しとしと、しとしと。 傘があればそう不愉快でもない、風のない夜の雨だった。 お気に入りの香油を使いきって、新しいのを買った帰り道。 前の男が置いたままにしていった蝙蝠傘を、捨てるつもりでくれてやっただけ。 ちょいと野良猫を構ったつもりが、とんだ虎を拾ってしまった。 今でも、覚えている。 忘れられるわけがない。 __傘を…… __傘を返さなくてはと、それだけ考えて此処に来た __これは貴女のものだ。ご婦人を雨ざらしにするわけにはゆかぬから 虎というのは、あんなに義理堅い生き物だっただろうかね。 ◆ 魔都、上海。 お天道さまの光を嫌って、月の顔も拝めぬような暗がりを好み屯す連中というのは全く何処にでもいる。それでも何がしかの光がなければ人は生きてゆけない、そうして出来上がったのが、この扇情的な赤色と朱色、黄金色に彩られた花街だ。 赤い門灯は男の色欲をつついて囚え、その奥で待つ女のはだけた胸元は月の光のように白く艶かしく。夜ごといくつもの、愛に似せた何かが泡のように生まれては消えるこの街は、市井の者たちが知らずと目を背けこっそりと捨ててゆく、澱のようなものを糧に蠢くところ。 足繁く通う男たちは家で待つ妻に女を見ず、夫の、そして父の顔をしながら稼いだきれいな金をこの街の女たちに払う。男は女を組み敷くように抱いているように見えるが、ほんとうは女に跪き許しを乞うているのだ。 それは禊や憑き物落としともいえるかもしれない、善良な市民という薄っぺらな皮を被って日々を生きる男たちの鬱憤や下卑た欲望、あたたかい家庭に持ち込めないものの全てを、白く濁った、子種とはすこし違う何かに全部含ませ排泄するという行為は。女たちは相応の金銭と引き換えにそれを心の底からいとおしそうに受け止め、心を撫でてやり、男たちに一夜の夢を見せる。 それは誰もが一度は禁じられたことのあるだろう、決して身体に良くはない駄菓子のように甘く、毒々しく、ひとの心を捕らえ、離さない。今宵もまた、扇情的な灯りが脆い男を引き寄せるのだ。 そんな街に長らく、女王のように君臨するひとりの女が居た。字名は楊貴妃、誰がそう呼び始めたのかは分からない。ただ言えるのは、彼女はおそらくこの街の誰から見ても、楊貴妃と呼ばれるに足る女であったということ。 彼女に焦がれ、僅かでも他の客より歓心を買おうと踊る男たち。 どうせ苦界に入るならとせめて彼女に憧れた若い娼婦。 そして彼女が気まぐれに産み落とした若い虎の子。 虎の母は如何にして生き、そして死んでいったのか。 彼女のほんとうの名など必要としない、この街で。 ◆ 「ねェ、あんた。今日はさ、ちょっと変わった趣向があるんだ」 「へえ。楊貴妃、おまえが言うのならさぞかしとびっきりの趣向なんだろう」 雨の夜は客足も鈍る。 それを逆手にとってだろうか、雨の夜は何故だか楊貴妃が変わったやり口で客を誘うという噂があった。 「そうだねえ……リエ! そこに座りな、早く!」 楊貴妃がパンと手を鳴らせば、その子供は従順にやってくる。 ちょうど五つになったばかりの楊貴妃の息子、虎鋭……のちのリエ・フーである。 「おいおい、子供じゃあないか。そんなところに座らせて、何を見せようってんだ」 「何をって、これからやること成すこと全部だよ。こういうのはお嫌いかい?」 男の腰を引き寄せて、耳元に茘枝の吐息を混ぜた甘美な囁きを。この男は楊貴妃をするようになって日が浅い、今はただ彼女を相手に出来ることに舞い上がっているのが手に取るように分かる。 「いや……この間とは違う顔を見せてくれるのだろう? 首を横に振る理由がない」 「物分かりのいい男は好きよ、あんたのようにね」 男の手が、楊貴妃の旗袍のスリットに乱暴にねじ込まれる。あらわになった腿から尻を撫で上げ、男の息遣いが段々と早く、猛々しく変わる。目を細めながらそれを受け入れる楊貴妃。 その様子を、虎鋭はじっと、大窓に背を向けてただじっと、母の言いつけ通りに目を逸らさず見つめていた。 ◆ 「楊貴妃、稼ぎ頭のあんたにこんなこと言いたかぁないけどさ」 「何よ、言いたくないんなら黙ってな」 さっきの客が満足気に帰った後、ひとりで同じ部屋を出てきた虎鋭を見咎めてか、楊貴妃よりかは少し年嵩の娼婦が眉をひそめて苦言を呈する。 「どうせ聞きゃあしないんだから言わせてもらうよ、あんたあの子を何だと思ってんだい」 「あの子? ……ああ」 この娼館で『子』といえば虎鋭しかいない。楊貴妃は全く興味が無いといった素振りで盃を乾し、手酌でまたそれを満たす。 「あんた母親じゃないか、人並みにとは言わないがもうちょっと優しく出来ないのかね」 「……」 この年嵩の娼婦は何くれとなく楊貴妃を気にかけ、時には説教めいたことを言うこともしばしばであった。気性激しく気位の高い楊貴妃はそれを嫌うかと思いきや不思議と馬が合うらしく、こうして酒の上で大母や客にはしない話を呟くことが稀にある。 「…………どうせ、ずっとは居ないんだよ」 ぽつり漏らした言葉は、楊貴妃の口から出たそれとは思えぬ、寂しさと諦めの色濃いもので。 「産んじまったら他人だよ、あの人と一緒さ」 捨てるつもりでくれてやった傘を律儀に返して、楊貴妃の人生に何一つ借りを残さず、いずれ飛び出して行ってしまう虎の子を代わりに残していった人。 その日、楊貴妃の盃はいつまで経っても乾かなかった。 どれだけ酔っても、見たい幻は見られなかったのだろう。 ◆ 「リエ、手伝っておくれ。また潰れちまった」 「……オレが運んどく、戻っていいぜ」 「ああ、悪いね。宵の客は引きが悪くって困るよ」 意識を手放した人の体は重い。虎鋭はそれを、十の頃にはもう知っていた。 酔いつぶれた母の肩を支え寝台に運び、旗袍の釦を外し緩めてやり、枕元の小さな卓に水差しと茶碗を置く。そうしたら次は戸締りをし、寝台の隣に小さな椅子を持ってきて、母が寝付くまでそこに座っている。そこまでが虎鋭の日課であることを、楊貴妃は呆れと懐かしさと寂しさ、それからほんの少しの、見捨てられていないことへの嬉しさを含めた苦笑と共に眺める日々。母子とはとても呼べないけれど確かに母子であるふたりの、ふたりだけの時間であった。 「毎晩毎晩、殊勝だねえ……金なんか出ないってのに」 「皆言ってるぜ、楊貴妃の乳をいっとう吸ってイイ思いしてんのは結局オレだってよ」 その分くらいは働くさと、虎鋭は楊貴妃の目を見ずにつるりと言葉にしてみせる。その言葉が本心かどうかは誰も知らない、母にも子自身にも。それでもそんな虎鋭の所作は、どうしても楊貴妃の思い出をつついてちくりと痛ませる。 「……嫌んなっちゃう、本当、あの人そっくり」 「うるせぇな、さっさと寝ろ」 __産んじまったら他人だよ どうせ何処かへ行ってしまうのなら、最初から期待などしない。 今まで心を尽くし身体を開いてきたどの男たちもそうだった。 だからきっとこの子も同じ。 このまま目が覚めて、この部屋から、この街から消えてしまってもいい。 だって愛していないから。 そんな他人が、それでも今は隣に居てくれた。 ひとを絡めとりするりと懐に入り込む猫のような瞳に、虎を思わせる貴く鋭い光を宿した、誰でもない楊貴妃だけの他人が。 ◆ どのような育ち方をしても、子は結局母をどこかで慕ってしまうものなのだろうか。 「今日からオレも此処で客を取る。精々お株を奪われねぇようにしろよ」 「……へえ」 __嗚呼 「流石、あたしの子ね」 楊貴妃が、何もかも見通したような笑顔を崩さずに言えるのは、それが精一杯だったと、誰が気づけただろうか。 くしゃりと、癖っ毛を解きほぐすように虎鋭の頭を撫でる楊貴妃。既に衣装も調えられ、湯も浴びて身綺麗にした虎鋭の髪はもう、部屋で気まぐれに撫でるときのようにもつれてはいなかった。 __本当、そっくり たとえ性別が違っていたって、苦界の毒は等しく心と体を病ませるもの。 それを知らない楊貴妃ではなかったけれど。 かけてやる言葉など、失い続けてとうに舌は乾ききっていた。 それならば、このままでいい。 だって、愛していないから。 ◆ そうして、かつての母子が娼婦と男娼の間柄になってから、少し。 ふたりがもう一度母子に戻るのに、そう時間はかからなかった。 「虎……鋭」 糸の切れた幕はあっけなく落ちる。 引いたのは、きっと楊貴妃が今まで相手にもしてこなかったであろう頭の悪い、金払いがいいだけの男。 白い毛足の絨毯が楊貴妃の血で赤く、徐々に黒く染まる。 長年の酒が祟って肝をやられていたのか、ひどい匂いとどす黒い色は三十を少し越えただけの女のものとはとても思えない。 「綺麗なのは上っ面だけか……馬鹿な女だ」 最早光の宿っていない瞳はこの街で楊貴妃と呼ばれるべき女のそれではなく、手の届かないところに行ってしまった男を追いかけたがる、哀れな片恋を最期まで捨てられなかった女のもの。 追いかけられる人生だった。 男にも、息子にも。 でもこれでやっと、誰に憚ることなくあの人を追っていける。 それを悟った楊貴妃の顔は、静かで、どこか安堵したような色を持っていた。 虎のように、孤高に。 己の身体のみを誇りとして。 そうして生ききった女が、確かに此処に居た。 虎の母もまた、虎であった。
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