「おめでとうございます! 奥方様、男の子でございますよ」 「ああ、これでやっと……」 額に玉の粒を浮かせ、喘ぐ息の下で呟くは正妻、その人であった。 辺りには赤子の産声と、男子の誕生を祝福する言葉で満ちていた。 その報を聞いた時の母の顔は今でも鮮明に覚えている。 「あの方に男子が誕生したそうです」 「……そう」 侍女の言葉に力なく椅子に座り込んだ母は、震える息を漏らし、苦悶の表情を浮かべていた。 「母上? どうなされたのですか?」 その時のアクラブには、母の憔悴の意味がわからず、彼女に対して不思議そうな顔を向ける事しかできなかった。 「ああ、アクラブ。可哀想な子……」 「母上……」 母は震える手でアクラブを抱きしめ、彼を哀れんだ。 アクラブの父は高位の神官であったが、正妻との間に長く子宝に恵まれる事がなかった。 そこで側室を迎え入れたらどうかとの家臣の進言により、奥方の侍女として働いていた母に白羽の矢が当たったのだ。 母は初め、父の申し入れを頑として受け入れようとはしなかった。 正妻と母は姉妹のように仲が良く、また、それだけにこの関係が壊れる事になるのではないかと懸念していたからだ。 「私、あなたなら耐えられると思うの。いいえ、あなたでなければきっと私は気が狂ってしまうわ。ね、お願い」 しかし、正妻のこの言葉で母の心は揺らぎ、両親の懇願も相まって側室になる事を承諾したのだと母は語った。 「私が側女となって程なくしてあなたを身籠ったのよ」 父が足繁く母の元を訪れたのが功を奏したのか、母が側室となって半年足らずでアクラブを身籠った。正妻としては複雑な心境であったろうに、彼女は自分の事のように喜んだという。 事実、自分には母が二人いると思えるほど、彼女はアクラブの事を可愛がってくれた。 しかし、その陰で正妻は自分に子ができない事を苦しみ、母も彼女に対して申し訳なく思っていたのだ。 「そろそろおまえも神官の仕事を覚えなくてはな」 父にそう告げられたのはアクラブが六つになる少し前の事だったか。 正妻は一向に子供を身籠る気配がなく、誰もが父の後を継ぐのは彼しかいないと思い始めた頃だった。 それからというもの、父は仕事の場に自分を連れ出すようになり、また、武術の鍛錬も時を同じくして始められた。 それまでも武芸の真似事はしていたのだが、実際の鍛錬はその比ではなく厳しいものだった。 「もういやだ!」 覚えなければならない仕事と厳しい鍛錬。そのストレスによりアクラブは一度だけ駄々をこね、家の中で暴れた。 騒ぎを聞きつけた父がすぐさまやってきて、彼を手酷く打ち据えた。その時の父の形相は今までにないほど凄まじく、アクラブはただ縮こまって「ごめんなさい」と許しを請う事しかできなかった。 「いいか、私の跡継ぎはおまえしかおらぬ。だが、いつまでも泣き言を言うような者には私の後は継がせぬ。それがどういう意味を成すのかよく考えてみるがいい!」 怒りのままに吐き捨て、父は何処かへ立ち去ってしまった。 「アクラブ……」 未だ震えて動けぬアクラブを、母が優しく呼び、抱きしめる。 「う、うう……母、上……」 自分の背を優しく撫でる母の手に気が緩んだのか、涙が溢れ出し、嗚咽が口から零れ落ちた。 あんなに恐ろしい父は始めてだった。時折厳しい表情はするものの、普段の父は穏やかで、激昂する様子を見せた事はついぞなかった。 「アクラブ、お父様はあなたが憎くて打ち据えたのではないのよ」 母に縋りつき咽び泣く自分に諭すように、母は静かに言う。 「お父様はね、あなたに期待しているの。あなたが立派な神官になれるよう、気にかけてくださっているのよ」 その夜は同じベッドで母と眠りについた。母と一緒に眠るのはもっとずっと小さい時以来ではなかったろうか。 翌朝、幾分緊張しながらも父と対面すると、父の目も赤く充血していた。 「父上、昨日は申し訳ありませんでした。これからは心を入れ替えて良き神官になれるよう、一層励みます」 「よく言った。それでこそ我が息子だ」 優しく頭を撫でる手は、いつもの穏かな父のものだった。 それから二年。アクラブは火術を会得し、父のアクラブへの期待はますます高まっていた。 その一方であまりよくない知らせもアクラブの耳に入ってきた。 父の正妻が臥せっているというのだ。 「最近は外に出ようとせず、人にも会わないそうなの。食事もあまり口にしていないみたいなのよ、心配だわ」 アクラブは学ぶべきことがたくさんありすぎて、彼女の事は失念していた。 以前に訪問した時は、たまたま具合が悪かっただけなのだろうと思っていたのだが。 数日迷った末、アクラブは彼女の好きな花と栄養価の高いフルーツを持って、正妻の居室に赴いた。 以前に訪れた時は面会できなかったが、今日は部屋に通された。 「お加減はいかがでしょうか?」 久しぶりに見る彼女の顔は青白く、精彩を欠いている。 「久しぶりね、アクラブ。お父様にご迷惑はかけてない?」 以前と比べて生気を欠いてはいるが、変わらぬ笑顔を向けてくれた彼女にアクラブは心中で胸を撫で下ろす。 「はい。一刻も早く父上を補佐できるよう、日々精進を重ねております」 「まあ、随分大人びた言葉遣いができるようになったのね」 彼女はクスクスと笑う。本当に今日は気分がいいようだ。 彼女に乞われるままにアクラブは近況を話した。アクラブの話を彼女はニコニコと聞いてくれている。まるで時間が昔に戻ったかのようでアクラブは嬉しく思う。 幾分涼しげな風に頬を撫でられ、アクラブは日が落ちつつある事に気が付いた。 「すっかり長居してしまいました。今日はこれで失礼します」 アクラブが立ち上がると、彼女は彼を見送ろうと思ったのか、体を横たえていたベッドから足を降ろした。 だが、数歩歩いたところで彼女の体が傾ぎ、慌ててアクラブが支えようとするが、齢七つの彼では無理がある。そのままアクラブが下敷きになる格好で倒れ込んでしまった。 「医師を呼んでくれ……!」 驚いて呆然としている侍女にそう言ったあとアクラブは彼女の下から這い出した。 「何があったの?」 奥方が倒れたとの知らせを受けて、アクラブの父と母が駆けつけた。 「私が帰ろうとした時に立ち上がって、そのまま倒れたんです。……今、医師の診察を受けているところです」 不安の面持ちで居室の前で三人が佇んでいると、侍女から部屋に入るよう促された。 医師の顔には穏かな笑顔が浮かんでおり、彼女の容態が悪い訳ではないのだと緊張が解れる。 「奥方様は貧血を起こされたようですね。栄養状態もあまりよくないみたいですし、これからは薬湯と少量でも栄養価が高い物を差し上げて様子を見ましょう」 「ありがとうございます」 「気を付けてあげなくてはいけませんよ、奥方様一人の体ではないのですから」 「え……?」 「おめでとうございます。ご懐妊でございます」 父が満面に喜色を浮かばせる。 「本当か?」 「ええ、間違いありません。ここ最近の不調も妊娠によるものでしょう」 上機嫌の父をよそに、今度は母が倒れそうなほど蒼白になっている。 「母上、大丈夫ですか?」 「ええ、ええ、私は大丈夫よ。少しビックリしただけ。さあ、今日はこれでお暇しましょう」 そう言ってアクラブの母は彼の背を押して居室を後にした。 「ああ、どうか産まれてくる子が男の子でありませんように」 アクラブの母は、それからというもの祈るような気持ちで毎日を過していた。 もし、産まれてくる子が男の子だったら――そう考えると夜も碌に眠れなくなった。 そして運命の日。 彼女の願いは虚しく、正妻には男の子が誕生した。 喜ぶべき事なのに素直に喜べない。 男子の誕生――それはつまりアクラブが跡継ぎでなくなった事を意味していた。 どんなに努力しても、優れた術を操れたとしても、アクラブは弟よりも上の地位に就く事ができなくなったのだ。 「兄上! お待ち下さい、兄上」 「うるさい、ついて来るな!」 苛立ちを隠そうともせず、アクラブは弟に吐き捨てる。 「私の話を聞いて下さい!」 「おまえと話す事などない!」 足早に立ち去ろうとするアクラブに弟は追い縋っていた。 今更何を話そうというのか。 あれから二十五年、アクラブは父に認めてもらおうと血の滲むような努力をしてきた。武芸も火術も弟より上だと自負している。 だが、駄目なのだ。ただ、妾腹というだけで全てが否定された。 父の後を継ぐ事もできず、武装神官止まり。その上には上がれやしない。こんなに惨めな事があろうか。おまけに弟の支持者がここ数年がちょっかいをかけてきている。 「おまえを支持する者共が俺達親子に何をしているか知っているのか? その上で話そうと言っているのだろうな?」 弟の足が止まる。 「知っていて奴等の悪巧みを止める事もできないおまえと何を話せと言うのだ」 さあ、反論してみせろ。 アクラブが睨みつけると弟は俯いてしまった。 「クソが!」 奴等のターゲットが自分だけならまだよかった。襲撃してきても返り討ちにしてやるまでだ。 ――だが、奴等は俺の母にまで手を出してきた。食事に毒を混ぜたのだ。 すぐに食事を吐き出させ、医師に見せたが結果は芳しくなかった。後遺症のせいで侍女の手を借りなければ起き上がる事もままならなくなっていた。 俺を亡き者にしたいのなら堂々と向かってくればいいのに。 せめて弟に彼等の暴走を止める気概があればこんな事にはならなかった筈だ。 アクラブに纏わりつく苛立ちは当分治まりそうになかった。 「よう、薬はあるかい?」 昔馴染みの薬剤師の元へ顔を出し、母の薬を受け取るのが最近のアクラブの日課になっていた。 「ああ、君か。これが今日の分だよ。……母君の調子はどうだい?」 「あんまり変わりないな」 「それは、すまないね」 「ああ、あんたのせいじゃない。気にしないでくれ」 申し訳なさそうにしている薬剤師にアクラブは手を振った。 「そうだ。珍しいお茶が手に入ったんだけど試してみるかい? このお茶は飲み心地が爽やかで気分もスッキリするんだよ」 「へぇ、おもしろそうだな。じゃあ一つ頼むよ」 急須に茶葉とお湯を入れ、暫し蒸らしたあと湯飲みへ移しアクラブの前へと置く。 すんと匂いを嗅いでみたが、特に何も匂わなかった。 口の中に含んでみるとなるほど、確かに爽やかな風味だ。悪くない。 一気に残りを飲み干すと、薬剤師に礼を言い、背を向けた。 店先に出たところでアクラブの体に変化が生じる。体が震えて力が入らない。気を抜くとすぐに倒れてしまいそうになる。 店の中に目をやると薬剤師が「すまないね」と呟くのが見えた。 油断した。信頼に足る人物だと思っていたのが裏目に出た。 アクラブは薬剤師を責める間も惜しんで神殿に向かった。薬が抜けるまで身を潜めてやり過ごす為に。 しかし、どうやらそれも叶わないらしい。布を顔に巻きつけて正体を隠した男達が、アクラブの行方を遮っているのだ。 「用意周到、ご苦労な事だな」 言うが早いか男達が切りかかってきた。 アクラブも剣を抜いて応戦の形を取るが上手く力が入らない。 「もらった!」 「誰がやるかよ、バーカ」 飛び掛ってきた男の体が一瞬にして炎に包まれる。アクラブの火術だ。 断末魔の声が響き、襲撃者達は一瞬怯んだが、アクラブが足を踏み出すと怒号と共に踊りかかってきた。 一閃、ニ閃、なんとか攻撃を受け止めかわすが分が悪い。 飛びそうになる意識を何とか繋ぎ止め、応戦するが限界だった。 「くそ、目が霞む」 火術を使おうにも意識をうまく集中できない。 踊りかかる剣先をかわそうとするが、完全には避けきれず、深手を負ってしまった。 切りつけられた傷口がじくじくと熱を帯びたように傷み、膝をついたアクラブの元に凶刃が迫った。 『我を受け入れるならば助けてやろう』 突如響いた声にアクラブは心の中で応えた。 助けてくれるならば何でもいい。俺はまだ死ぬ訳にはいかんのだ! 『契約成立だ』 その声と同時にアクラブの周りに炎の渦が出現した。蛇の形をしたそれは、たちどころに襲撃者を飲み込み、燃やし尽くす。 『忘れるな。我はいつでもおまえと共にある』 薄れ行く意識の中でその声だけがはっきりと聞こえた。
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