ドアノブを引いたとたん、すがすがしい緑の匂いと、花の香が漂ってきた。 見上げるほどに高い吹き抜けを持つ店内に、観葉植物の林が連なる。ヤシ、オリーブ、ブーゲンビリア、イングリッシュアイビー、ベンジャミン、アローカリア。広大な植物園にでも迷い込んだようだ。 緑の中を飛び交う色とりどりの鳥は、来客を歓迎し、口々にさえずった。 バードカフェ『クリスタル・パレス』は、鉄骨とガラス、そして豊かな緑で構成されている。かつて壱番世界のロンドンに存在した、同じ名前の建物がそうであったように。 ストレリチアオーガスタ——別名トラベラーズパームの葉に止まっていたシラサギが、ドアの開く音に、飾り羽を揺らして舞い上がる。朝霧のように、白い鳥のすがたはかき消えた。 靴音が——かつん、と、石張りの床を打つ。 そこに立っているのは、純白の翼を持つギャルソンだ。「久しぶりだなぁ、おい。何でもっとしょっちゅう、おれに逢いにこねぇんだよ。……怒るぞ?」 ギャルソンは、親しげに片手を差し伸べる。言葉づかいは乱暴だが、語調は陽気で、口元は笑っている。「あぁ? 別におれ目当てじゃないって? ……それは失礼しました。では、お席にご案内いたしましょう」 軽口を叩いていたかと思うと、うって変わって丁重になる。いささか芝居がかった仕草は、どうやら彼特有の接客姿勢であるらしい。 うやうやしく案内されたのは、明るく差し込む外光を緑の日傘がやわらかくさえぎる、居心地のよい席だ。 椅子を引き、ギャルソンは一礼する。「さて。本日のオーダーは、いかがなさいますか?」
――それは、何の偶然だったのか。 誰かが開けた扉が閉まる寸前、わずかな隙間から、子ぎつねに似た小さな生き物が滑り込んできたのは。 出迎えたシオンは、意外な来客に目を見張る。 「いらっしゃいま……あれ?」 首まわりと脚まわりに幻の炎を従えた、可愛らしい動物。フォックスフォームのセクタンは、物問いたげにシオンを見上げた。 「どうした、おまえ。はぐれセクタンかぁ?」 セクタンは店内をきょろきょろ見回し、ちょっと小首を傾げる。 「わかった! 秋のセクタン大発生の回収もれだな。てことは、おれがこっそりもらってもバレないかな……」 よからぬことを呟いて、シオンはセクタンをひょいと抱き上げ、自分の肩に乗せた。 「シオン……。もし、そのセクタンが回収もれの1匹なら、世界図書館に届けないと」 ラファエルが注意をするのと、 「……申し訳ないが、それは、私のセクタンだ」 ぶっきらぼうな声音とともに扉が再び開き、ひとりのコンダクターが現れたのは、ほぼ同時だった。 灰色の髪、鋭く知性をたたえた灰色の瞳。60代半ばに見える、痩身の男性である。 「おいで、クヌギ」 クヌギと呼ばれたセクタンは、返事代わりに尻尾をふさりと振り、シオンの肩から飛び降りた。 荷見鷸にとって、それは思わぬアクシデントだった。 鷸は、自分が客観的に見て、偏屈で取っ付きにくそうな老人であろうことは自覚している。 彼はそれなりに、コンダクターとしての生活を楽しんでいた。覚醒するまで数々の職を転々としてきたけれど、かつては研究職だったこともあり、ターミナルの光景は非常に興味深い。頻繁に0世界を訪れては、ふらりと散策したり見物したり、情報収集に努めている。クリスタル・パレスのことは知ってはいたし、興味がなくもなかったが――それゆえ、今まで訪れるきっかけを掴めずにいた。 さまざまな異世界の鳥たちが、有翼のギャルソン、あるいはギャルソンヌとなり、優雅な、ときには気さくな接遇と、上質の茶菓でもてなすという趣向のこの店には、明るく華やかな若い娘や、あるいは、自分の孫のような年代の若者がふさわしかろう。愛想のない無口な爺さんなどはどう考えても、客層として場違いだろうと感じていたからだ。 だから――本当に偶然だったのだ。 たまたま、この店の前を通りがかったのも、そして、帰路につく客が店を出たのと入れ違いに、閉まる扉の隙間から、クヌギが店内に迷い込んでいったのも。 それを追いかけて、計らずも、この店の客となったのも。 状況を見て取り、事情を察知したラファエルが一歩進みでて、深々と礼をする。 「ギャルソンが、失礼をいたしました。改めまして、バードカフェ『クリスタル・パレス』へようこそ」 「なーんだ、はぐれセクタンじゃなかったのか。まあいいや、よろしくなクヌギ。いつでも遊びに来いよ。ついでにじいさんも」 ラファエルに咳払いをされながら、シオンは鷸とクヌギを、テーブル席に案内する。 「店長は気取っててヤな感じだから入りづらいのわかるんだけど、ここ、老若男女関係なしの全年齢対象の店だし、壱番世界のご近所の喫茶店感覚で、気軽に来ていいからな!」 その物言いや、人なつこい態度が、壱番世界の親戚の若者を――何故か鷸に懐いていて、ひとり暮らしの彼のもとにどうでもいい理由をつけては顔を出す若者を彷彿とさせた。 ふと、白い翼の形状に目を留める。 「きみはシラサギ、かね?」 「うん。特に聞かれてないけど店長はフクロウ。オウルフォームのセクタンにクリソツで面白いから、見る機会があったら指さして笑って」 「これシオン。何だ、いつにも増して、その態度の大きな接客は」 「場をなごませようとしてんだよ! 店長こそ、もっと気を利かせて笑いのひとつも取ってみろよ。せっかく来てくれたじいさんに、常連さんになってほしいだろ?」 「それは、もちろん。こういったご縁は大事にしたいと思う。……しかし、笑いとなると、いささか荷が重く……」 真面目なラファエルは、腕組みをして考え込んでしまった。 「――縁か」 ぽつりと、鷸は言う。 「縁といえば、たしかにそうなんだろう。私も、鳥の名前を持っているのでね」 「そうでしたか。さしつかえなければ、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」 「荷見鷸だ」 ニイミ、シギ、と、明確に鷸は発音する。 「シギさま。良いお名前ですね」 「少々わかりにくくて面倒なんだがね。なんでも、母が私を身ごもっていたとき、散歩がてら森に出かけて――」 それは、やはり偶然の、ささやかな邂逅。 森の深くに分け入った鷸の母親は、帰り道がわからなくなり―― 心細くなってしゃがみ込んでいたら、草むらから、1羽のヤマシギが顔を出した。 ヤマシギは、細い獣道を、すたすたと歩きだす。 思わずその後をついていった母親は、やがて気づく。 その獣道が、帰り道の方向につながっていることに。 瞬間、ヤマシギは飛び去って、森の奥へと姿を消した。 「そして生まれたお子様に『鷸』の名をお付けになられた。お母様はよほど嬉しかったのでしょうね。壱番世界のヤマシギは、夜行性と聞き及びます。なかなか人目につきにくいので、人間と遭遇することは稀なはずですから」 「母も、そう言っていた。もし、あのヤマシギが、自分を助けるために現れてくれたのなら、それは、お腹にいたおまえが呼んだのだろうと。しかし、長じてその話を聞いた私自身は、未だヤマシギという鳥をみたことはないのだがね」 「ヤマシギですか。それならばちょうど、異世界から……」 ラファエルは、自分の唇に人差し指をあて、声を落とす。 「向こうの隅の席にいる、黒ずくめの司書さんに気づかれないよう、ストレリチアオーガスタの鉢の陰を、のぞいてみてください」 「……?」 言われたとおりに、鉢の陰をのぞいた鷸は、そこに、1羽の鳥が身を隠しているのを見つける。 まっすぐなくちばしと、灰色のまだら模様のふわふわした羽毛。 まだヒナ鳥の、ヤマシギだった。 (きみは……?) (しーっ。さっきまでむめいのししょさんにモフられっぱなしで、やっとにげてきたんだ) (そうか……。鳥は鳥で、いろいろ大変なようだな) (ぼく、ほごされてターミナルにきたばかりなんだ。こんど、ししょさんがいないとき、おはなししようね) (ああ。そうしよう) 席に戻った鷸は、オーダーを促され、老眼鏡を取り出してメニューを見た。 ……が、よくわからないので、詫びつつ、おまかせにする。 かしこまりました、と、一礼してのち、ラファエルは、柿づくしのスイーツをテーブルに置く。 「愛媛産愛宕柿のピューレに干し柿入のカスタードクリームと柿のムースをサンドし、富山産あんぽ柿のコンポートを花型に飾った『まるごと柿のパステルムース』です」 シオンが首を捻る。 「聞いていい、店長? 何で柿づくしなの?」 「笑いを取れといったのはおまえだぞ。『熟し柿がうみ柿を笑う』という諺があるだろう」 「それ『五十歩百歩』って意味じゃんか。……笑えねぇ。大負けに負けて35点」 「……頑張って考えたのだが」 「これ、紅茶とかより緑茶が合う気がするー。なぁ、茶はやっぱ静岡茶だよなー?」 懸命にもてなされているのはわかる。 だが、鷸は、少し迷う。 笑ったものか、どうか。 ――Fin.
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