開かれた雨戸の向こう、夜の薄い闇が包む静かな庭の中、糸のように降り注ぐ雨の気配ばかりが広がっていた。 畳敷きの部屋、板張りの廊下。小さな書棚やテーブル。気持ちの問題だろうか、蚊遣りの煙が空気を小さく揺らしている。 ――怪異ナル小咄ノ蒐集ヲシテオリマス。代価トシテ、茶湯ヤ甘味、酒肴ナド御用意シテオリマス 長屋の風体をしたチェンバーの木戸、風に揺れる浅葱色の暖簾の下に、そんな一文がしたためられた、小さな木製の看板が提げられていた。目にした客人が暖簾をくぐり、現われたチェンバーの主に案内されたのが、この部屋だった。 雨師と名乗る男は、和装で身を包み、細くやわらかな眼光は、眼鏡の奥でゆるゆると穏やかな笑みを浮かべている。 テーブルには酒と肴の用意が整えられていた。定食じみた食事の用意も、甘味と煎茶の用意も出来ると言う。 「それでは、お聞かせくださいますか?」 言いながら、雨師は客人の前に膝を折り座った。「あなたが経験したものでも、見聞したものでもかまいません。もちろん、創り話でも」 怪異なものであるならば。 そう言って、雨師は静かに客人が語り始めるのを待っている。
世界図書館からの遣いであちこちを回っているのだと名乗った少年たちを送った後、雨師は小さな息をひとつ吐いてから木戸を閉めた。 先ほどから客人がひとり訪ねて来ている。覚醒を迎えたばかりで何も分からず、ひとまず目的を定めず0世界をふらふらと歩き回っていたのだという。初老と言っていいであろう齢の、白髪の目立つ頭を丁寧に撫でつけた、身なりの正しい男だ。一見すれば壱番世界の出自と変わらぬ見目を持っている。セクタンの有無を確認しなければ見分けの差異もつけようがない。 お待たせしました。 そう述べつつ畳敷きの部屋へ戻った雨師が見たのは、縁側に座り、糸のような雨を垂らす墨色の天を仰ぎ見つつ何事かをぶつぶつと呟き続けている男の姿だった。 覚醒直後のロストナンバーが意識を混濁させる事など、珍しいことでもない。雨師は眼鏡の奥の双眸を緩め、場を後にした。台所に向かい、客人を迎えるための支度を整えるのだ。 怪異の蒐集は――また今度でもいいだろう。今はあの客人をもてなすことが先決だ。 それが神なのか悪魔なのかは分からないが、自分ではない特別な何かの声が聴こえてくることは、覚醒前にもたびたび身に起きていた現象だった。だから、 ――ほう、君はなかなかに面白い嗜好を持っているようだ そんな声が耳に触れた時も、男はさほど驚くこともなかった。ぼうやりとした視線を移ろわせ声の主を探しはしたが、視界に映るのは細かな雨が降る夜の中にある小さな庭の景色ばかり。迎えてくれた和装の男の姿もない。数度目を瞬かせ、男は再びぼうやりと視線を庭に向けた。 ――ここの主は怪異な話を蒐集しているというが、あいにくと私では彼の役に立ちそうにないな 声は再び男の頭に響きわたる。ため息をついているようにも、笑みを含み殺しているようにも聴こえる声だ。男は目だけを持ち上げ、口を開けた。 あなたは? ――君らから見れば怪異そのものとも言えるかな 間を挟まず返された声は、まるで男が落とす疑問を事前に知っているかのようでもある。 しかし男は声の主が告げた言の意味を解することが出来ず、わずかに首を傾けた。 ――そういえば先ほど世界図書館からの遣いがやって来ていたようだね 声は続ける。 ――そういえば知っているかな。ここ最近、0世界で小さな子どもや若い女性ばかりの死体が見つかっているのだそうだよ 声の主はそこで一度息を区切る。小さくしのび笑う気配がした。 ――特に子どもに多く見られるらしいのだがね、尻の肉が削がれているのだそうだよ 男はようやく再び視線を移ろわせる。声の主はどこにもいない。自分の頭を片手で押さえ、響き続ける声を引き剥がそうとした。くつくつと笑う声が耳の先に触れる。 ――子どもの肉は美味いのかい? 声が再び頭に響いた。 その声が神のものなのか悪魔のものなのかは分からなかった。どちらでも良かった。物心ついた頃には街の食堂に近いゴミ置き場の前に棄てられた。自分を棄てた後、母は派手な娼婦の衣装でどこかへ消えていった。その後は街を外れた丘の近くにある古びた教会施設に引き取られ、寮母を兼ねた修道女の手で育てられた。 施設には似たような境遇の子どもがたくさんいた。けれど皆どれも同じで個性もなく、血肉を持った人形のように毎日を送っていた。その原因はすぐに知れる。 寮母はヒステリックな女だった。妙齢の女だった。礼拝が終わり信徒たちが帰った後は決まって機嫌が悪かった。少しの粗相をも厳しく糾弾し、喚き散らし、しまいには鞭で打ってくることも少なくなかった。寮母が鞭をふるうたび、子どもだった彼の小さな体は赤く腫れ上がり、血を流した。人形たちはガラス玉のような目を足元に落とし、身じろぐことも声を落とすこともなく、ただひたすらに沈黙しているばかり。 けれど、なぜだろう。 小さな彼は、自分に課せられた謂れのない虐待に、小さな興奮を覚えるようになっていた。 鞭をふるう修道女。それはあたかも神自身の意識による迫害のようで。母に棄てられ、神にすら迫害を受ける自分。己に向けた憐憫。――鞭打たれる中、彼は初めての精通を経験する。 成長し、施設を追いやられた後、彼はあらゆる人たちとの出会いを果たした。 戦場帰りの男からは食人の話を聞かされた。母の面影を求め訪れた娼婦宿では排泄物の飲食をしつけられた。どの経験も、彼の心を沸き立たせるに充分たるものだった。 ――なるほど、けれどその手の嗜好は往々ににして歪みを大きくしていくものだろう 声が言う。 男はどこへともなく視線をやって、うろんな眼でうなずいた。 戻りたいと願ったのが最初だったかもしれない。 あの寮母のもとへ戻り、またあの鞭で打たれたい。罵られ、蹴りあげられながら。 けれど定められた齢を超えてしまえば、施設に留まることは出来なくなる。年を重ね大人になってしまった彼では、もう二度と、あの神聖なる場所へは戻れないのだ。 ――子どもに戻りたいと思ったのだね 声が問う。男は再びうなずく。声は笑う。男は目を移ろわせた。 ――子どもの肉を喰うことで再び子どもに戻れるなどという話もあるものなのだねぇ 感心したように息を吐く声の主に、男の目は当て所を求め忙しなく動いている。 ――もっとも、私には不老不死だの過日への名残だのはまったく理解することも出来ないのだが 声が言う。 耳元でわずかに息を吐きつけられたような気がして、男は勢いをつけて振り返る。誰の姿もない。――けれど男は無人であるはずのその空間に、確かに何かの輪郭を見たような気がした。 形を定めず流動する、何か大きな――形容することの適わぬ何かが、それでもそこに確かに存在しているのだ。 それが声の主であろうと、頭のどこかが理解する。けれどその理解を超えて、男は初めて、言い知れぬものが湧き上がってきている感覚を覚えた。 ――子どもの肉はうまかったかな? 声が問う。 ――肉は叩けば食感も柔らかくなり、味わい良いものになるのだそうだよ。君は散々叩かれ育ってきたのだったね。ならば君の肉はさぞかし柔らかくとろけるような上質のものになっているのだろうね。……もっとも私は君の肉の味になど興味もないのだがね 声が笑う。 ――君が捕らえた子どもはどんな表情を見せていたのかな。きっとおぞましい真似もしたのだろう? 痛い痛いと喚く子どもはどうだったね? 殺さないでと喚く子どもはどうだったね? 君の劣情を満たすにふさわしいものだったのだろうね。分かるよ、恐怖はあらゆる感情をも引きずり生み出すものだからね。いくつもの感情が重なり絡み溶け合って恐怖という形を結ぶんだ。――あれほどに美味たるものはない 何かがどこかから這い出るような動きで男の眼前に立ったような気がした。それが男の頭を掴み、耳元近くで睦言をささやくかのように声を編む。 ――――ああ、うまそうだ 雨師が和室へと戻ると、男の姿はどこへともなく消えていた。そういえば今しがた、重いものを引きずりながら出ていく誰かの気配があったような気がする。 男はチェンバーを後にしたのだろう。考えながら、雨のしのつく庭が広がる縁側の板の上に膝を折った。 おもてなしは出来ましたでしょうか どこへともなく声をかけた雨師の耳に、――いや、頭の中に、愉悦を含んだ笑い声がわずかに届いたような気がした。
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