万象の果実・シャンヴァラーラ。 元ロストナンバーの夜女神が、対たる太陽神とともに創り上げたそこは、【箱庭】と呼ばれる小異世界が連なって出来た異世界であり、その中で、もっとも特異な進化を遂げたといわれているのが【電気羊の欠伸】である。 壱番世界の技術力から換算すれば四十世紀以上という、遠未来とでもいうべき文明を持つそこは、無機から発生した無数の生命と、それらに付随する諸々の不思議にあふれた場所だ。 同時に、電気羊と呼ばれる極彩色の獣神と、夢守と呼ばれる強力な代理戦士たちによって護られた、帝国による問答無用の侵攻に揺れるシャンヴァラーラで唯一、武力によって平らげられる恐れのない、奇妙だが平和な【箱庭】でもある。 最近、タグブレイクという技術によってとあるロストナンバーの青年が飛ばされてきたことから交流が始まり、特に夜女神ドミナ・ノクスと近い【電気羊の欠伸】には、ちらほらとロストナンバーたちの姿が見られるようになっている。 永遠に自己増殖を続ける『層』=構造体の連なりによってかたちづくられた【電気羊の欠伸】の一角に、光沢のある黒と静かな銀で彩られた森がある。 何故かここだけは、胸を締め付けられる鮮やかな夕焼け色をした空の――むろん、擬似空である――下にあるそれは、まるで、黒曜石と黒水晶、ブラックオパールを組み合わせて彫り出した樹木に、銀と白金の葉を飾りつけ、わずかなサファイアで陰影をつけたかのような、幻想的で美しい森だった。 【電気羊の欠伸】の生命は殆どが無機物だが、それを知らされておらずとも、木々が『生きて』いることは、それらが時折、内部に光を孕んだ果実を実らせるところからも判るだろう。 果実は甘く芳しい……どこか懐かしい芳香を放ち、森を訪れた者の心を捕らえて放さないのだという。 『彼』は、その森を少し入ったところに聳え立つ、樹齢で言えば三千年を超えるのではないかという黒き巨木の根元に腰掛けて、朱色の擬似空をぼんやりと見上げていた。「――……ん、客か」 年の頃は二十代半ばだろうか。 漆黒の髪にやや不吉な風合いの緋色の眼、凛とした面差しの、端正な顔立ちの青年だ。 傍らに使い込まれた剣が立てかけてあることと、実用本位に鍛え上げられたしなやかな肢体からは、彼が武人であることが伺える。 しかし、青年は【電気羊の欠伸】の住民のようには見えない。 外見だけならば、壱番世界の人々と酷似している。 訝しく思って尋ねると、青年は苦笑とともに首を横に振った。「ああ……いや、俺はここの住民でも管理者でもない。ここは、黒羊プールガートーリウムの支配する領域の一角で、想彼幻森(オモカゲもり)と呼ばれている。――無数の記憶の欠片が散らばる場所だ」 話を聞けば、彼は、数ヶ月前に覚醒したロストナンバーなのだという。 死に瀕して覚醒し、シャンヴァラーラに飛ばされてきたところを、事情を知るドミナ・ノクスによって保護され、派遣されてきたロストナンバーたちとともに0世界へと赴いたのだそうだが、パスホルダーを得て旅人となってからも、ほとんどの時間をこの【電気羊の欠伸】で――想彼幻森で過ごしているのだという。 何故か、と問うと、「――……何も覚えていないんだ」 空を見上げたまま、ぽつり、と青年は呟く。「自分の中に、絶望と悲嘆と怒りと、誰かへの深い深い想いがあることは理解出来るのに、それがいったい何故なのか、誰へのものなのかが判らない」 そして、「想彼幻森は、記憶が実る森だ。原理など俺に知るすべもないが、シャンヴァラーラ人のものだけではなく、ありとあらゆる世界の、数多の人々の記憶が、この森には散らばっている。――ならば、このどこかに、俺の記憶も実っているのではないか、と」 それはまだ、残念ながら果たされていないが、と、やるせないような、寄る辺のないような、どこか儚い、せつない笑みを見せた。「あんたも森に入るのか」 尋ねられ、肯定すると、青年はそうか、と頷き、気をつけろ、と言った。「ここには、あんたが忘れたかった記憶も、なかったことにした想いも、あんたが思いも寄らなかった、誰かのあんたへの想いも、きっとどこかに実っている。心を掻き毟るような他人の哀しみも、心が砕けそうになる激しい怒りも、きっとどこかに落ちている」 そう、ここは想彼幻の森。 かのひとを想う、あの日の幻に出会う森。 それが、吉と出るか凶と出るかは、誰にも判らない。 果実を手にする本人にすら。「――あんたが何を見つけるかなど、俺には計り知れないが。果実に――果実のもたらす記憶に、飲み込まれないよう気をつけることだ。別に先達ぶるわけじゃない、単純に、俺自身が、何度も危ない目に遭っているというだけのことで」 記憶の奔流に呑まれて自らを見失いかけたものは、大抵、この場所の管理者である黒羊の夢守、一衛(イチエ)が拾い上げて、外の領域に放り出してくれるのだと言うが、「あれは恐ろしく大雑把だ。却って痛い思いをすることもある。だから、重々気をつけてくれ」 何度かそんな目に遭ったのだろう、彼に真顔で忠告されては、頷くしかない。 そこで、まだ名前も知らないことに気づいて尋ねれば、「明佩鋼(アケハガネ)=ゾラ=スカーレット」 静かな名乗りが返って来る。 たくさんの大切なものを忘れてしまったくせに、何故か名前だけは覚えているんだ、と自嘲気味に笑ってから、彼は、ゾラと呼んでくれ、と締め括り、立ち上がった。「俺も、自分の果実を探しに行って来るよ。お互い、望みどおりの収穫があるといいけどな」 そう言って、黒々と深く、それでいて眩しいほどに輝く森の奥へ消えていく青年を見送った後、自分もまた歩き出す。 あちこちに、光を内包してあかくあおく輝く美しい果実が見える。 しかし、魂が囁くのだ。 これではない、と。 自分のために実り、自分を呼ぶあの遠い日の果実。 その、たったひとつを求めて、旅人はゆっくりと足を運ぶ。
その日、想彼幻森を訪れたのは、鷹のような目をした鋭角的な美男子だった。 名を祇十という彼は、迎えに出た緋眼の青年にチラと視線を向け、ここを真っ直ぐ行けばいいのかと早口で問うた。 初めて見る顔に不思議そうな目をする青年に、 「ま、柄でもねーことなんけどよ、知りてぇことがあんだ。大したことじゃねーよ」 やはり早口で言って、気をつけてくれという言葉を背に受けながら大股で森へ踏み込む。――せっかちなのは性だ、仕方ない。 せかせかと中へ進み、しばらく行って周囲を振り仰いで、祇十は感嘆めいた呼気を吐き出した。 「はー、これが想彼幻森ってぇのか……なんつーか不思議なとこだぁな」 まるで輝く夜のような森だった。 黒と銀で彩られた静謐の中に、鈍く輝く果実があちこちに見受けられる。ここは、静かで、穏やかで、しかし人に何かを思わせずにはいられない光で満ちている。 「あの光が、どれも記憶のみのった果実ってか。はー、しかし、いってぇどんな原理をしてるんだろーな、こいつぁ」 ぶつぶつと呟きつつ森を歩く。 手に取るべき果実があればそれに『呼ばれる』のだという話は聞いていたが、具体的にはどういうことなのか判らず、想彼幻森への好奇心も手伝って、あちこちを覗き込みながらぶらぶら行く間にも、果実は様々な色合いに淡く光り、辺りをぼんやりと照らしていた。 「んで、俺を呼ぶ果実ってぇやつぁあんのかい」 ――知りたいことがあってここに来た。 知ったからどうなる、どうするというわけでもないが、ただ知りたかった。 「まァ……今更、なんだけどよ」 すでに過去のことだ。 祇十は、本名を玄葉 祇十朗(ゲンバ・ギジュウロウ)という。 国内にその名を知らぬものなどいないほどの名家、玄葉の分家筋に当たり、分家の出でありながら突出した腕前を持つ稀代の書道師として将軍にすら重用される、新進気鋭とでも言うべき書道師だった。 その才を妬み疎んずるものも多く、妨害や嫌がらせを頻繁に受けていたのだが、ついには本家の人間の手による罠にはめられ、身に覚えのない罪を着せられて玄葉の家を追い出されたのが覚醒する数年前だ。 「そいつを仕組んだのは、いったい誰でぇ……?」 堅苦しい家を追い出されて清々したという気持ちは強く、知ったからどうとか、復讐してやろうという意識はない。そんなじめじめした野暮ったいことに人生を捧げるのは真っ平ごめんだ。 ましてや、今の祇十は、その誰かに手を伸ばすことも出来ないところまで来てしまっているのだから。 「だから、まあ、なんだ。……なんだろうな、俺は確認してぇのかな」 誰が、何故。 大体の理由は理解しているつもりだが、おおもとの、根っこの部分が知りたいと思って祇十はここへ来たのだった。 「さぁて、と」 本腰を入れて探そう、と気合いを入れたところで、祇十の鼻腔を覚えのある香りがくすぐっていった。 「……こいつぁ」 これは、墨の香りだ。 誰かの摩った、良質な墨の香り。 「ああ……判った」 艶めいたこの香りには覚えがある。 この墨を好んで使っていた人物の顔が脳裏を過ぎり、 「おめぇか……幸之助」 祇十は迷いなく真っ直ぐに歩み寄ると、枝にみのるあかい果実に手を伸ばす。 滑らかな朱墨のような色合いのそれに手が触れた途端、流れ込んできたのは、 (もう、駄目だ) (もう……耐え切れない) 幼少の頃より親交のあった、玄葉一族本家の跡取り、玄葉幸之助の苦悩に満ちた言葉だった。 脳裏に浮かぶ、見覚えのある光景は、幸之助の見ている玄葉本家の屋敷の庭だろうか。 「……幸之助?」 今まで聞いたこともないような苦しげな声に、祇十は眉根を寄せる。 分家筋の祇十と次期当主の幸之助が言葉を交わすようになったのは、まだ血筋がどうの家がどうのという大人の理論とは縁遠い幼少時、一族の集まりに連れて行かれたのがきっかけだ。 ふたりは、大人たちの小難しい話に飽いて庭を散策していたところで出会い、数少ない同年代、そして幼いながら書が好きで好きでたまらないという辺りで意気投合し、親しくなった。 本家だ分家だのしち面倒臭い理屈が判るようになってからもその親交は続き、祇十が家を追い出されるに当たって途切れたわけだが、 (私がどんなに努力をしても、あいつには遠く及ばない。私が百枚書いても出せぬ力を、あいつの一枚が容易く出してしまう……) (何と、残酷なことか。本家の、次期当主の私が恵まれぬものを、何故分家のあいつがこんなにも手にしている……今朝も使用人たちが言っていた、私ではなくあいつが当主になれば、玄葉の家は将軍様の覚えも更にめでたくなり、もっと繁栄するだろうに、と) 「……幸之助」 祇十は、あの穏やかな青年が、こんな風に強い劣等感を覚えていたなどと、知りもしなかった。 「おめぇ……」 確かに幸之助の書は平凡だった。 幕府御用達の、書道師の名家を背負って立つ人間としてはあまりにも平凡すぎた。 祇十にとっては『書く』ことこそが大事で、書の持つ力云々は後付に過ぎなかった。白い紙、墨、硯、筆、紙を滑る筆と書かれてゆく文字、それこそが祇十の至上であって、『百年にひとりの才能の持ち主』などという賞賛は付け足しに過ぎなかった。 だからこそ、幸之助の書の実力など、祇十には関係がなかったのだ。 ただ、祇十は、幸之助が自分と同じように書くことが大好きで、それ以上に大切なものなどなく、書への強い情熱によって衝き動かされているという事実だけを貴び、それゆえに親交を続けたのだ。 だから、 (……あいつは気付いてはいないだろう、私のこの苦しみになど) (あいつはそういう男だ……明快で、真っ直ぐで、愚直なほどに潔い。地位も名声も欲してはおらず、ただ書のためだけに生きたいと願える、純粋な男だ) (その生き方が、私をこんなにも苦しめ、劣等に灼くなどと、あいつは知らないだろう。――言えるはずもない) 幸之助がそこまで苦しんでいたなんて、 (もう……駄目だ。このままでは、壊れてしまう) (あいつを妬む心で、書を愛する心まで、消えてしまう) こんなにも、祇十への羨望で凝り固まり、妬みを募らせていたなんて、知らなかった。 「ああ、そうか」 苦渋を滲ませながら語り続ける果実を見下ろして、祇十はつぶやく。 当時、祇十は嫉妬が原因と思われる嫌がらせを頻繁に受けていた。 誹謗中傷は当たり前、道具を壊されたり夜道で襲われそうになったりするのも日常茶飯事だった。 幸いにも祇十は、書道師としての実力の側面、要するに戦いに関わるもろもろにも長けていたから、無粋なごろつきどもを蹴散らすのに何の不便もなかったが、今にして思えば、 「……そうやってずんずん行っちまう俺が妬ましくて、鬱陶しくて、苦しくて、どうしようもなかったのか」 他者の悪意など意にも介さず、ただ自分の道を突き進む祇十への妬みはいかばかりのものだっただろうか。己は次期当主という重い責務を負いながら、それに見合う実力を持たぬ身としては、尚更。 祇十はそれで、ようやく、ことの真相が見えた気がした。 祇十が家を負われたのは、彼の書がなにものかに盗まれ、その書を手にしたならず者が将軍家お膝元の町で事件を起こし、捕らえられたならず者が、玄葉祇十朗と名乗る男からこの書をもらったのだと証言したからだ。 弁明も許されぬまま追放が決まり、祇十自身玄葉という家そのものには執着もなかったので従ったが、要するに、あの一連の事件の黒幕が幸之助だったということなのだろう。 (許してくれ、祇十朗。だが……もう、私には、これしか) (こうするしか、ない……おまえを裏切って、我が身を護るしか) (それでも私は玄葉の跡継ぎでいたいのだ。この程度の腕で、と嗤え……だが、私にも、護りたいものがあるのだ) 許してくれ、と啜り泣くように呟いて、果実が閉じられたあとも、祇十はあかいそれを握り締め、黙り込んでいた。 「俺ぁ……」 ――そんなつもりではなかった。 幸之助を嗤うなどと、あるはずもなかった。 ただ祇十は書が好きで、書を愛する幸之助が好きで、それ以外のことはどうでもよかっただけなのだ。 そんな祇十の真っ直ぐさ、自由さ、奔放さが、家という重いものに縛り付けられた幸之助を傷つけ、あんなにも追い詰めていただなんて、かけらほども気づかなかったのだ。 今更ながらに、その罪を思い知る。 無知、無邪気という名の罪を。 「ちくしょう」 ぎしり、と奥歯を噛み締めて、祇十は携帯している筆の両端を握り締めた。 「こいつが、なけりゃ」 おそらく幸之助は今も苦しんでいるだろう。 生来、真面目で穏やかな青年だ、追い詰められてなしたこととはいえ、自分の仕打ちがいかに理不尽で身勝手なことだったかを自分自身に突きつけられ、誰よりも己に責められているだろう。 その原因となったのが、祇十でありこの筆なのだ。 「こんなもの……!」 低い呼気とともに筆を折ろうとした祇十だったが、その手は半ばで止まる。 みしり、という筆の音が悲鳴のように聞こえて、自然と止まっていた。 ――出来るはずがないのだ、と、本当は判っている。 祇十にとっては書くことが生きることだった。 書かない祇十など、生きてはいないのだ。 「ちくしょう……」 祇十の、書への情熱が、幸之助を狂わせ、歪ませた。 だとしても、書への情熱を捨てるということは、祇十にとって己を捨てることに他ならないのだった。 「……許してくれ、は、俺だ、幸之助」 心底自覚した。 書くことより大切なものなど、自分にはないのだと。 書くことでしか、自分は生きられないのだと。 そして、今この時、他の何を犠牲にしてでも、書道師の道を極めるためならば厭わないと、その自分を修羅と呼ぶことすら受け入れようと、腹の底で覚悟を決める。 「おめぇを踏み躙っても、俺ぁ書の道を極める。――もう、決めた」 だから、自分に許しを請う必要はないのだと、うっそりと仄暗く微笑んで、祇十は掌の果実を握り締めたのだった。
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