その司書の執務室を包む非常に微妙な緊張とお尻がむずむずするようなむずかゆさ、更にこの場から力いっぱい逃亡したいという現実逃避――あ、うん。ものすごく気まずい状態に陥って仕事に精を出している司書は困り果てていた。 「……」 重い沈黙にサイネリアが針のように目を細める。現在は20代の女性の姿で、胸のところがVに開かれた水色とのドレスにプロポーションを包み込んでいる。品のよい顔立ちには憂いと微かな微笑みをたたえられて、同性異性の差なく、一目見たときはどきりと心臓を跳ねさせるほどの美しさと魅力が……今や金色の目は殺気に、口は一文字に結ばれて、腰にあてられた両拳――不機嫌オーラ爆発中である。 司書はそっと目を逸らした。 が、 目の前の仕事に意識を向けてまるで気がつかない能天気、いや、愚鈍な男がいた。 燃えるような赤毛に月色の瞳、がっしりとした肉体と険しい顔は長く修行をした武人のようなアクラブ・サリクである。 彼はいつものような仏頂面で、太い声が淡々と、しかし、微妙な情熱を織り交ぜて説明する。 「そこでサイネリア様が、人々の前に現れ、彼らの愚かさを嗜め、今後のためを思ってのお言葉を」 「……」 じとっとサイネリアの刺すような視線もアクラブは気がつかない。その二人の前にいる司書は報告書の艶やかな白紙に置いた筆ペンを動かす。ただもう無心で。 「美しい、その姿はまさに天上の園から降り立った女神。その声は竪琴のように、もしくは天庭で育てられた葡萄を絞って作られたワインのように甘美で」 「アクラブよ、報告書とは真実だけを書けばよいのではないのか?」 ずっと黙っていたサイネリアが口をはさむ。 依頼の報告に二人できたはいいがアクラブが先ほどからずっとこの調子なのだ。サイネリアはそれを興味深そうにはじめこそ見ていたが、それも十分ほどこの調子が続いて、さすがの辟易しはじめていた。サイネリアの目がどんどん細められ、顔は険しくなっていった。あきらかにうんざりしているというのが顔に書いてあるのだがアクラブにはわからないらしい。 「これは主観ではありません。冷静に見た客観的な意見です。そうだろう、司書よ」 客観的な意見で天の園とか、ワインみたいな声とか出てくるかぁあ! 仕事一筋の司書は思わず叫びあげて手元の報告書をびりびりに破きたい衝動と心のなかで激しく戦っていて、表向き無表情で沈黙していた。 「……アクラブよ」 「なんでしょうか、サイネリアさま」 アクラブはサイネリアに向き直り、目を細め、口元は微かに微笑みを浮かべる。その表情は神官として神の使いと言われる竜に会えたことを心から喜びが滲み出ていた。 「司書が困っているぞ」 「しかし、せっかくです、サイネリア様の活躍を余すことなくしっかりと書き留めていただきたいと」 「別に、あれは我一人の活躍ではない、そなたも協力したであろう」 「なにをおっしゃいます! ヴォロスの事件を解決したのはサイネリアさまの機転、才、そのお美しい姿があってこそのこと。私なぞ、たかだかその場に居合わせることが許された幸運な身であっただけ」 「……」 また、これだ。 ついサイネリアの口からため息が漏れる。 人間というものにたいしてあまり知識はないが、それでも二人で依頼をやりとげたあとからアクラブの態度がかなり変化したことはわかる。 まず口調があきからにおかしい。ぶっきらだったのが、なんとです、ます、口調である。 さらに名前。なんと様づけ! さらにさらにいつもむすっとした顔だったのが今は笑顔だと! ――あ、これはこのままでいいかもしれない、が いやいや サイネリアは慌てて訂正する。 これは我に向けたものではない。 ということはわかるのだが、一体、なにがアクラブをここまで変えたのかずっと考えていた。依頼のときドラゴンの姿を晒したのに驚いているとは思っていた、すぐにまた人の姿に戻ったが、それから……帰りのロストレイルではアクラブは向かいの席には座れないと言いだすとサイネリアが座席に腰かけるのもハンカチを敷いてくれたり、水なども差し出してくれたりといてれつくせりだが サイネリアは心のなかにもやもやとしたものを覚えていた。 「報告書のまとめの続きをせねばな」 「そうですね。サイネリアさま美しい青いドラゴンのお姿を見せたからこそ!」 「……アクラブよ」 ようやくサイネリアは気がついた。アクラブの豹変の理由を。つまり、彼は 「そなたは我のドラゴンの姿に恐縮しているのか!」 「そ、それはもちろん、ドラゴンとは神の使いではありませんか!」 アクラブのはっきり、きっぱりした言葉にサイネリアは茫然とした顔をしたあと、俯き、くるりと背を向けた。 「サイネリアさま」 「くるな」 「しかし、サイネリアさま!」 「くるな」 「なぜですか、サイネリアさま!!」 「我は神の使いなどではない。そんな風に思うならば共にいられん。普通の態度で接してくれ」 サイネリアは珍しくも声を荒らげる。目は鋭利な刃物のように細められ、そのあまりの迫力に運悪くも言われた司書の手からぽろりと、ペンが落ちたほどである。 よし ここまで言えばアクラブとて……む なんとアクラブはその場に両膝をつき、深く頭をさげた。 壱番世界でいうところの土下座スタイル。実はこれはアクラブの故郷で、彼の崇拝する炎火神に対する最高の敬意を示した態勢である。 「申し訳ございません、サイネリアさま」 「っ!」 「く、不肖アクラブ・サリク! 修行が足りないばかりにサイネリアさまのお心を察せず、誠に申し訳ないばかり! 覚醒すれば神も子もない、そのお心に感銘を受けました。私の不信仰を嘆いているのですね」 そのときサイネリアの顔を見たのは司書だけある。後日、あの顔については墓場までもっていく……サイネリアのためにも。 「知らん!」 どーん! ドアを叩くようにしてサイネリアは部屋を出ていった。 「サイネリアさま!」 もう知らん。 アクラブのことなど…… いつもは森の深くにある静かな湖のような心がいくつもの波紋が広がり、心がざわざわとして落ち着かない。 苛立っている。 その不慣れな気持ちを歯噛みするほどに実感しながら肩を怒らせてサイネリアはターミナルのざわつく道を歩いていく。 背後から追いかけてくる気配がしたが、無視した。そうしていると先ほどまで感じていた辟易したうっとおしさから解放されたが、それも数分ほど歩きながら人々が楽しげに行きかう姿を目にしてどんどん寂しさに変わっていくのがわかった。 ヒトというものはわからぬ。 ドラゴンの生とは流れる水のように、ただ流れるままに己の心を委ねていくだけ。 だからサイネリアは自分の兄が死んだときの衝撃も、それを嘆いた人々が自分を殺そうとしたときも怒りは覚えずにただ、ああ、そうか、仕方ない、と思ったのだ。 ただ、あるがまま、自然を受け入れる。 サイネリアにとっては、いや、彼女の故郷のドラゴンたちにとって目の前にあることがすべて、感じて、包むだけのこと。 行きかう人々を見てサイネリアは、はっきりと感じた。 我は一人だ。 寂しい。 と、心のなかに大きな穴があいたように風が吹く。まるで真冬の山道に一人でいるかのような心もとなさと寒さに震えるような気分だ。 アクラブが悪いのだ。 今までの態度を豹変した理由はサイネリアがドラゴンであるという一点においてのみ。 外見や種族によってヒトとはああも態度を変えるのか。それも神の使いなど自分はそんなものではないというのにアクラブはまったく理解しない。 我は人と絆を作れるのだろうか? サイネリアは兄のことを思った。 最愛にして、常に心を変化させるきっかけとなってくれる兄。彼がいなければ自分はヒトと関わろうとは思わなかっただろうし、ヒトを知ろうともしなかった。ヒトの短い生のなかでの激流のような変化、さまざまな色を持つ生き方、心と拳のぶつかりあい、それを愛しいものだとも感じなかっただろう。 だから我はヒトを知りたい。関わっていきたい。 兄が残してくれた想いを受け継いでいきたい。 アクラブはサイネリアがターミナルで、はじめて、自分から友人として付き合えたヒトだ。 その友情を作るのにサイネリアは自分の本来の姿について行為的ではないにしても隠し事をしていた。それが悪かったのだろうとは反省するが、ドラゴンであるということだけでああも態度を変えなくてもいいではないのか? とサイネリアの考えは再びはじめのところに戻り苛々し始めていた。 拳を握りしめる。 我はどうしてこんなにも苦しいのだ? 「サイネリアさま!」 背後から切羽詰まった、アクラブの声がしたのにサイネリアは振り返った。 「アクラブ」 足をとめてサイネリアは目を細める。アクラブはすぐさまにその前に片膝をついて頭をさげた。 「くっ、申し訳ありません。私がなにか気に」 「それがいやなのだ」 サイネリアは低い声で言い返した。 「そなたは我の友だ。……我はヒトが知りたい、ゆえに自力で関わるためにもあの日、店を出し、そこでそなたが応じてくれた。うれしかった。共に依頼を受けたときも我はヒトを知るチャンスだと思ったが、そのなかにはそなたとの絆を深めようという気持ちもあったのだ」 サイネリアは自分のなかの気持ちを言葉にして吐き出す。 そのたびに胸がざわついて、体がむずむずとして、気持ちが落ち着かない。 慣れないものだ。 言葉を使うのは、なんと不器用だろう。自分の気持ちを少しも伝えられない。 ドラゴン同士は何も言わなくてもわかっていた。 ただ心をこめて、鳴けばよいのだ。 その微妙な声の震え、それだけで心のすべてが読み取れ、水のように受け止めれるのに。 だがヒトはそうもいかない。 ヒトは心を伝え合う技術が不便なことに言葉しかない。 だのにヒトが言葉を使うと欺瞞も、嘘も偽りも、すれ違いもある。どうして真実だけを語れないのかと疑問だったが、いま、わかった気がする。自分の心を言葉などという不便なものにあてはめていいのかヒトは常に困っているのだ。それでも知ってほしいから、すれ違いも、嘘も、偽りも、ぶつかりあうことも恐れずに言葉を重ねるのだ。 「すまぬ、ただ寂しかったのだ。そなたと作り上げたものが我がドラゴンであるということだけで崩れるということが」 寂しい、悲しい……子どもでも知っている心を表す言葉に気持ちを託すしかない。それでどれだけヒトであるアクラブにドラゴンのサイネリアの想いが伝わるかはわからなくとも。 じっとサイネリアはアクラブを見つめた。 「サイネリアさま」 「さまでしか呼んでくれないのか? 我は寂しい」 「……すまない、つい」 ようやくアクラブの口調が僅かに変化した。 「私は、神を信じる世界の住人だ。その、そのために、サイネリア……あなたのような方は無意識にも敬ってしまう……のだ」 「我がドラゴンだからか」 「それも、あります。しかし」 アクラブは真剣な目でサイネリアを見つめた。 「あのとき、見たあなたの神々しさを感じたのだ。信じる神はたった一人だが、己が認めたもののために膝を折り、祈ろうと……人々の前に姿を現し、慈愛深い言葉をかけたあなたはまさに膝をつくに値すると」 「……そうか。しかし、アクラブよ、それは我の求めているものではない」 「と、いうと」 「我が求めているのは友だ」 きっぱりとサイネリアは言い返す。自然と口元が吊り上るのを感じた。 おかしなものだ。 先ほどまで苛立っていたのが、アクラブの言葉によって心の泉の波紋が静かに、穏やかに、凪いでいく。 アクラブにはアクラブの揺るぎないものがあり、それはちょっとやそっとでは壊れてくれそうにない、それでも自分の言葉にアクラブが懸命に応えようとしている気持ちに嘘はないと痛いほどにわかる。 まだ付き合いは浅くとも、アクラブは嘘をつかない。 この信頼もまたヒトと関わり、知ったおかげかもしれない。 ふふ。 サイネリアは小さく笑った。 「そういえば、報告が中途半端のまま出てきてしまったな。アクラブ」 「私もあなたを追いかけるのに夢中で」 「まだ敬語はなおらぬか」 「……すまない。しかし、さまづけはやめよう」 「当たり前だ」 ぴしゃりとサイネリアは言い返し、アクラブの手をとった。アクラブがぎょっと目を見開く。 「早く慣れてくれ。頼むぞ」 「……は、はい!」 「ほら、また」 サイネリアは呆れながらかんちこちんに緊張しているアクラブを連れて依頼の報告のためにも再び司書室へと目指して歩き出した。 二人で。
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