「古戦場」 『導きの書』を開き、獣人の司書は三角耳の間に深い縦皺を刻んだ。「ヴォロスの古戦場。戦があったのはずっとずっと、昔。今は草原が何処までも。草と、白い岩がたくさん。大きな白い岩。奇岩群の草原」 黒い眼を上げ、司書は旅人たちを見上げる。「草原の何処かに、竜刻がある。暴走が予言されている。探し出し、封印のタグを貼り、回収を」 ただ、と司書の眉間の皺がますます深くなる。「竜刻の力と関係なく、戦場の化物が出る。……戦場に染み込んだ怨念の塊。戦士の死肉を喰らい、影の形を得た、血肉持たぬ化物。咬みつく。刃持って斬りかかる」 咬めば、と牙を剥き出しかけて、慌てたように口を閉じる。言い直す。「殴ること、出来る。刃で切り裂くこと、出来る。倒れれば、霧散。消える。けれど、たくさん。ずっと昔に草原で戦って死んだ兵士の数だけ、たくさん。草原のあちこち、化物が沸く。大きなもの、小さなもの。大きなもの、本体。小さなもの、大きなものの分身。力の欠片。けれど、大きなものを先に倒すこと、難しい。数多いけれどそう強くない小さなものを倒して後、大きなものを倒すと、倒し易い。はず」 難しい顔のまま、謎賭けじみたことを言う。「大きなもの、倒せば、しばらく静か。けれど、化物、尽きない」 浄化も難しい、と首を横に振る。尻尾が力失くしてだらりと下がる。「戦った兵士の数だけ、武器が朽ちて転がっている。化物、転がる武器手に、襲い掛かる」 草原の何処かに、と司書は黒い眼を上げた。「竜刻で作られた剣。光吸って黄金に光る。化物、剣を恐れる。近づけない。探し出し、封印、回収」 光るとは言え、広大な草原の中、剣一振り探し出すのは、何らかの手段を講じなければ、ひどく手間が掛かるだろう。「回収後、即時撤収。化物、際限なく、湧く。竜刻の剣、封印のタグを貼っても、化物たちを近付かせはしないけれど、危険」 必ず、と念を押す。 『導きの書』に挟んでいたチケット三枚と、封印のタグ三枚を取り出し、「古戦場の傍、古戦場の化物に詳しい人々が住まう集落。まずはそこに。彼らは、古戦場の化物が草原より外に出ないように、封鎖。結界。封印。それでも出て来る化物の退治が生業。古戦場の草原に入るためには、彼らの許可が必要。許可なければ、入れない」 差し出そうとして、躊躇う。「気をつけて。くれぐれも、気をつけてください」 深く、頭を下げる。 草に埋もれかけた石畳の街道の果てに見えるのは、地平まで広がる草原。どこまでも広がる翠の大地のあちこちに、不自然な唐突さで、真っ白な巨石が点在している。空から落ちた雲のようにも、大地から突き出した巨大な生物の骨のようにも見える、数千の石の一つ、街道を断つように横たわる白い奇石の上に、人。 見上げるほどの白い石の上は平らになっているらしい。黒い外套を纏った小柄な人影は、旅人たちに背中を向けて座っている。 人影の視線を追えば、冴え渡る青空の下、草原の翠を侵食して蠢く黒い塊が見える。一際大きな、近付けば丘とも見紛うだろう巨大な塊が、司書の言っていた『大きなもの』だろうか。 眼を凝らせば、蠢く塊から無数の影が生まれていくのが見える。生まれては他のものとくっつき、くっついては離れ、――それは、互いに喰らい合っているようにも、見えた。「旅の者か」 しわがれた老婆の声で、人影は問う。「是より先は生者の領域に非ず。進むならば、」 枯枝のような指先を挙げて示すのは、街道から少し離れた小さな森。煮炊きのものだろう、細い煙が幾本か昇っている。「村の者に問え。草原を通らぬ道を教えてくれよう。長旅ならば疲れ癒す休息を、必要ならば旅の備えも用意出来よう」
訪れる旅人をまず迎え入れるのは、奇妙な石柱。 集落のぐるりには、円錐型に切り出された巨大な白岩に囲まれている。近くに寄って眼を凝らせば、呪術文字らしきものがびっしりと刻み込まれているのが分かる。 「結界なんだと」 石柱の前でフェイ リアンが首を傾げていると、脇から知らぬ男の声が掛けられた。眼鏡の奥の黒眼を上げ、結い上げた黒髪を揺らして顔を上げれば、そこにあったのは狼を象った奇妙な仮面。肩からは狼のものらしい黒い毛皮を羽織っている。 驚いて眼を見開くフェイの様子に気付いて、男は慌てたように仮面を押し上げた。仮面の下には、人の良さそうな壮年の男の髭面がある。 「古戦場の化物が万が一草原から出て来た時でも、この石の柱の傍や柱に囲まれた区域なら襲われずに済むんだとよ」 数百個もの石柱に囲まれた集落は、小さいながらもヴォロスを旅する人々の拠点のひとつとなっているらしい。集落を縦断する一本きりの石畳の道の左右には、旅に必要なものを揃えるための店が建ち並んでいる。樹と石で造られた建物はどれも古く、頑丈そうだ。 「旅の方、ですか?」 集落の者は仮面を着けていない。この地域には、壱番世界のコンダクターとほぼ同じ姿の住人が多いらしい。 フェイの問いかけに、男は頷いた。ヴォロスの各地域を往来するキャラバンの用心棒なのだと言う。背に負う布に包まれた細長いものは短槍だろうか。 「急ぎの用でな。草原を通る許可が欲しかったんだが……」 持ち上げた狼の仮面の下、苦く笑う。 「駄目だった」 力が足らんと一蹴された、と肩をすくめる。 「そうですか……」 大人しく安全な路を進むかね、と呟いて、男は仮面を被り直す。 肩を落として歩み去る男の後を追う格好で、フェイは集落へと入る。草原に立ち入る準備と許可を得るためにと、集落に入って行った今回の旅の仲間二人は何処だろう。 『村の長に話を付ける事はしないといけないかな』 ヴァンス・メイフィールドの言葉を思い出す。門番の老婆と話して後、柔らかい印象の灰色の眼を何処か飄々と細め、 『無理に入ろうと思えば出来るけど、面倒が増えそうだからね』 くすりと笑む肩に担いでいたのは、彼自身の身長程の槍。オレンジ色した長い髪に触れる槍が、不思議に冷たい気がしたのは、気のせいだったろうか。 村で準備を整えようと言うフェイと、長に会いに行くと言うヴァンスの言葉に、金色の鋭い眼差しを草原へと向けていたアクラブは小さく頷いた。三つ編みにした紅髪が風に揺れ、顎鬚を僅かに生やした横顔に触れる。 アクラブとフェイが共に旅をするのは二度目となる。 (とても心強いです) 集落を足早に歩くフェイの幼い頬に、微かな笑みが浮かぶ。初対面であるヴァンスとも、協力し、連携して、 (任務を果たせれば) 厩に馬を繋ぐ旅人たちの横を過ぎ、色鮮やかな果物や野菜の並ぶ店先を通り、燻製肉が並んで吊るされた店舗や何軒かの民家を越えれば、集落の中心に出る。そこは、フェイの背丈ほどの焼杭で丸く囲まれた広場となっていた。出し物でも催されているのか、杭の周りには旅装の者や住人が集まっている。 思わず興味を惹かれ、フェイは広場に近寄る。 街道とは違い、青々とした芝の広場には、幾人かの倒れ伏した人間と、尻をつき降参するように両手を掲げる男。 その人間に槍の穂先を真っ直ぐに突きつける、 「――ヴァンスさん!」 フェイは杭にしがみつくようにして声を上げる。 広場の端に立っていた白髭の老人が、それまで、と手の杖を挙げた。ヴァンスの持つ槍から力が抜ける。胴に突きつけられていた槍の穂先が離れ、芝の上に座り込んでいた男は安堵したのか、その場に仰向けに寝転んだ。助け起こそうとヴァンスの伸ばした手を寝転がったまま断り、老人の元へ向かうようにと手を振る。 槍を軽々と肩に担ぎ、ヴァンスは白髭の老人へと歩を向けた。 「フェイ」 ヴァンスの背を眼で追うフェイの傍に、アクラブが立つ。 「あのご老人は、村の長でしょうか?」 「ああ」 力試しだ、とアクラブは低く言う。草原に入るためには、村の広場で鑑査される慣わしらしい。 ヴァンスは村長と二言三言、言葉を交わし、許可証らしい紙札を受け取った。数人と刃を交えた疲れも見せず、フェイとアクラブの傍に軽い歩みで戻って来る。 「許可、貰ったよ」 集落を囲む石柱に刻まれていたものと同じ文字の書き込まれた紙を人数分広げて示し、屈託のない笑みを浮かべた。焼杭の柵をひょいと飛び越える。脇に立っていた見物の少女に、失礼、と丁寧な目礼を送る。鮮やかな笑みを向けられ、少女は恐縮したように首を横に振った。頬が朱に染まる。 「さ、急ごう」 長から渡された紙を見せると、門番の老婆は重みを感じさせない動きで奇岩の上から飛び降りた。枯れ木のような腕を伸ばして紙を受け取り、皺に埋れた眼で確認する。 「確かに」 小さく頷く。しわがれた声で聞き取れない呪い事を囁き、空に奇妙な印を指先で描く。草原から流れ来る風にも似た音を立てて、許可の紙は蒼い炎に包まれた。炎が魔法なのか、紙切れが魔法なのか。紙は灰にならず、 「落とさぬよう」 手渡された炎に包まれた紙も熱を持たない。紙の感覚だけが指先にある。 「それを持てば、結界を潜ることが出来る。原を出れば、それは破け。されば、火は消える」 フェイは頷き、炎持つ紙を衣服の隠しに仕舞い込んだ。愁うような黒眼を草原に蠢く黒い影の塊へと向ける。今は怨念の塊でしかなくとも、数百年の昔には何かを護るために得るために、戦った戦士達。今は生あるものの立ち入りが極端に制限されているが、昔には何千何万もの生あるものが戦った場所。多くの戦士達の血が染み込んだ、古い戦場。 (あの世界にも絶えず戦いがあり、僕も……) 想いを振り払うように、フェイは一度硬く瞼を閉ざす。今は感傷に浸っている暇はない。目的の剣を探し出し、封印のタグを貼らなくては。 「……嫌だねぇ」 フェイの横で、ヴァンスが小さく嘆息する。 「死人は死人らしく眠っていてくれればいいのに」 化けて出るなんてさ、と灰色の眼を細める。柔らかな印象だった表情が冷酷なほどに厳しくなる。けれどそれはほんの僅かの間。 「死してなお戦場を離れられぬか」 「おまけに数が多いときている」 アクラブの言葉を受けて、小さく肩をすくめるヴァンスの表情は元通りに柔らかく、飄々としている。 「厄介だね、ホント」 門番の老婆は、確かめるように旅人たちの顔を小さな眼で見詰めた。そうして、不意に踵を返す。降りてきたのと同じに、身軽く元の奇岩の上へと飛び上がる。黒衣が鴉の羽根のように広がった。 「くれぐれも、あれの仲間入りはせぬよう」 顔の向きだけで示すのは、草原のあちこちにうずくまる、黒い化物の塊。緑に埋まる草原を進めば、時を経ずにあれと対峙することになる。 もちろん、とヴァンスは穏かに頷いた。その穏かな声のまま、続ける。 「戦争の影響が、こんな形で出ているとは何とも驚きだね」 老婆は草原へ投げていた眼をヴァンスへと向けた。日に焼けた皺だらけの顔から、表情は読み難い。 「まあ、戦争の善し悪しを議論したい訳じゃないから脇に置いておくけど」 神学論争みたいなものだし、と唇に笑みを貼り付ける。 「時間のムダだからね」 肩に担いでいた槍を下ろし、片手に提げる。蒼い炎を纏う紙切れは懐に仕舞う。 「行こうか」 フェイが緊張した面持ちで小さく返事し、アクラブが足を踏み出す。結界で封じられていると言う草原に、踏み込む。門番の座す白岩を過ぎた一瞬、薄い膜を突き抜けるような抵抗が旅人たちを包む。白岩の上、門番が不思議な祈りの仕種をした。 青々と繁る草を踏み、歩く。時折、靴の底が土くれにも似た朽ちた刀剣を踏み砕く。手に持ち、少し力を加えるだけで刃は折れた。柄は砕けた。それでも、錆びた刃に切り付けられれば皮膚は裂ける。 遥かに地平まで広がる白奇岩の草原に散らばる黒い影の動きが激しくなる。こちらに気付いたのか。融け合っては分離しを繰り返しながら、ゆっくりと大きく――否、音も立てず、真っ直ぐに疾駆してくる。 「亡者の相手をする事もあったが……」 低く呟きながら、アクラブがトラベルギア『スコーピオン』を取り出す。蠍の尾を模す鎖の装飾が施された柄を片手に、幾度か深い呼吸を繰り返す。金眼に剣呑な光が満ちる。 「それと同じようにいくかどうかはわからん」 そう言う唇には、けれど笑みが浮かぶ。 (死者を導くのも神官の務めではあったが) 元の世界でアクラブが戦うごと、亡者は増えた。アクラブに、――敵に殺されれば無念が残り、無念が残れば亡者が生まれる。 かつて、怨嗟の連鎖の只中にアクラブは立っていた。 (今もそれは変わらぬか) 「剣を探すにしても、まずは露払いしなきゃね」 風に乱れるオレンジの髪を片手でかきあげ、ヴァンスは槍を構えて駆ける。冷気を帯びた穂先が宙に氷片の尾を引く。 影の化物が数十に分離し、人の形を取る。人型の間から転がり出るようにして、狼の形した影が現れる。足元に転がる朽ちた剣や槍を拾うもの、何も持たぬまま影の足を進めるもの、空に呪術を成すための印を描くもの。動きはそれぞれに違う。 「フェイ」 アクラブに呼ばれ、化物の動きを見詰めていたフェイは眼を瞬かせた。 「はい」 「戦うすべは、あるのか」 剣を構えた背で問われる。手に何も持たぬまま、フェイはアクラブの隣に並んだ。 「……はい」 「ならば、戦え」 フェイの眼鏡の奥の黒眼が、感情を殺して凍り付く。 「はい」 応えると同時、フェイは草地を蹴る。衣の裾が翻った次には、小さな手に幾つもの鋭い爪にも似た薄刃が掴まれている。足音も立てず、走る。人型の持つ錆びた剣が振り下ろされるより先、短い距離から放たれた刃が人型の喉に突き刺さる。刃が刺さった人型は黒影の形を崩す。青空から降る光に溶けるように霧散する。 消える影を眼の端にも捉えようとせず、投擲用の刃物を人型の喉へと正確に打ち込んでいく。 「どうか、安らかな眠りを」 せめてもの祈りを囁く小柄な身体を、砕けた影が霧のように包む。 地面を舐めるように紅の炎が濁流じみて奔る。 フェイの足元に喰らい付こうとしていた狼型の影を吹き飛ばし、群がりつく人型を燃え上がらせる。 炎を自在に操りながら、アクラブは刃を振るう。人型の胴を薙ぎ、首を刎ね飛ばす。朽ちた槍持つ腕を斬る。 「化物は哀れだけど」 短い気合と共、ヴァンスは槍を一閃させる。数体の人型が打ち倒され、消える。返す刃にも人型が引っ掛かる。 「退治しない理由にはならないね」 邪魔者以外の何物でもないし、と呟くヴァンスの灰色の眼を占めるのは、唯、冷酷なまでの光。槍の届く範囲に侵入出来る影は無い。冷気纏う槍が空気を切り裂く度、影だけの亡者たちは声もなく形を奪われる。 旅人たちの手により、僅かの間に数十体が消える。草原に入り込んだ旅人を喰らい飲み込もうと集り始めていた影の輪が、たじろぐように緩む。その隙を縫って影の包囲を抜け出すのは、フェイ。アクラブが剣で、ヴァンスが槍で、フェイの開いた路を押し広げる。 髪留めに仕込んだ小刀で狼型した影の腹を逆手に切り裂き、フェイは視線を上げる。その先にあるのは、見回す限りで一番巨大な白奇岩。あの上に登ることが出来れば、トラベルギアの真鍮の望遠鏡で草原を見渡せる。化物の群の動きを観察し、不自然な個所を見つけられれば、竜刻の剣を発見する手助けになる。 突き出される槍の穂を地を這うようにして避け、飛び掛る素手の人型の頭部を踏み付け、跳ぶ。爪先の決まった場所に力を籠めれば、仕込んだバネ仕掛けの刃が靴先から飛び出し、伸ばされる影の腕を切り裂く。草の上に着地すれば、刃は元通りに収納される。 化物の群の只中、目指す奇岩との位置を確かめようとしたフェイの眼前に、仲間の化物さえ巻き込んで渦巻く黒い炎が押し寄せる。 跳び退ろうと両足に力を籠めた瞬間、白く輝く氷の壁が視界の全てを覆い尽くす。壁に遮られ、黒い炎は白煙を撒き散らして消える。 「道を開こうか」 脇に迫る狼型の影を槍で退け、ヴァンスが追いつく。槍持たぬ腕を伸ばせば、化物の放つ魔法の炎を防いだ氷の防御壁が消える。 途端、殺到する影の群は轟音と共に爆ぜた紅の炎が一掃する。 「バケモノ達の相手は引き受けよう」 片手に炎、もう片手に蠍の剣を携え、アクラブが足元に転がる朽ちた剣を踏み砕く。 氷と炎に護られ、フェイは駆ける。 巨石に走り寄った勢いを削がぬまま、的確な窪みに足を掛け、僅かな出っ張りを指先で掴み、素早くよじ登る。小山ほどもある巨石の天辺に辿り着き、短く息を吐く。パスホルダーから真鍮の望遠鏡を取り出す。 巨石の左右にはヴァンスとアクラブが陣取る。剣が奔る。槍が風を裂く。業火が渦巻き、氷壁が打ち寄せる全ての魔法を退ける。 「大物から狙いたい気もするけど」 ヴァンスの灰色の眼が捉えるのは、何百歩分か先で蠢きながら小さい人型や獣型の影を生み落とし続ける巨大な黒い塊。背に護るフェイの立つ巨石の倍はあるだろうか。 「そういう時に限って小さい奴ほどウザったいものだろうしね」 どれだけ多くの影を切り倒しても焼き尽くしても、現れる化物は尽きない。 「疲れたか」 アクラブの問いに、ヴァンスは乱戦の最中、明るい笑い声を上げた。 「まさか」 コキュートスを頭上で旋回させ、槍の柄を大地に叩きつける。冷気が波のように広がり、影の化物達をたじろがせる。 「でも、ウザったいねぇ、ホント」 雲霞の如く押し寄せる化物の群をコキュートスの槍一振りで一掃しながらも、ヴァンスの眼は厳しい。 「炎と剣があれば戦える」 アクラブは僅かにも乱れない呼気の中、剣を振るう。炎を爆ぜさせる。 古戦場で何百年にも渡って膨れ上がった怨嗟の塊は、尽きぬ化物の数となって生者に襲い掛かる。どれだけの亡者を葬ろうと、振るう刃を収めることは出来ない。 それに、今は亡者の魂を救うよりも先に、竜刻の剣を探し出さなくては。暴走を防ぎ、草原の周囲に生きる集落の人々を、街道を行く人々を救わなくては。 竜刻の剣は、何処だろう。それを回収しなくては、この怨念の渦から抜け出すことは、自らに許し得ない。 影の化物たちが巨石ににじり寄る輪を縮める。ヴァンスが、アクラブが、尽きず刃を振るう。終わりのない戦いに区切りを付けたのは、 「――あちらです!」 巨石の上に響くフェイの声。 示すのは、化物の集合体。 「後ろに大きな空間があります」 巨石の上から滑り降り、フェイは二人の間に降り立つ。 「竜刻の剣が化物を退けるのならば、おそらくはあの大きいのの後ろに」 望遠鏡を仕舞い、衣の下に隠し持った幾つもの小刀を音も立てずに取り出す。 「幾つ持ってるんだい、それ?」 不思議そうにヴァンスが眼を見開いてみせる。フェイは照れた。 「内緒です」 素っ気無く返す頬が動揺してか僅かに赤い。 陽の光を白く反射させる剣を手に、アクラブが地を蹴る。影の群に飛び込む。化物の持つ錆びた刃が長身の身体に触れるよりも速く、スコーピオンが閃く。朱の血の代わりに黒い霧が蠍の剣に纏わりつく。毒の霧のようなそれを振り払おうともせず、アクラブは亡者を屠り続ける。留まることを知らないかのような動きは剣舞にも似て。 「やるねぇ」 ヴァンスが口笛を吹き、後を追って走る。槍が凶暴な氷の蒼光を抱く。 「コールド・ブラッド」 低く呟くヴァンスの周囲に十数の氷の刃が生まれる。放たれる氷の刃に撃ち抜かれ、数体が倒れる。霧と崩れる化物を草と共に踏みしだき、ヴァンスは走る。足を止めず駆ける背に、ふわりと二対の翼が現れる。羽ばたかせれば巻き起こる風に弾かれ、人型も獣型もまとめて吹き飛ぶ。地に叩きつけられて霧と消える。 「先に行くよ」 「すぐに追います」 フェイの声を翼に受けて、ヴァンスは晴れた空へと舞い上がった。風が身体を巻く。眼下には黒い細波のような化物の群。黒い波を別け、緑の大地を覗かせて進むのは、フェイとアクラブ。 白い奇岩が所々、何かの骨のように生えている。視線を延ばせば、蠢動する黒い塊の向こう、不自然に丸く広がる緑の大地が見えた。円の中心には、白い奇岩が横たわる。 「あれかな」 白い大岩と草地の隙間から、陽色の光が見える。あの光を頼りにすれば、目的の竜刻の剣を見つけることは難しくなさそうだ。剣の力が働く範囲には化物達も近寄れない。 「……とは言え」 近寄れない、と分かっては居ても、周囲で化物がうろつく状況で探し物をするのは、 「ゾッとしないよね」 呟くヴァンスの周囲に、幾つもの氷の刃が現われる。 太陽の光を浴びて輝く氷の刃の気配に気付いてか、巨大な影の化物が動きを早めた。小さな影を草地に産み落としながら、形無き塊から、巨大な蛇へとその姿を整える。とぐろを巻き、黒い鎌首をもたげる。口を開く。黒い牙から毒液じみた黒霧を滴らせる。落ちた黒い塊は人型を取り、動き出す。 氷の刃を翼やその身に纏わせるようにして、ヴァンスは槍を片手に、大蛇へ突っ込む。氷の刃に切り裂かれた風が喚く。 大蛇の鎌首が届かない間際で翼を大きく広げる。自らの身体は空に留め、氷の刃だけを撃ち下ろす。氷片を撒いて刃が落ちる。一本も残さず大蛇に突き刺さる。大地に尾を打ち付け、蛇がのたうつ。剥がれる鱗じみて黒い霧が宙に飛ぶ。 氷の刃が溶けるより速く、アクラブの業火が周囲の人型も狼方も巻き込んで爆ぜる。フェイが黒煙の中を駆ける。跳ねると同時、袖からバネ仕掛けの仕込み刀を弾き出す。影の鱗を斬り裂く。 青空から駆け降りたヴァンスのコキュートスが、暴れる蛇の眉間に突き刺さる。アクラブのスコーピオンが蛇の腹を割く。フェイが蛇身を踏んで駆け登り、喉を切り裂く。黒い霧の血が噴き出す。 旅人たちが地面に足を着け、それぞれに息一つ吐いて立ち上がった時、周囲に、化物の姿はひとつとして残っていない。 霧の欠片も残さず、緑の大地が一面に広がっている。 その大地に生えた古木のような白い奇岩の根元から、陽色の光が溢れ出し続けている。怨念に固まる化物を退ける、竜刻の剣はすぐそこだ。 封印のタグを貼り付けた竜刻の剣を大事に抱き、フェイは足を早める。静まり返っていた草原のそこここから、大地から血が滲み出すように黒い影が姿を現し始めている。今は数多くないが、時を待たずに古戦場はまた影の化物で満ちるのだろう。 黄金の光を放つ竜刻の剣の作用があれば、影の化物に襲われることはないが、油断は出来ない。迅速に草原から撤退しなくては。 「いい天気だね」 足を緩めることなく、ヴァンスが晴れた空を見仰ぐ。古戦場のあちこちでは黒い影が絶えず不気味に這いずり回っている。 化物の群は、音も立てずに旅人たちの後を追う。物言わぬ化物たちの怨嗟を祓おうと、神官でもあるアクラブが短い祈りを唱える。 血を吸った大地からも緑は芽吹く。空には風が満ち、鮮やかに晴れ渡る。 「……そうですね」 フェイは青空を見ようとして、うっかりと躓きそうになる。足に引っ掛かったのは、草ではなく、朽ちかけた長槍。刃が錆びて砕け草の根に呑まれるように、戦場の怨念に絡め取られた古代の戦士たちの魂も、いつか大地に溶けることが出来るだろうか。空へ還ることが出来るだろうか。 「いい天気です」 終
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