ターミナルで、手に入らないものはない。 求め、探せば必ず自分の手に掴める。それがこの世に存在する物ならば、という前提はあるが。 それが燃える蠍のような容貌を持つアクラブ・サリクがターミナルで暮らすようになってから学んだことだ。 人生のほとんどを信仰と戦、己の鍛錬に注ぎ込んだアクラブにとってターミナルでの生活は戸惑いと衝撃の連続だったが、どんなかたい銅も炎に熱されて溶けていくように、アクラブの心はゆるやかに変化し、日常は変化した。 今では自分のチェンバーを設け、そこを寛ぎの時間として、それ以外は依頼を引き受けて自分の力を奮うことに迷いはない。 ターミナルの、大通りを歩きながらアクラブはつい苦笑いを漏らす。 俺は、武骨だと思っていたのだがな。 軒を連ねる店、屋台……アクラブの常識で理解できるもの、まったく理解できないものとさまざまなものがある。はじめはおっかなびっくり、今は知らないものを多少とはいえ楽しむ余裕がある。 覚醒前は「お前は無趣味なのか、それとも信仰しかないのか」と同僚に言われたが、今の自分を見ればどういう反応をするか。からかうか、はたまた驚くか。 手の疼きを感じて、アクラブは近くの屋台で茶を頼んだ。すぐに出された紙コップのなかにある薄茶色のあたたかな液体を零さないように路上のテーブル席に腰かけて行きかう人々を眺めながらすすり、朱と金の見事な細工の施された煙管を口にくわえた。指を鳴らしてぽっと火をつけた。 己の加護をつい身近な行為に使うのは昔からの悪癖だ。 それを咎める者も今はいない。 「いかんな」 自分でも理解している。 故郷のことを最近、つい思い出してしまう。 紫煙をくゆらせて、アクラブはため息をついた。 「……やはり香りだな」 ターミナルで生活していると、故郷への思いが不意に胸を突いて痛みだすのは別段珍しいものではない。むしろ故郷に多少とも思い出があれば当たり前のことだ。 ただ、それは個々でなんとかする類のものだ。胸を搔き毟るような激しい望郷の気持ちを持つのはなにも自分一人ではない。 アクラブもはじめうちは持て余していたが、最近はだいぶ慣れてきた。 こういうときは香りを味わい、溺れることが最もいい。 もともとアクラブの信仰する火炎の神は何もかも燃やして孤独となった神だった。孤独な神を慰めるため人はお香を炊いた。とくに神が好んだというのが長く燃え続け、灰すら良い匂いする木香だ。神官となれば誰もが一人ひとつは自分の気に入りをもっている。 アクラブの煙管で吸う葉も、香りつきで、紫煙とともに漂うのは土と緑をイメージした僅かな苦みがあるものだ。 アクラブのチェンバーは故郷の屋敷をイメージしたものだが、一人で暮らす以上それほど大きくなくてもいいので小さくしている。 書斎、寝室、そのなかに香を楽しむための部屋もある。 最近は相次ぐ依頼のためターミナルでゆっくりと買い物を楽しむ余裕がなかった。本来の几帳面な性格から部屋が乱れることはないが、今朝見ると木香がなくなっていた。 「まったく、俺としたことが」 自分のうかつさを諌めながらアクラブは吸い終わった煙管の灰を炎で完全に消滅させ、そのあと飲み終えた紙コップも同様に消すと再び行動を開始した。 「しかし、久々だとわからんな」 アクラブはため息をついた。 仕事をしているときはそれにのみ集中すればいいが、ふとこうして私用になると戸惑ってしまう。困ったことに行きつけの木香の店が閉まっていたので新しい店を探さねばならない。 まだまだ訓練が足りん。 己を叱咤しながらアクラブはターミナルを歩き出す。 ターミナルでは切望し、探せば、必ず知る事が出来る。 それが覚醒したサイネリアがターミナルで知ったことだ。 青いつるりとした真昼の空のような色の肢体から今は変身し、ほっそりとした人間の手足、空色の波打つ長髪は無造作に腰にたらし、太陽色の瞳は優しげに人々を見つめるのは魅力的な女性の肉体、それを包むのは髪と同じ水色のドレスで彼女の美貌をさらにひきたてていた。 サイネリアはドラゴンだが人間にも変ることが出来た。ターミナルには人間が多く、ドラゴンの身ではなにかと不自由することがあるので、この変身能力はなにかと役に立っていた。いつもはドラゴンの姿でいるが、今回はあえて人の姿をとっている。 識るためには、まず形からだというしな。 覚醒してからいろいろなものをサイネリアは見て、聞いて、体験してきた。はじめは戸惑うことも、理解にも苦しんだが、そのたびに人間を愛し、とても愛されていた兄のことが頭をよぎった。 サイネリアの覚醒は、兄の死を嘆いた人々によるものだ。サイネリア自身はそのときの人間の気持ちが不思議でならなかった。 本当は死ぬはずだった身、ここで兄の知りたかったことを知るのも悪くはなかろう。 と思っていたが、いつの間にか自分自身が彼らのことを少しでも知りたいという気持ちになっていた。 依頼を通していろんな人間や感情に触れたことも大きい。 今は受け止めるだけではなく、自分から彼らに触れあいたい。 サイネリアは考え、知り合いに相談したところ、チェンバーにある木香を売ってみるのはどうかと提案された。 ――商売、か。 ドラゴンであるサイネリアは商売なんてしたことがない。必要なかったからだ。けれどターミナルの通りに多くある店、そこで商売する人々の活気たった顔、ときには声をはりあげた諍いもあるが、それらすべてがサイネリアにはきらきらと輝いて見えた。 ――我に、出来るだろうか? 不安はあっても、やってみたい。たとえ一日だけでも試してみるのも貴重な経験だ。 ターミナルでの商売にははっきりとした規則はない。サイネリアは知人から大通りで屋台を出してもいい場所を借り、テントと商品についてもレクチャーを受けると自分にも出来るように思えて胸に空を飛ぶときのような高揚を覚えた。 知人には素直に感謝した。 ――人間同士のこうした借りることは無償ではないのだろう? なにか礼を…… サイネリアが人を知れるいいチャンスとなるように、そしてそれからなにを得たのかぜひ話してほしいという知人の好意にサイネリアの胸に、ぽっとあたたかな水が滴り落ちた。 手探りでも、こうしてサイネリアはターミナルで知り合いを作り、じわじわと水が岩にしみいるように広がっている。 これが喜び。 以前は兄と、尾を巻きつけて感じていた安堵や歓喜が今は人とのふれあいで得られるようになった。 それもまた人を知ったからだ。 サイネリアは朝一番に大通りに木造の簡単なテントを広げて商品も自分なりに考えに考えて並べてきた。 サイネリアが生活を主とするチェンバーは緑溢れる森林で、そこから大きな葉をいくつか持ってきてテーブルに敷いた。商品の木香が茶色であるのに彩を与えてみたのだ。 「うむ、なかなか良い出来だ」 いい雰囲気が出来たことをサイネリアは密かに喜んだ。 そうして店を開いて数時間。 「来ないな」 サイネリアは椅子に腰かけて憂鬱な声を漏らした。 ターミナルは店が多い。馴染みの店に顔を出す者もいれば、もっと派手な外見や客引きする店に人を奪われていた。 サイネリアは客の気を引くために声をあげたり、派手に店を飾るということもしたことがない。どうすればいいのかわからず暇を持て余していた。 やはり、我には無理なのだろうか? 「すまないが、ここは香を売っているのか」 俯いていたサイネリアは顔をあげる。 逆光のなかにぱっと見えたのは猛々しく燃える炎だった。 「……」 「すまないが……どうかしたのか?」 人にしては珍しい色だとサイネリアは見つめ、口元に笑みを作った。 「否、すまない。売り物の木香だ」 「うむ。そうだな」 客は僅かに髭がある顎を撫でながら呟き、目は吟味するために細められる。片手が伸びるととても繊細な木の面を優しく撫でた。 「扱いに心得はあるのか?」 「ああ。木香は趣味だ。しかし、行き慣れた店が今日は閉まっていてな」 「それは困るな」 サイネリアは椅子から立ち上がり客の横に並んだ。 台に置かれているのは、木を小さく砕いた刻や木の形そのままの姿形で、粉末や使い勝手に良い手のひらサイズの四角に切った割をあえて置いていない。そのほうが香りを楽しめるからよいとサイネリアは思ったが、彼女の売り物は人が使うにはいささか扱いに困る大きさが多かったのだ。 「良い品ばかりだな」 「そうか? 客がなかなかこないが」 「こうした大きい物は扱いに困るのだろう」 「そういうものか? そなたはやはり売ることについても詳しいのか?」 「多少は……まさか知らずに商売しているのではあるまい」 「知らぬ」 きっぱりとサイネリアは言い返した。 「これがはじめだ。知人に学ぶためにもぜひやってみればよいとすすめられてな……我はサイネリア、そなたは?」 「アクラブ・サクリ」 短くアクラブは答えて、目をますます細めた。人から見れば睨んでいるともとれる険しい瞳にも、サイネリアは臆することがなく、むしろ不思議そうに見返す。 アクラブは些かの戸惑いと好奇心を覚えた。 ――不思議だ。 姿は人間だというのに、彼女を見た瞬間水が見えた。 サイネリアを見た瞬間、アクラブの脳内に空の青はっきりと見えた。純粋で、透明、しかし、壮大な。 サイネリアはぶっきらぼうなしゃべり方をするが、それが傲慢ではなく、優しげですらある。故郷で神に祈るときのような安堵すら覚えた。 「……君は」 「ん?」 「いや、あれはなんだ」 初対面の相手に何を言おうとしたのか、アクラブは己を叱咤すると、誤魔化すように台の上に置いてある姿形に目を向けた。 巨大なものがおおいなか、小ぶりのそれは見方によっては翼を広げて飛び立つドラゴンのようにすら見える形の木香で、珍しいことに水色をしていた。 「水だ。嗅いでみるか?」 「水?」 「ああ、こうして使う」 サイネリアは台の後ろに置いてある小さな水入りのバケツを取り出すと、ドラゴンの翼に手を伸ばしてぱらりっと欠片をとり、それにふぅと優しく青いブレスを吹きかけてバケツに落とした。 ぽっと青い炎に抱かれた屑たちが水のなかに落ちて緑色に変わると、ふわふわと柔らかな香りを放った。 淡い緑の、深い土、晴れた空の澄んだ空気を吸い込んだような爽快でいて心地の良さ――それはアクラブが探していたものだ。 「故郷の、祭壇で嗅いでいたものに似ている」 「そうか? これは我がチェンバーで作ったものだ」 サイネリアはアクラブに優しげに視線を向けた。 「香木は本来、置いたり、火で焚くものだが、これは火に熱されて水に沈むことで香りを水から漂わせていく。この水が枯れてしまわぬかぎり、ずっと香りは保てる」 「なにもかも燃やす炎よりも、長いということか」 「否、炎も水も同じもの。差はない。これは火と水に抱かれることではじめて出来た香りだ」 サイネリアの言葉と穏やかな口元の笑み、そして眩しいとすら感じる太陽色の瞳にアクラブは意識を奪われた。 「……それを譲ってもららえないか」 「欲しいならば構わない。しかし、我は人の相場というものを知らぬから、そなたの好きな代金でよいぞ」 「騙されてしまうぞ」 サイネリアは小首を傾げた。 「それもまた人間というものだ。我はそういうのもまた好ましいと思う、学びたいとも思う」 「……無謀な」 「そうかもしれぬが、痛みも、苦しみも、人間は持つものだろう?」 朗らかな言葉にアクラブは目を瞬かせ、ふっと口元に笑みが浮かべる。故郷の記憶に引き出された鈍い痛み――陰謀と裏切りの日々もサイネリアと話していると決して嫌悪するものでもないのかもしれないと僅かな光を灯された気がした。 「俺が、多少なりとも相場というものを教えられるかもしれないが?」 「商売を手伝ってくれるのか! 我は良い出会いをした。アクラブ殿、そなたも人間だろう? 我は人間について学びたい。手伝ってくれ」 「学ぶといっても俺は」 自分が人間のなかでかなり無愛想だと自覚しているアクラブは戸惑ったがサイネリアのきらきらと輝く瞳に見つめられると断るのも気が引けた。 「……俺でよいのならば」 「助かる! まずは、この商売を成功させるために協力してくれ」 サイネリアの声は明るく無邪気な子供のようにアクラブの耳をくすぐって。先ほど感じた神秘な雰囲気がとたんに親しみやすいものに変わる 「俺も、……貴女の事が知りたい」 いつもは慎重に言葉を選ぶが、今はつい衝動的に口から出ていた。アクラブ自身思わず驚くほどにあっさりと。 「我のことか? そうだな。人は助け合うものだ。我もそなたになにか返さねばなるまい」 「……そう言われると俺もありがたい。では、まずは二人で商品の値段を決めてやろう」 「うむ」 サイネリアは頷いた。 二人を見守るターミナルの空は穏やかに青く晴れている。
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