オープニング

「地図に無い村」
 黒い鼻先から赤茶色の尻尾まで。水から上がった時のようにぶるぶると震えると、獣人の世界司書は後肢で立ち上がった。首から下げた『導きの書』を両前肢で抱きかかえる。
「壱番世界。日本」
 『導きの書』を開き、挟んであった日本地図の一点を開いて示す。
「地図から消された村。都市伝説」
 としでんせつ、と呪文のように言い、首を傾げる。
「としでんせつ。現代人の間で語り継がれる新しい伝説。怖いもの、面白いもの。エミガワ・リエジが集めているもの。今この瞬間も何処かで生まれ続けている。語られている」
 今から話すのは、と司書は続ける。
「数千数万。世界中で語られ、騙られ、生まれ続ける都市伝説。そのうちの、ひとつ」


 これは、とあるロストナンバーの友人が実際に体験した話。
 夏に近い三日月の夜。夜釣りの帰り、その人は高速道路代を節約するため、側道を車で走ってた。
 高速道路の脇を走る、山に添った道。側道なんて名前ばかりで、あんまり整備されていない。誰かが突っ込んだ後のひしゃげたガードレールが修理されないまま残ってたり、伸び放題の笹の葉なんかが道を塞ぐようにはみ出して生えてたり。道も長いこと放置されてて、アスファルトが砕けてたり、舗装に入ったヒビから雑草が青々と繁っていたり。
 そんな道を走ってて、ふと気付いた。いつも通ってる側道じゃないぞ、って。暗いんだ。整備されてない道とは言え、外灯がぽつぽつあるはずなのに、それが今日に限っていつまで経っても見えない。トンネルみたいに左右から木の枝が覆い被さって来ている。
 おかしいな、一本道のはずなんだけどな、そう思いながらも、でも一本道なんだからそのうち知った道に出るはずだ、って。車を走らせてた。
 そのうち、景色が開けた。
 不思議な景色。道を間違えていなければ、人が住んでなんかない山奥のはずなのに、道の左右を挟んで、三日月をゆらゆら映す水田が広がってる。右手には水田の上に浮かぶみたいな山があって。山裾に沿って、ぽつん、ぽつん、って橙色の明りが灯ってる。何だろう、って三日月闇に眼を凝らしてみる。人家かなって。
 違う。等間隔に灯る明りが照らし出すのは、ひとつひとつが朱色した鳥居の群。鳥居の並ぶ階段が、何本も山の頂上目指している。
 ズラリ、伸びていく千本鳥居。
 そんなに高くない山の天辺には、燃えてるんじゃないかってくらいに赤々と松明が焚かれている。火に照らされて、小さな神社が見えた。その手前には、能舞台。
 遠目のはずなのに、能舞台に舞う人影がはっきりと分かった。 白髪振り乱し、紅い口から白い牙を剥き出し、蒼い額に黒々と皺寄せる鬼神の能面。白帷子の袖がふわり、焚火の熱波に揺れる。
 見つかった、と思ったって。眼が合ってしまった。そう思った瞬間、ざざざァッ、て。山頂の神社から鬼が凄まじい速さで駆け下りて来る。


「お決まりの落ち。能面被った血みどろの若い女。振りかざされる包丁。刀。鎌。鉈」
 能面被ってるのに何故若い女だと解ったのかとか、車走ってたんじゃないのかとか、そういうのは聞かないで、と司書は三角耳の頭を横に振る。
「本題。ここから」
 黒い眼が旅人たちを見据える。
「その村に行って下さい」
 旅人の一人が首を傾げて問う。そんな村が存在するのか。都市伝説なんて物語に過ぎないのではないのか。
「村、在る。この地図には記載されていないけれど、行ける」
 司書は大きく頷く。
「人の住まない村。昔に何があったのかは分からない。けれど、今は荒れた田と廃墟と、神社が残っているだけの村。少し怖い。エミガワが好きそうな村。何か出る? 出ない?」
 廃寺のある奇妙なスポットで夜な夜な恐怖体験を語り募ると言う、これも都市伝説の登場人物じみたエミガワ・リエジの名を持ち出す。
「エミガワ・リエジ。この前、会った。でも、エミリエに見える。匂い、同じ。不思議ふしぎ」
 地図に無い廃村。不思議な神社。何か謂れがあるのかもしれない。体験談にあるような、能面の女が出るのかもしれない。
 話が逸れたのに気付いて、司書はきょとんと瞬きをする。
「――ディラックの落し子。壱番世界に侵入」
 そう言って、白い牙を一瞬剥き出しにする。鼻の頭に皺を寄せる。
「ファージ型。動植物に取り憑く。野犬の群。その中の一頭、取り憑かれた。白い犬。わたしよりも二周り大きい」
 ディラックの落し子に憑かれた動物は、その本来の姿を歪ませられる。普段は本来の姿を保ち、擬態しつつも、いざとなれば異形の姿となる。特殊能力さえ持ち得る。
「吼えると、衝撃波。長い爪。発達した犬歯。食い千切られないよう、気をつけて。怪我しないよう、気をつけて。群の仲間、操られている。皆で襲ってくる。落し子に憑かれた子を倒せば、仲間、自由。解放」
 それから、と付け足す。
「山の天辺の神社に巣。巣中心に、侵食、始まっている。現地、見れば落し子の居場所はきっとすぐ、分かる」
 ディラックの落し子に侵入された世界は、彼らに住みよい世界へと変貌させられていく。
「山が死に始めている。水は毒に、土は汚泥に。他の生物、死滅の危機。逃げる。逃げても、侵食に喰われようとしている」
 お願いします、と小さな獣の形した頭を下げる。
「取り憑かれた子、眠らせて。仲間の子達、解放してあげて。どうか、助けてください」

品目シナリオ 管理番号647
クリエイター阿瀬 春(wxft9376)
クリエイターコメント こんばんは。阿瀬春です。
 近江WRさんのエミガワ・リエジ版怪談百物語(?)がとても気になる夏の初めです。……と、言うことで。都市伝説風味・ディラックの落し子退治は如何でしょうか。

 落し子退治の体裁ではありますが、戦闘は味付け程度、探索中心となる予定です。

 棄てられた村、落し子の侵食を受けた神社周辺。
 ホラー、とまではいかないですが、奇妙な世界にご案内させて頂きます。
 蝋燭片手に、ご参加、お待ちしております。

参加者
ヴァンス・メイフィールド(cbte1118)ツーリスト 男 24歳 守護天使
玖郎(cfmr9797)ツーリスト 男 30歳 天狗(あまきつね)
ジル・アルカデルト(cxda4936)コンダクター 男 20歳 ブレイクダンサー
荷見 鷸(casu4681)コンダクター 男 64歳 無職

ノベル

 田にも畦にも、雑草が背高く繁っている。砕けたアスファルトの道の脇には、人ひとり楽に沈む深く広い水路が沿っている。何処かに豊かな水源があるのだろう。人が絶え、田がどれだけ荒れても、水路には水が満ちている。流れる水が、頼りない三日月の光を白く照り返す。
「暑くなってきたら怖い話や不思議な話やんな!」
 軽い足取りで夜道を歩きながら、ジル・アルカデルトは今回の旅の仲間達を振り返る。アフロの黒髪には、フォックスフォームのセクタン、バジルがしがみついて揺れている。
「都市伝説じみた場所に自分の足で立って自分の肌で感じる……」
 夏草色の眼を好奇心で満たし、ジルはぐっと拳を作る。
「うん、素敵な風物詩やわ」
 言いながら、仲間一人ひとりの顔を月明かりに確かめる。ディラックの落とし子のこともそうだが、こんな怪談じみた場所だ。何かに化かされることさえ、もしかしたらあるかもしれない。
 万が一、そんなことがあれば、そういうものを見抜く力を持たない自分ではイチコロかもしれないけれど。それでも、落とし子に取り憑かれた子を楽にしてあげなければ。操られているという群の子達も自由にしてやりたい。
「……よし、おにーさん頑張っちゃうよ!」
 元気よく拳を空へ突き上げて宣言する。宣言した勢いのまま、水路をひょいと覗き込めば、青々とした水草が、月明かりに透けて見えた。
 水に揺れる水草の陰に蒼褪めた細い手が、
「みっ、見えてへん、見えてへんで」
 ジルは眼を固く瞼で閉ざす。
 激しく首を横に振る。黒髪アフロがわさわさ揺れる。アフロにしがみつくバジルが尻尾とその身にまとう炎を揺らして振り回され、振り飛ばされる。
 宙を舞ったバジルは、スーツの片腕に抱き止められた。
「何か見えたかい?」
 バジルを元の位置に戻しながら、ヴァンス・メイフィールドは明るいオレンジの髪の下の灰色の眼を柔らかく細める。
「何も! 何も見てへん!」
 ほんまに何も見てへん、と繰り返し、ジルはアスファルトの道を足早に歩いていく。その後を追うともなしに追いながら、ヴァンスは暗闇と月明かりに沈む周囲を見回した。都市伝説とされる、地図に無い村。人の絶えた村。
「研究対象として見ると面白いかもしれないねぇ」
 都市伝説と呼ばれるものの大抵は、『陰惨な怖い話』や、ものによっては『ナンセンスなジョーク』だったりする。こういう事があったら面白い、と心の何処かで思う人々が紡ぎ出した、物語。
「まあ、良くも悪くも人の心が為せる業って事かな」
 通信網の発達した世界でならば、その作り出された物語は瞬く間に広がる。
「地図にない村なんてのは尾鰭背鰭が付いた都市伝説の典型じゃないかな」
 今回に限っては単なる都市伝説じゃ済まない話だけど、と肩に担ぐ、槍の形したトラベルギア『コキュートス』の柄を握る手に力を籠める。
 少し離れて道を辿る、荷見鷸(にいみしぎ)を振り返る。話を聞いていた鷸は灰色の眉を僅かに寄せた。否定も肯定もせず、視線を上げる。
「……能の演目それ自体なら怪談話ばかりだが」
 神が語り、鬼が語り、亡霊が語る。都市伝説の素材としてあまり聞かない、能舞台が出てきたことに何か訳はあるのだろうか。
 細めた灰の眼に映すのは、水路と田を幾つか渡った先にある、神社の杜。
 依頼を受けてから出立までの僅かな時間を潜り、郷土資料や昔の新聞などに当たっている。伝手を辿り、村の伝承や神社の由来が痕跡だけでも残ってはいまいかも、調べて貰った。例え、何か忌むべきことがあって、地図からその存在が消えたとしても。ここで生きていた人間は間違いなく居る。存在していた証は何処かに必ず残っている筈。
(……消されて堪るものかね)
 梅雨の近いこの時期、草木は今を盛りと萌え出ずる。木々の梢には新芽が吹き出し、新緑の香りを撒き散らす。温かな土からは虫が這い出る。馴染みのないこの土地に、不思議と郷愁がかき立てられるのは何故だろう。
 ディラックの落とし子が巣とした神社の杜からここは、まだ遠い。この場所の生命は、今は初夏に沸いている。草叢ではしきりに虫が歌う。水路からは蛙が夜空に声を上げる。水路を滑る風は草木の青い香をまとう。――今は、まだ。
 侵食が進めば、ここも呑まれる。命は絶える。
(どう転んでも、倒す)
 鷸のセクタン、フォックスフォームのクヌギが、身にまとう炎でもってその足元を照らす。黒々としたアスファルトの道を柔らかく照らすクヌギの光の輪を、音もなく影が過ぎる。月夜の空を奔る影を追った鷸の眼が捉えたのは、翼を羽ばたかせる梟の姿。
 梟が翼を休ませたのは、鋭い爪の付いた手甲の上。首を伸び上がらせ、挨拶をするかのように、手甲の持ち主の顔へと羽毛の頭を寄せる。
(……天狗の演目も、あった)
 鷸の眼に、彼は天狗と映る。今回の旅の仲間である、玖郎(くろう)。何処か山伏にも似た衣装の背には翼、膝から下は精悍な猛禽の肢と爪、目元まで覆う二重の鉢金は嘴の様。山を護る、天狗。
 翼を畳み、丸い金眼を輝かせ、梟は玖郎の肩に移動する。そうして、人には分からぬ言葉を話す。野犬の群の規模や行動範囲、落とし子に侵された山に巣を作り、子を育てているだろう仲間の安否。
 ――災いのもとは絶つ
 玖郎は慈しむように梟の翼に触れた。そう伝え、夜空へと放つ。
「不遇な」
 唇から洩れたのは、侵食された山に棲まう、翼持つ者達を襲った変異に対する嘆息。今はまだ子育ての時期だろう。子を護るため、山から離れようにも容易ではないはず。
「……いきていればよいが」
 村を幾重にも囲む山々の中、神社のある山だけが異様な空気に覆われている。生命を拒絶する気配。水が毒となり、土が腐る。生命を護り、育むはずの山が死ぬ。山が死ねば、そこから全てが綻びる。命の理が崩れる。
 山神でもある玖郎はそれを知っている。
 山にはその山を守る主とも言える存在が居る。けれど何らかの理由で山の主が居ないのならぱ、外からの力を以ってでも、
(山の壊死を阻むは至当)
 生温い風に煽られてか、赤褐色の髪がゆらり、意志もつもののように揺らぐ。
(なんとしてでもくいとめねばなるまい)

 瓦は風雨に半ば崩れ落ち、トタンの壁は葛の蔦に呑まれている。雨戸は外れて庭の草叢に落ち、木枠の窓は見る限り全て砕けている。窓の奥の室内は、三日月夜の外よりも暗い。
 田の只中、取り残されたように古い家がある。人の住まない家は、荒れる。
 錆び付いた自転車の転がる庭には、紫陽花が青く咲き乱れている。くちなしの花が元の白を茶色く爛れさせながら、胸に迫る甘い香りを撒き散らす。
「あッ、」
 ジルがぎくりと声をあげた。廃屋の庭の片隅を指差す。
「あれはUFO?!」
 崩れ落ちそうな瓦の上に、朱に光る塊がひとつ、揺れている。
「……ちゃう、」
 それは長く光の尾を引いて、屋根の上を行き来する。
「人魂や!」
 どこか嬉々として言うジルの隣に、鷸が並ぶ。屋根をうろつく光を物言わずしばらく眺めて後、
「昔のことだ」
 低く、語る。
「通信網も発達していない。山村は今よりもずっと街と隔絶されていた」
 ここのように山奥の村は余計にそうだっただろう、と。
 ほんの微かに、傷ましげに灰色の眉を寄せる。年齢を刻んだ顔に、更に深く皺が沈む。
「災害が原因か。町と村を繋ぐ道が断たれた」
 それは、新聞を調べ、伝手を辿り、やっと見つけ出した僅かな情報。
「道が復旧して後、訪れた人間が見たものは、人の消えた村だったと言う」
 それが此処だと言う確証を得ることは出来なかったが。
「この話さえ、都市伝説じみているが」
 調べられたのはここまでだった、と不機嫌に口を閉ざす。
「地図というのは標だろう」
 周囲に渦巻く重苦しい空気を払うように、玖郎が翼を羽ばたかせる。自らの言葉を仲間に確かめてか、鳥の仕種そのままに首をこくりと傾げる。
「標から消されるとは」
 屋根の光が、不意に動きを止めた。
「そこに人を導いてはいけない」
 雪崩るように、転がるように、屋根から落ちる。
「辿り着く者がいてはならぬという意図だ」
 草に落ち、生き物のように跳ね、ジル目掛けて一目散に駆け寄ってくる。
「流行り病を封じこめる、」
 駆け寄ってくるのは、炎を纏った子狐。何かに追われるように、必死に逃げてくるのは、人魂の振りをしていたバジル。
「犯してはならぬ禁忌がある、」
 ジルが反射に広げた腕の中に飛び込み、そのままの勢いで肩によじ登り、顔にしがみつく。ふさふさの尻尾だけ残して、アフロの中に潜りこむ。
「人目にふれては都合の悪いものがある、」
 玖郎は言葉を重ねる。
「そのような類ではないのか」
 見たのか、と変わらぬ抑揚で、アフロに隠れたバジルに問いかける。わッ、とジルが声を上げた。
「首振っとる、何や見たて頷いとる!」
 バジルが激しく首を縦に振ってるらしい。アフロがふさふさ揺れる。
「何を見たのかな?」
 ヴァンスがずっと担いでいた槍を、廃屋に向けて油断なく構える。口調は穏かだが、灰色の眼は一息に鋭く凍りつく。
「まっ、ま、待って! やばいやばい、」
 聞きたくない、とジルは耳を塞ぐ。バジルの見たものを確かめる気は無い。確かめたら最後、そんな気がする。ものすごくする。
 廃屋の割れた硝子窓の奥で、ごそりと何かが蠢くような気配。
 みしり、と。何かが軋む微かな音。耳に届く筈もないのに、確かに、聞こえる。
「い、今何か音した?」
 ジルが声を震わせる。
 鷸には分かる、――あれは、裸足で畳を踏みしめる音だ。
「聞き間違いやったら耳掃除せんと……」
 半分笑っているような、半分泣いているような。ジルが顔を引きつらせる。冷たい汗が背筋を濡らす。アフロの中で震えるバジルを引っ張り出して、胸にぎゅっと抱え込む。
「やばい、ごっつやばいて!」
 喚くジルの声の隙間を縫って、聞こえる。打ち棄てられた家の中、誰かが歩き回っている。何かを探しているのか、誰かを探しているのか。
「やばい! アフロん中に隠れたい!」
 声も身体も震わせるジルの腕を逃れて、バジルが再度アフロに潜りこむ。尻尾だけ残して隠れる。
 廃屋の内部で聞こえていた足音が絶えた。気が付けば、あちこちの草叢で鳴いていた虫の声さえ途切れている。
 全身の血が熱くなり、冷たくなる。心臓が暴れる。皮膚がびりびりと粟立つ。身体の何処かが危険を告げている。危険か、あるいは、恐怖か。
 何か、来る。
 家の中から風が打ち寄せる。熱風に近い風に、あるはずのない血の臭いを嗅いだ気がして、ヴァンスは眉を寄せた。そこここに蹲る暗がりに、投げ出されたように転がる黒い血に塗れた手足が見えたのは気のせいか。
 血の臭いが香の煙のように辺りに満ちる。鷸の足にクヌギがしがみ付く。威嚇するように全身の毛と炎を膨らませる。
 首筋の辺りを強張らせるようなきつい視線を感じて、玖郎は躊躇いもなく後ろを振り返る。
 背後には、月明かりの夜道が静かに広がるばかり。玖郎は首を傾げる。廃屋の窓から、雨戸の隙間から、紫陽花の木陰から、田や水路の下から。あちこちから、視線が湧いている。誰か居るのか。居るはずはないのに、誰か居るのか。見ているのか。見ているとするのならば。
「ゆこう」
 低く低く、玖郎は言う。
「もくてきは、かれらではない」
「かッ……」
 ジルが顔を蒼褪めさせる。
「彼ら、って何やああぁあああぁあッ?!」
 恐怖を追い払うように、全身で叫びながら、全力で駆け出す。秀でた脚力でもって、全身全霊、力いっぱい、走る。その場から逃げ出す。
「ちかよるな、ということだ」
「分かるのかい?」
 襲い来るものが居ないことを確かめ、ヴァンスは槍の穂先を収める。
 おそらくは、と玖郎は頷いた。
「みられたくないゆえ、みはっている」

 ジルは走る。走って走って、
「まて」
 頭上から声と共に降って来た風に、足を止める。視線を上げる。
 三日月闇にぼんやりと浮かび上がる灰色鳥居の上には、翼広げた天狗。音もなく鳥居の上に降り立ち、鳥居の向こう側に伸びる石階段へと首を巡らせる。
「ここより先は、犬たちのこうどうはんい内だ」
 赤褐色の二対の翼が月明かりを反射させる。羽が揺れるのは、その身を風が巡っているからか。
「先にゆく。なにかあればつたえる」
「よろしく」
 追いついたヴァンスが、落ち着かせようとしてか、ジルの肩を軽く叩く。鷸がジルの隣に並ぶ。トラベルギアの和弓を片手に、深く深く、呼吸する。使うか、とジルに手持ちの催涙スプレーを差し出す。
「おおきに。けど、鷸さんは?」
 鷸につられて深呼吸を繰り返し、ジルは気を取り直したように満面に笑みを浮かべた。
「他にも持っている」
 鳥居の奥に沈む闇を睨み据えたまま、鷸は低く、呟くように答える。
 鳥居の上の玖郎が素早い仕種で宙に印を刻む。操られた風が玖郎の身体を巻く。鼻の利く犬達にこちらの匂いが届かぬよう、鳥居の下に立つ仲間を風下とするべく、風が吹き降りる。石階段を囲む草木が揺れ、鳥居に掛かる木の梢が鳴く。
 操る風の動きを確かめ、玖郎は身体に添わせるように畳んでいた翼を広げた。強く羽ばたき、飛ぶ。
 神社に続く石階段には、傾ぎ、倒れかけた鳥居が幾つも連なっている。梢の空に見え隠れしながら先行する玖郎の姿を見仰ぎ、左右を押し包む雑草の陰に気を配りながら、旅人達は階段を登り始めた。
 月明かりは梢に遮られて届かない。クヌギとバジル、並んで歩く二人分の炎だけがゆらゆらと灰色の階段を照らし出す。
「不気味な神社やねぇー……」
 昼に来ても怖そうやわ、とジルは剽けた仕種で自らの肩を抱いて笑って見せる。
「出来るなら皆とはぐれんように一緒に行動したいな」
 鳥居の陰に、痩せこけた子供の姿を見た気がして、ジルは身震いする。ただの草木の陰だと自分に言い聞かせる。
「こ、怖いんやない、で?」
 固まりかける足を叱咤して階を登る。
「うん、一緒に行こうね」
 不思議な冷気を放つ槍の穂を煌かせて先頭を行くヴァンスが、オレンジ色の明るい髪を揺らし、肩越しに振り返る。人の心を安心させるような、穏かな華やかな笑みを浮かべる。
 石階段を一段一段登り進めば進むほど、闇が密度を増していく。瑞々しく揺れていた草木が枯れる。爛れる。腐臭を放つ。石階段の脇に黒々と覗く剥き出しの地面が不気味にごとごとと泡を吐き、沸き立つ。生暖かな熱と、硫黄にも似た臭いを吐き出す。樹の幹が、まるで悶え苦しむかのように、異様な形を描いて捻じ曲がる。麓では初夏を謳歌していた虫達の鳴き声は、絶えて無い。空を過ぎる夜鷹も梟も蝙蝠も、見えない。梢から時折降って来るのは、毒を含んだように水膨れた木の葉。石畳に叩き付けられては、毒虫のようにびしゃりと赤黒い水を撒き散らして潰れる。
 最後尾で、鷸はひっそりと息を吐き出した。
 ディラックの落とし子に侵食された世界。こんな世界は、この世に認める訳にいかない。
(どうあっても、倒す)
 そう決めている。今回に限らず、ディラックの落とし子は必ず仕留める。そのはずだ。それなのに、――
 鷸の眼は、心の奥底は、溶けて爛れ、腐り苦しむ周囲の景色にどうしようもなく、魅かれる。そんなことは許される訳がない。自らの心であろうと、否、あるが故に、認める訳にはいかない。
「鷸さん、大丈夫かー?」
 ジルに呼ばれ、鷸は瞼をゆっくりと瞬かせた。階段の先、小さな踊り場で足を止めてこちらを見下ろしている、ジルを見仰ぐ。生命に輝くような夏草色した瞳の、明朗な青年。
「……ああ」
 この子らのためにも、世界はこうであってはならない。
 侵食された景色に魅かれる心中も、世界を正そうとしたがる心中も。両方共を拒否するように、鷸は不機嫌に押し黙る。
「いる」
 上空を行く玖郎から、警戒の声が降った。降ると同時、風を切り裂く猛禽の勢いで、梢を打ち破って玖郎が階段脇の闇へと急降下する。梢が波打つ。爛れた草木が舞い散る。僅かに遅れて、玖郎に攻撃された犬の、きゃん、と悲鳴。
 草木の陰に潜んでいたのか休んでいたのか。敵に襲われ、恐慌を来たした様子で、二頭の犬が草叢から飛び出す。巨大な猛禽とも言える玖郎の鋭い爪から逃れ、闇から出た途端、
「おやすみ」
 冷たく輝く槍の柄に、再び闇へと弾き飛ばされる。
「こっち来たらあかんで」
 眼と鼻に痛い催涙スプレーが吹き付けられる。痛みと驚きに身を固める。固まった身に、打ち貫かれるような衝撃が走る。動けなくなる。
「……射てもうた?」
 ジルは、階段にぐったりと倒れる犬の様子を伺う。構えていた弓を静かに下ろす鷸に心配気な眼を向ける。
「いや」
 短く否定する鷸の言葉に、犬の身体を確かめる。胴を矢で射抜かれたはずの犬の身体に、傷はない。トラベルギアである鷸の弓矢が犬に与えたのは、気を失うほどの強い衝撃のみ。
「ちかい」
 玖郎が暗闇からふわりと翼を広げる。不自然なほどに節の膨らんだ樹の枝に、鋭い爪持つ鳥の形した肢でとまる。
「境内のやしろのそばに、かくにんした。体長から見て、まちがいない」
 群の数は落とし子を含めて十、と告げて後、戸惑うように首を傾げる。
「能舞台に、ひとかげがあった」
 人の遺恨が淀をうみ化物をなすこともあるが、と何処か謡うように口を開く。
「化物が化物を忌諱する由はない」
 自らで自らを化物と呼び、翼を広げる。飛び立つ。
「ちょ、待って待って、人影て何やの」
 ヴァンスが、ジルが、その後を追う。 
 鷸もその後を追おうとして、ふと足を留める。衝撃を与えただけとは言え、矢で射て気絶させた犬の腹を撫でる。灰色の眼に一瞬、謝罪の色が浮かんで、消える。
 この廃村に集まる犬の殆どは、かつて人に捨てられたものたちだろう。それが野生化し、野犬の群となった。この件が解決しても、群が見つかれば、人間に危害を加えるものとして、おそらく駆除される。
 鷸はもう一度、温かな犬の腹を撫でた。催涙スプレーの効果か、犬が小さくくしゃみをする。
 階段の果てを見据え、先を急ぐ。

 風が渦を巻く。病んだ樹々から傷んだ葉が千切られ、空に舞う。階段を登り切った先に広がる境内の空に、黒い雷雲が集められる。青紫の稲妻が爆ぜる。境内に眼も眩む光が満ちる。身体を押し倒すような衝撃。数瞬遅れて、轟音。砂利が跳ねる。ばちばちと空気が鳴る。
 雷雲をその背に負い、玖郎が空に在る。
 雷に弾かれ、白い大犬を護るように囲んでいた十頭近い犬が散る。
「やるね」
 階段を駆け上った勢いのまま、ヴァンスは槍を構える。人の姿を見つけた途端、襲い掛かってくる野犬の一頭に、
「『コールド・ブラッド』」
 氷塊を創り出し、ぶつける。撥ね飛ばす。
 四方に柱を据え、桧皮葺の屋根を被せただけの能舞台を挟んで、白い大犬が居る。三角耳を尖らせ、頭を低く構える。鋭い爪の前肢を砂利の地面に突き立てる。鼻先に皺を寄せ、異常に発達した牙を剥き出し、
 吼える。
 咆哮は衝撃波となる。能舞台の樹床を砕いて巻き上げ、砂利を跳ね散らす。
 落とし子の咆哮が薙ぎ倒すはずだったヴァンスは、けれどもうそこには居ない。一所に留まらず、軌道を定めず駆けている。
 代わりにそこに居たのは、続いて階段を登り切った、ジル。
「うわ、」
 悲鳴が先か、動くのが先か。曲芸じみて、片腕一本で横に一回転する。空で身体を捻り、着地すると共、地面を強く蹴り、更に退く。
「――っとぉ?!」
 高く跳ね上げた足が弧を描く。身体を揺らがせもせず、白砂利の地面に着地する。どん、と石階段を揺らがせ、衝撃波は空に抜ける。
「ひゃあ、びびったわぁ」
 軽い調子で言うその顔から、笑みが消える。真摯な瞳が、落とし子に憑かれてその身を異質に変貌させられた白い犬を見詰める。
「バジル、援護頼むで」
 アフロにしがみ付いたバジルが頷く気配。落とし子に操られる他の犬が近づけぬよう、狐火がジルの周囲に踊る。炎の弾丸を撃ち出すバジルを連れ、ジルは地を蹴る。
 ヴァンスが駆ける。ジルが走る。続けざまに放たれる衝撃波を嫌い、決して留まらない。真直ぐには突っ込まない。散発的に襲い掛かる犬は、バジルの撃ち出す炎の弾丸によって威嚇され、退けられる。ヴァンスのコールド・ブラッドの魔法で創り出された氷塊に足止めされる。玖郎のトラベルギア、金属手甲の『神鳴』から放たれる雷撃に打ち据えられる。身体を痺れさせるだけの強さに調整された雷は、犬を地面に伏せさせるのみ。
 当たらぬ衝撃波に焦れ、落とし子は不機嫌に唸った。白い毛皮の下の筋肉がぼこぼこと波打つ。後ろ肢に力を溜めることもなく、高く、跳ぶ。
「逃がさないよ」
 ヴァンスの創り出した氷塊が、落とし子の胴を殴る。宙でバランスを崩すその巨大な身体に、
「もう、眠りィ……!」
 助走の勢いのまま跳んだジルの爪先が蹴りこまれる。声も上げず、落とし子は地面に落ちた。跳ね起きようとする巨躯に、玖郎の操る神鳴が、焼き殺すほどの強さで以って撃ち込まれる。
 堪らず、落とし子は喚く。鋭い爪持つ、人間の腕ほどもある肢が暴れる。着地したジルを引っ掛けようとするその腕に、火をまとった矢が射掛けられる。操られていた犬を打ち据え、気絶させただけの矢ではない。鏃は落とし子の肢を貫いている。
「おおきに、鷸さん!」
 ジルは落とし子の爪の届かぬ位置に飛び退る。階段口に弓を構えて静かに立つ鷸を眼の端に捉える。肩にしがみついたクヌギが鏃に炎を点けている。
 片肢を炎に塗れさせ、落とし子は立ち上がる。元は何色だったのだろう、金色の眼が凶暴な光を帯びる。喉の奥で低く唸る。唇を突き破って伸びる牙を剥き出す。他の犬達は皆、地面に転がっている。呼んでも来ない。立ち上がる気配も無い。
 ヴァンスが距離を置いたまま、冷気帯びる槍の穂を落とし子に向ける。凍りつくような殺気を向けられ、落とし子は僅かに怯んだ。怯んだ自らに苛立つ。恐れを怒りに変え、三本の肢でヴァンスへと飛び掛る。
「――ッ!」
 爪が牙が、ヴァンスに届くよりも速く。裂帛の気合と共、ヴァンスは槍を突き出す。伸び上がる落とし子の喉に、槍穂が刺さる。
 血泡を喉からしぶかせ、落とし子は断末魔の声を上げた。力の籠もっていた尻尾がだらりと下がる。凶悪な口元から紫色の舌が垂れる。血と焼け焦げ塗れの白い毛が逆立つ。最期の力を集め、衝撃波を放とうと口を開く。
 ヴァンスがコールド・ブラッドの魔法の氷壁を作り出すよりも、ジルが蹴りを繰り出すよりも、玖郎の神鳴が落ちるよりも、速く。
 一本の矢が落とし子のこめかみを射抜いた。矢の勢いにヴァンスの槍が落とし子の喉から抜ける。衝撃波を放つこと叶わず、白い犬の巨躯が砂利に崩れ落ちる。ぶくぶくと血泡を吐きながら、異常なほどに巨大化していた身体が縮んでいく。長く伸びていた犬歯が抜け落ちる。金眼が光を失い、茶色の大人しそうな眼になる。
 細く長く、息を吐き出したのはジルか。静かにその場を一度離れ、戻って来たときには、その手に小さな白い花を持っている。
「能舞台の傍に生えとった」
 息絶えた白い犬に花を手向ける。歩み寄って来た鷸が、白犬の傍らに、詫びるように膝を静かに突く。
 空に三日月の光が戻る。玖郎の操っていた黒い雷雲が、空渡る風に吹かれて散らばっていく。地に降り立った玖郎が翼を畳み、静まり返る境内を見回す。ディラックの落とし子は消滅した。侵食されていた大地に、命が再び戻って来る気配がする。
 水と土の浄化は玖郎の領分でない。そこここに溜まる瘴気を祓うことしか出来ないが、
「あとは山の自浄力にまかせるしかないのか……」
 汚染していた原因が消えれば、山は程なく元通りになるだろう。
 瘴気を祓う為、印を切ろうとしていて、気付いた。能舞台に誰か立っている。長い白髪を紅色の衣装の肩に垂らし、持ち上げた衣の袖で顔を隠した、
「……おんな」
 生きているとはどうしても見えぬ者に、玖郎は恐れ気もなく話しかける。
 ジルが悲鳴を呑み込む。ヴァンスが反射的に槍を構えかけ、やめる。鷸が眼を見開く。
 紅衣の女は言葉を発さず、顔も晒さず、ただ、立つ。皆の視線が集まって後、流れる動作で頭を下げる。朽ちかけた屋根の隙間から、三日月の明りが滑り込む。月明かりに溶けるように、消える。
 夕陽のような残像を掠め、ふわり、風に惑うように、樹床の隙間から小さな黄金色の光が飛び上がった。ゆらゆらと光を明滅させる、
「蛍や」
 ジルが歓声に近い声を上げる。
「今のは……」
 鷸に問われ、玖郎は分からん、と首を横に振る。
「いきてはいない。いきてはいないが、……ここに棲み、ここをまもる者のひとりだろう」
 帰り道を案内するように、一匹きりの蛍が千本鳥居の階段向けて飛んでいく。
「さー、ほな帰ろうか!」
 来た道をまた戻るんって怖いなぁ、とジルが途方に暮れたように笑った。
 三日月の淡い光が、荒れた境内を静かに照らし出す。



 夏草を踏む。陽の匂いにも似た、温かな草の匂いが立ち昇る。梅雨の晴れ間の青空が頭上に広がる。鷸の背を太陽が容赦なく照りつける。
 首に掛けた手拭いで、湧き出す汗を拭き、鷸は眼を上げる。ロストレイルの窓から見下ろした景色は、この辺りで間違いない。夏草にほぼ埋もれてはいるが、僅かに道の痕跡が残ってもいる。それでも、どこまで進んでも、どれだけ探しても、あの村は見つけられない。村に棲み続けている犬の群の気配も探し当てられない。零世界を介せずとも、せめて、様子を窺えればと思っていたのだが。
(何処だ)
 熱を孕み、旺盛な緑の呼気を含む夏の空気に、不意にゆらり、冷たい水のような風が流れた。暑さに喘ぎ気味だった息が楽になる。頬を撫でる、清冽な川のさざめきにも似た空気に視線を誘われる。そうして、鷸は見た。
 陽炎に滲んで並ぶ樹々の間。天然の舞台にも見える山の広場で、扇を広げ衣を翻し、軽やかに涼しげに舞う神女の姿を。草地に伏せ、あるいは座り、穏かにそれを観る何頭もの犬の姿を。木陰に憩う、数十の人影のようなものを。
 引き寄せられるように足を踏み出せば、白昼夢のように掻き消える。
 けれど。見たと、信じた。
 地図から消えた村に、彼らは今も棲んでいる。


クリエイターコメント 壱番世界の地図にない村への冒険旅行、お疲れさまでした。
 村の謎は残ったままですが、ディラックの落とし子はお陰さまで無事に消滅いたしました。
 ホラー風味と言えますかどうかも難しいところですが、少しでも涼しくなって頂けましたら、また、お楽しみ頂けましたら、幸いです。

 ご参加、ありがとうございました。
 またいつか、どこかでお会い出来ますこと、願っております。
公開日時2010-06-25(金) 17:30

 

このライターへメールを送る

 

ページトップへ

螺旋特急ロストレイル

ユーザーログイン

これまでのあらすじ

初めての方はこちらから

ゲームマニュアル