「竜刻を入手して下さい。場所は、ヴォロス南方の森の奥――」 リベル・セヴァンの『導きの書』が示すのは、この時期でも暖かい、生い茂る木々によって閉ざされた秘境であった。 それは森というより樹海と呼ぶにふさわしい。 かつては、それでもこの地を切り拓いた文明があったようだ。 だがそれも今は遠い歴史の彼方に消えた。 滅びた王国の痕跡は緑に呑まれ、かろうじて木々の合間に石造りの遺跡の一部を残すのみである。 ただ、王城であったとおぼしき場所だけは、さすがに堅牢な造りであったせいか、今でも建物の様子が知れる程度には存在している。それが目印になるだろうと世界司書は言った。 道なき道を踏み越えて、その先へ――。 突如として樹海は開け、王城の遺跡が旅人を迎えるだろう。 司書の予言は、竜刻がかつて城の庭園であった場所に眠ると告げていた。それを頼りに、苔生した道――かつては石が敷き詰められていたはずの回廊をたどれば、旅人たちは意外な光景を目にする。 遊歩道と水路、そして木々から構成される庭園が、往時そのままのように整えられているのだ。 誰かが世話をしていなければこうはならない。 ここまでの道のりのように、樹海に埋もれてしまうはずなのだ。 枝を剪定し、落ち葉を掃き、水路の詰まりを取り除いているものがいる。 だが庭園は滅びの静謐さに鎖され、人の気配などない。 そのかわり――、 見よ、鳥だ。 はばたく極彩色が、旅人の目を射る。 ひどく鮮やかな羽色の鳥たちが、この庭園には住み着いている。まるで、今はこの王国の支配者は自分たちなのだと言わんばかりに、木の枝や、庭園を飾る石像の上にとまり、羽繕いをしたりさえずったり。 わがもの顔で、梢から梢へと飛び回っているのである。「結論から言いますと、『庭園の番人』は今も作動しているのです」 リベルの声を、旅人は思い出す。「庭園に足を踏み入れるだけならば、『番人』は客人に危害を加えないでしょう。ですがなにかを持ち出すとなると――そうはいきません。戦わざるを得ないと思います。そう強敵ではないと思いますが」 庭園の番人、とは……? ロストナンバーの問いに、司書は答える。「動く彫像です。なんらかの術式により、永久に働き続ける石の園丁……。その存在が、今は鳥たちしかいない庭園と、竜刻を護り続けているのです」 それはどこか、お伽話の夢のような、美しい光景にも思われるのだった――。
1 「うっわーーー、何だこの虫!? あっ、今、派手な色のが――」 瓢シャトトには見るものすべてが珍しいものらしい。 ことあるごとに感嘆の声をあげていた。 「あんまり遠くに行かないで」 南雲マリアが声を掛ける。 そういう彼女も、しかし、シャトトが追いかける目の覚めるような色の蝶には息を呑んでしまうのだった。 ヴォロスの樹海は、生命力のるつぼと言ってよかった。 地面を埋め尽くし、どこまでも生い茂ろうとする樹木。がっちりと大地をとらえた根がどこまでも這いうねり、たくましく育った幹を支える。そしてすこしでも多く陽の光を浴びようと広がった枝とそこに茂る青葉は、鳥たちの休憩所になり、虫や小動物の行き交う森の交通路にもなっていた。 「……」 シンイェ――影が立ち上がったかのような黒い馬の姿をしたロストナンバーが一行の先頭を行く。 闇色の蹄が下生えをかき分ければ道なき道もどうということはなかった。 そのシンイェがうっそりと振り返ったのは、まだ目的地にもつかぬうちから騒いでいる無邪気な旅の仲間への苦笑のようなものだったかもしれない。 『なにかいいもの見つかった?』 エレニア・アンデルセン が、手に嵌めたウサギのパペットを通じてシャトトに訊いた。 どういうわけかこの女性、自らの声は発することなくパペットを通じて会話をする。もっとも幾多の世界から集まってくるロストナンバーに、不思議は常だ。ことさら疑問に思うものもいないようだった。 「見てくれ、ほら! きっと宝物だぞ!」 シャトトは地衣類が覆う森の地面に、文字通り埋もれるようにしてあるそれを見つけたらしかった。 『へえ……剣だね』 シャトトのトラベルギアにも似た、それは鞘に入った短剣と見えた。鞘にも柄にも微細な飾りが施されているようだが、錆に覆われ、往時のおもかげはない。それでもシャトトは大事そうに、そして誇らしげにそれを掲げて見せた。 エレニアのパペットが、シャトトの小さな友達のように、発見を讃える。 「でもこういうものが見つかったってことは」 マリアは木の枝に目立つ色の紐を結びつけ、帰りの目印としながら言うのだった。 「そろそろ遺跡に近づいてきたということね」 その推論は正しいように思われる。 かつて一帯に文明が栄え、そして王城を残して樹海に呑まれたというのだから。 「……かすかだが魔力の気配を感じる」 シンイェが空気の匂いをさぐるように、その首をそびやかす。 そして再び、道を拓きはじめるのへ、旅人たちは続いた。 シンイェのとらえた力は、悠久の時を働き続けているという石の園丁か、それとも目指す竜刻そのものであろうか。 ほどなく―― 木々の間に、その石壁が忽然と出現する。 といっても大半を蔦植物に覆われているため、気をつけていなければそれが人工の壁とも気づけなかったかもしれない。 壁は左右にどこまでも伸びているようであったが、ところどころ崩れ去っている箇所があり、そこから内側へ立ち入ることができた。 この先が、世界司書が予言に見た古き文明の残滓であろう。 「聞こえる……」 マリアが呟いた。 鳥だ。 鳥の声である。無数のさえずりがどこからか聞こえてくるのである。 「水か」 とシンイェ。かすかに、水の流れる音をその聴覚がとらえていた。 樹木に混じってやはり蔦にからめとられた石柱が並んでいる。そのあいだを通り抜け、先へ進めば。 「む――」 「わあ」 「おおっ」 『すごいね……』 視界が、開けた。 唐突に、足元に石畳の遊歩道があらわれたのだ。 道でない箇所には背の高い木が生えていて、すべてを見通すことはできないにせよ、古代の庭園がかれらを出迎えている。 「こんなに……なんて綺麗なの」 赤、青、黄――、目にしみるような原色の翼を持つ鳥たちが、遊歩道へ踏み出したマリアの頭上を飛んでゆく。 石畳のうえに、たくさんの羽が散っていた。 エレニアは、そっと目を伏せてみた。 視覚を手放せば、他の感覚がいっそう研ぎ澄まされる。 鳥たちのおしゃべりとコーラスが、この地を埋め尽くしていると言っていい。聞こえるものは、水音や風が梢を騒がせるものもあったけれど、それ以上に鳥たちの唄い、さざめく声がするのであった。 風はむせるほどの緑の匂いに、やはり水のそれが混じる。 樹海の中を歩いているより、いくぶん、空気は涼しいようだ。 『行ってみようよ、もっと先へ!』 エレニアのパペットが皆を促すのに、異論をとなるものなどいるはずもなかった。 しばし遊歩道をたどればすこし開けた場所に出た。 水路が美しいカーブを描いて伸び、そのうえに石の橋が渡されていた。 せせらぎに脚をつけて遊ぶ鳥たちの一団がいて、長い首をくねらせながら、丸い目で突然の来訪者を見つめている。 「しっかりしているけど……古そうね」 石橋の様子を見て、マリアが言った。 世界司書の口ぶりからすれば、ここに人がいたのは十年とかその程度の単位の昔ではなさそうである。 「おいらが生まれる前の、おいらの母ちゃんが生まれる前の、もっと前からあったんだろうな……」 シャトトが言った。 エレニアはわけもなく、胸がつまるような気がする。 かつてここに暮らした人々の思いなど知るすべもないが、想像以上に数多くの人生があり、過ぎていったのだと思うと、その時そのものの重みに圧倒される気がするのだ。 「こんなに素晴らしい場所を何が創ったのだろう」 シンイェの呟きに、みな、はっとした。 今のヴォロスに息づく種族の多彩さを思えば、この文明の担い手がよく知る人類であったかどうかさえ、さだかではないのだ。 しかし、かれらが何者であったにせよ、水音に癒され、緑になごみ、花を愛でていたことは間違いあるまい。 このような精緻な庭園を遺したのであるから。 「なにかわかる?」 マリアがシンイェに訊ねた。 おそらくだがこの中で、魔術的な素養をもっとも強く持つのがシンイェだと彼女には見えたからだった。 「ん――。微弱な魔力は庭園中に……。あとは特に」 シンイェは短く応えた。 影の馬は、鳥の飛び交う廃園に心奪われた様子である。 司書の言った園丁は竜刻を持ち出すにあたっては脅威となるが、逆に言えば竜刻に触れなければ害意は持たない。となると、今の庭園に危険はないということだ。 まずは竜刻のありかを探るためにも、手分けして歩いても問題はなく、かつ、効率的だと思われた。 2 とはいえ完全にバラけるのもなんとはなしに躊躇われ、自然と、旅人たちは二手に分かれて違う遊歩道を辿った。 「どうしてこんな鮮やかな色をしてるのかしら」 枝の上からマリアを見下ろす数羽の鳥たち。 オオハシに似た大きな曲がった嘴を持つ鳥だった。身体は赤く、嘴は黄色――そして、頭の上には明るい瑠璃色の羽がぴょこんと飛び出し、不思議なことに翼の先と尾羽は赤から段階的に色を変えて緑になっている。 まるで子どもが思いつくままにクレヨンを手にとって描いた絵のような配色だった。 マリアは小さなデジタルカメラを持ってきていて、そっと鳥たちの姿を収める。 そこらに舞い散る羽のひとつくらいなら持ち帰っても叱られぬだろうが、ここにあるものはここに置いておきたい気がしていた。 (本当は――) 竜刻だって、ここに眠らせておくほうがいいのではないか―― ふとそんな考えさえよぎる。 『聞いた話だけど、こういう鳥はオスのほうが色が派手なんだって』 エレニアのパペットがぱくぱくと話した。 本当はエレニアが言っているのだろうが、彼女の見事な腹話術は、エレニア自身の唇の動きを読ませない。マリアはいつしか、ウサギと会話している気分になっていた。 『それに……キレイな声』 エレニアは鳥たちのさえずりに耳を傾け、陶然とした様子である。 「――……」 そしておもむろに、口を――パペットではなく自身の――開いた。 「……」 マリアは息を呑む。 完璧に鳥の声を真似たエレニアが、歌うように鳴いたのだ。 伝言を、そのひとの声ごと覚えて預かり、必ず届けるというメッセンジャー。 鳥の声さえその喉は写しとるというのか。 そのときだった。 足音に、マリアは振り返る。 「なにかいるわ」 とっさにエレニアをかばう。 シンイェたちの言った方向とは違う。 樹木の間に、動くなにものかの姿をみとめて、マリアはトラベルギアに手をかけた。 『もしかして』 ウサギが言った。 ぬう、と姿をあらわしたのは。 『これが……“園丁”?』 身長は2メートルほどであろうか。 動く石の彫像と司書は言ったが……彫像と呼ぶにはあまりに簡素なものだった。 人型は、している。 服のようなものは身に着けておらず、ただ剥き出しの、それは石のパーツを組み合わせ、繋ぎあわせただけの、案山子のようなものだった。 ところどころに石を削って複雑な文様が彫り込まれているが、なにか意味があるのかどうかはマリアにはわかりかねた。 顔はない。 ただのっぺりとした石の表面に、人なら目にあたる場所にわずかな窪みがあるだけなのだ。 その目鼻のない顔が、マリアたちのほうを向いたが、石の園丁は何の反応も示さなかった。 そして立ち止まると、近くの木の枝へとすっと手をさしのべる。 手には意外と精巧な指がそなわっている。そしてその指さきから音もなく刃物が飛び出すと、小枝をぱちんと切ったではないか。 「わあ……、剪定してるの。そうやって、この庭をお世話してるのね!」 不気味に見えなくもない姿だったが、その仕事を目にすると、奇妙にいじらしい気持ちがわきおこり、マリアは破顔する。 「ずっと……ずっとそうしてたの?」 むろん園丁が応えることはない。 聞いてさえいるのかもわからないまま、それは背を向けると、再びもと来た遊歩道をゆっくりと戻っていく。 「たった一人なのかしら」 その背中を見ながら、マリアは呟いた。 『見て』 パペットの手が、ちょいちょいとマリアの袖を引いた。 「あ」 『昔は、仲間がいたみたいね』 エレニアが見つけたのは、茂みの中に、膝をついた格好でじっとしている石の園丁であった。 しかしその表面はうっすらと苔に覆われ、蔦に絡まれている箇所もある。なによりヒビわれ、ぴくりとも動かないから、今はただ鳥が羽を休める場所になっているようだった。 理由はわからないが、かつては何体か稼働していた園丁が、他のものは動きを止め、あの一体――少なくともまだ他に姿を見ていない――だけが働き続けているのだ。 (寂しくないかな) マリアは思った。 いくら美しい鳥たちがいても、仲間もなしにたったひとりで幾星霜の時を過ごす。 自分なら耐えられないだろう、とマリアは思う。 「なんか、似合ってるな!」 シャトトが言った。 「……何の話だ」 シンイェが首だけを小さな連れのほうへ向けて訊いた。 「シンイェがさ」 「シンでいい。おれが、とは?」 「いや、なんとなくだけど!」 言いながら、シャトトは水路と芝生を分かつ縁石にぴょんと飛び乗り、そのうえをとてとてと歩いた。 「綺麗な水だあ」 のぞきこめば、水面からも灰色ねずみがつぶらな瞳で彼を見返している。 水の中のねずみは背に拾った短剣や、落ちていた枝を背負、色のついた鳥の羽を服に挿していた。 すい――、とそれを横切って、澄んだ水の中をちいさな魚影が泳ぐ。 そおっと手をつけてみると、水は冷たい。きっと地下から湧いているのだろう。 シンイェは、シャトトが水路に落ちでもしないか見張るようにしていたが、その心配もなさそうだと悟ると、遊歩道の散策を再開する。コツコツと敷石の上で蹄が音を立てた。 シャトトが似合ってる、と言ったのは、この廃園の風景に――という意味だったらしい。 なるほど、遠目に見れば、緑深い庭園を背景に、影そのものが立ち上がり馬のかたちをとったシンイェの姿が、幻想的な絵画のようでもあった。 特に、ヴォロス南方の強い日差しが生み出すコントラストの強い陰影に、シンイェはなじむ。 「……」 遊歩道は石のアーチの下をくぐっていた。 そのアーチにも蔦が這い、ぶらさがるようにして咲いている花がある。 ハチドリが、その花の蜜を吸いにきていたので、かれらの食事が終わるのを、シンイェはアーチをくぐらずに待った。 そのあいだも、あちこちで別の鳥のさえずりが聞こえる。 心地よいものだ、とシンイェは思う。 ここが鳥の楽園になったのは人が滅びたからかもしれないが、かつてこの庭に憩うた人も、鳥の声は聞いたはずだ。 「おおい、シン、ちょっと来てくれ!」 シャトトの声だ。 影の馬は歩みを進める。 「こっち、こっち!」 遊歩道の先に、シャトトが飛び出して、ぱたぱたと両手を振った。 「どうした」 「あれって――」 水音。 そこは円形に開けた広場だった。 円周に沿って、石柱が立ち、ひとつの大きな石の輪を支えている。 あるいはかつてはここに天蓋を戴いていた可能性もあるが――それらしい残骸はなかったので、もともとこういうしつらえなのだろう。石の円環は鳥たちのものになって、広場の新たな客――シャトトとシンイェをうるさいほどのさえずりのコーラスで迎えた。 そして広場の中央には、人工の泉があった。 水の中から立ち上がっているのは、複数の動植物の意匠を複雑に組み合わせた彫刻であった。 中ほどの、魚の口から澄んだ水が滔々とあふれだしている。 どうやら地下水がここを起点に、庭園中をめぐる水路に流されているらしかった。 「それにしても美しい水だ。湧き水にしても、これほどの清浄さを保っているとは」 「それもすごいけど、あれだよ、あれ!」 シャトトは小さな指で彫刻のてっぺんを指す。 「む」 石の彫刻の頂上はなにものかの手になって、石ではない、あきらかな異質な何かを掴んでいた。 一見してそれは、象牙のように見えた。 湾曲した、大きな牙の尖端部分。 「なるほど、これが」 ――竜刻。 ヴォロスの地にしろしめしたドラゴンたちの遺骸。 「やっぱり、そうか?」 「力を感じる。様子からしてそうだろう。しかし斯様に無防備に置いてあるとは」 ヴォロスで竜刻は貴重なはずだ。 この地に人がいれば真っ先に持ち去られていたはずなのである。 しかし鳥しかいない廃園では、それを奪おうとするものなどなく、竜の牙と思しき古代の宝物は何にかえりみられることもなく、眠り続けていたのだった。尽きることのない湧き水のあふれる音をただ子守唄に聞きながら――。 3 「これを持って帰ればいいのよね」 マリアは言った。 誰も否定しない。 しかし、誰も、率先してそれに手を掛けようともしなかったマリア自身もだ。 円形広場に集まった旅人は、竜刻を前に時間を過ごす。 これを持ち去ろうとしたがさいご、今はただ寡黙にゆっくりと歩き回っているだけの石の園丁は、かれらを略奪者とみなして襲いかかってくるだろう。それが世界司書の予言だ。 戦いを恐れるものなどいない。 そうではなく、ただ――、ためらいだけがあった。 異を唱えるというほどはっきりとした拒絶ではなく、もうすこしだけ、ここで鳥たちを眺め、その声を聞いていたいような、そんな気分に4人はとらわれていたのである。 『……取るかい?』 パペットのウサギが言った。 「そう――ね……」 「あ、あのさ!」 シャトトが手を挙げた。 「俺さ、トアベルギアで罠をつくれるんだ。落とし穴とか」 壱番世界人の子どもほどの背丈のシャトトは自然とみなを見上げる格好になる。 「それで……園丁を穴に落として、動けなくして……そういうのはどうかと思うんだけど」 「つまり?」 シンイェは意を問うた。 「できるだけ園丁もこの庭も壊したくないんだ……」 シャトトは、そんなことを言い出すと叱られるのではないかというような、うかがうような声音で続ける。 『……なるほど』 「優しいのね」 ウサギのパペットがうんうんと頷き、マリアは微笑んだ。マリアも心の中では、同じことを思っていたが、口に出さなかったのは分別というものだ。シャトトの無邪気さにが羨ましくもあった。 「試してみるか」 シンイェが言うと、シャトトはぱっと顔を輝かせるのだった。 シンイェがシャトトを乗せてくれた。 「ありがとな!」 背から首へ登りつく。シンイェが水を吐く彫刻へと首を伸ばし、そこからシャトトが手を伸ばせば、竜刻を取ることができた。 「よし!」 竜の牙を、シャトトが取った。 それが取り外されると――いかなるしくみによってかは知らないが、園丁は気づくことができるのだろう。石像は庭師であり、衛兵であるのだ。石畳のうえを足早に近づいてくる音がする。それが茂みの間に姿を見せると、シャトトは竜の牙を自分とシンイェの間に挟み込むようにして支えながら、両手はシンイェのたてがみを握った。 「行ってくれ!」 「承知」 影の馬が駆ける。 「うっわ――」 「掴まっていろ」 「すげ……シンはどれだけ速く走れるんだ!?」 「舌を噛むぞ!」 急激な加速にシャトトが声をあげる。 園丁を引き離すには十分と思われたが、盗人を追う石像の脚も意外と速いのだった。 しかし。 園丁は地面に描かれたその円に気付かなかった。 シャトトのジャンビーヤの切っ先が描いた円。その中に園丁が足を踏み入れるや、それは落とし穴となってずっぽりと、石像の半身を捕らえた! 「やった!?」 カッ、とシンイェの蹄が遊歩道を打った。 シャトトが首尾を確かめるべく振り返る。そのときだ。 園丁は両手でおのれを支える。 前かがみになったその身体に彫り込まれた紋様に光が走った。 「っ!」 飛び出したのはマリアだ。 瞬時に抜き放った刀が、園丁の肩口からほとばしった光を正確に受け止めると、反射する。 「わかってるわ」 マリアは言った。 石の園丁に心があるとも思われない。 それでも彼女は、自分に言い聞かせるように言うのだった。 「竜刻を奪うことに変わりはないもの」 紋様から光の筋が、生き物のようにうねりながら浮き上がる。光を石の溝に流してかたどりをした輝く鞭のようだった。それが空気を咲きながらマリアへ向かう。 「でもできることなら」 飛び退いたところを光は鞭打ち、敷石にひびを入れる。 「戦わずに済むのなら、それが――」 鳥たちが驚いてぎゃあぎゃあと声をあげながら飛び過ぎていく。その空を背景に、マリアが飛ぶ。光の鞭がしなる。刀が閃く。 「うわああ、待って、待ってくれ……!」 シャトトが駆け込んでくる。 「いかん」 シンイェが動いた。 黒い虹がかかるように跳躍する。まるで重さがないように――いや真実、その瞬間のシンイェには体重などない。純粋な影としてシャトトの周囲を影の茨のようにして囲う。光の鞭がそれに触れたが、逆に影の中に吸収されるだけだ。 そのとき、かれらは鳥の声を聞く。 ひときわよく通る、鋭い声。それはエレニアが真似た鳥の声だった。 瞬間――、園丁がその動きを止めた。まるで、剪定しようとした枝先にふっと舞い降りた鳥を見て、その仕事の手を止めるように。 たん、とマリアが着地する。シャトトたちを背に、刀を構える。 園丁の動きは素早くもなければ剣士のそれでもない。 次に園丁が動けば、下方から斬り上げる太刀筋が外れることはないだろう。トラベルギアの刀だ。おそらくその一太刀で勝負は決するはずだ。 今となってはこれしかない。ならべせめて迷わないことが挟持だ。 覚悟とともに刀の柄を握りしめた。 しかし。 「……えっ」 いつまで待っても、園丁は動かなかった。 紋様を輝かせていた光が、すうっと薄らいで消えていく。 「まさか」 「……いや」 シンイェが頷いた。 ぐらり、と石の身体がバランスを崩して傾き、遊歩道の上に倒れた。 「これは推測でしかないが」 シンイェが言った。 「いかに優れた術式だろうと、真の永久機関を実現するのは容易くないだろう。いつかは、停止することは定められていたのではないだろうか」 「それが……今日だったの? わたしたちが来る日に? 偶然? そんなことって」 信じられない、という面持ちで、マリアが言った。 「逆だ。今日がその日だったからこそ、『導きの書』に予言があらわれたのではないだろうか」 「あ――」 今日で廃園の番人がかりそめの生命さえ終えるという日。 竜刻を護るものが誰もいなくなる日。 「だったら……」 シャトトが声を震わせる。 「明日にしてくれたらよかったのに」 彼の毛並みを、マリアはなでた。 「でも、かれに会えたわ」 だとしたら。 見届けることがロストナンバーに課された役割だったのかもしれない。 シャトトはもう一度、シンイェの背を借りて、竜刻があったところに自分の見つけた宝物――古代の短剣を飾った。 「こんなんで代わりになるかどうかわかんねぇけどさ!」 ぐすり、と鼻をすすりあげ、それでも、小さな胸を張った。 シンイェはマリアの頼みも聞いてくれた。あの、すでに停止していた別の園丁も動かして、円形広場にともに座らせたのである。石の園丁をふたり並ばせると、エレニアが鳥の声を歌った。 それに引かれて――、廃園中の鳥たちが集まってきた。 石の円環に、園丁の肩や頭に、水べりに、そしてシンイェや、マリアや、エレニアや、シャトトの傍に――。 色の洪水のように、鳥たちが舞い降り、思い思いにさえずった。 葬送だとすればあまりに賑やかな、悠久の時を働き続けた園丁が、最後の仕事を終えた、それがその一日であった。 鳥よ歌え。 樹海を育む南風が、蜜のしたたる花の香りと、萌え息吹く緑の匂いに咽返るようだ。 園丁が眠れば、いよいよこの廃園も、圧倒的な大地の奔流に呑まれ、消えていくだろう。すなわち、緑に覆われて樹海の中に沈んでゆく。 それを知ってか知らずか、鳥たちはいつまでもさえずり続けていた。 (了)
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