アルド・ヴェルクアベルは、恋人の飛天 鴉刃の事を思い浮かべると、自然と笑みを浮かべてしまう。 興味を示したら、例え命が危険に晒されると分かっていても一直線に向かっていく鴉刃。 幾つもの戦いを駆け抜けてきた鴉刃にとっては、今の世界はそれほど危機感を持つことは少ないのかもしれない。 鴉刃の生まれ落ちた世界がどれほど過酷であったかは、彼女の身体に刻まれた数々の傷痕が証明している。 アルドはその傷痕も全て鴉刃を構成する欠片だと思うのが、女性らしい姿をした人物を見るとき、鴉刃の眼差しが少し陰るようにみえた。 中性的で勇ましい姿というのが大方の印象だろうが、鴉刃の内面はかなり女性的だ。 種族的な違いであるから、人の姿のようにあるものも鴉刃には無いわけで、そういったことの一つ一つを気に掛ける鴉刃をアルドは可愛らしいと思うのだ。 鴉刃の出身世界、戦乱獣郷・ヴィルズウォーズでは、龍人は数ある獣人のなかのひとつ。 壱番世界の日本の龍の姿に近いだろうか。 戦い抜くための鋭い爪や強度のある鱗。 気配を敏感に察知する髭。 アルドも二足歩行の猫であるから、髭の重要性はよく分かった。 身体能力が幾ら秀でていると分かっていても、心配してしまう。 鴉刃は無事に依頼から帰ってくるだろうか、――と。 そのたびに、アルドは無事の戻ってくるようにと祈り、鴉刃の無事な姿を見るまでは落ち着かない日々を過ごすことになる。 けれどある日、鴉刃は右目を喪って帰ってきた。 あのときは、本当に心臓が破裂するかと思った。 大きな怪我をしたというのに、鴉刃は変わらず危険なところへと赴いていく。 アルド自身の胸の内にある不安がどんどん大きくなっていく。 その不安は鴉刃の無事な姿を見てリセットされるが、鴉刃が興味を持ったり依頼を受けて赴いたりとすれば、幾度も繰り返される現象で、終わらないマラソンをしているよう。 アルド自身は鴉刃の心配は、好きでしていることだから、この胸の内に沸く不安を口にすることはない。 余裕のない男のようにみえるし、頼りになる恋人でいたい。 男の痩せ我慢という奴だとわかっている。 アルドは自身を落ち着けるため、爪を引っ込めて髭に付いた水分を取り去るべく、顔を洗う。 銀の被毛が光を受けて青銀のように輝いて風に靡いていた。 暖かな場所を得意であるから、被毛も乾燥してふわふわだ。 銀の団栗のように大きな目は瞳孔が縦に細くなっている。 どんな物でも見逃さないよう、自由自在にフォーカスするのが猫の瞳の特徴だ。 爪をにょっきりと出してブラッシングしながら、ターミナルでのデートへと記憶は移り変わっていく。 *** ある日のターミナルでのデート。 鴉刃とアルドのふたりともが依頼引き受けておらず、時間があるときのこと。 日々の生活を彩る雑貨店。 からん、と扉に取り付けられたベルが店内に響く。 使い勝手の良さそうな品や凝った装飾の入ったグラス。 レトロ感を出すために、あえてガラスに空気の気泡を残してあるデザインのものや、シンプルで飽きの来ないストレートグラスなど、グラスひとつにとっても様々な物がある。 色つけされた陶器。 持ち手の部分に透かしの入った繊細な物や、温かな感じを受ける木製の物など。 お茶を楽しむためのカトラリー類も可愛らしい。 店に並ぶ品を眺め、好みやデザインについて語り合いながら、充実した時間を過ごす様子は仲睦まじい恋人たちの姿そのもの。 散歩に出かければ、バスケットにサンドイッチや飲み物、果物を詰め込んでピクニック。 青々とした芝生の感触は自然とリラックスした気分にさせてくれる。 そしてふたりで、簡単な依頼を受けて、素早く解決した後の時間を使い観光をしたり、調査依頼となってはいても実質は旅行依頼になっている依頼を引き受けたりと、充実した日々を送っている。 リアルが充実している姿は、シングルで恋人が欲しいと願っている人々に取っては、お前ら爆発しろ! という気分にさせてしまう程だった。 *** それから幾らか日が過ぎたころ。 アルドは、まったりとしたまどろみの時間を過ごして居た。 ハンモックに身体を横たえて、ゆーらゆらと揺れに身を任せて。 ノートの内容を読まなければと、のんびりと覚醒させながら、惰性で操作し文章に目を落とす。 鴉刃からの連絡だった。 鴉刃がまた危険な依頼を引き受けたと、アルドのノートに連絡が入っていた。 依頼を受ける為にしばらく留守にするという、内容だった。 眠さに瞼が重かったのが、一気にぱっちりと開く。 必要なことしか書いていない鴉刃の文章を読んだあと、アルドは動きをぴたりと止めた。 数瞬の間ののち、アルドは真っ白になっていた思考を真っ赤に染め、動き出す。 これが切れると言うことなのかと、アルドは頭の片隅で妙に冷静なことを考えながらも、文字通りプッツリと切れた状態のアルドは、怒りにまかせて猛然とチェンバーを飛び出した。 なめらかな動きで人の行き交う中をするりと避けながら、ターミナルのホームへと急ぐ。 極力最短の道を選んだ。 鴉刃が依頼に出発してしまう前に辿り着くように。 言いたいことが沢山あった。 (キミは、どうしてそんな無茶をするのかな……!) 滑り込むようにホームへと辿り着くと、アルドは鴉刃の姿を探す。 黒い鬣が目に入った。 一緒に依頼を受ける仲間の姿も。 踏みしめる足に力を込めて、大きく息を吸った。 首に掛けている紅い猫の瞳を象った宝石のペンダントが、ジャケットの合わせの間から覗いて光を反射する。 そして、普段陽気なアルドが滅多に出さない大声で鴉刃の名を呼びながら、飛びかかる。 アルドの声に気づいて振り返ろうとしていた鴉刃の肩に手をかけ、アルドは全体重をかけて、押し倒した。 プラットホームの石床に鴉刃がアルドに押しつけられる。 同行者である仲間達が驚いた表情を浮かべているのが分かったが、説明している精神的余裕はない。 鴉刃はポニーテールにしていた結び目が、ぶつかった衝撃で解けたのが分かった。髪が床に広がる。 「アルド」 アルドの銀の目が怒りでいつもより色が濃く見えた。 「どうして……! どうしてキミは危ないところに躊躇無く飛び込んで行くんだ! そりゃぁ、絶対安全な依頼なんてないよ。分かってる。分かってるけど、もう少し加減っていうものをしてほしいと思うのは、僕の我が儘か!」 アルドは鴉刃の両肩に手を置き、身動きできないようにし、真剣な眼差しを射貫くように見つめる。 全力疾走してきたせいで、時々息が切れる。 「それに鴉刃、キミは不死身でもなんでもない。大きな怪我をすれば命だって危うい。大きな怪我を前にしたばかりじゃないか……。僕がキミのことを心配するのは、僕の勝手だけど、少し自分の身体を労ってやってほしいんだ」 アルドの言葉を鴉刃は噛みしめるように聞きながら、どう返していいか分からずに、開きかけた口を再び閉じた。 鴉刃に向けられた言葉は、アルドがどれだけ鴉刃の身体のことを気遣っているかが分かるから、何も言い返せない。 自然、鴉刃の目がアルドから逸らされ、あてもなく彷徨う。 鴉刃の心の内は、こんなにもアルドを心配させていたのかと言うことに尽きた。 黙って聞き続けていると、恋人を不安にさせていた自分に腹が立った。 アルドにもっと本心を口にしても良いかもしれない。 たわいのないことにいつもの陽気な雰囲気を纏って応えてくれるだろう。 アルドに怒られて、叱られていると分かると、鴉刃はどうしようもなく嬉しい感情が胸を満たしていくのがわかった。 だけど、それを表面に出すことはせずに、自分だけの記憶箱に仕舞う。 ふと鴉刃がアルドの方を見ると、いつの間にかアルドの声がやんでいた。 アルドは大きな溜息をひとつつく。 鴉刃は、そっとアルドの様子を窺うように呟いた。 アルドにだけ聞こえるくらいの小さな声で。 「……確か、この依頼を受けたがっていた奴が他にいたな」 鴉刃がアルドの言葉に納得して、折れたのだった。 *** 鴉刃がアルドに言った通り、別の仲間に依頼を預けてターミナルを離れ、駅前広場のベンチに並んで腰を掛けていた。 あのターミナルでの出来事から数十分経っていた。 空には、鴉刃が乗る予定だった列車が見えた。 列車が消えて行くのを見送り、それからは無言の時が続く。 アルドはそっぽを向いて、むくれたまま。 「すまないアルド」 申し訳なさで鴉刃は幾度も謝る。 アルドが振り向いてくれるまで。 だけど、アルドが全然反応してくれないというのはかなりつらい。 「アルド……」 鴉刃は挫けて、言葉が途切れた。 心配になったアルドはちらりと鴉刃の方を見やる。 本気で困った表情を浮かべている鴉刃を見て、アルドは思わず噴き出した。 「アルド……? 許してくれるのか」 アルドは頷きながら、鴉刃の名を呼ぶ。 「少しは反省してくれたら嬉しいよ。でも、キミを心配するのは、恋人である僕の特権だから、鴉刃を押し倒すのを許すのは僕だけだからね」 鴉刃が簡単に押し倒されるようなことはないと思うけど、とアルドは続けた。 その言葉の意味を鴉刃は考え、髭をわたわたと動かして、どう返したら良いのか本気で悩んだのだった。
このライターへメールを送る