時計を抱く破滅の『イゾルテ』の九時のコミュニティを支配するマフィア「アビゲイル」のボス・ギルガから依頼が舞い込んだ。 この世界はイゾルテが十二時の階に閉じ込めってから女は消えたのに女性型アンドロイドが世界を闊歩し、人の死にかわって左胸には時計が埋められるように変化した。またイゾルテの欠片を持つものはその力によってフリークスという化け物に変化する。 この世界にいる男たちはただイゾルテを直すという願いを抱き、怠惰に生きている。 現地に訪れたロストナンバーはギルガの屋敷に足を踏み込むと、驚くほど人間に似た女性アンドロイドに案内されて広い居間に通された。 ふかふかのソファ、猫足の洒落たテーブル、あたたかな紅茶のもてなし。 数分もするとギルガが小さな瓶を片手に杖をついてやってきた。彼はロストナンバーの前に腰かけると、目の前のテーブルに瓶を置いた。 透明な硝子瓶のなかに輝くのは黒く、細い結晶。 以前、イゾルテに訪れたロストナンバーたちは世界計の欠片のはいったフリークスと呼ばれる化け物と戦い、欠片の回収とともにイゾルテの欠片を手に入れたのだ。イゾルテの欠片はギルガに渡され、保管されている。「これは、君たちの回収した<憎悪>」 憎悪? 問い返すとギルガは微笑んで頷いた。「これに触れたものは、己のなかにある憎悪に支配され、乗っ取られる。しかし、その乗っ取られる一瞬、イゾルテとの対面が許される」 対面といっても、それはイゾルテの欠片に宿った彼女の心。 壊れた女神はいずれ直されるためにも必要な欠片。それは浄化しなくては人の手に触れることも出来ない。 この場合の浄化とは、イゾルテの記憶を納得させる、もしくは別の感情で覆うつくすこと。「この欠片はイゾルテの憎悪で出来ている。憎悪の心とはどういうものなのか、心の問いに答えを出さなくてはいけない」 憎悪の心とは?「この欠片に触れた瞬間に思い出すのは『はじめて自分が憎悪したときの記憶』、それをイゾルテは意図的に再生し、さらには捻じ曲げようとする」 ねじ、まげる?「イゾルテは破滅の女神。憎悪から君はその憎んだ相手や物事を破滅、つまりは完膚なきまでに破壊するように誘惑される。そのとき、どんな選択をするのも君の自由だ。その選択のあと、イゾルテは直接問いかけてくるだろう。君にとっての憎悪とはなにか、必要か否か。浄化が失敗した場合、イゾルテは君を食らい、化け物とするだろう……安心するといい、そうなる前に私が君と欠片を離そう。ただしそうなれば欠片は砕け散り、二度と使い物にならない。欠片はイゾルテを直すために必要なものだと覚悟した上で挑んでほしい」
アクラブ・サクリは細見の剣のように鋭い目を警戒しながらもそっと開いた。世界はどんよりと薄靄がかがったようにはっきりとしない。 ここは……? 今までのことを思い出そうとして激しい頭痛に襲われたアクラブは目を再び閉ざして、小さな唸り声を漏らした。 ひんやりと冷たい空気が肌を撫でるなかに他の気配を感じて本能的に目を開けた。 世界は色を持ってアクラブを出迎えた。 ここは…… アクラブは息を飲む。 見慣れた冷やかな赤絨毯の部屋、氷の上を歩くような張りつめた空気、目の前にはあの女が立っていた。最近社交界で流行っているデザインのドレスは宝石と絹糸をふんだんに使用して傲慢さがよく現されている。わざとらしく扇で顔を隠しているが目が、汚いものを見るような瞳がアクラブをまるで放たれた弓のように貫いた。 「おまえなどいらぬ……!」 くす。扇の隙間から見えた彼女の血のように真っ赤な唇が作り上げる悪意の微笑。 全身が泡立ち、震えが走る。 アクラブは己の弱性さを罵った。なにを、なにを恐れている。彼女がこうであるのはいつものことだ。 そのときアクラブはおかしなことに気が付いた。そっと視線をおとすと細く白い手が拳を作って震えていた。 これは アクラブは息を飲んだ。 これは過去だ。 忌まわしい悪意に塗り固めて作られた迷宮のなかで迷い続けるしか出来なかった無力な時代に己はいるのだ。 アクラブの母は名もない女だ。いったい、あの父は母のなにを見初めたのかは知らないが、彼は愛人を屋敷に囲い、それは結婚後も継続した。神すら恐れない悪行に更に不運だったのは本妻に子が出来ず、愛人に子が生まれたことだ。 それも神の祝福を受けた男子だったことは運命の神の皮肉な悪戯ともいえる。 父はこれ幸いと子のできない本妻に、アクラブをわが子として育てろと命じた。 貴族、ことに神官として国を守る立場である彼には自分の後を継ぐ子が必要だったのだ。 そのときどんな取引が彼ら三人のなかで成されたのかは不明だが、アクラブは夫婦の子となり、女は消えた。 アクラブは跡取りとしての振る舞いを要求された。剣の修行では手の皮が剥けることは日常茶飯事で文字通り血の滲む努力を積み重ねた。疲れ果てた身体はいつも痛みの悲鳴をあげていたが勉学もおろそかに出来ないと、小さな蝋燭の火を頼りに本に齧りついた。 そうして誰にも嘲笑われないようにしてきた。 けれど 「おまえなどいらぬ」 母と呼べる人の見せる激しい嫌悪はアクラブの心を抉った。 彼女はアクラブをいないものとして扱った。幼いアクラブが母のためと花を摘めば目の前で捨てられ、テストで満点をとっても鼻で笑われた。もっと。と望まれているのだろうか? これでは足りないのだろうか? 幼いなりに美しい母に笑ってほしいと願った。認めてほしい、愛してほしい、その細い手で抱きしめてほしい。それが無理でもせめて一言だけでもいい「よくやった」と褒めてほしかった。父は業務で忙しく、ときおり顔を出してもアクラブの成績ばかり気にして、それ以外は無関心だった。忙しいのだから仕方がないと諦めたが母は、目の前にいるからこそ、縋りついた。己がだめなのだと叱咤して耐えていた。 あれほど嫌われている謎がとけたのはアクラブが五歳のときだった。 母の誕生日のお祝いに小遣いをすべて出して買ったケーキを差し出して、撥ねつけられた。 ――お前みたいな汚らしい女の子どもに私がどうして接せねばならぬ! 彼女はアクラブのすべてに激昂した。アクラブの求めた微笑みも、優しい手も、抱擁も夢のまた夢と消えた瞬間だった。 ――ああ、ああ、もう耐えられぬわ! ――仕方ないとはいえ、お前みたいな汚らしい子を! ――毒でももっているんじゃないのかえ! 彼女の口から放たれる真実という名の鋭い刃はアクラブの心を叩き壊し、もう治らないほどに粉々にしてしまった。 そのときからアクラブは心を殺し、動揺しないように、怒りに囚われないようにと努力した。そうしなくては本性を晒した彼女に殺されかねないからだ。 理由がわかると、心はあっさりと理解した。 自分は彼女に憎まれているのだ。 アクラブが十歳のとき、彼女はわざわざ自室に呼びつけて嬉々として語った。それは甘い毒、良く効く猛毒となってアクラブの心を侵していった。どろどろの黒いそれが、アクラブの心を、アクラブの存在を殺していく。 「はやく死んでおくれ」 そう、確かに彼女は告げた。 子が無事に生まれてからアクラブは生きながら死人となった。 それまで決して良い環境ではなかったが、使用人たちはアクラブがまるで見えないように接し、父にしてもアクラブを無視した。 たった一人でアクラブは、淡々と今までのように過ごした。身体を痛めつけるような剣術、馬術、寝る暇を惜しんでの勉学……それしかすることが見つからなかったのだ。そうするしか自分がここにいてもいいという証がなかった。 アクラブは無力な子どもだった。 ふと勉強机に向かっていると足元になにか白いものがあったのに目を凝らしてぎょっとした。それは骨だった。害獣避けとして砒素を撒いた結果、死んだ鼠の白骨死体。今の今まで誰にも知られることもなくひっそりと死んでいた。自分も、ああなるのか。死は避けられない終焉だが、こんなふうに寂しく死んでいくのか? 生まれたとき、母はいなかった。どういう理由にしろ、産みの母はアクラブを捨てたのだ。 育ての母はアクラブを憎んで憎みとおした。そうするしかないように。もともとプライドの高い彼女にとってアクラブの存在は恥であり、痛みであり、傷なのだろう。 父は、あの人は何も見ていない。自分にとって都合のいいものしかみていない。 俺は ――憎め ――さぁ、憎め 心の底で声がする。 囁く声にアクラブは震えるとくすくすと誰かが笑う声がした。すたたっと何かが走り抜けていくのにアクラブは思わず駆けだしていた。 勢いよく部屋を飛び出し、廊下の端に使用人たちが集まっているのを見てさっと身を隠した。 「しかし、あの子、まったく勉学ができないなぁ」 「身体も弱いし」 「アクラブさまがあとをついだほうが」 「しぃ!」 使用人たちの声にアクラブは息を飲む。 自分と弟を比較しての全うの評価。 そうだ、あんなやつ 俺のほうが努力した 俺のほうが優れている 俺のほうが ――あんなやついなくなっちゃえばいいんだ! 吐き気がしてアクラブはその場に蹲ったが、なんとか立ち上がるとよろよろと這いつくばるように前に進み出ていくと使用人たちがぎょっとアクラブを見たあと、取り繕うように笑みを浮かべた。そのなかに父の部下である男がいた。彼はアクラブに近づいた。 「これは、これは、アクラブさま、……変なことを聞かれてしまいましたね。けれど誤解なきように私はあなたの味方です」 「みか、た?」 「はい。どうぞ。アクラブさまこそ、真の跡継ぎかと思われます」 「あとつぎ」 「アクラブさま、今こそ、その手で」 差し出されたナイフをアクラブはじっと見つめた。 ――あんなやつ、いなくなっちゃえばいいんだぁ! また無邪気な誘いがアクラブの脳内に響く。 呼吸があがる 鼓動が高まる 頭のなかを占める母の顔。 自分はあの女を憎んでいる。父も、本当の母も。 使用人の顔 目の前にいる家臣の顔 どれもこれも歪んでいる。 地下にあるといわれる魔の都市バビロンの入り口のようだ! 自分は魔の入り口に立っている。 なら、それを退けなくてはいけない。けれどどうやって。目の前に差し出されたナイフ。それを受け取れば自分は ――みせてあげる 目の前に広がる鮮血。 父の 母の 弟の それを浄化する紅。 赤、紅は……炎は浄化の色だ! こいつらを、こいつらをすべて浄化してやる! アクラブはナイフに手を伸ばし、あともう少しで触れるというところで動きをとめた。 本当に、それでこの穢れは消えるのか? ――どうして躊躇うの? これは俺の内側から生み出されたものだからだ。 アクラブは心の声に言い返した。 自分の内側から生み出されたものは自分でしか解決は出来ない。だから自分は探したのだ。自分を生かすすべを。それは信じることだった。 アクラブにとって信じるのは神だ。 ――けど、そいつがあなたをこんな目にあわせたのよ そう、神がアクラブをこの家に生み出した。こんな境遇となったのも神の作り出した運命だ。 けれど。 それもきっと意味のあることなんだ。神は無駄なことはしない。気まぐれで恐ろしく、無慈悲なときもある。しかし、俺は炎の加護を持っている。 神は人に試練を与える。それは乗り越えるためだ。 この人生に意味を、神は与えてくれた。 それに、あの子は何よりも純粋だ。 弟の顔。それだけが歪まず、まっすぐにアクラブの心に焼き付いていた。まるで火傷のような痛みすら与えるほど強烈な、光として。 兄上 遠慮深く、弱弱しい。アクラブの怒りを煽るような存在だが彼の笑みはひどく優しく、アクラブの心を包み込んだ。 何も知らない。苦労もしていない、ただ本妻が生んだというだけ……そう思っていたが弟は家族の溝を必死に埋めようと愚鈍ながらも努力していた。 努力した上で実力を重んじるアクラブから見れば失笑するような存在だがひたむきな姿は不思議と心を打った。 「いま、ここで憎悪を憎悪で返したら、俺は癒されるのか? この憎悪はなくなるのか? ……きっともっと膨れ上がっただろう。少しの満足もなく。だから俺は信じることを選んだ」 手をおろしてアクラブは目を伏せた。 再び目を開けたとき、世界は暗闇に目の前に一人の女が立っていた。 それでいいの? 「ああ」 ……人間は変わっていくものよ。神のように不変ではないわ 「ああ。いつか、弟も憎悪を抱くときがくるかもしれない。自分の置かれている境遇を、あの人が弟に俺への憎悪を教え、しみこませていくかもしれない」 アクラブは目を伏せ、弟の笑みを思い浮かべる。あの輝くような笑みが自分や母や使用人たちのように歪むなんて想像もしたくはないが 「悲しいことだがそれがやはり人と言う生き物なのだ……だから俺は信じている、あの子を」 信じる? 「そうだ。憎悪を抱いても、あの子ならはそれを糧として進めると、俺のように憎悪に囚われることもなく、正しい道を進める。……憎悪は誰の心にも存在し、些細なきっかけで目覚める。けれどそれを糧にすれば、恐れることはない」 ゆらっと闇が揺れてなまあたたかいものが頬を撫でたのにぎょっとしてアクラブが瞬きのあと見たのは先ほどまで問いかけていた女ではなく、幼い少女だった。 「っ」 それが人ではないものだと理解した。 「それがあなたの答え?」 「……そうです」 「あなた自身はどうなの?」 「……私はまだ糧とするにはほど遠い、けれど信じることで、私は生かされてきました。ですから信じたいんです。神を、私の命を、……弟の強さを、たとえ周りが歪んでしまっても、あの子はきっと大丈夫だと、それが私を救ってくれている。憎悪もまた無駄ではない、と。神は我々を試します、けれど無駄なものは作らない」 「運命に」 少女は冷たく言葉を放った。 「運命を受け入れるか、それとも逆らうか、私たちはいつも試しているのよ。そうお前は抗うのね」 アクラブはじっと少女を見つめていた。 「あなたは、貴女様はどうして」 不躾な問いかけに少女は答えず、背を向けた。 アクラブの世界は深い闇に包まれた。 目覚めたとき、アクラブは浮遊感を全身で味わいながら顔をあげるとギルガが微笑んでいた。 ここがギルガの屋敷だと気が付いてアクラブはようやく自分が現実に帰ってきたのだと悟った。 アクラブは言葉を探して、視線を落とすと指先が触れている小さなそれは夜空を照らす星のように輝いていた。 「イゾルテの欠片」 「浄化が出来たようだ」 アクラブが顔をあげると、ギルガは手を伸ばしてそれを持ち上げた。 「イゾルテの心、憎悪……君がイゾルテに教えたものだ」 アクラブは黙って欠片を睨むように見つめていた。あのとき見た少女の気配。微笑みとともに無邪気な問い。 イゾルテの心に宿るだろう憎悪がいずれは糧となることをひっそりと祈った。
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