オープニング

 ぬるりと、人肌の風が絡みつく。春の夜風はまさに人肌だ。奇妙に生ぬるく、湿っている。
 姥(うば)は手で土を掘っていた。爪が剥がれ、皮が破れて肉が飛び出すのにも構わずに。
「ああ……」
 歓喜の吐息――そう、それは情事に耽る女の喘ぎに似ていた――が漏れた瞬間、潤んだ月光が降り注ぎ、姥の顔を露わにした。
 結い上げた髪がぞろりとほつれ、土埃と涙にまみれた頬にかかり、倒錯した色香を匂い立たせている。
 姥はとろけるような笑みを浮かべ、掘りあてた“それ”をひしと抱擁した。
「清之介。清之介。母にございますえ。ああ……わたしの清之介……」
 それは凄惨な光景であった。腐臭と粘液を滴らせる“それ”に頬ずりし、口づける姥の横顔は慈母そのものであったのだ。


「壱番世界にファージ型落とし子が現れた」
 シド・ビスタークは壱番世界行きのチケットを示しながら皆に告げた。
「場所はとある田舎町の川沿いだ。そこに生える桜の巨木にファージが寄生している。ああ、ファージが寄生するのは“生物”だ。動物だけとは限らん。所で……今の季節、壱番世界の日本では花見という年中行事があるそうだな? 桜の下で飲んで歌って踊って騒ぐと聞いたが、楽しそうな催しじゃないか」
 旅人達は黙っていた。シドは花見を少し誤解しているようだが、当たらずとも遠からずといったところだ。
「ファージは桜を肥大させ、幹の中に巨大な洞(うろ)を作り出している。入口は狭いが、中は広い。大人が数人入れそうな大きな洞穴のようなものだ。近付く者は枝に巻き付かれ、洞の中に呑み込まれてしまうが、幸い被害者はまだ出ていない。地元の人間もあまり通らないような寂れた場所だからな、今から向かえば被害者が出る前に片付けられるだろう。ただ――」
 シドは意味深に眉を寄せ、わずかに逡巡を見せた。
「ファージと関係があるかどうかは分からないが、ずっと昔……何だ、チョンマゲ? サムライ? そういったものが生存していた時代は、その川辺は人捨て場と呼ばれる場所だったらしい」
 かつて、刎首の刑に処せられた罪人の骸が埋められていたそうだ。そんな場所に桜が根を張るようになったのはいつ頃からなのか、誰も知らないという。
「三途の川というものがあるんだったか。水辺には死者が集まるのかも知れんな。川はこの世とあの世を隔てる境界というわけだ。……と、日本出身のコンダクターが言っていた」
 シドは軽く肩を揺すって導きの書を閉じた。
「変異した生物を元に戻す方法は見つかっていない。ファージごと桜を伐り倒すしかないだろう。……少し残念な気もするがな」


 旅人達は小さく息を呑んだ。
 闇の中、その桜は奇妙に白っぽく浮かび上がっている。念には念をと、往来が絶える深夜を選んでやって来たのだが――これは、まさしくファージだ。
 なぜなら、視界を埋める桜は現実離れして大きく、美しい。宵闇に舞う雪のような、しかし雪よりも脆い欠片。枝をしならせ、こぼれんばかりに咲き誇る花。あるかなしかの、しかしひどく蠱惑的な香り。
 ざわざわと。さらさらと。花と共に渡る風は人の心を妖しく愛撫する。感情が浮足立ち、落ち着かない。どうしてこんなにも胸がざわめくのだろう?
 桜の姿は妊婦のようであった。幹の中ほどばかりが不気味に膨れ上がり、その中央に大きな洞が口を開けているのだ。それは命を産むクレバスのようにも見えた。洞の入り口はぬるりと濡れて、充血しているかのように赤みを帯びている。
「見ろ」
 ロストナンバーの一人が小さく声を上げた。
 びきびき、ぎちぎちと音を立てながら幹がよじれる。それは桜の悲鳴のようにも聞こえた。あるいは、抗い難い歓喜に耐えながら身を震わせる女のようでもあった。
 やがて幹の中央に姥の顔が浮かび上がる。
 髪は乱れ、頬はこけ、夜叉の如き壮絶な形相であるのに――彼女は、なぜか穏やかな笑みを浮かべている。
 シドによれば、幕末の頃、非業の死を遂げた藩士がいたという。敵と味方、優と劣がめまぐるしく入れ替わっていた時代、選択を間違えて処刑された者も少なくない。件の藩士も激動の波に呑み込まれた一人であった。それだけならさして珍しい話でもないが、何でも、処刑された藩士の首を彼の母が奪還しに来たそうなのだ。その後母と首がどうなったのかはシドも知らなかった。
 桜の下には死体が埋まっているという。魂を吸い上げるから妖しく美しく咲くのだと。
 ならば、この場所には――。

品目シナリオ 管理番号422
クリエイター宮本ぽち(wysf1295)
クリエイターコメントこんばんは。ひたすら脇道を行く宮本ぽちです。
桜に寄生したファージを倒してください。
とはいえ、純戦シナリオではありません。戦闘はオマケ程度の扱いです。
情景描写やちょっと不思議な雰囲気をメインにお届けしたいと思います。

洞に呑み込まれてしまうとイヤンな目に遭うかも知れません。
しかし、あえて洞に入り込んで内部から撃破するのもアリだと思います。トラベルギアをお持ちの皆さんなら重傷を負うことはないでしょう。入ってみたい方はどうぞ。
洞の中がどういった空間になっているか、ヒントも示したつもりです。

最後にひとつ。これはあくまで『ファージ型落とし子』です。
戦って倒すしかない存在です。その点、ご留意ください。

それでは、老いた桜の元へと参りましょう。

参加者
黄燐(cwxm2613)ツーリスト 女 8歳 中央都守護の天人(五行長の一人、黄燐)
エレニア・アンデルセン(chmr3870)ツーリスト 女 22歳 伝言師(メッセンジャー)
李 飛龍(cyar6654)コンダクター 男 27歳 俳優兼格闘家
セルヒ・フィルテイラー(cwzt1957)ツーリスト 女 31歳 教師
荷見 鷸(casu4681)コンダクター 男 64歳 無職

ノベル

 風がうなじを舐めていく。だからというわけでもあるまいが、李飛龍(リ フェイロン)は居心地が悪そうに襟足を掻いた。
「花見……か。しかし、気持ち悪いことになってやがる」
 倒すしかないなと呟く飛龍の姿は壱番世界出身の人間に既視感を与えたかもしれない。黒髪にジャージ、スリムながらも引き締まった体。まさにカンフー映画のスターそのものだ。事実、彼は香港で映画を撮りながら格闘家としての鍛錬を積んでいる。
 飛龍の視線の先、幹に浮かんだ姥は無言のままだ。木なのだから当然である。それなのに――彼女の表情は、今にも吐息をこぼしそうなほど生々しい。
「川が此岸と彼岸を分けるという考え方は、あたしの所と一緒ね。桜があるのも一緒。花見は梅・桜・桃でやってたのだけれど、そこも一緒なのかしら」
 ぽっくりをぽくぽくと鳴らし、黄燐(オウリン)はゆっくりと川辺に歩み寄った。川面を渡る風が蒲公英(たんぽぽ)色の髪の毛を揺らして行く。口調は大人びているが、体格は少女、いや幼女と言っても良い。顔を覆う布の下、表情がかすかに緩んだ。
「……夜桜もいいものね」
 元居た世界と同じで、妖しくも惹かれる。いや、妖しいからこそ惹かれるのだろうか。
 しかし黄燐の顔はすぐに引き締まった。いくら美しかろうとこの桜はファージに寄生されている。ならばこの弓で射抜き、この爪で切り落とすのみ。
 桜は答えない。桜は何も言わない。夜風にわななきながら花弁を降らせるだけだ。
 雪のように。あるいは、涙のように。


 荷見鷸(ニイミ シギ)は和弓一式と少量の工作道具、鏑矢を持参していた。しかしそれを開く様子はない。元来寡黙で無愛想な鷸だが、今宵の彼はいつにもまして無口だった。
 落とし子絡みの壱番世界の依頼は意識して受けるようにしている。この桜もどう転んでも倒す気でいる――が。
「何か?」
 無言のままの鷸にセルヒ・フィルテイラーが訝しげに問うた。鷸は「いや」とだけ答えた。しかし灰色の視線は桜から離れない。
 桜に関する話ならば幾つか知っている。門出を祝うより死が似合う花だと思うし、日本人の例に漏れず鷸も桜は好きだ。春に桜の下で死ぬなら悪くは無いと思う程度には。
 だが、暗く湿った土の中に永く意識を残すなら話は別だ。寄生された桜に姥が顔を表したのはそういうことなのだろうか。息子は何処にいるのか。埋まる死者は彼らだけなのか……。
(……早く退治しなくては)
 圧倒的な桜の前で、背筋がうっすらと寒くなる。
 肌が粟立つほどの感銘。そして、かすかな怖気。元が人捨て場ならば桜の怪談も肯ける。
 ――だが、この美しさは真に取り憑かれたせいのみであるのか?
 立ち尽くす鷸の傍らで、エレニア・アンデルセンもまた無言だった。彼女が携えるパペット、平素なら彼女に代わって雄弁に喋るウサギ型のそれはくたりとしたまま沈黙している。
 静かだ。あまりに静かだ。ほろほろと落ちる花弁の音すら聞こえてきそうなほどに。
「怖じたわけじゃないけれど」
 戦端を開いたのは黄燐だった。
 元居た世界での法則は木剋土。土行天人の長である黄燐は木とは相性が良くない。
「まずは後衛で試させてもらうわね」
 彼女の手の中、弓の弦がきりきりと張り詰め――そして。
 ぶわり、と花弁が爆ぜる。エレニアは顔の前に手をかざした。それほどまでに苛烈な花吹雪だった。鋭い風切音とともに黄燐の矢が飛ぶ。鷸も自らの弓を抜いたが、どういうわけかその手は動かない。
 花を散らしながら枝がうねる。しなやかで不規則な動きはまるで触手だ。黄燐とセルヒの援護を受けながら飛龍が飛び込む。彼のトラベルギアが九節鞭に変化し、枝を、花を打ち据えて行く。その度に花弁が舞い散る。それでも後から後から花は咲く。
 エレニアは黙っている。パペットを操ることすらなく、青い瞳をうっすらと濡らし、嵐のように散り往く花を見つめている。美しさもここまでくると妖しいと思わざるを得ない。これほどまでに美しいものを前にすれば、言葉を吐くことすら戸惑ってしまう。
 ああ――パペットを通した声など、無粋だ。
 九節鞭が唸りを上げる。花吹雪の中で飛龍が舞う。鍛えられた肉体がしなる度に花が散り、咲く。それはまさに映画のスチルのよう。
(そうね、子供は愛しいものね)
 チョークを弾丸のように投擲しながらセルヒは姥の顔を見つめていた。教職にあったセルヒも子供と関わるのが仕事だった。もっともセルヒの場合は他人の子供で、かつ実力行使――例えば居眠りをする生徒目がけてチョークを投げるような――の毎日だったが、それも愛の形だ。
 ツーリストであるセルヒは幕末の時代背景や桜と死体の関係については全く知らない。だが、どこの世界でも“母は強し”は共通しているらしいということは分かる。見るがいい、姥の顔は慈母そのものであるのに、振るわれる腕はこんなにも執拗で強靭だ。
(それにしても……母親はどうなったのかしら)
 息子の亡骸を探し出したとして、無事に帰れたのだろうか。シドの説明から察するに、藩士は正式な埋葬が許されなかったのだろう。そんな遺体を運んだ母親は罪に問われなかったのだろうか?
 しかしすべては推論だ。推論は推論のままでは意味をなさない。よって。
「ねえ。私はあの中に入るわ」
 緑色の瞳に好奇心を煌めかせて宣言した。中に入れば答えの欠片くらいは見つかるかも知れない。エレニアもこっくりと肯いた。この国の人間はこの花が好きだと聞く。そんなそれがここまで妖艶ならば魅せられない筈がない。早めに消してしまわねばならぬ。
「うぁっちゃあぁ!」
 雄叫びを上げる飛龍が活路を開く。援護のように黄燐の矢が飛ぶ。セルヒは背後にエレニアを庇い、トラベルギアであるチョークを次々と放ちながら一気に走り込んだ、つもりだった。
「………………!」
 刹那、エレニアが息を呑む。セルヒもはたと足を止めた。
 はらはらと。ひらひらと。
 舞い散る花が屏風を作る。その狭間から、ぼうやりとした人影が見え隠れしている。
 亡霊――否。
 鷸だ。
(……どうして)
 セルヒの首筋が粟立った。後方で弓を手にしていた筈の鷸が、いつの間に前に回り込んだのだろう?
「下手に近付くな!」
 飛龍の警告が飛ぶ。しかし鷸は聞かない。花吹雪に紛れ込むようにしてゆっくりと幹に近付いて行く。まさか、桜の魔力にあてられたとでもいうのか。
 鷸目掛けて枝が伸びる。飛龍の九節鞭がそれを弾き飛ばす。しかし、桜は次から次へと腕を伸ばし――
「やだ……やめて! 逃げてよ、ねえ!」
 黄燐の声が甲高く響いた。予期せぬ出来事に、彼女は今や子供に戻ってしまっていた。
 それは美しく、ぞっとするような光景だった。
 四方から伸びた桜の枝が幾重にも巻き付き、鷸の体を高々と中空に吊り上げたのだ――まるで生贄か何かのように。
「ああ……」
 ちらちらと。くるくると。
 踊り狂う桜の中、艶かしく瞳を濡らした鷸は深々と息を吸い、吐いた。潤んだ花の香を味わうかのように。
「……酔ってしまった」
 独り言のように告げ、桜に身を委ねる。
 ぶわり、と再び花弁が爆ぜる。
 花の妖しさに呑まれた老人は、桜の抱擁を受けながら姥のクレバスに呑み込まれて行く……。
「行くわよ」
 エレニアの手を引き、セルヒも続いた。触手のように枝が迫る。しかしエレニアは拒まなかった。ひとたび身を任せれば枝は性急に、偏執的にエレニアを抱擁する。セルヒに対しても同じだ。
「嘘、やだ、やだよぉ!」
「大丈夫。大丈夫よ」
 パニックに陥りかけた黄燐にセルヒが叫んだ。
「中に入るって言ったでしょ。それにこの枝、ただ息苦しいだけで何ともないわ」
 セルヒとエレニアはあっという間に洞の中へと呑み込まれて行く。それでも尚足りぬのか、びちびちとくねる枝は飛龍へと狙いを定めた。
「ほぁっちゃあ!」
 気合の声とともに飛龍が跳ぶ。手近な枝に九節鞭を引っ掛けて体をひねった彼の脛すれすれを枝が走り抜ける。ぢっ、とジャージが裂け、脛にかすかな熱を感じた。
「……あ」
 黄燐はその場にぺたりと座り込んだ。残ったのは黄燐と飛龍だけだ。
 さらさらと。さわさわと。
 平然と流れ続ける川の向こう、そこにある筈の街並はやけに遠い。
 うつつの街とこの桜は、川という境界によって隔てられている。


 産みの苦しみ、と言う。比喩として用いられることが多いが、事実、出産は苦しいものだ。
 産む側はもちろんのこと、産まれる側にも苦痛が課せられる。赤子は狭く苦しい産道をくぐり抜けて外界へと落とされる。
 だが、成長した人間のほとんどがその苦しみを覚えていないという。


「何……これ」
 セルヒはその場に膝をつき、酸素を求めるように咳込んだ。結い上げた髪はほつれ、着衣も崩れている。そんなセルヒの姿は傍から見れば大層艶っぽいが、絶えずぴくぴくと動く尖り耳が彼女の動揺を代弁していた。
 洞の入口はひどく狭かった。そして、奇妙な弾力と熱と湿り気を帯びていた。そんな道を通り抜けて洞へと落とされた三人は一様に肩で息をし、髪も服も乱れていた。
 だが、問題は苦痛そのものではなかった。
 狭い道をくぐり抜けながら、誰も彼もが懐かしさに似た感覚に囚われていたのだ。
 ぽっと、しるべのように炎が浮かぶ。鷸のセクタンが灯した狐火だ。エレニアの姿もある。頭を振って立ち上がったセルヒの視界がようやく焦点を結んだ。
 ここは、どこだ。
 暗く、生ぬるい赤。その色はまるで血――あるいは臓腑。
 エレニアがパペットで頭上を指した。続いて、左右と足許を。そのしぐさを目で追った二人は、彼女が言わんとすることを遅れて理解した。
 それはごくごくわずかな脈動。否、胎動であろうか。血の色をした内壁が、絶えず緩慢に上下している。
 眉を顰めるセルヒの傍らで、エレニアはついと鷸の前に進み出た。彼女は自分の声を発さない。黒髪を揺らして大きく首を傾けたのち、パペットで鷸を指す。その後で腕を組み、首を反対側に傾げてみせる。今度は右耳の羽根飾りが揺れた。
「死ぬつもりはない」
 どこか大袈裟なジェスチャーの意味を理解して鷸は短く告げた。鷸の双眸は相変わらず潤んでいるが、声も足取りもしっかりしている。元より洞の中にうっすら興味があったのだ。エレニアは安心したようにこっくりと肯いた。
 ずぶりと、足が沈み込む。生ぬるい温度が踝に絡みつく。見れば、水のようなものが浅く張られているのだった。セルヒは目を眇めて周囲を検分した。
「植物の筈なのに……見た目も感触もまるで人の肉じゃないの。これもファージの力? 姥の体内、いえ、胎内ってところかしら」
 ならば、これはさしずめ羊水か。
「人捨て場の場面が再現されていると思ったんだけど、ハズレみたいね」 
「そうでもない」
 鷸は無愛想にセルヒに応じ、洞の奥を顎でしゃくった。
 何かが点々と、無造作に転がっている。目が慣れるまで、少し時間がかかった。
 それは死体だった。首のない胴体と、胴体から切り離された首がごろごろと転がっているのだった。
 一行の目の前で、胎動を繰り返す内壁がずぶずぶと骸を呑み込んで行く。耳を震わせながら、セルヒはかすかに眩暈を覚えた。件の母親が一度で息子を掘り当てたとは考えにくいし、もしかすると他の死体も転がっているのではないかとは思っていたが……。
「ありがとう。大丈夫よ」
 だが、そっと腕を支えてくれたエレニアに微笑みかける程度の余裕は残っていた。
「自分で望んで入ったんだもの」
 もし母親がこちらへ話しかけて来るようなことがあったら、話は聞く。しかし聞くだけだ。それに対する歴史的解釈や同情は後回しである。既にこの場所は正史から外れているのだから。
「倒すわ。――問答無用で」


 さらさらと。さわさわと。
 川面を渡る風が意識をクリアにしてくれる。あるかなしかの甘やかな香に意識を引きずられそうになりながらも、黄燐はようやく落ち着きを取り戻していた。
(洞の中って、母なる胎内って考えてもいいのかしら?)
 姥は答えない。二人の視線の先で、穏やかに、幸福そうにまどろんでいるのみだ。
 どういうわけか、あれほど執拗だった枝はすっかり大人しくなってしまっていた。夜風の中で静かにわなないているだけだ。飛龍は無言で腕を組んでいたが、その表情は苦い焦燥に染まっていた。今すぐにでも撃破したいところだが、内部に仲間がいる以上迂闊に手を出すべきではないだろう。かといっていつまでも放置すれば中の三人が危うくなるかも知れぬ。
 花は無言で散り続ける。それでも、ぼんぼりのように枝につく花弁は一向にその数を減らさない。それなのに、姥はどうしてこんなにも穏やかな顔をしているのだろう?
 息子の首を奪い返した母がこの下に眠っていると考えて良いのかも知れない。そう思ったら、黄燐の脳裏を母の顔がちらとよぎった。しかし、記憶に紗がかかっているかのように母の目鼻立ちは判然としない。
 母との思い出はあまりない。母は黄燐が幼い頃に亡くなった。
(それでも、母の歌は覚えてる。母に愛されたことも……)
 黄燐を腕に抱き、子守唄を歌ってくれた。その時の母はまさに慈母であった。だが、厳しい人でもあった。ひとたび怒れば苛烈な夜叉へと変じた。
「慈母と夜叉……か」
 飛龍は小さく肩を揺すった。
「よく聞く話だが、矛盾してるぜ。二重人格ってわけでもないだろうに」
「ええ。だけど、女って……母親って、そんなものかも知れないわ」
「大人だな」
 動転した黄燐の様子を思い出し、飛龍は唇の端をわずかに吊り上げた。笑ったつもりらしい。


 この場所は良くないと鷸は直感していた。こんなにも不気味なのに、どこか心地良い。それは理屈抜きの――そう、例えば人肌のような、本能に訴えかけてくる安息だ。
 だからこそ危機感を覚える。鷸の脳は先程から懸命に警鐘を鳴らし続けている。
 それなのに、ここから脱出したいという切迫感が起こらない。
(死ぬ気はないさ)
 内心でもう一度独りごち、フォックスフォームのセクタンを撫でる。クヌギと名付けられたセクタンの狐火は小さいが、明るい。
 ずぶり。足許が緩慢に沈み込む。点々と転がる骸が無言で呑み込まれて行く中、セルヒの目が洞の最奥に隆起する肉の瘤のような物を捉えた。
 近付こうとしたセルヒの袖をエレニアが掴んだ。振り返ると、エレニアは大きく首を横に振った。近付くなと言いたいらしい。
「大丈夫よ」
 セルヒは安心させるように微笑み、エレニアの手をそっと押し戻した。
 瘤の表面には血管状の物がびっしりと張り巡らされていた。それはよくよく見れば細い枯れ枝であったが、老いた女の指のようにも見えた。人の頭ほどの大きさの肉瘤を、指のような枯れ枝が絶えず蠢動しながら愛撫し続けている……。
「息子の首かしら」
 触れようとして、躊躇った。怖じたわけではない。ただ、躊躇した。
 これは姥の宝だ。他人が触れて良い物ではない。
(だけど……これはファージよ)
 ヒョウッ!
 セルヒが改めて手を伸ばし掛けた瞬間、鋭い風切音を立てて矢が飛来し、瘤に突き刺さった。
 弾かれるように振り返れば、そこには凛と和弓を構えた鷸の姿がある。
「……それはファージだ」
 相変わらず無愛想に告げたその瞬間。
 ぐらりと、視界が、足許が歪む。
 エレニアは反射的に両耳を塞いだ。“声”に秀でた彼女だからこそ、それを本能的に察知した。
 それはまさしく声だった。
 快楽、あるいは、陣痛に貫かれる女の悲鳴だった。
「ぐ」
 鷸は耳を塞いで膝を折った。男は女の最奥に矢を射った。それは奇妙で生々しいメタファーだった、無論鷸自身は意図していなかったが。
 しかし、だからこそ。
 陶酔とも苦痛とも取れる金切り声は恍惚と嫌悪を呼ぶ。
 胎動が激しくなる。褥の上で弓なりに腰を反らす女のように、肉壁が絶え間なく蠢動する。立っていられない。思わずその場に膝をついたセルヒははっとした。ずぶずぶと、旅人達の体までもが呑み込まれようとしている。
 抗う術を持たぬ骸達はあっという間に呑み込まれていく。女はいつだってそうなのだ。己の内に呑み込むことでしか充足を得られない。外に放出する男と違って、それしか方法を知らない。
「生憎だけど」
 真っ赤な唇に確かな意志を煌めかせ、セルヒはチョークを構えた。
「呑み込まれてあげるわけにはいかないわ。私達はアナタが欲しがってるモノじゃないのよ」
 仄暗い赤の世界でチョークの白が煌めく。鷸の矢が弾丸の如く飛ぶ。二人分のトラベルギアに貫かれた瘤は充血して腫れ上がり、ぶるぶるとわなないている。声はどんどん高くなっていく。理不尽な大音声に意識をもがれそうになりながらも二人はその場所を攻め続けた。やはり此処が弱点なのだ。此処が最も弱い場所なのだ。
 断末魔のような悲鳴の中で、エレニアはやはり無言だった。彼女は自分の声を発さない。
 しかし思うことはある。ここはかつて罪人の骸を埋めた場所だったという。ならば、きっと無念も埋まっているのだろう。
「下がってて」
 丸腰で進み出たエレニアにセルヒが警告した。しかしエレニアは聞かない。ウサギのパペットを携えたまま、右手をそっと己が胸に当てる。その姿は舞台に上がった声楽家にも似ていた。
「――――――」
 すうと息を吸い込み、形の良い唇をゆっくりと開いていく。
 ――鎮魂歌を、ここに埋まるすべての人へ。


 ばちゅん。


 生ぬるい物が唐突に飛散し、飛龍の頬を汚す。白っぽい花弁が暗い赤に染め上げられていく。
 はらはらと。ひらひらと。
 血の色をした花びらの中から、“彼女”はゆっくりと現れた。
「……どうなってるの」
 黄燐は呆然と呟いた。
 突如として爆ぜた幹。その中から現れたのは、血のように粘つく液体をかぶったエレニア。その姿は母胎から取り上げられたばかりの赤子を思わせた。
「どうなってるの……」
 エレニアの後ろで、同じ色に染まったセルヒもまた呟いた。エレニアの喉から壮絶に美しい歌声が発せられた瞬間、肉瘤が破裂し、内壁が弾け飛んだのだ。
 しかしエレニアは何も言わない。彼女は自分の声を発さない。ただ、そっと微笑んでみせるだけだ。
「チャンスだ」
 横殴りに頬を拭い、飛龍が地を蹴る。彼の九節鞭はリストバンドに変化していた。黄燐も慌てて弓矢を構える。
「うぁっちゃぉ!」
 飛龍の鉄拳が幹にめり込む。黄燐の矢が、セルヒのチョークが飛ぶ。鷸は真っ直ぐに矢をつがえながら内心で呟いた。
(……済まないな)
 どんな姿であれ、姥は幸福であったのかも知れない。子に先立たれるのはどんな気持ちであるのだろう。だが、自分にも護りたい子供がいる。斃れるわけにはいかぬ。
 桜はもはや抗わない。腹を割かれ、無残で無防備な姿を晒しながら断末魔の痙攣に身を任せている。旅人達に貫かれる度、震えるように花を落とすのみだ。
「頃合いかしら」
 刀を抜いた黄燐が桜に肉薄した。刀ではない。自前の爪を瞬時に長く伸ばしたのだ。
 首と聞けば無感慨ではいられない。あまつさえ、この妖艶な花。誰が感傷に引きずられずに居られよう。
「でも、今は」
 刎首の刑吏の如く爪を振りかざし、
「――やるべきことがあるから」
 濡らした手拭いを振り下ろすような音とともに、強くて弱い母親を根元から断ち落とした。


 はらり、はらり。ひらり、ひらり。
 斃れた木の上に花が降る。涙のように。鎮魂のように。
 飛龍はふうと息をつき、滴る汗を手の甲で拭った。そんな何気ないしぐさすら映画のひとコマのように様になっている。
「大いに破壊してしまったが……この後どうするんだろう、これ」
「自然に任せましょ」
 セルヒはどこか切なげに飛龍に応じた。
「この場所の土に還れるんなら、きっとそのほうがいいもの」
 それはまるで花葬だった。静謐な、葬送だった。エレニアの双眸もまた静謐だった。花弁の最期の一枚まで目に焼き付けんと、ただ桜を見つめ続けた。
 はらり、はらり。ひらり、ひら……り。
 最期の一枚が地に落ちて、再び静寂が訪れる。
 後には、とうとうと流れる川の音だけが残された。


「ファージは生物に寄生するのよね」
 帰りのロストレイルに向かいながら、セルヒは顎に人差し指を当てた。
「それがあんなものを見せるってことは、桜は本当に魂を吸っているのかも……怨みも悲しみも美しい花に昇華してたなんて、あの桜は本当に偉大な樹だったのね」
「成程。だから日本人は桜が好きなのかも知れないな」
 香港在住の飛龍は日本人ほど桜に馴染みはない。だが、日本人がなぜこの花を愛するのか、漠然と理解できた気がする。
 ロストレイルは山の中腹で一行を待っていた。乗降口の手すりを掴みながら、黄燐はふと背後を振り返る。
 闇の中、ぼんぼりのような桜がそこここに浮かび上がっている。それはあてどなく彷徨う人魂のようにも、人をいざなうしるべのようにも見えた。
(首……ね)
 顔を隠す布の下で、金色の瞳をそっと伏せる。
 覚醒する前に、ある人の首と胴体を接合して埋葬した。黄燐が“お師匠様”と慕う人物の、大切な相手だった。
 ――回想の迷宮にはまりそうになって、ゆっくりとかぶりを振る。
「帰りましょう」
 そして、言葉少なに列車に乗り込んだ。
「次の機会にはまともな花見に行きたいわね」
 車内には既にセルヒの明るい声が響いている。
「だって、飲んで食べて無礼講だなんて聞いただけでも楽しそうだもの!」
 セルヒの声を聞きながら、鷸はむっつりと腕を組んでいた。鷸も花見は好きだ。しかし――浮かれる気持ちは判るが――羽目を外し過ぎるのはあまり好きではない。


 後日のこと。
 再び桜の元を訪れた鷸はセルヒの推論が当たっていたことを知った。息子の首を奪い返した母は、人捨て場の番をする役人に見つかってその場で斬殺されたという。当地の図書館の郷土史にはそう記載されていた。
「……幸せだったのかも知れないな」
 息子と同じ場所に眠れたのだから。
 そう呟いて図書館を後にすると、そこには知り合いの僧侶が待っていた。知人のよしみで、今回は特別に私的な頼みごとを聞いてもらったのだった。
 鷸は僧侶とともに桜の川辺へと向かった。今となってはただの川辺だ。桜は斃れ、花も散った。葉を生やし、散らせて、固い芽となって次の季節を待つこともない。根の跡ばかりがわずかに残っていた。
 僧侶には「知り合いの供養をしたい」とだけ伝えてある。生花は持参しなかった。あれほど美しい桜に花を備えるなど、無粋だ。線香だけを供えて手を合わせた。
 数珠を手にした僧侶が厳かに読経を始める。
 経と煙は春風に乗り、湿った土と川面を撫でて消えた。


(了)

クリエイターコメントありがとうございました。『姥桜』、お届けいたします。

…えーと。
中に入った三名様、すみません。イヤンなことになってしまいました。
でもOPで予告しましたので。ね!

お察しかも知れませんが、少し不思議な桜をやりたいがためにファージとこじつけたシナリオでした。
桜→死体→命という思考回路です。かなり生々しい描写もしましたが、命ってそもそも生々しいものですよね(?)。
洞に関してはヒントのようなものも出しておりました。OPの、女性の体を思わせるような描写がそれです。

ご参加ありがとうございました。
余談ですが、刀を振ると濡らしたタオルを振り下ろした時のような音がするそうですね。「ばさっ」という。
公開日時2010-04-18(日) 21:00

 

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