――お前などいらぬ 静寂のなか、誤って硝子玉を落としてしまったように無感動な声が響く。それはまるでよく研いだナイフのように鋭く、アクラブ・サリクの心臓を躊躇いもなく一突きにした。 今更だ。 彼女の与えるものは、蠍の毒で満たした杯。それに手を伸ばすことがどれだけ愚かで命とりとなるのかはとっくの昔に理解した、はずだった。 それでも会心の笑みを浮かべて吐き出す言葉と、さも誇らしげに膨れた腹を撫でるその手はまだ十歳のアクラブのすべてを否定していた。 心を乱してはいけない。怒りに翻弄され、動揺すれば彼女は嬉々として自分の喉仏を狙ってくる。 まるでひびのはいった氷の上を歩くようだ。 赤絨毯が敷かれ、名ある職人が作り出した素晴らしい調度品が置かれた豪華な部屋であるというのに、アクラブの心も体も真冬の池に落ちたように冷たく何も感じなくなっていた。 「あの人は言うてくれた。この子は神の加護を受けた男子じゃ」 彼女は語る。アクラブに語るというよりは、独り言のように。 「だから、お前なんぞいらぬ」 赤い唇がつりあがって、笑みを作る。まるで地下にあるという魔族の都市バビロンの入り口のようだ。 この地上を支配するのは神とその教えだ。 神と魔が戦った神話の時代。 神は地上に生きる者のなかで最も聡明で、愚鈍な種属である人間を加護するかわりに信仰を求めた。 人々の信仰は神に力を与え、ついに魔を地下に追放することに成功した。 しかし。 地上にいくつもの神の加護を受けた人間が存在し、神々は誰が地上の覇権を握るかで再び争いをはじめた。地上に生きる人間は神の加護を最も受けた者を王とし、他神の信仰する者を敵として刃を握り、血を流すことを選んだ。 王はこの世の穢れから護られた王室の奥に住まい、神の声を聞き、民を護る役目を担う。 王にかわりって政府を取り仕切るのは神官。神と民のために戦う者は武装神官と呼ばれる。 神の教えでは、この世には決められた相手がおり、永久を誓った者は死別以外では離れることは出来ないとされている。教えを破ることは禁忌だが貴族や金持ちが影に隠れて愛人を作ることはさして珍しいことではない。 アクラブの父もその例に漏れなかった。 彼は生まれた時から決められていた婚約者と結婚する前に身分の卑しい踊り子に熱をあげ、屋敷に囲った。結婚したあとは、当然、その悪さも収まるかと思っていたが、恐ろしいことに彼は妻と愛人を同じ屋敷に住まわせた。 周りは再三注意を促したが、彼は耳を傾けなかった。 その傲慢さの結果、アクラブが生まれた。 表向きは正妻の子となっているが、その燃えるような美しい赤髪は父の褐色の髪とも、正妻の金色の髪とも違う――本当の母から譲り受けたものだった。 アクラブは生まれたときから聡明だった。そうでなくては生きてはいけなかった。生まれたときには本当の母と引き離され、会うことも禁じられた。そして、自分のことを蛇蝎の如く嫌う正妻の元で育ったのだから。 事故に見せかけて殺されかけたことは何度もあった。冷たい使用人と正妻の態度に薄々は感じていたが、アクラブはあえて気がつかないふりをした。そうして己を誤魔化して生きていくには神にすがるしかなかった。寝る暇も惜しんで学び、痛みに眠れる夜を経験するほどに己の身を鍛えた。 十歳をようやく過ぎた数日後、一度たりとも自分を見ることもない彼女が嬉々として告げたのは懐妊とアクラブへのはっきりとした悪意だった。 鉄の刃が振り下ろされれば、肉が切れる。それと同じく、彼女の言葉はアクラブの魂の最も美しいところを削いだ。 「おめでとうございます、母上」 「お前が私を母というな! 卑しい踊り子風情の子が! まさか、この家を継げると思っておったのか!」 烈火の如くまくしたてる正妻を女中たちが慌てて止めに入る。 「……お前など、この子が生まれるまでのつなぎにすぎぬ、もう、いらぬ」 彼女は扇で口元を隠した。 「はやく死んでおくれ」 投げ捨てるような言葉だった。 アクラブは必死に表情を殺し、正妻を見た。自分の生まれを忘れたわけではない。それを恥じていないわけでもない。そのことで尊敬する父を一瞬とはいえ怨んだ。だからこそ、アクラブは誰よりも努力した。 「無事の生誕を火の神にお祈りしております」 「お前の場合は、邪神に祈るのではないのかえ」 痛烈な皮肉だったが、アクラブは耐えた。何も言い返さず、黙って部屋をあとにした。 己の部屋に帰りつくと、ようやく心の内で燃えあがっていた炎が解放を求めて雄たけび狂った。 机に近づくなり、広げていた本を握りしめた拳で乱暴に床に叩きつけた。それでも飽き足らずに、書きかけのノートを破き、手の痛みと犬のように荒くなった呼吸に惨めさを感じて、その場に崩れた。 もう何一つとして意味がない。 悲しい、虚しい、それを覆い尽くす憎悪の黒い炎がアクラブを嘲りながら囁くのは呪詛。呪え、憎め、恨め、殺せ、犯せと。 「違う、違うっ!」 正妻の前では氷で作られた人形のように崩れなかった表情が苦痛に歪む。 「俺は」 赤い髪の毛を力いっぱい握りしめ、深く息を吐いた。 悲しかった。ただ悲しくてたまらなかった。 今まで積み上げてきたものが、すべて無駄だと、己のすべてを否定されたことが。 彼女の声が、彼女の瞳が、瞼にくっきりと焼き付いている。口に出来ない呪詛を瞳から溢れる涙が代わりに綴ってくれる。それだけが今のアクラブを保ってくれた。 その十カ月後に、アクラブは自室で弟が生まれたことを知らされた。 生誕のパーティは大々的に執り行われたが、そこにアクラブの席はなかった。 弟が生まれた日、アクラブは存在を殺された。 それでもアクラブが自暴自棄となって堕落の神の囁きに身を浸し、快楽に耽る誘惑を己の手で退けたのは、血を吐くような意地と最後の最後に残ったのは落ちることなど許さないという誇り高さであった。 たとえ幼い弟に誰もが目を向け、宴などの席に足を運ぶことから遠のき、日陰の生活を余儀なくされたとしてもアクラブはただ淡々と努力し続けた。その間に何度か弟のことは耳にはいってきたが、それがいつも兄であるアクラブと比較しては嘆くばかりのものであるのは皮肉なことだ。 元々、正妻は身体の強い人ではなく、弟も身体が弱かった。 更にはようやく授かった念願の子に過保護を発揮した正妻が、弟を甘やかしているのも原因の一つであった。 愚かだ。 高等学問を学ぶため、アクラブは学校の寮にはいった。そうするしかなかった、というのが正しい言葉だが、同じ屋敷にいたとしても睨みあうしかない正妻、自分に関心のない父……これを悲しいと思う心をアクラブは亡くした。長い月日がたつうちに心は鋼のように叩かれ、石のように堅く変化していた。 「まったく、あの若様ときたら、までろくに聖書を読めないんですよ」 「剣術もからっきしだし」 「あれじゃあねぇ」 「アクラブ様に比べて、なんと非凡な」 「これだったら当主さまはどちらを後継者に選ぶか」 「まったくだ」 「それに、アクラブ様は炎火神の保護をいただいている」 「なら、アクラブ様にとりいったほうがいいんじゃないのか」 使用人たちの影口はいつも風に乗って耳をくすぐるが、それに心が満たされることはなかった。むしろ、保身に走るかのようにゴマをする者が現れたときは呆れた。 自分に近づき、甘言を囁く人間の顔はどれも黒く、底なし沼のようで、口から洩れる言葉は呪詛よりも穢れていた。 まるで、地下都市バビロンの入り口のようであった。 それから逃れるように、飢えた狼の如く、アクラブは進むことを求めた。 大学まで卒業したのち、アクラブは武装神官になることを選んだ。政治とは関わりのない、戦うことが主である武装神官は上からの命令であればどこにでもいかねばならない。また仲間との繋がりを大切にするため、基本的に寮に入ることとなる。 弟が当主となる以上、兄であるアクラブは武装神官しか選ぶ道はなかった。だが、サリク家の名はアクラブの影のように纏わりついた。 炎火神に愛された申し子。――アクラブを周りの者は称えた。 才能があるアクラブの働きは目を見張るものがあり、下積み時代はさして長くはなく、家の名と本人の努力もあって出世街道を着実に進んでいった。 すぐに地位とともに個室と専用の部屋を与えられるようになった。 そうなるといやでも周りはアクラブをほっておかない。屋敷の使用人たちのようにゴマを擦ってくる者が大勢、現れた。 「家は継がないのか、アクラブ、あなたが継ぐべきと周りも言っている」 アクラブに熱心に家に戻ることを進めたのは同じ名家の出であるファラという男だ。 「支援者も多い今なら、あなたが表に立ては必ず」 「必ず?」 威厳のある声で問うた。 「……当主となれることは間違いない」 「ファラ、お前とは下積み時代を含めて、長い付き合いだ」 ゆっくりと懐から煙管を取り出して口にくわえると指を鳴らして火をつける。神の力をこのように気軽に使うのはバチ当たりと非難されるかもしれないが、この気軽さがいつの間にか慣れてしまった。 「あの女からはなんと言われた」 「アクラブ、なにを」 「お前があの女、母と連絡をとりあっていることを私が知らないと? 俺の名で金を集め、それでお前が遊び歩いていることを知らないと本気で思っているのか? おめでたいことだ」 アクラブの怒りに炎はその姿を蜥蜴に変えてファラの腹に飛びかかった。 「ひ、ひぃいいい! な、なにをするんだ。アクラブ!」 「俺をあまり見くびらないことだ」 「っ、ならば問おう。愚かな友よ、なにも得ずともいいのか! お前こそ愚かだ! 才能が劣る弟にすべてを盗られて構わないというのか! 俺はお前のために策を」 「お前が得するだけだろう」 ファラは泣きながら叫んだ。その情けない姿はまるで地下都市バビロンの入り口のようであった。 裏切ることも、失うことも、裏切られることも、アクラブのなかではいつものことであった。 ファラのした裏切りの後始末のためにも一度家に帰り、あの女にきつく助言する必要があった。 家の名を穢すな、と。 そのためだけに家へと戻ったアクラブは玄関で待っている弟を見つけた。 「兄上!」 父と母に似た金色の髪、金色の瞳、痩せた体はひょろりとしてアクラブの半分のない。 「お久しぶりです! 朝一でお戻りになると文を頂き、待ってました!」 弟は笑顔でアクラブを出迎える。廊下を二人で歩きながら弟は必死に話しかけてくるのはとるにたりない世間話だった。 この子は何も知らないのだ。 自分がどんな立場かも。 兄がどんな立場かも。 愚かだ。 「兄上、私は噂を聞きました。あなたが、私と、その、対立するという」 「ただの噂だ」 「ええ。そうですね……確かにあなたは私よりも優れています。どうして、武装神官になられたのか……私なんて足元にも及ばなくて、きっと努力が足りないのかもしれません。家を継ぐのは神の選ぶことですし。……ねぇ、兄上、どんなことがあっても私たちは兄弟ですよね?」 弟は笑顔だった。 あの女が見せた笑みが、使用人たちが見せた笑みが、愚かな男の泣き笑いの顔が浮かんでは消え、歪み、集まり、一つの顔となっていく。 「っ……」 「兄上?」 俺こそ、バビロンの入り口だ。
このライターへメールを送る