の匂いとでも、云うべきか。 ――嫌なら避けて通りゃんせ この唄避けて通りゃんせ (陳腐な言葉) メテオは自嘲気味に鼻を鳴らした。機械の身体に身を窶して以来戦い続けた彼女にとって、それは常に隣り合わせであったから。 では、この先に居る野獣の如き存在は、如何か。 「まず、動きを止めるべきだわ」 俄かにメテオの思考が現実に戻った。 保護対象が何であれ、まず全力で叩き潰す。話はそれから。 だから、今は具体的な話をしようと思った。 「そいつぁ同感だ。ってぇわけで、すまねぇが切った張ったのやりとりは、少しの間おめぇらで持たせちゃぁくれねぇか?」 「祇十さんはどうするのですか?」 「俺か? 俺ぁちょいとな、仕込みてぇのよ」 ドナがきょとんと問えば、祇十が抱えた半紙の束をぱしっと叩く。 それぞれに『凍』や『粘』と、達筆な文字が書かれており、祇十が念じることで書いてある通りの効果が発揮されるという。 「こいつをあっちこっちに貼っ付けて、女が近付いたところでばしっと決めるって寸法よ」 「なるほど。そこが付け入る隙というわけ」 メテオが、そういうことならと頷く。 「それに、女殴るようじゃぁ男の名が廃るってもんだ。な、頼むぜ。片付いたら戻るからよ」 「承知致しました」 「頑張ります!」 ばつが悪そうに頭を掻く祇十に、アゲハとドナも応じた。 不意に、旅人達を風塵が襲う。 唄は、止んでいた。 「……やっこさんもお待ちかねってわけかい」 「……かもね」 多少物音を立てた程度で互いを感知できるほど、彼我の距離は近くない。 普通なら。 しかし件のロストナンバーが並外れた身体能力を有しているのなら、見合った感覚器官を備えていても不思議はない。そして、女の歌声もまたしめやかで穏やかなものでありながら、たとえ風下に居なくとも聴き取れる声量だった。 あるいは近づく者があるたび、歌っているのかも知れない。 「いきましょう……!」 ドナが、御旗を握る手に力を込める。自らを奮い立たせるように。 向かうべき林が、ざわざわと騒いでいた。 既に満開の桜の木々の狭間を回遊する風が織り成す景色。 この世のものとは思えない、異様さを秘めている。 「そうですね。参りましょう」 依然として穏やかな物腰を崩さぬアゲハの言葉を最後に、皆歩き出した。 ●何故 「じゃ、よろしくな」 先程まで口数では一番だった祇十が、短い言葉を残して去る。 以後、誰も何も言わぬ。 だが、相も変わらず風の音と桜の花が、ざわざわと騒がしく、静寂とは縁遠い。 花弁がさほど落ちぬのは、咲いて間もない故にだろうか。 一行は、木を避けては歩き、歩いては避けて、また歩いた。 比較的背の高い、つまり樹齢を重ねたものが多いことに気付き、ドナは小さな胸に故郷の森を少しだけ思い浮かべた。大きさこそ桁違いだが、古木には様々なものが宿るものである。願わくば、それが穏やかなものであって欲しい。 願わくば、今日の邂逅が穏やかなものであって欲しい。 果たして、ドナの希望は叶うのか。 やがて旅人達は、ほんの小さな、喩えば猫の額を思わせる開けた場所を見出した。 中央に細く白い光が差し込む、只中。 白さの増した、白い布きれを纏う、肌の白い女が、天を仰いでいた。 対照的に黒い髪は伸ばし放題で、くるぶしほどもある。 さほどの器量持ちというわけではない女は、しかし、この場において優美ですらあり、少なくとも無闇に人を襲う類の危険な存在には見えない。 アゲハは、なればこそ危ういと思わずにはいられなかった。 「お初にお目にかかります。私の名は黒羽アゲハ。貴女の敵では――」 「去ね」 女は細めた目を望月に向けたまま、アゲハの挨拶を即座に切り捨てた。 風が、止んだ。 先刻までのざわめきと一転して、耳を覆いたくなる静寂が訪れる。 アゲハは、尚も続けた。 「貴女の敵ではありません、と言っても」 「去ね」 「無駄よ、アゲハ」 「……今は、聞いて頂けませんか」 「去ね」 見かねたメテオが止めて、アゲハも引き下がる。 概ね事前情報の通りだ。もっとも、想定内であり、驚くに値しない。が、 「去ね」 既にアゲハが口を噤んだ後も、女は止めない。 「去ねっ」 次第に語気は強く、 「去ね、去ねっ、去ね! 去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ね去ねえっ!!」 終いには木霊するほどに振り絞って。 「去ぬらずんば――」 女が俯いて、長い前髪に面が隠れた。その、一瞬。 ずしん―― 「――!」 「何!?」 「わわわっ!」 突如、突き落とされるような衝撃と地鳴りが、一度だけ起きた。 辺りの桜という桜がぶわっと花を宙に解き放つ。 女の足元から伸びる地割れが、すべてを物語る。 いつの間にか右手には、鉈が握られていた。 「喰ろうてやるわ!!」 乱れた黒髪の隙間から覗かせた眼は、獲物を見る野獣のそれに等しい。 再び、風が吹き荒れた。 メテオが即座に上空へと飛ぶ。 遥か地上の女を捕捉しようと見おろして、 「これは――!」 言葉を失った。 視界の多くを桜花が覆い、僅かな隙間をも散った花弁が遮る様子に、はっとする。 まるで、女を守っているようだ。 ならばいっそ花に潜んで、狙う。標的は女の持つ、鉈。 頭を切り替え、メテオは樹上より、綿の如き薄紅の塊に飛び込んだ。 女は身を低くして距離を詰めて来る。恐るべき迅さだ。ドナが旗を構えた頃には、間近で鉈を振るう所作に入っていた。鋭さと鈍さを併せた金属音が鳴り、火花が散った。女の一撃を辛うじて受けたドナは後方に羽ばたき衝撃を殺そうとするも、怪力で振り抜かれ、堪えきれずに跳ね飛ばされた。 「きゃあああああ!」 間を置かず追撃を仕掛ける女にアゲハが立ちはだかる。 「殺したりはしませんよ。私達は貴女を保護する為に遣わされた者」 「保護だ!? ほざいたな人間!!」 やや距離をとり、すぐさま標的を代えた女の鉈を二手三手とかわす。 「……致し方ない。多少乱暴を働くようになりますが、お許し下さい」 アゲハは、隙を窺っていた。乱暴、と言いはしたが、実のところ戦意は殆ど無い。狙いは首筋。放つべきは手刀の一撃のみ。 しかし一瞬首筋を注視した、次の瞬間――鈍い音と共にアゲハの身体は宙に舞っていた。女が鉈を振るう予備動作のまま逆手でアゲハに痛烈な殴打を浴びせたのだ。 投げ出されたように地に落ちたアゲハの胸に、形容し難い激痛が走る。 咳き込んで、少し血を吐いた。 (骨は……折れていないようですね) 避けに徹していたのが幸いして、負荷の全てに貫かれることは免れた。 しかし吐血している以上、内臓への負担を憂慮しなくてはならない。 素早く自己分析を済ませたアゲハだが、迫り来る女は起きる間を与えなかった。 「やめてー!」 今度はドナが割り込み、女の頭上より旗を振り下ろすが、対する女は片手持ちの鉈で易々受け止めた。 「天狗の童がさかしいわ! 人の走狗と成り果てたかよ!」 「てんぐ? ……ってなんですか! そんなことよりも――ぅわっ!」 女が身じろがぬまま腕力のみで押し返した。ドナは得物の間合いぎりぎりのやや高い位置へ浮いて逃れる。 「さっさと鉈を降ろすのです。死んじゃいますよ!」 旗の鋭い穂先を向けて、ドナは悲痛な声を上げる。それは今しがた殴られたアゲハと、女の身を等しく慮る言葉だった。白無垢の腹部は固まって茶色味を帯びるどころか、朱が未だ広がりつつある――出血が続いている。 「……やかましい」 俄か、女の語気が柔らかい。あるいはドナの配慮に感じたのか。 「……あたしが武器を捨てたら、おねえさんも戦うのやめますか?」 女の様子に気付き、ドナは身を固くしながらも、この戦いは無為だと目で訴える。 伝わって、欲しかった。 しかし、幼い瞳に返されたのは――金色に輝く獰猛な眼! 「やかましいな童あ!!」 「どうしてっ――」 食い下がろうとしたドナの言葉を、一筋の熱線が遮った。 直前まで眼下に居た女は大気を貫く音が届くか否かのところで後方へ飛び退く。地に足が着くまでの短い間、射線の先――メテオをぎろりと睨んだ。 「くっ!」 鋭くも重い視線に射抜かれ、メテオは木々の花の中を次々と飛び回る。散る花に因る目眩ましの陰から、更なる熱線を鉈目掛けて続け様に撃ち込んだ。女は狙撃を避けるべく続く、光線銃独特の銃声に合わせて跳ねる動作を重ね、ドナと切り結んでいた位置より大きく移動せねばならなかった。 「まだおるか女天狗!」 「呆れた反射神経だ!」 方向転換を交えつつも女に劣らぬ速度で飛行していてさえ、メテオの狙いは極めて正確だ。一方で、ことごとく回避された事実が、女の超感覚を示してもいた。 「これでどう!?」 メテオは女の進む先、背後、進む先と、今度は冷凍線を続けて撃つ。標的の反応速度を逆手にとった速射。対する女は初撃を静止してやり過ごし、二撃目を鉈で振り払う。 「小癪な!」 肉厚の刃が音を立てて凍りつく中、三撃目が届く頃には女がドナとアゲハが居るのとは間逆の方に退いていた。 一瞬、台風の目の如く全てが静まる。 「……必ず喰ろうてくれる。ゆめ忘れるな」 女が呟いて、また花吹雪が舞い戻った。 「うぬらをとるまで、鉈振るわいでか!! 髪を振り乱して叫び、女は林の中へ飛び込み、消えた。 後に残るのは、地に穿たれた熱線により生ずる、煙。 「どうして……」 ドナは、また問うた。 どうして、そんな身体で戦うのか。判らなくて、ただ、辛いのだ。 「彼女は今、手負いの獣と同じ状態のようですね」 声にはっとし、後ろを振り向く。 「アゲハさん! 大丈夫ですか?」 「多少痛みますが……差し障りありません。それよりも」 ようやく立ち上がったアゲハが埃を払ってから、ドナを諭すように言った。 「残された時間は僅かです。彼女にとっても、私達にとっても」 戦い始めて、未だ五分にも満たぬ。だが、このままでは彼女は――。 「追いかけましょう! 絶対に止めなくちゃ」 「微力ながら、お力添え致します」 ●散華 女は、林の中を相も変わらぬ迅さで駆けて行く。 視界が霞む。 守ると決めた花達の散る様も、灯火の如くちらついて、女の視界を惑わせた。 ――血を失い過ぎたか。 長くはない。だが、それもいい。 「……どうして、だと」 童天狗の言葉を反芻し、わらう。刹那。 「待ちな、姉ちゃん」 「!?」 しゃがれた袖が氷柱と化した。足を止め、声の主を確かめるべく、周囲を視る。今しがた掠めた木に貼られたるは、半紙。書かれた文字は雄雄しくもなんと寒々しいかな、『凍』の一文字。 「これは……言霊か? おのれ、出てこい!!」 「まぁまぁまぁまぁ慌てなさんな。なんせコソコソすんのは大嫌ぇだってぇのに、うっかり慣れねぇ裏方に回っちまってよ? 飽きちまってたのよ」 女の声を宥めるようで、その実人を食った言を吐き、木陰から現れたのは、 「今も昔もこちとら豪快で通ってんだ。頼まれなくたって、出てってやらぁ!」 祇十だ。 女は、男が吊り上げた口元の『粋』の一文字と、両手にそれぞれ携えた半紙を順に見て、膝を緩める。 「おぉっと、無闇やたらと跳んで回らねぇ方が利口ってもんだぜ? ここいらの木にゃ鼠捕りよりよっぽど質の悪ぃもんが仕込まれてんだ」 祇十の文句は半分がハッタリだが全くの出任せでもない。この周辺に半紙が集中しているのは事実だ。近くに居るだけでも影響が及ぶことは先程身を以って知っただろう。 「なぁ、悪ぃこた言わねぇ。やめにしねぇか。手荒な真似ぁしたかねぇんだ」 「祇十さん! おねえさん!」 苦虫を噛み潰した顔で女が立ち尽くすうち、ドナとアゲハが駆けつけた。同軸座標の遥か上空では、メテオが銃口を向けて控えている。 「おぅ、おめぇらかい。遅かったじゃねぇか。もうあらかた片付いちま――」 「………つも」 祇十が軽口を叩き終わらぬうち、女が何事か呟いた。 「あぁ?」 「待って下さい。……様子がおかしい」 片眉を吊り上げて耳に手を当てる祇十に、アゲハが注意を促す。 ドナも異変に気付き、既に旗を構えていた。 「どいつもこいつも」 ――大層な訳も持たず勝手な都合を拵えて草木や獣の命は安く奪う癖に言葉が判ると踏んだ途端掌返してやれ戦わぬだの殺さぬだのと。 「片腹痛いわ――!」 「アゲハ!」 「アゲハさん!」 女はアゲハの眼前へ一足で跳んだ。 誰も反応できなかった。 否、厳密には空で狙いを定めていたメテオはすぐ動くことはできた。しかし、照準の直線状には女とアゲハが居り、撃てば確実にアゲハを巻き込む。 「――くそっ! それが狙いか!」 何故アゲハなのかと言えば、唯一丸腰だったからに違いない。何もかもが手に取るように判り、故にメテオは悔しかった。 メテオが空で歯噛みする一方、地上のアゲハ自身は読んでいた、というより備えていた為、うろたえず避けを試みた。だが、女はアゲハのすぐ横に抜けると、高く樹上に飛び上がった。 「上!?」 先刻のメテオのように目にも止まらぬ迅さで木々を飛び移って桜花に紛れる。都度散る花の只中、時折赤い飛沫が迷い込み、乱れ飛んだ。 居場所を眩ませる腹か。これでは人の背丈ほどの位置に貼られた書が役に立たない。 「んな話があるかよ!?」 「落ち着いて下さい。樹上に居る限り、彼女は手出しできません」 そう。如何に超人的な肉体の持ち主といえど、女の武器は鉈とその身しかない。特に殺傷力の高い鉈を手放す危険を冒すとは考え難く、すなわち投擲される可能性も低いということになる。では、警戒すべきは……頭上からの強襲! 三人の頭上で、ばさっと花が散った。 「避けろドナアアアアァァァァァーー!!」 メテオの絶叫が、空に、林に、城に、公園中に木霊した。 振り向き様、上を向いたドナが見たものは、袈裟懸けに振りかぶる女の鬼気迫る、顔。切り結んでいる間は全く捉えられなかった女の動作ひとつひとつが、とてもゆっくりに感じられる。 ――旗を、構えないと。せっかくメテオさんが知らせてくれた。 腕を上げるのも、同じようにゆっくりだ。 故郷の巨木が倒れたあの時も、こんな風だったかも知れない。 ――まずい。後ろに、と ば な い と 鉈がみるみる近付く最中、視界の隅に光る鋭利な刃が見えた。 小振りなナイフ。綺麗。誰のものだろう。鉈が、それを弾いた。 何度も聞いた銃声が響いた気がした。 ばーんと、硬質で分厚い何かが砕け散る凄まじい音。 女は何故か得物を失い、ドナの真上ではなく目の前に着地した。 どうにか守りの型を組んでいたドナは、旗の柄をぬっと伸びた両手に掴まれ、ようやく我に返った。 「わぁっ!!」 ドナの抵抗も空しく、女は出鱈目な腕力で旗をひったくり、片手で放り捨てると同時に空いた手で今度はドナの首をがしっと掴む。 「……っ……かはっ」 「いけねぇ!」 女は同じ視線の高さまでドナを首ごと持ち上げ、宙吊りにした。 ドナは引き剥がそうと弱々しく女の手に触れ、気付いた。 その手の冷たさに。余分な力など、込められていないことに。 自分の首など、このまま握り潰すか、ひと捻りもすればへし折れるだろうに。 「おねえ……さん」 「その辺にしといちゃぁくれねぇか」 真横から、祇十が女の腕に『凍』の半紙を押し当て、どすの効いた声で言った。 神妙な、張り詰めた顔だった。 「おめぇにおっ死なれんのも、ドナがくたばるのも粋じゃねぇ」 「…………力尽くで止めてみい」 「……そうかい」 「だ、駄目です! 祇十さんも……!」 ドナの制止と祇十の念は同時だった。 冷たく乾いた微かな音をたて、女の腕はみるみる凍っていく。無論掴み続けることなど適わず、開放されたドナは、不覚にも尻餅をついた。 女は後退し、片腕を垂らしながら、まだ身構える。 図らずも凍結が広がることで、出血は止まっていた。一方で冷えた身体は固く、、所作は常人でも捉えられるまでに、遅い。 また、銃声が鳴った。 メテオにより空から放たれた冷凍光線は、女の無事な方の腕を撃ち抜く。 衝撃で地に伏した女は、無事だった腕も凍りついていた。 「もう、もうやめて下さい!! 動かないで! みんなもやめてえ!」 ドナが泣き声で叫ぶも、まだ女は震えながら立ち上がる。 よたよたと、けれども野の獣のように身を屈めて、戦意を示す。 最早、誰が見ても気力のみだった。意識があるのかも疑わしい。 だから、女は気付かなかった。アゲハが背後に回り込んでいたことに。 「気が済みましたか? ――失礼」 アゲハが、先ほどドナに誓った力添えの名の元、女の首筋に手刀を落とす。 女の意識もまた、すとんと落ちた。 ●覚醒 頬に桜の花が触れて、目が覚めた。 腹が痛い。腹が減った。生きている証。何故と自問する。 「どうしてやめてくれなかったんですかっ!」 ――やかましい声だ。 「仲間が危なかったら、誰だって助けるものだわ」 ――これは女天狗か。 「違ぇねぇ。それに、ありゃ相当気位の高ぇ女だ。幾ら口で言ったところで、聞きゃぁしねぇって」 ――相も変わらずべらべらと口の回る若僧め。 「彼女なりの事情があったのでしょうし」 ――あの優男らしい物言いだな。 「同感。僕にはなんだか、桜を守ってるように見えたけど」 「でもあの時は……ううん、きっと始めから、あたし達のこと食べる気なんて無かったんですよ!」 ――……ふん。 「おぅアゲハ。腹に貼っときねぇ」 「ありがとうございます」 ――腹? そうだ。腹は。 女が身を起こせば、腹に包帯が巻かれ、傷の上は墨で『癒』と書かれてある。 旅人達は少し離れたところで話しており、女が目覚めたことに気づいていないようだった。 「ちょっと聞いてるんですか!」 「まぁまぁまぁカッカしなさんな嬢ちゃん。誰にでも退いちゃならねぇ決めどころってやつがあるのよ。相手が命懸けてんなら、こっちも応えてやんのが粋ってもんだ。おめぇにも今に判るさ。なぁ」 ドナはまだ何事か言おうとしたが、祇十が、実に粋な笑顔でドナの丸い頭をわしゃわしゃと撫で回すものだから、「むー」と頬を膨らませて黙り込んでしまった。ドナとて当初は覚悟を決めて打ち合うつもりだったし、理解出来ないわけではない。とは言え、なにしろ多感で複雑な年頃なのだ。 「とにかく。起きたら一から説明ね。零世界と壱番世界。世界群。ディアスポラ現象と――僕達のこと」 ひと通り並べてみて、メテオは組んでいた腕を崩しながら息を吐いた。 皆同じ経験をしているとは言え、伝えるべき内容の、なんと多いことか。 「……知っておったさ」 メテオの声に応じる形で女が呟き、皆、振り向いた。 「おねえさん!」 「これは、お目覚めでしたか」 「なんでぇ、人が悪ぃな」 「まったくやかましい餓鬼共だよ」 口々と声をかけてくる旅人達を見て、女はやれやれと溜め息を吐いた。 ただひとり、メテオだけはきつい目を向ける。 女が解っていると言ったのは、ここが元居た世界と異なること。そして、旅人達も、恐らく自分と似たようなものだということだろう。 「なら、説明は抜きだ。代わりに聞きたいことがある」 厳しい口調で、メテオは訊いた。 「お前が山の神として守ってきたものは、なんだ」 「呆れた連中だ。ぬしらと違わぬ姿のわしを神だのと、どこで聞きつけた?」 女は腰を降ろしたまま、面倒くさそうに訊き返す。 メテオは、尚も咎めるように続けた。 「質問しているのはこっちだ! お前が守るのは桜だけでなく、山に住む数多の草木や動物、供物を捧げ祈る人間ではないのか?」 「違うな」 「なに?」 「違うと云うた」 「では、なにを――」 「約束よ」 女は、生まれてからずっと、山に住んでいた。 日々の糧は獣や鳥、川魚。そして、迷い込んだ猟師や旅人である。 その暮らし向きは野生の熊などに等しく、価値観もまた、大した違いは無い。 異なる点を挙げるとするなら、人と同じ姿かたちで人の言葉を話すこと。 だから、民達は女を山の神として祀り、生贄を差し出す代わり、山歩きの平安を得ようとしたとした。熊の如き存在でも口がきけるなら、と考えたのだ。 女はこれを聞き入れ、以来、山に入った者を喰うことは無くなったという。 約は、今の今まで、違えていない。 「でも、じゃあどうしてお腹を怪我してたんですか?」 今度はドナが、労わるように訊いた。覚醒の経緯そのものについて。 「知れたこと。人間に、やられたのさ」 ある、早春のこと。 女は人里へ下りた際、当地に神木として祀られている老いた桜と知り合った。 たまたま悪いことが続いていたその年、老木は随分早くに咲いた。民達はこれを更なる災禍の予兆であるとして、切り倒してしまえとの声が徐々に高まった。 女は人語だけでなく、獣や草木の声を聞くことができた。だから、今にも切られそうな老木が悲しみにくれているのが分かった。やがて、自分と同じく人間の都合で祀り上げられた存在に、同情した。 自分の言ならば聞き入れるかも知れない。そう思った女は、民達に木を切らぬよう説き伏せるべく出向いた。結果は、腹の傷が示している。 この公園の桜も、女にとっては同じだった。 何かの弾みで早くに咲いた。聞けば、詳しい事情は窺い知れぬが、やはり遠からず退かされてしまうのだと、桜達が騒いでいたと言う。 もう桜が切られるのを見たくなかった女は、誰も寄せ付けまいとして、今回のような行動に出た。 「勝手だな」 メテオが冷たく言い放った。 「お前は神ではない。ただの身勝手で矮小な一匹の獣だ!」 「わしが獣だ? 当たり前のことを。勝手と云うたな。ならば自分らの都合を山の者に押し付けてばかりの人間はなんだ? 真に勝手なのはどちらか!」 メテオの物言いに再び激情を剥き出した女は、しかし、また静かに言った。 「……と云いたいが、女天狗よ。うぬの申す通りさ」 情に絆された時、女もまた人間と同じ、山の理を違えた勝手な存在になったのだ。 民の元へ向かった時、女はまるで我がことのような憤りを感じていた。 人々はそれを感じ取り、恐れたのやも知れぬ。 「たった一度の事でも、自分達に害をなすと思えば、人は警戒するものです。――そう、今の貴女のように」 「……そうだの」 アゲハの、丁寧ながら正鵠を射た言葉に、女は項垂れた。 「まぁまぁ辛気くせぇ話ぁもういいじゃねぇか。姉ちゃんが着てる、白無垢ってのかい? 白無垢って言やぁおめぇ、婚礼とかめでてぇ時に着るもんじゃねぇか」 次第に消沈していく空気に堪えかねた祇十が割り込み、話題を強引に明るい向きへ誘おうとする。 白無垢の真意を女は語るべきか迷ったが、場を慮った祇十がなんだか気の毒に思え、今は控えることにした。不意に、笑いがこみ上げる。女の口元を隠す仕草で、張り詰めていた空気が幾分、軽くなった気がする。 「おねえさん」 ぱたぱたと羽ばたき、女の目の前にふわりと降りて、ドナは声をかけた。 「あたし、ドナ。ドナ・ルシェって言います。おねえさんのお名前は?」 「名前……?」 言われてみて、女は真実困った。遥か昔に生まれ出でてより名を与えられもせず、自ら考えたこともない。これまで誰に訊ねられたこともなければ取り立てて決める必要も感じなかったから。 ふと、花を見る。 随分と散ってしまった。ここの桜は、次の春には見られないのだろうか。 でも、もう口を出そうとは、思わなかった。 「おねえさん?」 ドナに心配そうに覗き込まれて、一抹の気まずさを感じつつ、女は答えた。 「うぬらの如き名は持たぬ。呼びたければ……そうさな。山姥とでも呼ぶがいい」 それすらも、人が決めた呼称に過ぎぬが。 「じゃあ山姥さん。あたし達と一緒に行きませんか? 山姥さんと同じような境遇の人達が集まる場所が――」 「なっ おいおいおい、流石に『山姥さん』はねぇだろ?」 悪びれることなく言われた名で親しげに話すドナを、祇十が慌てて嗜める。 「? どうしてですか?」 「どうしてって……そりゃぁおめぇ。なぁ」 「私に振られましてもお答え致しかねます。メテオ様は如何ですか?」 「知らないわ」 「ひでぇ! 俺だけ仲間外れかよ!!」 きょとんとするドナへの返答に窮しアゲハとメテオに助けを請うも、にべもなく切り捨てられた祇十がひとり喚いた。 旅人達の滑稽なやりとりが可笑しくて、女――山姥は、わらう。 本当に、やかましい連中。けれど、彼らについていくのも、悪くないと思った。
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