窓の外から、柔らかな光が差し込んでいる。灯り一つ燈さぬ室内をやさしい色に染め上げて、物言わぬ骸に降り注いでいる。 骸。 そう、骸なのだ。彼女は既に。 美しく眠っているだけのように見えながら、その肉体に魂は収まっていない。ただの空(うろ)であり、ただの器だ。――だから、もう一度“彼女”を呼びもどして、収めることは可能なはずだ。 彼女が戻ってくるはずの器を挟み、その向こう側に目を向ける。背の高い姿見が、緑銀色の光を受けて淡く煌めいている。傷一つなく磨かれた鏡面は今は、横たわる骸と男の姿だけを映し出し、正しい景色を描き出している。 骸を中央に配置し、描かれた魔法陣。古代語を用いているとされる書物の図面を、こうして寸分の狂いなく再現した上に立ち、男はうっそりと笑う。 器も、扉も、生贄も、全てが申し分ない。 短剣を手に持つ。鋼の刃を顔の前まで持ち上げて、刀身に描かれた血文字を確かめる。上向いた切先が、冷徹な光を燈した。 最早文字さえも失くした、古代の禁忌を口ずさむ。 鋭い刃を生贄のこめかみに突き立てて、そのまま真一文字に引き裂いた。 ◇ 導きの書を、静かに閉じる。 今しがた見たばかりの予言の文章を瞳の内に仕舞い込んで、世界司書は一度瞼を落とす。しばらくの間をおいて再び開いた、その視界の先に人影が映り込んだ。 長く無造作な白髪に、怜悧な緑の瞳。 両手にたくさんの本を抱えた青年を捉えて、司書は声をかける。「――すこしだけ、手伝ってくれませんか?」 ◇「それで、司書からの依頼はどんなんだって?」 隆々たる体躯の亜人、ジャンガ・カリンバが、窮屈そうな椅子から身を乗り出して問う。彼と、同席する三人のロストナンバーを順に見遣り、ハクア・クロスフォードはおもむろに口を開いた。「とある街で、長年厳重に保管されていたはずの“禁術書”が盗まれてしまったらしい」「仰々しい名前ね、禁術だなんて」 東野楽園が相槌を打って、猫のような目を煌めかせて笑う。幼い少女の外見には見合わぬ、美しくも老獪な物言いだ。「ああ、何でも死者を蘇生させる術が記されているとか。本物か偽物かは判らないらしいが」 簡単に説明を付け足せば、楽園は納得したように頷いて微笑む。胸にセクタンを抱きかかえたまま、首を傾げてその続きを待った。「盗んだ男は既に司書の予言に現れている。どうやら、書を用いて亡くなった妻を蘇らせようとしているらしい。――そのために必要な準備は、ほとんど整っているんだそうだ」「それを、止めろと言う事ですね」 舞原絵奈の言葉に、頷いて肯定を示す。無言で話を聞いていた神官姿の男――アクラブ・サリクもまた、真摯な眼差しをハクアへと向けていた。 あまり、猶予はない。 話を受けたハクア一人では明らかに荷が重く、こうして四人に同行を求めたのだ。 チケットはまだ一枚ある。 しかし発車時間は近付いており、今回は五人で向かう事になりそうだ、と立ち上がりかけたハクアの背後に、唐突に人の気配が現れた。「面白そーな話してるねえ」 間延びした、緊張感に欠ける声。振り返れば、そこには彼の見知った顔があった。「ウーヴェか」「僕もついてっていいかなぁ? ふふ、悪いようにはしないから、ご心配なくー」 軍服にも似た看守服の男、ウーヴェ・ギルマンは、陰気な隻眼を細めて笑う。それにも律儀に頷きを返して、これで全員だな、と安堵のような息を零した。「……それで、行き先は?」 金の双眸を鋭く、威圧的に煌めかせて、アクラブが問う。 ハクアはテーブルの上に、羊皮紙の地図を広げて応えた。「ヴォロスの東方。龍の骸に護られた街、カエルーティオ」 ◇ その街は、光から逃れるようにして作られていた。 ヴォロスの東方に突如として現れる巨大な谷。その側面に掘られた段差を下へ下へと下っていくと現れる、洞穴のようにぽっかりと空いた窪み。それを利用して、何層もの街並みが形成されている。 谷の内部、かつ洞穴のような場所という事で、日光はほとんど射さない。その代わり、洞穴の表面に埋め込まれているらしき無数の竜刻が、様々な色に輝き、街中に光を溢れさせていた。 街の天井には巨大な龍の頭骨に似た岩が突き出していて、壁面に散らばる竜刻は長く連なり、頭骨から蛇龍の身体が伸びるような形を取っていた。龍の骸に護られた、とは、この事を示すらしい。 どことなくインヤンガイを彷彿とさせる、つまりは東洋風な、神秘的な街並みだ。行き違う人々の服装も、長袍や着物にどこか似たデザインをしている。「男の名はイサラ。妻の名はジャンナ」 街の最下部へ通じる階段を降りながら、ハクアは説明を続ける。「イサラは、元々は誠実な人物だったらしい。龍琴の名手で、愛妻家だったとか。それが、妻を亡くしてから豹変してしまったと」 妻の死の理由は判明していない。ある日突然自室で死亡していたとの話で、外傷も不審な点もなく、――服毒自殺の説が最も濃厚らしい。「それでも、一応調べが終わるまで彼女の遺体は聖堂で保存される事になっていたんだ」 そして、先日。 保管されていたはずの妻の遺体が、忽然と姿を消してしまったのだと言う。禁術書が盗まれた、翌々日のことだったそうだ。「連れて帰っちゃったんだねぇ」「儀式を行う準備が整った、という事だろうな」 最後尾を行くウーヴェがのんびりと呟いて、アクラブがそれに言葉を加える。 六人はまず、禁術書を保管していた魔術教会の元へ、話を聞きにいく所だった。「死者を蘇らせる術が記された禁書……。私の居た世界でも、似たようなものの噂を聞いた事があります。――それに手を出したものは例外なく、破滅を迎えると」「禁術ですもの。けれど、愛が深ければ喪失の哀しみは増す。破滅を迎えると判っていても、手を出さずにはいられないのよ」 堪えるように眉を顰める絵奈に、楽園は微笑みかける。対照的な二人の少女が隣合って歩き、その前後を四人の男性が囲むと言う形が自然と出来上がっていた。「禁術書は死者の国の扉を開くもの。場合によっては、現世に蘇った死霊や魔の者を討ち払う必要もあるかもしれない」「まあ、面倒くせえが……それが必要だってんなら、やるしかねえだろうな」 四肢と尾に嵌めた打楽輪を鳴らし、風鳴りに似た音を響かせながらジャンガが肩を竦める。粗雑だが真摯なその視線を受け止めて、ハクアはひとつ頷いた。頼もしい、と、同行する五人を見つめ、改めてそう思う。「――この街の何処かに、イサラが居る」 その凶行を止め、救い出さなければならない。 ハクアの透徹した緑眼が、龍骸の街を見通していた。=========!注意!企画シナリオは、便宜上、参加枠数が「999」になっていますが、実際には特定の参加予定者のために運営されています。この企画シナリオは下記のキャラクターが参加予定です。他の方のご参加はご遠慮下さい。万一、参加予定でない方のご参加があった場合は、参加がキャンセル(チケットは返却されます)になる場合があります。<参加予定者>ハクア・クロスフォード(cxxr7037)ジャンガ・カリンバ(cpwh8491)舞原 絵奈(csss4616)東野 楽園(cwbw1545)アクラブ・サリク(chcz1557)ウーヴェ・ギルマン(cfst4502)=========
「幾つか気になる事があるの」 魔術教会へと向かう道の途中で、東野楽園はふと、気まぐれな猫のように仲間の列から離れた。 「あ、楽園さん。お一人では危険です」 彼女の身を案ずる舞原絵奈の言葉にも、軽やかに振り返って微笑み返すだけ。 「御心配なく。自分の身は自分で護るわ」 それとだけ言うと、ひらりと漆黒のドレスを翻し、様々な色に揺れる街中へと歩いていく。その肩からオウルフォームのセクタンがふわりと離れ、不安定な軌道を描いて飛び去った。 「イサラさんがどこにいるともわからないのに……」 「なら、俺が行こうかね」 それでも尚漆黒の少女を追い続ける絵奈の視線を汲み、ジャンガ・カリンバが巨躯を揺らして進み出る。打楽輪が風の音を立てて、彼の足取りを飾った。 「元々俺も教会とやらにゃ興味がねえんだ。こっちは任せな」 構わないだろう、と振り返って問えば、成り行きを見守っていたハクア・クロスフォードはただ静かに頷いた。淡々と、静謐さえ感ぜられる緑の瞳が街を照らす竜刻を見上げて、そして進路へと向き直る。 その仕種を了承と取って、ジャンガは笑みと共に街中へと足を向けた。 ◇ カエルーティオの街は、大きく分けて三つの層から成り立っていた。各層を繋ぐ路は崖を切り出して造られた階段と、街の数カ所に設置された魔術による転移陣――身も蓋もなく言ってしまえば、エレベーターのようなものだ――がある。 世界司書から受け取った地図を見る限り、イサラとジャンナの宅は中層に、魔術教会は下層の中枢に位置していた。ハクアはそれを頼りに、然して迷う事もなく教会へと行き着く。 「ここがそうか」 「おっきいねぇ」 アクラブ・サリクが確認を取るように声を上げた。ウーヴェ・ギルマンは顎を上げその建築物を視界に収めようと足を退いて、そして感嘆の声を零す。 真っ先に彼らの目を惹いたのは、漆黒に鈍い金の装飾が為された、巨大な扉。表面は数十もの正方形に分けられて、そのひとつひとつに細かい彫刻が施されているのがわかる。 「……行こう」 ひととき、荘厳な教会の全容を眺め、ふと瞳を伏せたハクアは再び足を踏み出した。 「ようこそ」 黒い法衣に身を包んだ男が、ロストナンバーを迎え入れる。 魔術教会の司祭と名乗った男は、その肩書きに対して、思いの外若い。ハクアと同年代か、それよりわずかに年上なようだった。 男はひとりひとりへ頭を下げた後、法衣を翻し彼らを奥へといざなった。長い真紅の廊下を進み、突き当たりに現れる真鍮の扉を押し開けば、その先に待つのは、薄く閉ざされた闇。 「こちらが書庫になります」 暗闇の中で何事かを呟けば、男の手元の洋燈に火が燈る。 光に開かれた彼らの視界には、見渡す限りの書棚が並んでいた。光の届かぬ暗闇の奥まで、それは続いているだろうと思わせるほどに。 「書庫っていうより、迷路みたいだねぇ」 能天気なウーヴェの感想にも、頷かざるを得ない。吹き抜けの二階部分は書庫を覆うようにぐるりとロの字を描いて本の壁が並んでいるだけだが、一階部分にはまるで無秩序な形で書架が配置されているのだ。探すべき本の見当を付けるだけで、一日二日は簡単に費やせるだろう。 「すごい……!」 絵奈が目を輝かせる。 かつて過ごしていた拠点では外出を制限され、ほとんどの知識は書物から得ていた彼女にとって、書は新たな世界への入口だ。 それが、この書庫にはこんなにも沢山、収められている。 手の届く位置にある書をひとつ手にとって、重厚な装丁を指先で撫で、嘆息を零す。状況が状況でなければ、ずっと読んでいたいほどだった。 「……それで、禁術書は何処に?」 感嘆の声と共に見て回る彼女の傍らで、ハクアが問う。ここの蔵書も後々確かめる必要があるようだが、まずはそれよりも件の書が収められていた場所を目にしたい。 「ご案内します」 そう言って薄闇の奥に消えた黒い法衣を、彼らは追った。 ◇ 「私が気になるのは妻の死因よ」 「妻ってぇと、ジャンナとか言う名前だったか」 ジャンガの胡乱な相槌に頷きを返し、楽園は毅然と進むべき方向を見据えて歩く。 「自殺だとして、動機は何? イサラは愛妻家だったのに」 唯一無二の伴侶から愛を与えられながら、死を選ばなければならなかった理由。 「さてね。人の事情なんざ人それぞれだ、他人にゃ想像できるもんじゃないんじゃねえか」 秋風のように乾いた音が響く。ジャンガは髪を掻き、億劫そうに龍骸の街を見上げる。 二人が初めに目指したのは、妻の遺体が安置されていたという聖堂だった。 石造りの建築は、或いは洞窟を切り出して造られているのかもしれない。尖塔を幾つも抱いた、鋭利な造りの建物。 「服毒自殺、だったと」 訪れた二人の異邦人を快く迎え入れて、ジャンナの遺体を引き受けた医者はそう語る。粛々と、彼女の死を悼むその顔には不審な所は見られなかった。 「自殺ってのは本当なのか」 試しに声に霊力を籠め、真実を語らせやすくしたジャンガが聞いてみても、彼の言葉は揺るがない。ただ、そうらしい、と彼自身も納得の行っていないように首を傾げるのだった。 「その毒は何処で手に入れたの?」 「ああ、毒と言うのは言葉のあやだ。ジャンナは病を患っていてね、その治療に用いていた薬が二種類、……服薬する順番を間違えれば劇毒となる、非常に扱いの難しいものだったんだ」 「……つまり、順番を入れ替えて呑んだ、と」 「おそらくは」 「その薬を処方していたのは?」 「私だ。受け取りに来ていたのは、いつもイサラだったな」 そこで言葉を切ると、眩しいものでも眺めるように目を細めた。柔和な皺が年老いた男の目尻に寄る。医師は、彼の夫妻とは個人的にも親しくしていたようだった。 「イサラは献身的にジャンナの世話を焼いていたよ。自身の職務も果たした上で、私的な時間の全てを彼女に費やしていたと言ってもいいだろう」 「……愛妻家だったのね」 「ああ」 穏やかな笑みを浮かべた医者に礼を告げて、二人は聖堂を立ち去る。 去り際、振り返った楽園の眼に映った男の姿は、どこか娘を失った父親の背中のようにも、似て見えた。 ◇ 招かれた場所は、ひどく狭く、そして暗い部屋だった。 重厚な石の壁が四方を囲み、冷たい温度が室内を包む。小さな窓には濃い紅の布がかけられ明かり取りの用途さえ全う出来ていない。 部屋の中央には黒い樫で出来たテーブルが置かれて、その上に小さな、ごくごく小さな正方形の石棺が鎮座している。 「書はこの中で保管されていました」 司祭は物珍しげに見遣るロストナンバーにそう語って、指し示すように掌を上向けた。重い蓋を開いたその灰色の中には、塵一つ見られない。 「して、訊きたい事とは」 真摯な視線に頷いて、ハクアは口を開いた。 「禁術書の内容を。――盗まれてしまった以上、内容を知る人物の口から訊く以外情報を得ようがない」 「了解しました」 覚えている限りでよければ、と前置きをして、司祭は四人へと語り始める。 「禁術――死者蘇生の魔術は、カエルーティオに伝わる“死者の国”への扉を開き、特定の魂を連れ戻すものです」 「神に逆らう行為か」 威圧的な、しかし何やら思う所のあるのか、深ささえ感ぜられる声音でアクラブが口を挟む。神官たる彼にとって、神に召されたものを無理に呼びもどす行為は決して認められるものではなかった。 同じく神に仕える立場にある青年もまた、静かに頷く。 「連れ戻す、とは具体的にどういうことをするのですか?」 「言葉通りです。扉を潜り、死者の国へと向かって、あらかじめ引き寄せておいた目的の魂を連れて、現世へと戻る」 淡々と紡がれる儀式の概要。 その場に、壱番世界の神話に詳しい者が居たならば、こう感じただろう。 まるで、遠く離れた二つの国の伝承に残る、よく似た二つの神話のようだと。 「魂を引き寄せるために、生贄が必要になるのか」 「と言うよりは……実行者の身を護るため、ですね」 アクラブの言葉を律儀に訂正しながら、司祭は言葉を続けた。 「肉体と魂は強く結び付くもの。それは死により一度引き離されても、決して断ち切れるわけではありません。儀式の際に遺体を用意するのは、連れ戻した魂を入れるための器だからというのも有りますが――それ以前に、対象の魂を惹きつけるために必要になるのです」 「では、実行者の身を護るため、とは」 「“死者の国”は、人の目には過ぎた場所ですから」 そうとだけ答えて、司祭は説明は終わりだと告げた。何か聞きたい事は、と続けて問われ、ハクアが静かに口を開く。 「その、死者の国への扉だが。何か媒介を必要とするのか? たとえば……鏡、とか」 司書の予言を思い返し、意味深に語られた姿見の事を口にする。 「ええ。鏡は現世と彼方の接点と言われていますから」 言い当てられた事に僅か驚いたような様子で、司祭は生真面目に応えた。 「……それで、本当に死者が蘇った、なんてことは」 手の中の本から目を上げて、絵奈が問いかける。“禁術”とされていながらもその術が存在するということは、かつて誰かが試行したが為に形態化したということでもあるのだろう。その記録が残されているか否か、彼女はそれを探していた。 しかし、司祭は静かに首を横に振る。 「記録に残る限りでは、ありません。書はカエルーティオの建造よりも過去から存在していました。この街だけの歴史では追い切れぬ古代の魔術です」 世界司書も、予言の中で口にしていた。 『古代語を用いた魔術』と。 「それを再現した人も、居ないということですね?」 「ええ。そうならぬよう、我々が管理していた……はずなのですが」 振り返って石棺を視界に収め、青年は嘆息を零した。ぽかりと口を開いた灰色の空洞は、嘲笑うようにただそこに座している。 「まさか、イサラ殿がこんなことをするとは」 「知り合いか」 ふと漏らされた言葉を、アクラブが拾い上げた。 「この教会の書庫は一般にも開放されています。勤勉なイサラ殿はよく足を運んでくださっていました」 「特にどんな本を読んでいたんですか?」 「そうですね……以前はこの街の史書ですとか、戯曲が多かったんですが、最近では何故か医学書ばかりを読まれていました」 毎日ではないが、顔を出した日にはそれこそ時間を忘れて読み耽っていたのだという。 そんな勤勉な男がなぜ、と再び首を傾げる司祭へ、絵奈は呼応するように答えた。 「……私にも、大事な人を喪った経験はあります」 溌剌とした瞳を悼みに伏せ、独り言めかせて呟く。ウーヴェの隻眼が刹那彼女へと向けられた気がしたが、それを確認するより先に視線は外され、男は相変わらずの呑気な笑みを浮かべていた。 脳裏に浮かぶのは、厳しくも優しかった姉の姿と、仲間たち。 ――そして、全てが『赤』に染まった、あの日の絶望。 「でも、蘇らせたいなんて、考えた事はなかった」 絵奈の世界には死者を蘇生させる術は破滅を招くものとして伝わっていた。――しかし、それ以上に、姉や仲間達から強く強く教えられていた。 失った命は決して戻るものではないと。 だから、彼女は迷わない。 「悲しい事が起こる前に、イサラさんを止めないと……」 「そうだねぇ」 相槌を打ち、相好を崩して笑うウーヴェの隻眼には冷えた色が燈り続けている。見る者の背筋を凍りつかせるような、鋭い刃に似た光が。 「でも、僕にはわからなくもないなぁ。奥さんを取り戻したい、って言うきもち」 ◇ 近所の住人にイサラの自宅の場所を問えば、彼らは快く答えた。どうやら未だにイサラが行方を晦ましている事も、彼が凶行を為そうとしている事実も周知されてはいないらしい。二人はただの弔問客と思われて、あの白い花が飾られている扉がそうだ、と、悼みを含んだ顔で指し示されただけだった。 小さな花弁を持った白い花が輪を描いて編まれ、リースのように玄関先に掛けられている。 二人は視線を交わし、周囲の目がない事を確認してから玄関の扉を潜った。 打ち合わせるでもなく、二人別々の部屋を探す。ジャンガは二人の寝室を、楽園は居間を。 そしてほどなくして、金糸雀の澄んだ声が響いた。 「見つけたわ」 虎の耳をぴくりと動かし、ジャンガが顔を上げれば、隣の部屋から顔を出した楽園が洋琴を手に微笑みかけていた。小柄な彼女でも両手で持ち抱えられる大きさであり、成人男性であれば片手で抱えて片手で弾くものなのだろう。 「それが龍琴か?」 「ええ、木枠の部分が蛇龍になっているわ。これで間違いないわね」 楽園の示す通り、近付いて眺めてみれば、U字型になっているボディ――弦を張る部分が、精緻な鱗の彫り込まれた龍の姿をしている。ジャンガもまた頷いて得心した。 音楽に縁深い人間の性として、琴に興味を示す。ゆらりと揺れた虎の尾からそれを察して、微笑んだ楽園が龍琴を差し出した。 「そちらはどう?」 「ん。ああ、医者の言ってた薬の箱を見つけたぜ。残念ながら嬢ちゃんのお望みのものはなさそうだが」 「そう。なら、ここには無いのかもしれないわね」 「ここにないってんなら、何処にあるんだ?」 龍琴の弦を弾きながら素直に首を傾げるジャンガへと、楽園は微笑みかける。 「どうしても処分されたくないものなら、信頼できる人間に預ける、という手があるわ」 たとえば、かかりつけの医師のような。 言外にそう含ませ、楽園は猫のようなしなやかさでジャンガの手元に近寄る。木で出来た小さな箱が、彼らの前の机に置かれていた。 箱を開けば、仕切りに遮られた二つの空間に、それぞれ数粒ずつ丸薬が収められている。ひとつずつ手に取った楽園が、光に翳しながらそれを検分する。 どちらも、見た目には全く同じ。乳白色の、小さな粒だ。 手の中で軽く転がすだけで、それらは容易く差異を失う。 「……薬の順番を、間違えた?」 茫然と呟く楽園の手の中で、ふたつの白い丸薬は煌々と光跳ね返す。 「おいおい、自殺じゃなく事故だって言うのか?」 「わからないわ。誰かが意図的に薬を入れ替えたのかもしれないし、ジャンナ自身が順番を入れ替えて呑んだのかもしれない。……もういちど、あの医者の元へ戻りましょう」 真実など、最早誰にもわからない。 確かなのは、ここで、一人の女が死んだという事だけ。恨みも悲しみも、残す事なく。 それ以外には、何もなかった。 ◇ はたと、窓の外を眺めていたアクラブの金眼が大きく見開かれた。 「光」 「え?」 驚愕のままに落とされた声を拾い損ねて、絵奈が訊き返す。弾かれたように窓際へと駆け寄るアクラブの、朱い髪が蠍の尾のように靡いた。 「ハクア、世界司書は何と言っていた。部屋に射す光の色は」 「……確か、緑銀、と」 小さく考え込み、記憶を頼りにそう答えたハクアもまた、顔を上げる。 「そうか」 骨ばった手が、重厚な紅色のカーテンを開く。――そこから射し込む明瞭な光は、鮮やかな橙の色をしていた。 太陽による自然光とは明らかに異なる色合い。 嵌め殺しの窓は開く事は出来ないが、覗き込んだ街の光景には橙以外にも幾つかの色の光が混ざり合っているのが見て取れた。 「この街は洞窟の壁に埋められた竜刻から光を得ていると言ったな」 「ええ。それが……?」 「ならば、地域によって光の色が大きく異なる筈だ。司祭、そういった地図はあるか」 竜刻の場所と、その光の色を記した地図。 司祭は小さく考え込んだ後、首を横に振った。 「竜刻の位置が記されている地図はありますが、光の色までは」 「ではそれで構わない」 短く言葉を切って、アクラブは再び窓の外を見遣る。針の如き鋭い眼光が煌めいて、射し込む光を睥睨した。 「緑銀色の竜刻が街の何処かにある筈だ。――その傍に、イサラが居ると見て間違いないだろう」 傍らの絵奈が、トラベラーズノートのページを慌ててめくった。 ◇ 連絡を受けた楽園のセクタンの視界を追って、合流した六人は駆ける。 緑銀の竜刻は街の上層、転移陣のすぐ傍に位置していた。そのすぐ近く、地図上には一カ所だけ、家主の名のない家屋が記されている。竜刻の光の最も入りやすい位置。――儀式を行うのに、打ってつけの場所だ。 「あそこだ!」 ジャンガの力強い声と共に、ロストナンバーは室内へと雪崩込む。 扉はいっそ無防備なまでに、簡単に彼らを迎え入れた。 床一面に広がる、褪せた赤。古代の言葉と誰かの血で描かれた魔法陣。その中央に横たわる女と、傍らに佇む男を目にして、ハクアが更に一歩踏み込んだ。片手に拳銃を忍ばせながら、振り返った男の出方を待つ。 「誰だ」 男が投げた誰何の声に、応える者はいない。男の様子に凶行の兆しはなく、ただ静かに、決意を秘めたような眼差しだけが彼らへと向けられている。 柔らかな緑銀色が、竜刻の燈す光が差し込む。 「生贄は……?」 司書の予言に確かに現れたはずの“生贄”。絵奈の不安げな視線が、楽園の訝しげな視線が周囲を走るが、何処にもそれらしき姿はない。ただ、ハクアだけが、全てを見透しているかのような眼で男を――イサラを見つめていた。 「ずっと、気にかかっていた」 仲間達に聞かせるように、独りごちる。 「司書の予言。生贄の言葉が出ていながら、“鏡には男と骸しか映っていない”と。――教会の司祭も、第三者の生贄を必要とするとは一言も口にしていなかった」 蘇らせるはずの骸を生贄とする事は出来ない。――魂が返ってくる、器がなくなってしまうから。 ならば。 「イサラ」 ハクアの声は静かに、しかし透徹した色を以って静寂の中に響き渡る。短剣を手に持つ男の肩が震え、僅か揺らいだ瞳が彼に向けられた。 「かなしい儀式だな」 淡々と、言葉を落とす。 「もしもこの儀式で妻が生き返ったら、彼女はどうすればいいのだろう」 緑銀の光を浴びて、青年の長く白い髪が淡い色を帯びる。緑の瞳が横たわる女の骸を捉えて、その内側にあったはずの魂を見透かすように細められた。 「苦しむのではないか」 床に広がる古代文字の陣、その全てを男は己の血ひとつで描き出したと言う。痛みなど意味がない、愛する者が居なければ――そんな、無言の叫びが聴こえるようでもあった。 「お前が今、どうしようもなくて、こんな儀式を行ってしまうように。――自分の所為で眼を潰した夫の姿を見て、ジャンナがどう感じるか、お前は考えたのか」 「眼を――!?」 「……生贄ってぇのは、その事か」 零れんばかりに目を見開かせ、息を呑む絵奈。冷静さを装った言葉とは裏腹に、ジャンガの尾がピンと張りつめている。 「死者の国は――“彼方”は、人の目には過ぎた場所だ、と言っていたが……」 「そこへ迎えに行くのなら、己の目を潰さなければ還ってこられない……そう、オルフェウスの“見るなの禁忌”ね」 アクラブの言葉を受け、聡明な楽園は正しく儀式の意図を汲み取った。壱番世界のよく似た伝承を持ち出して、悲壮な決意に凝り固まった男を見遣る。 真実に戸惑う仲間達の合間を、くすんだ緑がするりと擦り抜けた。それが何――誰であるのかを把握するよりも早く、細身の刃がひらり煌めく。 降り下ろされた鋼は、横たわる骸の首を捉えて止まった。 「ジャンナ!」 男が、初めて言葉を発する。 「動いちゃだーめ。奥さんの首、切り落としちゃうよ?」 それに応えたのは、場にそぐわない、あまりにも能天気な声だった。 隻眼を細めて、ウーヴェが笑う。サーベルを骸の首に添えたまま、まるで天気の話でもするかのように語りかける。 「さすがに首と身体がバイバイしちゃったら、戻ってくるとき奥さん困っちゃうよねぇ? ……そんな怖い顔しないでさぁ、仲良くお話でもしようよ」 そう言いながら、彼は視線を仲間たちの側へと移した。突然の行動に呆気に取られていた絵奈が、その視線の意味を悟って我に返る。 大きく頷いて、イサラへと声をかけた。 「イサラさん、落ち着いてください」 男の澱んだ目が警戒に向けられたのを見て、ぐ、と胸の前で拳を握る。 「もし術が成功したとしても、そこにはきっとジャンナさんの魂は居ません。歪んだ、心ない人形があるだけです!」 明朗な瞳を焦燥に滲ませて、絵奈は叫んだ。死者の国から取り戻すという魂が、果たして本当に生前の彼女と同じものなのか。彼女にはとてもそうは思えなかった。 「それはジャンナさんを助けるどころか、更なる苦しみを彼女に与えてしまいます」 失った命は決して、取り戻せるものではない。 真摯な言葉は、項垂れる男の心に届いているかどうか。彼女には判らない。 しかし、想いは口に出さなければ届く事もないのだ。 だから、心優しい少女は語りかける言葉をやめない。 「そしたらきっと、あなたももっと傷つく……私、嫌なんです! これ以上の悲しみが生まれるのは!」 愛した妻を失った悲しみ。それさえも踏み躙って、新たな悲劇が生まれようとしている。 それを見過ごす事など、絵奈には出来なかった。 少女の必死な言葉が、凝り固まった男の心を揺さぶる。一歩、足を退いて、ひゅ、と息を呑む音さえも聴こえた。 呆然とするイサラの手から、半ば奪うようにしてアクラブが短剣をもぎ取る。男は与えられた言葉を呑み込もうとしているのか、ただその場に立ち尽くし、抵抗のひとつもなかった。 「真実死者を思うならば、このような術を行うべきではない」 威厳のある、神官の声が響く。 他者の耳を支配するような、威圧的で絶対的な声音だ。男の身が竦み上がり、しかし畏れるような瞳はアクラブから離される事はない。その言葉を確かに聴き届けているという証。 「死者に罪を被せる事になる」 目覚めた妻が、盲目の夫を目にしたら何を思うか。 他者の心の機微に疎いアクラブでさえも、容易に推し量ることができる。 ――己の所為で、彼の光を奪ってしまったと。 夫を愛する妻ならそう考えるだろう。己の罪だ、と。 「そんなに妻が愛しいならば、お前が追っていけばいい」 突き放すような冷酷さをも含んだ物言いだ。しかし、鋭い棘の如き言葉は一切の情を含まないからこそ、揺れ動く男の胸に突き刺さる。 「そうだねぇ、僕だってそんなことしたらモニカに嫌われちゃうってわかるもの」 そう言って笑うウーヴェの刃は変わらず、物言わぬ骸に突き付けられている。冷えた色の視線が閉ざされた女の瞼の上を滑り、そこに何かを重ね見て、刹那伏せられた。 「嫌われるくらいならいっそ、って考えた事もあるけど」 そして、柔らかな光跳ね返す鏡面を見遣る。その向こう側に開かれるはずだった“死者の国”を思い描いて、しかしそこに彼女が居るはずもないのだと、笑う。 「……まぁ、僕なら絶対やらないけどね!」 いっそ清々しいほどの笑みで胸を張った。幼い仕種に本心を隠して。 「取り戻したい人なんて、私にも居るわ」 青い梟を抱き締めて、楽園は視線を上げた。 愛してくれた父と母、あの日、目の前から去ってしまった紅い眼の――。 思考を振り払うように、ぎり、と唇を噛む。首を横に振る。 「イサラ、貴方への伝言を預かっているの」 懐から取り出した書面を開き、澄んだ金糸雀の声で文字を追った。 『イサラヘ 私はもう逝きます。 これ以上、あなたが私の事で身を削らないでいいように。 やさしいあなたのこと、きっと私を追いかけるなんて言い出すんだわ。 でも、そんな事考えたりしないで。もうあなたを縛りつけたくないの。 私はとても幸せでした。あなたと生きることができて。 だから、あなたも幸せでいて。あなたはあなたの命を生きてください。 あなたの妻より 』 ひどく、簡素な内容だった。 言葉を飾る事も、内容を膨らませる事もしない、ただただ淡泊な遺書。 しかし、そのシンプルさが、彼女の素朴な人となりを何よりも雄弁に伝えている。 ジャンナの遺書を読み上げて、楽園は華奢な唇に艶やかな笑みを咲かせた。少女の容貌に似つかわしくない、年老いた女優の笑みを。 「わかったでしょう? ジャンナは貴方の所業を望んでいないわ」 噫、とイサラが声を零す。揺れ惑う瞳を瞼の奥に閉ざして、男は空の両手で己の貌を覆う。妻の言葉を胸に抱いて、整わない息の中で笑うように泣きじゃくる。 「手に入るのは妻の抜け殻。愛は決して生き返らない。そんな人形遊びで充たされるの?」 続けられる糾弾の声にも、最早返す言葉はないようだった。 「死別ってのは、悲しいが必然だ。生きてれば必ずやってくる」 ジャンガの言葉は簡潔で、どこか乾いた大地の匂いを孕んでいる。 「そして、別れの時間は一瞬だ」 シャーマンとしての面を持つ大地の聖獣の末裔は、人の生死に対する感慨が薄い。秋空のような瞳が男を見、ジャンガは肩を竦めてみせた。 「だがその一瞬で、それまで二人で育んだ時間が消えるわけじゃねえだろ」 力強い指が、己が胸を指し示し、そしてイサラへと向けられる。 「想い出せ。今まで過ごした時間は、あんたの中に生きてんだ」 しあわせだったと、妻はそう言った。 それは、永遠に変わる事はないのだと。 カタリ。 小さな音を立てて、男の腕の中から書が落ちた。茫然とする男は、己がそれを手放した事にも気付けない。 それを見越していたかのように、鋭い風が走る。 何かがしなる高い音が響いて、イサラの足元の地面を強かに打ち付けた。しゅるり、乾いた音と共に禁術書が独りでに浮き上がって空を滑る。 ――否、引き寄せられたのだ。 「ウーヴェ!」 「やーっと離してくれたぁ」 アクラブの、鋭い詰問の声が飛ぶ。ぬいぐるみを抱く幼子のように禁術書を胸に抱え、名を呼ばれた男はとろけるような笑みで応えた。 「何をするつもりだ」 眦を吊り上げたアクラブは詰問を繰り返す。 「そんな怖い顔しないでよぅ。僕はちょっと借りたいだけだってば」 そうとだけ答えて、ウーヴェは不意に身を翻した。開いたままの玄関から飛び出して、街中へと去って行く。 「待て!」 追い掛けようと駆け出したハクアの耳を、鋭い破裂音が襲った。 足を止める。意識が外へと向かうのを引き戻し、振り返れば――イサラの背後に位置する姿見が、不穏な光を放っているのが見えた。 脳裏を焼くような白。 窓際から射す光とは全く違う色に輝いて、室内を覆い尽くすほどに眩しい光が走る。鏡の向こう側から、耳障りな音を轟かせながら。 何かが来る、その予兆。 「どうして」 「儀式は、止めたはずなのに……!」 惑う心を、仲間達が代弁する。 室内の視線を一身に集め、姿見はぽっかりと口を開いたまま、大きくその身を震わせ始めた。地震かと身構えるが、立ち尽くす彼らに振動は襲ってこない。ただ鏡だけが、轟音と共に痙攣を繰り返す。 そして、膨張するように輝いた鏡面は、その向こう側に“何か”を映し出した。 見てはならぬ。 誰もがそれを知っていた。そこに広がる景色を、目に入れてはならないと。本能的に目を伏せたその一瞬で、世界は反転する。 鏡面から溢れ、飛び出す異形。飛び交う光。――室内に溢れる瘴気と、禍々しい生への執着。刺すような痛みがそれを顕著に伝える。 「ハクアさん!」 街へ飛び出したウーヴェの事が気にかかり、意識が逸れそうになるハクアへ、鋭い声が掛かった。 「毒姫を向かわせてるわ。彼が何かしそうならすぐに伝える」 「頼んだ」 ジャンナの骸を庇うように、楽園が低く屈む。ハクアは頷いて、白銀の銃を取り出した。 ジャンガの焚いた清らかな香が、骸と少女とを包む。はたと顔を上げた楽園に、巨躯の獣人は頷いて、その隣に佇んだ。四肢に嵌めた打楽輪を力強く打ち据えて、轟かせた音を衝撃波に変え魔物たちを跳ね退ける。 「絵奈!」 「はい!」 ジャンガが鋭く、絵奈の名を呼ぶ。 騒然とした状況下にあって尚冷静に、快活に答える少女に笑み零し、ジャンガは足元を指差した。古代の文字で描かれた血の陣を。 「あんたは確か、魔力増幅が出来るんだったな。頼みたい事がある」 そう言って眇めた目は、出来損ないのウィンクにも似ていた。 銀の鋏を右手に、楽園は左腕の裾を捲くり上げる。 その腕に走る無数の古傷。褪せた桃色を曝すそのひとつにと平行に、鋏の刃を当て――躊躇いもなく引いた。 赤い飛沫が散る。 腕を滴る紅の色に、艶やかな笑みを咲かせた。 流れるような動作で、溢れる血を床に擦り付ける。同じく血で描かれた陣の形を変えるように、模様を付け加えるように、滴る血を滅茶苦茶に靴で引っ掻いた。 扉を繋いでいるはずの陣が薄れて、姿見近くの魔物が強制的に死者の国へと引き摺りこまれる。 「自分の腕を……!」 当惑にイサラが声を上げる。揺れ瞳は楽園の身を案じているようで、それだけで、やはり性根は優しい男なのだと知れた。首を振って彼に応える。 「イサラ」 蠱惑的な笑みと共に、楽園はイサラを仰ぐ。悪戯な猫の目で怯える男を捉え、金糸雀の声で誘いかけた。 「ジャンナに鎮魂歌を捧げて頂戴」 「鎮魂……?」 呆然とする男の足元に転がる龍の形の楽器を、華奢な指が指し示した。 「貴方は龍琴の名手だったそうね。その優しく澄んだ音をジャンナも愛したんじゃなくて?」 微笑む少女の背に、異形の死者が迫る。しかしその魔手は彼女へと届くことなく、アクラブの蠍の棘によって貫かれた。断末魔が響き渡り、少女は不快に表情を歪める。 「妻の骸を、あんな野卑な叫び声に曝しているつもり?」 そして、ひとつ息を吸うと、唇を開いた。 高く、高く澄んだ声が響く。 何処の国のものとも知れぬ、繊細な響きを伴った旋律が少女の喉から奏でられる。 はたと、イサラが動きを止める。 その音色に数拍聴き入って、彼は意を決したように龍琴を手に取った。少女の歌声に合わせるようにして、弦を弾く。深く、弾けるような低い音が響き始める。金糸雀の歌声に色を添える。 中空を舞う死者の魂が、音色に引き込まれるように動きを鈍くした。 しゃァん! 二人の演奏を後押しするように、ジャンガが打楽輪を響かせる。衝撃波に気圧される魔物を一瞥、そして視線を中空で漂う数多の魂へと向けた。 歌声に、琴の音色に惹かれ、ふらふらと彷徨う魂がひとつ。 明らかに他の魂とは違う動きをするそれを、優れたシャーマンは見逃す事など無かった。 「来い――ジャンナ!」 打楽輪を打ち鳴らす。 声に霊力を籠めてその名を呼ぶ。 ふ、とその光が弱まった。白い余韻だけが残り、尾を引いて横たわる女の骸へと吸い込まれるようにして消える。 冷たく閉ざされていたはずの瞼が、その瞬間確かに震えた。 「!」 イサラの身が強張り、視線が妻の遺体に釘付けとなる。 安堵させるように彼の肩に手を添えて、楽園は静かな眼をジャンガへと向ける。肩で息を吐きながら、聖獣の末裔は確かに笑って頷いた。 その隣には、床に両手をつき、瞼を閉じて集中する絵奈の姿。額には玉のような汗が浮かんでいる。 「竜刻から力を引き出して、絵奈に増幅を頼んでる。……あまり長くは持たねえ」 そう語るジャンガ自身も、ひどく消耗しているようだった。 見守る彼らの前で、確かに命を失ったはずの女が、ゆっくりと身を起こす。光のない瞳が周囲を見渡して、すぐ傍に佇む男の姿を見つけて、大きく見開かれた。 「ジャンナ」 男の喉から振り絞られた声は、それとわかるほどに震えていた。 瞳が戸惑いに揺れて、ロストナンバーへと向けられる。旅人たちはそれを受け止めて、背中を押すように頷き返した。 「ゆるしてくれ、私は」 その先の言葉は、しかし紡がれる事はなかった。 女が青白い肌のまま、首を横に振る。言葉を喪う男の頬に手を添える。淀んだ、しかし美しい色の瞳が彼を見て、たどたどしい様子ながらも確かに、彼女は微笑んだ。 あいしているわ、と。 確かにその唇が、言葉を紡いだ。 打楽輪の乾いた音が響く。 夢の爆ぜるような、現実へと引き戻されるような、力強い音色。 それと共に、大きく痙攣した女の骸が崩れ落ちる。白い光がその身体から抜け出して、ふわりと宙を舞った。 がくりと地面に膝をついたジャンガが、それでも力なく笑いを零して光へと手を振る。絵奈の陣も床から掻き消えるようにして形を崩し、彼女は張り詰めていた意識を緩めて大きく息をついた。 名残を惜しむようにイサラの周囲を廻った光――ジャンナの魂は、柔らかな白い尾を引いて鏡の扉へと去っていく。イサラはそれを追い掛けようとして、しかし唇を噛み締めて踏み留まった。 「――ジャンナ、私もきみを愛している!」 優しい夫の最後の言葉は、妻へ届いたのか。 鏡が一度光を纏い、ジャンナの魂を受け容れて、そしてまた沈黙を取り戻した。 しゃァん! 再度打楽輪が鳴り響いて、集う異形を薙ぎ払う。討ち漏らした数体をハクアの拳銃が捉え、的確に撃ち落とした。 白かった銃弾が銀に変わる。 頃合いか、とハクアは消えゆく魔物たちから視線を逸らし、ぽかりと口を開け続ける姿見へと目を向けた。 死者の国への扉と成り得る、現世の写し鏡。 緑の瞳が、静かにそれを見据える。己の姿が、まっすぐに掲げられた銃口が、姿見に映っている。――その奥から、止め処なく溢れ出んとする異形の死者たちを視界に収めて、ハクアは人差し指に力を籠めた。 銃声。そして、甲高い音が散る。 ――それはまるで、数多の断末魔のようだった。 ◇ 行方を眩ませたウーヴェから、トラベラーズノートで連絡が届いた。どうやら「ちょっと借りるだけ」という彼の言葉は真実だったらしい。 連絡に従って街の中層、洞穴の最も深い場所へと彼らは足を向ける。 ――洞穴の中にありながら、小高い丘のような空間だった。 「遅いよぅ、みんな」 竜刻が柔らかな青銀の光を落とす中、ウーヴェは芝生に足を投げ出すようにして座り込んでいた。陰気な隻眼を愉悦に歪め、子供じみた仕種でとんとんと己の傍の大地を叩く。その姿が、何処となく小さく見えたのは、彼らの気のせいだっただろうか? 「……ここは」 その様子に言いたい事は幾つもあったが、敢えてそれらを呑み込んで、ハクアが問いかける。 「ジャンナさんのお墓だってぇ。近所の人に聞いたら教えてくれたよ」 彼が背凭れにしていた真新しい石碑に目を向け、ハクアはああと頷く。カエルーティオの文字が刻まれている。恐らくは、ジャンナの名が。 素直に応じたウーヴェは、己の手にしていた禁術書を差し出した。「思ったより面白くなかったなぁ」そんな、身勝手な感想を付け加えて。 「どうしてこんなことを」 絵奈の真摯な視線にも動じず、肩を竦めてわらう。 「だからさ、ただの好奇心だよ。やるやらないは別にして、面白そうだったしぃ」 歪むように細められた左の瞳。そこにほんの数瞬、悼むような色が走った事に、気付いた者はいただろうか。 「あの……」 恐る恐る、絵奈が皆に声をかけた。腕に抱く書を一度見下ろして、意を決したように視線を上げる。 「本を、燃やす事ってできませんか」 生真面目な少女の口から発せられたにしては大胆な提案に、楽園が興味深そうに唇を擡げた。 「貴女がそんな事を言うなんて、珍しいわね。でもどうして?」 「この本がある限り、何も変わらないと思うから……」 「いいんじゃないかなぁ。本は取り返せなかったってことにしちゃえば」 決意を秘めた絵奈の言葉に、あくまで能天気さを崩さないウーヴェが同意する。 「禁術を記した書など、人を無暗に惑わすだけのものだ。可能であれば、消しておくべきだろう」 威圧的な口調を崩さぬまま、仏頂面のアクラブもまたひとつ頷いた。楽園にもそれを止める理由はなく、言葉少ななハクアも決して否定はしなかった。 「司祭には俺から言っておこう」 そして、心ここに非ずと言った様子のまま、長い髪を翻して丘を下りて行く。 小高い丘に、炎の爆ぜる音が散る。 暖かい風が吹き抜けて、禁術書を抱いた火を揺らしていく。古び、乾いた紙で出来たそれは、人を狂わせるほどの魅力を秘めているとは思えぬほどに容易く燃え上がった。――旧き魔術がひとつ、簡単に喪われていく。 書が燃え、白かったページが縒れて歪んで黒く変わっていくのを、絵奈はただ見つめていた。なにひとつ、忘れてはならない、と。 「イサラさんの悲しい想い、私は忘れません」 ぽつりと落とされた決意の言葉を、仲間たちの優しい視線だけが見護っている。 「二度と、その悲しみを繰り返さないように頑張っていこう……そう思います」 心優しい少女の胸に、またひとつ、新たな光が燈された。 丘の緑を、足音が揺らす。ハクアが戻ってきたのだと、振り返った彼らは微笑んで迎え入れる。 白い花を抱きかかえた青年は、淡々と、粛々と、丘を登っていく。龍刻が燈す青銀色の光を浴びて、真白な髪と真白な花が共に柔らかく色づいた。 「どうか、安らかに」 ささやかな祈りと共に、花を石碑の前に添える。 立ち昇る煙が、出口を失くして彷徨う。 竜刻の燈す光をひとときやわらげて、龍骸の街に融けて消えた。
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