飛天鴉刃は一人だった。 視界は不可解に歪み、隣には誰もいない。白い天井、白い壁。ベッドも白だ。傷だらけの鱗を隠すようにかけられた布団からは消毒薬の匂いがする。 「……またここであるか」 真っ白な部屋の中の鴉刃はインク染みのようであった。 重傷者専用の個室に放り込まれるのは二度目である。一度目は百足兵衛との初戦後。そして今回は百足を討ち取った。 二度あることは三度ある。またこの部屋の厄介になる日が来るのだろうか。 世界樹旅団との火種は今なお燻り続けている。 廊下で喧騒が続いている。一般病棟から隔てられた個室では呼吸心拍監視装置が息づくばかりだ。鴉刃の腕にはいつかのように点滴が繋がれていた。この鱗を破って針を刺すのは至難の業であったろう。それとも特殊な針を使っているのだろうか。数多の存在が集うターミナルなら有り得る話だ。 医療スタッフも様々な経験を積んでいるに違いない。赤い血や臓物を持つ者ばかりとも限らぬ。 百足の血は赤であった。 見上げる天井には鋲のような物がぶつぶつと打ち込まれている。鴉刃の思考もぶつぶつと千切れて浮遊する。天井の鋲の一つ一つが今にもうぞうぞと蠢き出しそうだが、気のせいに違いない。遠近感が狂っているせいだろう。しかしまるで蟲……蟲? 百足……百足……いいや、終わったことではないか。鋲でも数えて気を紛らわそう。一、二、三、四……あの蟲の足は何本あったのだろう。腹の中はどうなっていたのか……口や感覚器、それから―― 天井の鋲がぎょろりと動いた。それは目玉だった。血走った数多の目がニタニタと鴉刃を見下ろしている。 「……落ち着け」 自分に言い聞かせるように呟く。目を閉じる。 「落ち着け」 両目を開こうとした瞬間、右目に激痛が走った。それは熱。疼き。あるいは、神経を齧られるような感覚。反射的に手をやった幹部には清浄な包帯が巻かれている。 包帯の下には何もない。眼窩が無為に口を開けているだけである。しかし鴉刃は戦士で、アサシンだ。身体の欠損に感じ入るような情緒など持ち合わせていない。 これが代償だと言われたら鼻で冷笑しただろう。 俄かに廊下が騒がしくなる。どたどたと近付いてくるのは足音か。何事かと訝しんだ時、病室のドアが勢い良く開かれた。 「え、鴉刃ー!」 白と黒だけの病室に銀色の猫が飛び込んできた。 「……アルド」 鴉刃の全身から一気に力が抜けていく。 「うん、僕だよ、分かる? 鴉刃――」 一直線に突っ込んできたアルド・ヴェルクアベルはベッドに至る寸前で足を止めた。しろがねの被毛がさわさわと逆立ち、髭がぴくぴくと震えている。 「……鴉刃」 「何事であるか」 「鴉刃? だよね?」 銀色の瞳が震えながら濡れていき、鴉刃は「う、うむ」と肯くしかない。 「僕のこと見える?」 「ああ」 「僕の名前分かる?」 「アルドであろう。アルド・ヴェルクアベル」 それがどうかしたのかと言いかけ、鴉刃はきまり悪げに口をつぐんだ。 アルドがぽろぽろと涙をこぼし始めたのだ。 「鴉刃……鴉刃……鴉刃」 「お、落ち着け」 「良かった、良かった、ほんとに良かったよぉ~!」 アルドは顔面をくしゃくしゃにして泣き崩れてしまう。閑寂ばかりが横たわっていた病室に賑やかな泣き声が満ちていく。 「し、しんぱ……心配、したんだから」 美しい被毛がたちまち涙でぐちゃぐちゃになっていく。 「だって、だって! すっごい血まみれだったし!」 「す、済まぬ」 「い、い、いきででくれで」 「む?」 「生きててくれて……帰って来てくれて……ほんとに……」 「待て、アルド」 鴉刃は珍しく狼狽していた。重傷の身でなければアルドに駆け寄って肩を抱いていたかも知れない。 「ど、どれだけ心配したかは既に聞かされた。もう良いではないか」 実は帰還の際の救護車両で似たようなやり取りがあったのだ。泣きじゃくるアルドとうろたえる鴉刃の姿はちょっとした注目の的だった。 「もう良いって何!」 アルドがきっと顔を上げる。きつく睨み据えるような眼差しに鴉刃は口をつぐむ。だが、決然と結ばれたアルドの唇はすぐにほどけてしまった。 「何も良くない、全然良くない! ぼ、僕がどれだけ心配したか」 「……む」 「鴉刃、いっつも一人で行っちゃうんだから!」 潤んだ銀眼で胸を撃ち抜かれ、鴉刃の息がはっと止まった。 「こ、こっちはただ待ってるだけで。外から報告書見てる方は気が気じゃなくて……!」 鴉刃は言葉を失って視線を伏せる。我を失ったのは鴉刃も同じだ。百足が来るという情報を小耳に挟んだ瞬間、目の前が激情で燃え上がった。挙句叢雲に呑み込まれ、真っ暗闇の中でもがいた。 鴉刃は百足を追い、アルドは鴉刃の背を見つめ続けた。二人の視線は互い違いで、合わさることはなかった。 「……済まなかった」 ぽつりと呟く。アルドがぴくりと顔を上げた。真正面から目が合い、鴉刃は口許を複雑な形に歪める。どうにも居心地が悪いのだ。 しっかりしろと己を叱咤する。今でなければ駄目なのだ。アルドの目を見てきちんと伝えねばならぬ。 「感謝す……いや。ありがとう」 アルドの耳がぴんと持ち上がった。 「救出に来てくれたことも。今、見舞いに訪れてくれたことも」 「……うん」 大粒の銀眼に再び涙が満ち、鴉刃はまたぎょっとする。 「と、とにかく。こうして無事に運ばれたのだし――」 「無事って!」 「いや、命が無事であったという意味で……も、もう泣くな!」 「うん……うん……」 アルドはようやく涙を拭う。それを見届け、鴉刃は深々と息をついた。 全く、賑やかな恋人だ。沈思する暇もないほどに。 点滴が一雫ずつ落ち続けている。鴉刃は未だ動けず、アルドはベッドの傍に椅子を引き寄せて座った。遠慮がちに鴉刃を覗き込むも、思わず目を逸らしたくなる。黒い顔面を覆う包帯の白さが痛々しい。 以前もこんなことがあった。その時も今日のように病室に飛び込んだ。だが、現在の空気はあの時より柔らかい。眠たくなってしまいそうな、干した布団のように心地良い温度が流れている。 ベッド脇のキャビネットの上に鴉刃の私物が広げられている。アルドは銀の鉱石が付いたホルダーを手に取り、見つめた。 「左目は見えてるんだよね?」 鴉刃を振り返って問う。「ああ」といらえがあった。 「視界、どこまで利くの? これ見える?」 金の石が付いたホルダーを取り出し、鴉刃のホルダーと一緒に左右に動かしてみせる。鴉刃の金眼がゆっくりとホルダーを追いかけた。 「二つとも見える。……距離感は掴めぬが」 「そっか」 アルドの腕から力が抜け、金と銀の石が揺れた。 「安心してくれたか」 と言う鴉刃の方こそ安堵の息をついている。 「う、うん。わーわー言ってごめん……」 アルドの尾が力なくうなだれた。 「いや。気遣ってもらえるうちが華だ」 「だって。心配で……」 銀の目にじわりと涙が滲む。鴉刃の口吻がむずむずと動いた。 「済まなかったと言っているであろう。お前の気持ちはよく分かった」 「ほんとに?」 「嘘はつかぬ」 「本当?」 「ああ。だから泣くな。……泣かないでくれ」 アルドは「うん」と鼻をすすり上げた。何気ない会話のひとつひとつすら愛おしい。 「あのさ、もひとつ聞いていい?」 「何であるか」 「人に聞いたんだけど。決着……ついたんだよね?」 誰と、とは言えない。鴉刃の心を――どんな形であれ――占めていた百足の名を口にして平静でいられる自信はない。おまけに百足は鴉刃の体に爪痕を刻みつけたのだ。 百足、百足。死んだ蟲使いはアルドと鴉刃をいつまで縛り付けるのだろう。 「ああ」 鴉刃は深呼吸するように肯いた。 「終わったのであるな」 左だけの金眼がゆっくりとアルドの顔を捉える。視線が重なった瞬間、アルドの鼻の奥がツンと熱くなった。 「そっか」 「うむ」 「そっか、そっか」 「ああ」 覚束ぬしぐさで鴉刃の手が伸びてくる。そのまま目許を拭われ、アルドはぱちぱちと瞬きを繰り返した。また泣いてしまっていたようだ。 「よく泣く。子供のようではないか」 鴉刃は困ったように、はにかんだように顔をしかめている。 「親譲りなの!」 アルドは勢い良く鼻をすすって鴉刃の手を握った。両手で包み込むように。けれど壊してしまわぬように。 「動くのも辛いでしょ。休んでよ」 「そうさせてもらおう」 鴉刃の手から力が抜けていくのが分かる。同時に、右目の包帯が苦しげに蠢いた。 「痛むの?」 思ったことを言葉にした後でアルドは口をつぐむ。何と無意味で愚かな質問であろう。 「それなりにはな」 「……だよね」 鴉刃の声は穏やかで、どうしようもなく安堵した。 「目、どうするの。僕からセルゲイに話そうか?」 「少し待ってはくれぬか」 「治療できるかも知れないのに」 「分かっている。日常レベルでも支障はあるであろうし、考えねばなるまい。だが暫くはこのままでいたいのだ」 金の目が再びアルドから離れていく。宙を泳ぐ視線はどこを、何を見つめているのだろう。 名を呼べばこちらを見てくれるだろうか。いいや、それでどうなる。必死に気を引いて振り向いてもらって何の意味がある? それでもアルドの視線は鴉刃を求める。 「鴉刃――」 紡ぎかけた言葉がぶつりと切れた。 鴉刃の左目がひたとアルドを見つめている。 「お前が言うなら考えるが」 「え?」 「つまりその……お前が、隻眼の私が嫌だと言うなら。いけないか」 鴉刃の視線がおずおずと離れていく。不器用なはにかみを見て取り、アルドはぷっと吹き出してしまった。 「可愛いや」 「何のつもりであるか」 鴉刃の眉間に皺が寄る。アルドは臆せずに笑み崩れた。 「だから、鴉刃が可愛いなーって」 「う、うむ」 鴉刃はそそくさとそっぽを向いてしまう。 「僕はどんな鴉刃も好きだよ」 アルドは改めて鴉刃の手を握った。 「でも、ちょっと心配かな。遠近感が掴めないって言ってなかった?」 「ああ。その点だけでもどうにかせねば」 「助けになれることがあったら言ってね。知り合いとか、結構いるし」 「頼りにしている」 鴉刃はやけに素直だ。 「元気になったらまた異世界に行こう?」 「物見遊山であるか」 「たまにはいいじゃないか。息抜き、息抜き」 握る手に力を込める。冷たく硬い鱗はアルドの体温を吸って温まり始めている。 「色んな所に行こうよ」 「ああ」 「ヴォロスにも色んな国や町があるし……別の世界もいいよね。ブルーインブルーとかどうかな」 「それも良い」 抽象的な約束はまるでシャボン玉だ。次々と生まれては浮遊し、白い病室を彩っていく。 「だから早く治して」 「うむ」 「ゆっくり休んで。今は何も考えないで……あ、元気になることは考えてね」 「分かっている」 鴉刃の瞳が苦笑いを含んだ。 「だが、眠る気になれぬのだ」 「あ、ごめん」 アルドは慌てて手を引っ込める。 「また僕ばっかり喋っちゃった。静かにしてるから」 「いや」 鴉刃の手がアルドの手を求めるように伸びてきた。 「まだ起きていたい」 硬質な爪が柔らかな銀毛を遠慮がちに探る。 「私が眠ったらお前は帰るであろう」 何を言われたのか分からなくて、アルドは瞬きを繰り返す。鴉刃は「いや、だから」と口ごもった。 「もう少し話していても、な?」 「……うん」 アルドはようやく口許を緩める。 「帰ったりなんてしないよ」 二人の指がそっと触れ合い、重なった。 廊下の喧騒はいつしか遠のき、寝息のような静寂が訪れる。 アルドの首がかくんと落ちた。疲労と安堵でついうとうとしてしまったらしい。一方鴉刃はアルドに手を委ねたまま眠り込んでいた。布団の胸元が深くゆっくりと上下していて、消耗しているのは鴉刃の方なのだとアルドは頭を垂れる。それでも、寝顔の無防備さが今は嬉しい。 「僕がいるから。そばにいるから」 起こさぬように囁きかける。思いよ届けとばかりに鴉刃の手を抱き締める。 「今度は僕が護るから」 鴉刃は戦士らしからぬ安らかさで眠り続けていた。 (了)
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