それはコロッセオにて壮絶な『喧嘩』をしてから数日後の事だった。 ポケットに手を入れたリエ・フーは特に行くあてがあったわけでもなく、ただターミナルをそぞろ歩きしていた。 フードの下からチラッと見える青い髪――グレイズ・トッドも特に行くあてもなくターミナル内を歩いていた。見るものすべてに嫌悪感を抱いた様な、今にも吠え出しそうな野良犬のような瞳で。 道の向こうから来る互いには、かなり離れた距離から気がついていた。顔を合わせるのが嫌なら、横道にそれるなり何なりしようがあったはずだ。だが、ふたりともの矜持がそれを許さない。 お互い睨み据えるようにして段々と距離が近づいていくのを黙って受けいれている。いや、距離が近づくのが嫌なら相手が避ければいい、そんな感覚だ。 リエはいつでも因縁付けられるように身構えていた。 一歩一歩、彼我の距離が近づく。 間もなく睨み合うのに適した距離だ、リエがそう感じたその時。 スッ……。 グレイズはまるでリエを見なかったように横を素通りしようとしたのだ。これにはリエも虚をつかれるとともにカッと怒りが募って。 「オイコラ、シカトしてんじゃねーよ!」 振り返り、グレイズの肩をぐいっと引っ張る。強制的に振り返らされたグレイズは、面倒くさそうにしながらもリエを睨んだ。 「あぁ? なんだてめえか。モブっぷり半端無くて気づかなかったぜ」 「んだと? ちょっとツラ貸せ」 「あ? 俺はてめえほど暇じゃねえんだ」 グレイズは掴まれた腕を振ってリエの手を振り払う。しかしリエは諦めなかった。 「いいからツラ貸せってーんだ」 親指で後方を示され、グレイズはチッと舌打ちして半身だけ向き直る。不承不承ではあるが、それが承諾の合図。その合図を察知したリエは、やや満足げに彼を先導して歩く。 特に会話は生まれない。互いの足音がまるで鼓動のようにトクトクと、トクトクとリズムを刻んでいた。 *-*-* 辿り着いたのは古びた喫茶店。いや、バーと呼んでもいいような暗い雰囲気の店。 店主は常連のリエが訪れたことを軽く顔を上げて確認した後は、再びコーヒーミルをいじり始めた。 リエは勝手を知っているとばかりに奥のテーブルへと進み、古びているがそれが味となっている木製の椅子へと腰を下ろす。顎でグレイズにも座るように示すと、彼は抵抗せずに向かいに腰を下ろした。 年嵩のウエイトレスが無表情のまま寄ってきて、コップに入った水を置く。「注文は?」聞かれてリエは「ランチ二つ」と答えた。 「ここ、店はこんな暗くて入りづれえが、メシはうまいんだぜ」 「ふん……」 リエの説明にグレイズは鼻を鳴らして応えた。昼時だというのに薄暗い店内にはリエとグレイズ以外に客はおらず、店主が暇そうにしているのも当然のように思える。 程なくしてウエイトレスが運んできたのは、サラダとコンソメスープにランチプレート。ランチプレートにはピラフとエビフライが二本。そして小さなオムレツが添えられていた。これが今日のランチメニューのようだ。 「今日は洋食か。和食の時も中華の時もあるんだぜ」 常連らしく呟いて、リエは小皿に盛られたタルタルソースをエビフライに掛ける。ケチャップの小瓶を振ってオムレツに掛け、グレイズへと手渡した。 「ほら、掛けるだろ?」 「……ああ」 グレイズも倣うようにタルタルソースとケチャップを掛ける。掛け終わる頃には既にリエはフォークでエビフライをつついていた。グレイズもフォークを手に取り、オムレツに刺してそのまま持ち上げる。端からがぶり、かぶりついた。 「……」 「……」 黙々と、料理を咀嚼していく音だけが二人の周りに響き渡る。店内には音量を絞って音楽が流れていたが、音量が絞られすぎていて何の曲か判別はつかなかった。 食事中に会話を挟むことがなかったからか、それとも急いで食べる習慣がついていたからか、数分後にはスープの最後の一滴までも飲み干して、エビフライの尻尾までもきっちり平らげて、食器は全て空になっていた。 「腹いっぱいになったか?」 「まあな」 「じゃあ、腹ごなしにやってみねぇか?」 リエが親指を立ててくいっと指し示したのは、店の最奥にあるコーナー。立ち飲み用のテーブルの向こうの壁には、ダーツボードが据え付けられている。 「こんな洒落た遊び、したことねぇ」 「これをできるだけ的の真ん中に当てればいい、ルールは簡単だぜ」 リエは矢を手に持ち、ダーツボードを真剣に見つめる。そして手首のスナップを効かせて矢を放った。 ――シュンッ! 風を、バックグラウンドミュージックを切るようにして飛んだ矢は、真ん中からは逸れてしまった。ちっ、と舌打ちし、リエはグレイズを向き直る。 「まあこんな感じだ」 「思ったより簡単そうだな」 「いきがってられるのも今のうちだ。案外難しいんだぜ?」 軽口を叩きつつ、今度はグレイズが矢を手にして立つ。集中――そして投擲! 「ちょろいもんだぜ」 運か実力か、いや、運も実力のうちか、グレイズの放った矢はさきほどリエが放った矢よりも高得点の位置に突き刺さっていた。 「ビギナーズラックってやつだ。初めてのやつに負けてたまるか」 代わってリエが矢を放つ。矢は中心から最も外れた位置に刺さった。グレイズが口元を歪める。だがリエは意気揚々として彼を振り返った。 「ダブルリングだ」 ダブルリング――得点が二倍となる位置にリエの矢は刺さったのである。 「はぁ? なんだそれ。聞いてねぇぞ」 「今説明したじゃねぇか!」 得点が二倍になるダブルリング、三倍になるトリプルリングの説明を受け、リエに掴みかからんばかりのグレイズ。中心に近い位置であればあるほどいいと思っていたが、それだけではなかったらしい。ダーツは細かなルールがあり、場所によってもルールの違いが存在していて奥が深い。 今回二人はただ単に得点を競っているだけだったが、勝負というと互いに負けられないという気が起こるもので。舌打ちや罵声が飛び交うものの、傷つけあう戦いではないのが先日のコロッセオとは違っていた。今の二人を傍から見ている店主やウエイトレスには、二人は普通の友人同士に見えたかもしれない。 「くそっ、負けた!」 「今日始めたばかりの奴に負ける程度の腕じゃ無いぜ」 ダーツを終えて、不機嫌そうに椅子にどかっと座り直すグレイズ。リエは余裕の笑顔で向かいに座って。するとウエイトレスが先ほど運んできそびれた食後のコーヒーと新しい水を運んできてくれたから、互いにその水を飲み干して喉を潤す。 「チッ……」 コロッセオでの戦いのことを思い出したのだろう、あの時はグレイズのほうが先に動けなくなってしまった。 「……また負けか。だせぇ」 舌打ちの後、自嘲するような呟き。いつでも相手になってやるよ、リエはふっと口の端を釣り上げて笑い、そしてふと思い出す。 「あのハーモニカは何だ。随分大事にしてたみてえだが……」 思い出したのはグレイズがいつも持っている銀色のハーモニカ。 「知らねえよ。物心ついた頃から持ってんだ」 ぞんざいに答えたグレイズは、思い出す。葬送曲しか知らない自分が、元の世界での大切な仲間達のために旋律を編み上げたことを。仲間達を送る大切な葬送曲を奏でてきた相棒、銀色のハーモニカ。物心ついた時からずっと傍にあった、ソレ。 ストリートチルドレンに『拾われた』時からずっと持っていたハーモニカは、グレイズが他を知らない故に葬送曲専用だ。ぽつりぽつり、由来を語る。普段なら簡単に語って聞かせたりはしないが、なぜだかこいつだけは教えてもいい、そんな気がした。 「俺の鈴と勾玉みてえなもんか」 「鈴?」 「親の形見さ」 グレイズの語りを静かに聞いていたリエは、自分の首から下げた勾玉と、セクタンの尻尾につけた鈴を見せて。母親の形見だ、と語って聞かせる。 「オレの母親は娼婦だったんだ。父親については色々と噂はあったが、わからないままだ」 母譲りの美貌とその手管で男娼の道を歩んでいたこと、この性格が元でトラブルが絶えず、娼館を飛び出したこと。 「その後はまあ、愚連隊っつー仲間達と一緒にすりやかっぱらいをして暮らしてたんだけどな」 「自分で道を選べただけマシじゃねぇか」 俺は選択肢すらなかった――グレイズは語る。気がついたら親はなく、毎日が生きるか死ぬかの戦いだった。稼ぎは大人たちに搾取され、稼げなければ、反抗すれば見せしめに殺される。毎日が生きるか死ぬかの繰り返し。 決してふたりとも自身の不幸を自慢したいわけではない。ただ語ることで何かを見つけたい、そんな様子が感じられた。 「もう少し、他人を信用することは……できるはずねぇか」 「愚問だ」 リエの言葉にグレイズは吐き捨てて、水のなくなったコップの中から氷を口に含んでガリガリと噛み砕いた。 グレイズは出身世界で最底辺の生活を送っていた。人に良いように扱われ、モノの様に捨てられていく者達を何人も見てきた。 とりわけグレイズの心に影を落としているのは、最後までグレイズを救おうとした、最後まで人を信用し続けようとしたお人好しを焼き殺されたこと。魔法を使えるにもかかわらず、仲間を一人も救えなかったこと。 「もう誰かと群れるつもりはねぇ」 「そうか」 仲間を大切にする気持ちはリエにも痛いほど分かる。彼にも大切な仲間達がいた。共に生きるために戦い、官憲から逃げ続け、時にはその日の収穫に笑いながら喜び合う。最後はバラバラになってしまったけれど、今でも思い出す大切な仲間だ。 「俺は復讐する」 言葉は短いが、低く告げたグレイズの瞳はギラギラと光っていて、飢えた獣のようだ。 元の世界に戻ったら、仲間達を搾取し、挙句に殺した奴ら全員へ復讐する、グレイズは語る。復讐が全てだと。 「復讐を遂げた後はどうするんだ?」 「すべてが終わってから考える」 「……復讐しても仲間達は帰ってこないぜ?」 リエは多くの仲間達に先立たれた。自身はロストナンバーとして生き残るも、仲間達はその行方が知れぬ者達ばかりだ。多くは死んだのだろう。 覚醒した当初こそは、恨みも抱いていたかもしれない。けれどもこれまで過ごしてきた歳月が、リエにその死を受け入れさせた。 グレイズは未だに仲間の死を受け入れられないのか。いや、あえて受け入れないようにしているのか。受け入れたら、グレイズをかたちどっているものは消えてしまうのかもしれない。けれども、リエは復讐一色に染まる彼をなんとなく放っておけないでいた。自分と似ているからよけいに、だろう。 「……」 「てめえ自身の身も危ないかもしれねぇ」 「んなことてめえに関係ねーだろうがっ!!」 ガタンッ! 椅子を蹴るようにして立ち上がったグレイズは、咄嗟に向かいに座るリエの胸ぐらを掴む。 「恨まれる覚悟も死ぬ覚悟も、とうにできてるぜ!」 そのまま空いている手で拳を作り、リエに振り下ろそうとするグレイズ。だがリエは、自分が殴られようとしているのに微動だにせず、じっとその金色の瞳をグレイズへと向けていた。真っ直ぐな瞳。金の視線と金の視線が絡み合う。 「っ……チッ」 舌打ちをして、グレイズは拳を下ろした。同時に掴んでいたリエの胸倉を離す。そのままくるりと背を向けたグレイズは「依頼を思い出した」と短く告げた後、再び舌打ちをして。 「……やっぱりてめえは気に喰わねえ。いつかリベンジしてやる」 「楽しみにしてるぜ、喧嘩でもダーツでも受けて立ってやる」 フードを被った背中に声を掛けたリエは、ニヤリと笑んで。そのまま店を出て行く背中を見ていた。 この時はまだ、いつか「その時」が来ると信じて疑っていなかった。また全力で喧嘩をして、こうして差し向かいで飯を食って、ダーツで勝負をして。普通の友達のように過ごせる時間があるかもしれない、僅かながらそんな風に思ったのであった。 「……あ。あいつ……」 テーブルに置かれたままの伝票を見て、リエは顔をしかめた。グレイズは昼飯代を置いて行かなかったのだ。 「まー今日のところはツケにしてやるか。後で十倍にして返してもらうぜ」 チリリン……セクタンの楊貴妃が尻尾を揺らすと、鈴が笑うように音を立てた。 それは、グレイズがナラゴニアへ出向く前日の出来事だった。 *-*-* 「……」 リエは世界図書館の建物を出て、深く息を吐いた。いまさっき耳にした噂が、頭の中を占めている。 先日グレイズがナラゴニアへと向かったことはリエも知っていた。だが……そのグレイズがナラゴニアヘ残留したというのだ。となればそう簡単には帰ってこれぬだろう。しかも自分の意思でというならば、もしかして帰ってくる気すらないのかもしれない。 「……」 リエとしては心中複雑であった。うまく言葉にできぬ思いが心の中を渦巻き、思考を支配する。自分がどうしたいのか、どうしたら良いのかすら一時的にわからなくなっていた。 抱いている気持ちを持て余している、そんな表現がふさわしいだろうか。 ふと空を、見上げる。 特殊な場合を除き、変わらない0世界の空は今日もあの日と同じ色をしていた。 「……あの馬鹿野郎」 ぽつり、呟く。 約束、破りやがって――。 さわさわと風がリエのつぶやきを拾った。そして空高く運んでいく。 つぶやきはナラゴニアへと届くだろうか。 【了】
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