「大変だ。アリッサが……、アリッサが、レディ・カリスのお茶会に呼び出されたきり、戻ってこない……。もうこんな時間じゃないか。いくら何でも遅すぎる……。ああ、どうしたらいいんだ」 ブランは先ほどからずっと、懐中時計を手に、図書館ホールをせわしなく行き来していた。彼らしくもなくひどく狼狽しており、ご自慢の純白の毛並みも今日は精彩を欠いている。「レディ・カリスですって?」 世界計の前にいたリベルが、その名を耳にするなり、さっと青ざめた。これもまた、あまり感情をあらわにしない世界司書にしては珍しいことだった。 世界図書館上層部に属する女性、通称、レディ•カリス。 本名は別にあるらしいが、それを知るものはごく一部だ。《赤い城》と呼ばれる建物に暮らし、あまり表には出てこないけれども、隠然たる勢力を持ち、支持者の数も多い。 そして――アリッサが館長代理を務めていることを快く思っていない上層部の、ひとりでもあった。「ですが、なぜ館長代理は、レディ・カリスから呼び出しを?」 カリスとアリッサは、まったく親交がなかったはずだ。仲が悪い、と言ってもいい。お茶会に誘う意味がわからない。「それなんだが……。どうも、そのう、アリッサのイタズラというか、暴走がバレたらしいんだ」「館長代理のイタズラ……? 壱番世界の無人島の? 楽しげな報告書が上がってきてますし、あれは別に、誰に迷惑をかけるものではなかったのでは?」「ちがうちがう。それじゃなくて、その前。アリッサが秘密のビーチを開放したことがあっただろう」 旅に出られない立場を嘆く飛鳥黎子の言葉がきっかけで、アリッサがロストナンバーたちをこっそり案内した、海と砂浜のチェンバー。「そんなことがありましたね。世界司書の誰もが存在を知らなかったので、あんなチェンバーがターミナルにあったことに驚きましたが、あれは結局誰の管理下の……」 聡明なリベルは、恐ろしい可能性に思い至る。「まさか」「そのまさかだ。あのチェンバーは、レディ・カリスのプライベートビーチだった。アリッサはカリスに内緒で皆に開放したんだ」「それがばれてしまって、お茶会とは名ばかりの呼び出しを受けた?」 リベルの顔が曇る。 面識はないのだが、レディ•カリスが容赦のない気性であることは耳にしている。 アリッサの微笑ましいイタズラを――リベルであれば、「ロストレイルを隅々までピカピカに掃除しなさい!」程度ですむことを、おそらく、レディ•カリスは許さない。 * * * 深い森さながらに木々が連なる獣道を、右に左に歩き続け、位置がわからなくなりかけたとき、ようやく、その建物が見えてくる。《赤い城》は、古めかしい赤煉瓦を堅牢に積み上げた、城砦のようにものものしい外観だ。 しかし、一歩中に入れば、大広間を飾る精緻なタペストリーと薔薇窓のステンドグラス、部屋ごとに趣向の違う装飾、華麗で優美な調度品の数々が、訪れるものの目を奪う。 とりわけ、広い中庭に設けられた薔薇園が素晴らしい。 オールドローズで形づくられた華やかなアーチ。モダンローズで構成された花の迷路。中央に建てられたクラシカルな東屋。東屋を放射状に取り囲むのは、はかなく甘い香りのクラシックローズの生け垣。 季節をもたぬターミナルのこととて、薔薇は常に満開だ。香りの良い薔薇であればあるほど花弁は薄くデリケートで、散り際さえも硝子の花が砕けるごとく、はらりはらりと美しい。 ――薔薇園の中心にある、その東屋。 お茶会の場所としては最適であろうその場所に呼び出されながら、そして、テーブルの上には、華やいだお菓子と宝石のような果物がきららかに並び、銀製のカップには上等の紅茶が注がれていながら―― アリッサは、テーブル席に付いてはいなかった。 ……いや、椅子に腰掛けることさえも、許されてはいなかった。 東屋の外、薔薇の植え込みの真横、つまり地面の上に直接――正座させられていたのである。 リリイに仕立ててもらった秋仕様の新作ワンピースも、少し背伸びをして履いてみたおろしたてのハイヒールも、泥にまみれ、さんざんな有様になっている。 それでもアリッサは、果敢に謝り続けていた。「ごめんなさい。ごめんなさい、レディ•カリス。チェンバーを無断で公開したのはよくなかったと思うの。でも、でもね、みんな、とっても楽しそうで、ありがとう、って言ってもらえて、海の家で食べた焼きトウモロコシも美味しくて、他にもね、たくさん」「お黙りなさい」 凍てついた声が、ぴしゃりと遮る。「皆が喜ぶことをしたのだから、黙認しなさいというのね? あなたがどんな悪さをしても、わたしは我慢して優しく許してあげればいい。そういうことね?」 レディ・カリスは、自分だけ椅子に腰を下ろし、銀のカップを持ち上げる。 ヴィクトリアン風シルエットのドレスに包まれた、豊満な肢体。古風に結い上げた金褐色の髪を飾るのは、色合いの違うルビーの粒を連ねた髪飾り。深紅のガーネットのイヤリングが、白い耳元で揺れる。 瞳のいろは、冬の湖を思わせるペールブルー。 ひとの心を見透かして、やわらかな弱い部分を容赦なく抉るような、その視線。「あ……、あの」 アリッサはなおも言いつのろうとした。 あのチェンバーが、どれほど楽しい思い出を残したか。吹き渡る風と、きらめく飛沫。色とりどりのパラソルの下で、笑み崩れていた人々のことを。 だが……。 じわりと浮かんだ涙に、楽しかった記憶が陽炎のように揺れる。もう言葉が出てこない。「泣くの? ……いいわねぇ、あなたは。それで事が済んで」 氷の壁にも似た冷たさで、カリスはアリッサを見据える。「寂しいの、と言えば、みんなが同情してくれるのでしょう? 困ってるの、と言えば、みんなが助けてくれるのでしょう? 何か失敗をしても、いいよいいよって許してもらえるのでしょう?」 ぴしり、ぴしりと、言葉の鞭は止まない。「……違う。それは違う」 アリッサは唇を噛み、首を横に振る。「私が頼りないのは本当のことだから、怒られてもいい。でも、その言い方は皆に失礼です! 取り消して謝ってください」「何ですって?」「もういいでしょう。私、帰ります」 ぽろぽろ涙をこぼしながらも、アリッサは立ち上がった。だが、長時間の正座がたたり、しびれた足は用をなさず、ふらつきざまに薔薇の生け垣に尻もちをついてしまった。 足首に激痛が走る。捻挫したようだ。 カリスは一瞬だけ表情を強ばらせ、しかしすぐに、余裕のある笑みを浮かべた。「帰りたいのなら、帰ってもいいのよ。……ただし」 ひと呼吸置いて、バラ園を見渡す。 清楚なパールホワイト、可愛らしいライラックピンク、甘やかなマゼンタピンク、やわらかなアプリコットイエロー、神秘的なパープルオレンジ。数えきれない複雑な彩りで、あふれた庭を。「この庭の薔薇を、すべて赤に変えてごらんなさい」「変える? 色を? ……そんなこと……」「それができたら、わたしのプライベートビーチを無断で公開したことを、許してあげましょう」 * * *「お茶会への招待状を、偽造しました。4通あります」 赤い薔薇の刻印が押されたペールブルーの封筒を、リベルはロストナンバーたちに差し出す。「ええっ、ちょ、リベルさん?」「偽造って」「大胆」 目を丸くする彼らに、いつもの沈着冷静さで、リベルは言う。「早急に《赤い城》に赴き、館長代理の救出をお願いします」「そうだな。急いだほうがいい」 ブランは懐中時計を確認する。「もうすぐ、ターミナルに雨が降る時間だ」
ACT.0■薔薇の枝の花言葉 あなたの不快さが、わたしを悩ませる。 ACT.1■痛みの檻 コレット・ネロ。綾賀城流。東野楽園。枝幸シゲル。 リベルは、招待状の宛名欄に、4人の名前を書き加えた。 コレットは、彼女に似合う清楚な服装で、 流は、濃紺のタキシードにブラックタイを合わせ、 楽園は、ほっそりと華奢な身体を漆黒のドレスで包み、 シゲルは、綾織の着物を身につけ、襟足まで伸びた髪をひとつに括り、伊達眼鏡をかけ―― それぞれの正装で、《赤い城》へ赴いた。 * * * アリッサは唇を噛んだまま、顔を伏せ、動かない。 肩が震えているのは、泣いているからか。 それは捻挫した足首に、茨の棘が擦傷を加えたからか。 それとも、悔しいからか。 悲しいからか。 ――情けない、からか。 * * * 「この城には、レディ・カリスの招待を受けたお客様しか入ることはできません」 「本日のお茶会のご招待客は、アリッサ・ベイフルックさま只ひとりとなっております」 「すみやかに、お引き取りください」 「お引き取りください」 城門前にいたふたりのフットマンが、4人の入城を遮る。 人形めいた端正な顔立ちの青年たちは、抑揚のない、感情を伴わぬ声で、交互に言った。右のフットマンの上着には魚の意匠の刺繍が、左のフットマンの上着には蛙の意匠の刺繍があるのが、どこか異様だった。 「招待状なら、いただいています」 流が、代表するかたちで一歩、進み出る。 彼は本来、フランクで親しみやすい人柄である。くだけた陽気な口調が持ち味だが、今は、城の主に敬意を表し、丁重に紳士的にふるまっていた。 招待状を検分したフットマンたちは、互いの顔を見合わせる。 「……これは」 「たしかに、カリスさまの……」 「お茶会の招待状」 「大変失礼しました」 打って変わって慇懃な態度で一礼し、ふたりのフットマンは同時に手を打った。 ――すると。 「「「「いらっしゃいませ」」」」 クラシカルなエプロンドレスのメイドが4人、現れた。おとなしげな顔立ちの、似通った雰囲気を持つ娘だ。 それぞれ、ロングスカートの裾いっぱいに、ハートの意匠、ダイヤの意匠、クラブの意匠、スペードの意匠が刺繍されている。同じ所作と言葉でお辞儀をするので、彼女らもどこか、作りものめいて見えた。 左右のフットマンが、同時に指示を出す。 「お客様のご案内を」 「お客様を、カリスさまのもとへ」 「「「「かしこまりました」」」」 さあ、こちらへ、と、ハートのメイドにいざなわれ、コレットはおずおずと頷く。 「あ、はい……」 「ねえ、メイドさん。このお城にはどれくらいの人数が勤めているのかな?」 シゲルはダイヤのメイドに問うたが、 「「「「そのご質問にはお答えできません」」」」 4人いっせいに拒まれて、肩をすくめる。 「……悪夢のようにすてきなところね。気に入ったわ」 クラブのメイドに声を掛け、楽園は満足げに、オウルフォームのセクタン『毒姫』を撫でる。 「案内してくれて、ありがとう」 流はスペードのメイドに謝意を伝えたが、返事はなかった。 中庭へ案内された彼らが見たものは――芳香を放って咲き誇る、色とりどりの薔薇の海。 その中央に建つ、瀟洒な東屋。 銀の大理石のテーブルに並べられた、目を奪う華やぎに彩られたお菓子。洗練されたティーセット。 そして、女王然とした、いとも優美なシルエットの女。 「「「「お客様をご案内しました」」」」 恭しく告げるメイドたちに、レディ・カリスは、美しく弧を描いた眉をひそめる。 「アリッサ以外を招んだ覚えは、ないのだけれど」 進みでた流が、再び招待状を見せ、丁重に頭を下げた。 「レディ・カリス。お目にかかれて光栄です。本日はお茶会にご招待いただきまして、ありがとうございます」 「あなたは?」 「綾賀城と言います。綾賀城流」 「……流さんね。お医者様なのね。小児科医、かしら?」 澄んだペールブルーの刺すような視線を、カリスは流に向ける。 「はい。……わかりますか?」 「ええ、何となくね。わたしの姉は、小さいときからお医者さまに……、いえ、何でもないわ」 偽造の招待状を手にしたカリスは、仔細に眺めてから、喉の奥で笑う。 「リベル・セヴァンのしわざね。よくできていること。頭のいい娘は好きよ――このかたがたを、正式な招待客と認めましょう。お茶の用意を」 ハート、ダイヤ、クラブ、スペード。メイド4人が一礼して去るのを見届け、カリスは楽園に視線を移す。 「綺麗なお嬢さん。あなたのお名前は?」 「東野楽園よ。よろしくお見知りおきくださいな、美しい女王様」 礼儀正しくそう言うなり、それまで流の隣に立っていた楽園は、流が医者と知ったとたん、じりりと距離を取った。 流が楽園を心配そうに見た。彼は何も悪くない。だが、医者は……、それも白衣を身につけた医者は、わけあって嫌いなのだ。今日、流は白衣を着ていないので、助かったけれども。 「枝幸シゲルだよ」 カリスに問われる前に、シゲルは名乗った。 「職業は何だと思う? 当ててみてよ」 「まあ」 カリスは興味深そうにシゲルを見つめ、そして、素晴らしい織の着物に目を留めた。 「この着物は、あなたのお手製なのかしら?」 「そうだよ」 「布を仕入れたのだったら腕のいい仕立て屋さん、布を織ったのだったら織物職人さん、かしらね」 「これは『綾織』っていうんだ。だから綾織職人が正解だけど、まけてあげる」 涼やかな雰囲気の少年の、いささか高飛車な物言いに、カリスは楽しそうに目を細める。 「それはうれしいわ。綾織のお話、ゆっくり聞かせてくださいな。……どうなさったの? かわいらしいお嬢さん」 「はじめまして、カリスさま。コレット・ネロと申します。……あの」 コレットは、中庭に案内されたときから、薔薇の海を見回していた。 それは一刻も早く、アリッサを連れ帰りたいと思ったからで……。 「カリスさま。アリッサさんは……、館長代理は、今、どこにいるんですか?」 「あらあら。せっかく皆さんと、こうしてお知り合いになれたことだし、お茶を飲みながら楽しくお話しようと思っていたのに。無粋なことを仰るのね?」 カリスは小さく嘆息し、しなやかな指で、薔薇園の一角を指し示す。 咲き乱れる白薔薇の茂みの陰に、アリッサはいた。 薔薇の牢獄に絡めとられた少女は、ぼんやりと宙を見つめている。 おろしたてのワンピースはかぎ裂きができており、脱げたハイヒールは反対方向に転がっている。 むき出しの両足は泥だらけだ。 「あの無節操なイタズラ娘は、わたしのプライベートビーチを無断で公開した罪でお仕置き中よ。この庭の薔薇を赤く変えられない限り、帰してあげないことにしたの」 ACT.2■心の棘 「……アリッサさん!」 駆け寄ったコレットは、あまりのことに悲鳴を上げそうになり、両手を口に当てた。 泥まみれで擦り傷だらけの顔や手足や衣類もさることながら、なによりコレットを驚かせたのは、赤黒く晴れ上がり、擦過傷から血がにじむ、右足首の惨状だった。 「……ひどい」 ハンカチを取り出して、顔の汚れを拭く。 「……誰……? 私、どうしてここに」 しかしアリッサは、涙の乾いた顔を無感動に上げただけだ。 目の焦点が合っていない。目の前にいる金髪の少女が何者なのかさえ、わからないようだ。 「怪我の手当を、しなくちゃ」 コレットは惜しげもなく、自分のスカートを引き裂いて包帯を作った。 てきぱきと、いつものおっとりした彼女らしからぬ手際の良さで、アリッサの捻挫に応急処置を施していく。その手慣れ具合は、こういった怪我の処置を、自力で習得せざるを得ない環境にいたらしいことを伺わせた。 「しっかりして、アリッサさん。……よく頑張ったね」 そっと頭を撫でられて、アリッサは、はっ、と、正気に戻る。 「コレットさん――それに」 カリスのそばにいる3人を、アリッサはみとめた。 「綾賀城さん。楽園さん。枝幸さんも……」 乾いたはずの涙が、また、ぽろぽろと溢れる。 「ありがとう……。ごめんなさい……」 テーブルの上に置かれた偽の招待状が、すべてを物語っていた。 リベルが彼らを、この城へ寄越してくれたのだ。 他ならぬ自分のために。 彼らのために未だ何もなし得ない、未熟な館長代理のために。 「ねえ、アリッサ。アリッサも悪いんだからさ、そうなったのは自業自得だと思わない?」 シゲルが、わざと辛辣に言う。 「……ええ、そうね、枝幸さん」 「貴女には同情しないわ。レディ・カリスの言い分は正しいもの。誰だって寝室を暴かれたら厭でしょ? 聖域を荒らされたら不快よね?」 「ええ、そうね、楽園さん」 「貴女、謝罪のあとに、『でも』と『だって』を続けなかった? そんなの、ちっとも誠意が感じられない。女王のお膝元を借りて遊ぶなら、正当な手続きを踏んでお許しを得るべきだったのよ」 楽園の語調は、カリスとさほど変わらぬほどに冷たく鋭い。しかしアリッサは、素直に頷く。 「ええ。そう思うわ」 「……待って。それは正しいのかもしれない。それでも……」 「あら……。あなたも『でも』っていうのね?」 楽園は、厳しく筋を通そうとする。コレットは、ゆっくりと首を横に振った。 「聞いて。アリッサさんは私たちを喜ばせようとしてビーチに案内してくれたし、私たちはとても……、とても楽しかった」 コレットは涙ぐみながら、アリッサを抱きしめる。 「アリッサさんの『イタズラ』は、いつだって私たちを楽しませようとしているの。アリッサさんはいつもいつも、私たちのことを考えてくれているの。今だって、ここでカリスさまに謝ったり怒ったり泣いたりしてるのも、全部全部、私たちのためなの」 コレットのこぼした涙が、アリッサの頬にこぼれる。どちらがどちらの涙なのかわからぬほどに、ふたりの少女は泣いた。 「……コレットさん」 「ありがとう」 「……え?」 「ありがとう。あのビーチを開けてくれて。私たちを呼んでくれて。アリッサさんのお陰で、みんなも私も、ターミナルにいながら、海辺のバカンスを楽しむことができた」 「コレットさん」 「だけど、このお城に呼ばれるときは、ひとりで行っちゃだめよ。今度から私たちにも相談してね」 「レディ・カリス」 コレットの言葉を遮るように、流が深く頭を下げた。 「申し訳ありませんでした。自分も、ビーチに設けられた水上カフェで楽しい時間を過ごしたことを否定したくはありません。ただ、無断侵入者となってしまったことを、館長代理とともに、お詫び申し上げます」 「まあ、あなたが詫びることはないのよ、綾賀城さん。責任はすべて、アリッサが負うべきなのですから」 カリスは冷たい笑みを浮かべ、コレットを見やる。 「可愛いコレットさん。あなたは、あなたを守りたがるナイトには事欠かないのでしょう? だからそんなふうに、優しくかわいらしいままでいることができるのね?」 「少し、違います。カリスさま。私は、私を守ろうと思ってくれているひとを、私も、守りたいと思います」 「そう……。あなたに限らず、そう考えているひとは、ターミナルにはとても多いけれど。それはとても幸せで、とても不幸なことね」 謎めいた言葉を唇にのせ、カリスのまなざしは遥か遠くを見る。 「アリッサさん、立てそう? 私が肩を貸せば歩ける?」 「あ、うん。何とか……」 「カリスさま」 コレットは、毅然とした態度でカリスに向き合う。 「ご招待、ありがとうございました。ですが、今日はもう、おいとましたいと思います」 「あら……、残念だわ。せっかくいらしてくださったのに」 「館長代理の体調も悪いみたいですし、一緒に連れて帰りたいのですけど……。ビーチの無断公開を許してくださる条件は、『庭の薔薇を赤に変える』でよろしいでしょうか?」 ACT.3■全て、赤 「『条件』ね。そういう言い回しは大好きだわ。それではあなたに免じて、『アリッサ以外の誰が行っても構わないものとする』と、条件の追加を行いましょう」 「……失礼ながら、目を閉じていただけますか?」 流が、突然、そう言った。 急な申し出に、カリスは怪訝そうに首を傾げたが、すぐに、ふっと笑って目を閉じる。 「最初にあなたから、課題に挑戦なさるというわけね?」 「僭越ですが」 流は、内ポケットから何かを取り出した。 サングラスだ。それも、レンズの色が黒ではない――赤いサングラス。 カリスの耳にそっと、赤いレンズのサングラスが掛けられる。 「目を、開いてください。ゆっくりと」 全て、赤。 カリスの視界が、赤く染まる。 「いかがでしょう? 薔薇はすべて、赤く染まりましたよ」 「……そうね、薔薇以外のものも」 カリスの声が、わずかに苛立つ。 「美しい貴女に、怒った顔は似合いませんよ?」 サングラスを外してやりながら、流は、いつもの陽気で気さくな調子で言う。 「な? ほんの少し見方を変えただけで、『世界』ってのは、こんなにも変わるもんなんだぜ」 悪戯っぽくにやりと笑い、流はまた、口調を改めた。 「貴女から見れば、アリッサ嬢は未だ幼く、未熟でしょう。悪戯が過ぎることも多々あります。ですがそれは『無限の可能性』を秘めているとも言えるのではないでしょうか? どうか今しばらく、アリッサ嬢と我々を見守っていてはいただけませんでしょうか?」 「……この子が成長できるとは、思えないわ」 「もしもこの先、判断材料のすべてが『危険』を示すのであれば、その時こそ、貴女の全身全霊をもってアリッサ嬢と我々を止めて下さい。お願いいたします」 「止めても、いいのかしら? 止めてもいいのね? ……そう」 うっとりするほど綺麗な、しかしどこか禍々しい笑みを、カリスは浮かべる。 「約束するわ。判断材料のすべてが『危険』を示すのであれば、わたしの全身全霊をもって、アリッサとあなたがたを阻止しましょう。あなたがたの考えている『危険』と、わたしの考える『危険』が、同じものとは限らないけれど」 「そうだねえ。要は認識の問題だと思うんだよ」 そう言いながらシゲルは、白薔薇の茂みに分け入り、アリッサのそばに来た。 「……ああ。かなりひどいね」 重い捻挫の様相に、渓谷の湧水のごとく澄んだ瞳を、心持ち曇らせる。 「あとで綾賀城さんに診てもらうといいかも知れないね。……ところでアリッサさん」 アリッサと、そのそばにいるコレットだけに聞こえるように、シゲルは声を落とす。 「レディ・カリスって、どんなひとなの?」 アリッサは、力なく首を横に振る。 「わからない……。わからないの。何を考えているのか、少しも」 「本当は優しい人ってことはない? おそらくカリスさんは、無断でビーチを公開したことを、もう怒ってないと思うんだ。無理難題を吹っかけたのは、キミの捻挫が重症そうだからすぐに動かしちゃいけないって考えたのかなとも思う」 「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。だけど私は、あのひとに好かれている気は、しないの」 「それも認識の問題かな。難しいね」 実はね、と、シゲルはさらに声をひそめる。 「赤い薔薇の課題は、使用人たちと口裏を合わせることが可能ならクリアできるって、最初は思った。この場にいるレディ・カリス以外の全員が『庭の薔薇は全て赤に変わりました』と言えば、カリスさんはそれを認めざるを得ない。だけど」 シゲルは東屋を振り返り、カリスの後ろに従順に控えているメイドたちに、意味ありげな視線を送る。 「フットマンもメイドも、なかなか手ごわいから、それはなしにした。で、コレットさんにお願いがあるんだけど」 「なにかしら?」 「たぶんキミも、カリスさんを唸らせるような、いい策略を持ってるんだろうとは思うんだけどね。それを披露する前に、ちょっと僕の案に協力してほしい。キミのトラベルギアの力を借りたいんだ」 ――薔薇だけを赤く写すカメラを、具現化できないかな? それが、シゲルの提案だった。 コレットの羽ペンで具現化したカメラを手に、シゲルはカリスのもとへ行き―― 薔薇園を背にしたカリスの写真を、撮った。 「どう? 庭の薔薇は赤に変わりましたよ?」 「ふふ……。あなたも、『認識の問題』だと解釈するのね」 赤一色の薔薇園に立つ自身の写真を見せられ、カリスは薄く笑う。 「綾賀城さんにも枝幸さんにも合格点をあげましょう。楽園さんは、他の考えがありそうね?」 「簡単よ」 楽園は、彼女のトラベルギアである鋏を、人間の背丈ほどにも大きく変化させた。 そして――咲き誇る黄色のクラシックローズに近づける。 「赤以外の薔薇を、全て切り落としてしまえばいいのよ。そうでしょう?」 銀の切っ先が、鋭くきらめく。いざとなれば人間の首さえも切断できそうな刃に、一同は息を呑む。 大輪の薔薇たちは、断頭台に首を差し出した王妃のように、はかなげに揺れた。 「これで、あなたの思し召しどおりの結果になると思うのだけど、いかがかしら?」 漆黒のドレスの美少女は、巨大な鋏を手にしたまま、礼に則ってお伺いを立てる。 カリスは含み笑いを漏らしながら、片手で制止の所作をした。 「物理的なアプローチ、ということね。そして、わたしが止めるであろうことを見越しての――脅迫」 さも面白そうに、くくく、と、声が響いた。 「わかったわ、降参しましょう。丹精した薔薇を切られてしまっては、庭師が哀しむもの」 「譲歩いただけるのなら、提案があるの」 もとより、薔薇を切るつもりなどなかった楽園は、あっさりと鋏を納めた。 そして、入れ替わりとでもいうように、一通の封書を取り出す。 赤天鵞絨のようなあたたかな色味に、金の縁取り。 その封書のデザインは、ロストレイルの車両を思わせる。 ちょうど、白薔薇の茂みから、両脇をコレットとシゲルに支えられたアリッサが歩み寄ってきた。 楽園は封書を、アリッサに差し出した。 「アリッサ。貴女は女王に筋を通すべきだと思うのよ」 「これは……」 封書の宛名と、差出人を見て、アリッサは目を見張る。 何となれば、宛名は、レディ・カリスとあり――差出人は、アリッサ・ベイフルックとなっていたから。 「招待状?」 「そう。新しいお茶会への招待状よ。貴女が主催者で、女王は招待客。貴女の手で、カリスに渡しなさい。今度はあなたが、女王様をおもてなしするの」 アリッサがおずおずと、楽園が用意してくれた招待状に手を伸ばしたとき―― ターミナルに、雨が降り出した。 薔薇園に、銀色の幕が降りる。 ACT.4■星掛けの空 だが―― アリッサが手にするまえに、招待状は、横合いからカリスに攫われた。 「楽園さんの心遣いはうれしいけれど、アリッサの招待なら、わたしは応じないわ――コレットさん、あなたの羽ペンを貸してくださる?」 コレットの羽ペンを用いて、カリスは、招待状の主催者欄に二重線を引いた。 アリッサの名前を消し、その上に、別の名を記す。 リリイ・ハムレット、と。 「もし、お茶会にご招待くださるのなら、主催者はリリイにお願いしたいわ。会場は、そうね……」 頬に手を添え、カリスはしばし、想いを巡らす。 「画廊街の外れにある古い劇場が、修復されたと聞いたわ。その劇場の小ホールを使って、リリイが趣向を凝らしてくれるのなら、出向くのも悪くないかもしれないわね」 うつむいたアリッサに、コレットは静かにささやく。 帰りましょう。 帰って、傷ついた足と心を、癒しましょう。 ほら。もう、雨は上がったから。 女王が提示した過酷な課題は、もう、クリアしているけれど――私も。 コレットのナレッジキューブが、星掛けの花火に変わる。 雨上がりの空に打ち上げられた薔薇のかたちの花火が、雨上がりの空を彩る。 緑は、硝酸バリウム。 黄は、シュウ酸ソーダと炭酸カルシウム。 青は、花緑青と酸化銅。 銀は、アルミニウム。 金は、チタン合金。 そして赤は、炭酸ストロンチウム。 緑から黄に。青から銀に。金から――赤に。 空一面を彩った薔薇は、赤く染まった。 「レディ・カリス。庭の空に咲いた薔薇は、全て赤に変わりました。館長代理を連れ帰っても良いですか?」 カリスは、答えない。 おそらくは、それが答。 コレットは深々と、礼をした。
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